四 均勢の破壊者 

保元の乱に為義を始め、その子為朝等が、あるいは討たれ、あるいは行方知れずとなり、平治の乱に義朝の一族ほとんど身を滅ぼし、僅かに頼朝が伊豆に流竄(るざん)され、義經兄弟が京都付近の寺に入っているに過ぎぬ。藤原時代このかた武士の棟梁として栄えた源氏も、今は僅かに頼光の子孫攝津源氏の一流源三位頼政が、平家の下風に立っているばかりである。しかも清盛の鼻息を窺(うかが)い、その推挙に依って漸(ようや)く三位に上ったくらい、何等の権勢もなく、何等の勢力もない、無論平家に対抗しようなどとは、誰も想像すらしていなかった。これに反して、院政時代に入ってから、正盛忠盛以来漸次院の信任を得た平家は、保元平治の乱に依って茲(ここ)に一大発展をなし、清盛は始めて武士の身で、朝廷の政治に関係し、専権を振ることとなった。即ち今まで公家の政治であったものが、これに至って武家の政治になったことは、前にも述べた通りである。

普通には頼朝が鎌倉に幕府を開いてから後を武家の世と称しているが、平家の時代は、すでに実際に於いて、武家政治を行っていたのである。清盛が皇室の外戚(がいせき)となり、太政大臣に上り、一門みな公卿殿上人になったのは、その外観何等藤原氏と選ぶところがない様であったけれど、清盛はどこまでも武家の棟梁であった、その背後にはその家子郎等となった武士が控えている。彼が後白河法皇を幽閉し奉り、攝政などを流したようなクーデターをも行い得たのは、武士という勢力の上に立っていたからである。事実に於いては後の征夷大将軍、若しくはそれ以上の権力をもっていたといって良い。

従来武家の人々は、京都にあって検非違使に補せらるるぐらいが關の山で、盗賊を捕らえたり、罪人を処罰したりするのがその役目であった、直接朝廷の政治に関係しようなどとはほとんど夢想だもしなかった。そして源氏や平家の宗家ですら、漸く四位五位に上って、検非違使の判官か、または鎮守府将軍か、諸国の国守に任ぜられたぐらいで、あるいは藤原氏の爪牙となり、あるいは院に仕えてその命令に服していたから、余程勢力を得て来たとはいえ、猶も朝廷の政治に喙(くち)を容るることを許されなかったのである。然るに清盛に至ってこれを打破し、天下の実権を取ったのは、我が国の歴史で重大なる変革と見なければならぬ。

すでに平家が武家の身で政治に関係する以上、今まで永い間政権を握っていた奮勢力-----藤原氏及び院の権力-----を出来るだけ奪はんとしたのは自然の結果である。と同時に院や藤原氏がその勢力を一日も永く持ち続けようと努めたのも当然で、ここに新奮勢力の衝突が起こって来たのである。しかも院の勢力は藤原氏のそれに対し、比較的新しいものであったから、この藤原氏の勢力を驅遂するために、後白河法皇ははじめ清盛を利用せんとして挙げ用いられたところ、それが武士という階級の大きな潜勢力を新しい活勢力たらしめ、奮勢力を破壊し去った新時代の中心人物として清盛を活動せしめた所以であったので、院の実権はここに全く平家に移ることとなった。いわば院と藤原氏との奮勢力が葬られて、平家の新勢力によって天下が左右せらるるに至った。前者を公家の勢力とすれば、後者は武家の勢力である、しかもこの三つの勢力が、互いに三つの巴の如く消長して、政治の舞台が変転して行った。

保元平次の合戦の後、清盛の昇進は実に驚くべき早さであった。それに清盛の妻の妹滋子が、後白河法皇の寵を受けて、その腹に憲仁親王が御出生になったことは、この速さに更に速さを加えしめた。憲仁親王が六條天皇の皇太子に立たせられて、清盛が准外戚となったのは、ますますその権勢を大きくした所以で、彼は内大臣に任ぜられてから、僅かに一年の後太政大臣となり、一族皆高位高官に上り栄華一門に集まった。やがて高倉天皇御即位あり、清盛の女建禮門院徳子が中宮となったので、彼はいよいよ外戚としての地位を鞏固(きょうこ)にすることが出来た。そして既に外戚となったからは、擅(ほしいまま)にその権力を振るわんとするには、院政を止めて天皇の親政としなければならぬ、院の勢力を政治の方面から驅遂せねばならぬ。

これを後白河法皇の側になって考えると、法皇は擅権なる清盛にその勢力を奪はるるのを黙して過さるることが出来ぬ、遂に清盛を除かんとの密謀が計書せられた。しかし彼の鹿が谷に曾して平氏倒すべしと意気軒昂(のぼ)たりし西光、俊寛、成親の輩は事半にして捕えられ、却ってますます平家の権力を強むる結果となったに過ぎぬ。そして清盛をして法皇に対する決心の臍(へそ)を固めしむることとなったのである。尤も温厚な小松内大臣重盛がいた間は、清盛も多少これを憚(はばか)って法皇に対し奉りても、余程自ら制していたが、重盛が薨(こう)ずると同時に、極めて峻烈に、極めて赤裸々に、良くいえば果断、悪しくいえば乱暴、遺憾なく武家式を発揮して遂にクーデターを行うこととなった。

重盛の薨後、彼の領国越前を朝廷に召し上げられたことは、実にその直接の動機であった。清盛は福原の別荘から兵を率いて京都に馳せ上った、そして先づ攝政藤原基通を追い出し、法皇の近臣を流したのみならず、法皇を鳥羽の離宮に遷(うつ)し奉った程である。これが平家の全盛時代であった。翌年御即位になった安徳天皇は、実に建禮門院の御腹に御出生の御方で、何事も清盛の意のままとなり、平家にあらざれば人にあらずといわれたのは当時のことである。

平家の全盛は右の如く、他の総ての勢力を圧倒して終わった。しかし当時我が国には別に今一つ、寺院という重大なる勢力が有ることを忘れてはならぬ。寺院は非常に大きな領地を有し、又僧兵をも蓄えている。院政時代になって、何か事があると、奈良の法師は春日の神木を奉じて押し出して来る、叡山からは日吉の神興を擔ぎ出すという風に、随分朝廷をも脅かしたもので、院政を最も盛んに行われた白河法皇さへ、思う様にならぬものは加茂川の水、雙六の骰子(さいこ)、山法師だと仰せられた程である。然るに清盛は少しも顧慮するところなく、これ等の寺院に対して、また思うままに権力を振り回したので、漸々寺院の反抗が起こって来た、しかもこれが平家に取って最も恐るべき敵であった。

藤原氏は元来外戚の関係から勢力があり、領地も無論大きかったが、兵力というものが無い、若し兵力が有ったとすれば、すなわち武家の兵力を借り用いたので、保元平次の合戦で源氏が滅びた後は、藤原氏の頼むべきものは全く無くなってしまったといってよい。院に於いても、御領地は非常に広く、財源割合に豊であったが、兵力はまた僅かに北面の武士があって院中を警衛するのみで、これも平家にとって恐るべき敵ではなかった。そこで清盛は藤原氏と院とに向かっては、これを武力で圧倒することを得たが、寺院に対しては中々思うように行かなかった。

第一寺院には信仰という有力なる武器を持っている、領地も広大で財源が豊富である、それに叡山など衆徒三千と言って、法衣に代えて甲胄を帯し大長刀を持った武蔵坊弁慶流の坊主が雲霞の如く、事あれかしと待ち構えている。清盛がこれら寺院の怨を買う様なことになり、しかもこれを覆減し得なかったことは、すなわち全盛の平家が蹉跌(さてつ)するようになった主な原因である。加之平家一族の勢力が盛んになって以来、国々に散在する平家の家人、すなわち平家を主と頼む武士どもがまた非常に幅を利かして来た。源氏方の武士など頭が上がらぬのはいうまでもなく、平家の人々に常に痛い目に遭っていた。然ういう不平と怨根とが漸々重なり重なって、四方にぼつぼつ反抗の機運が兆して来た。

この機運は保元平時以来平家に従っていた源三位頼政に依って端なくも点火せられ、諸国擾乱の火の手がここに挙がった。頼政は素より大して偉い人でもないが、和歌の名人として伝えられ、又鵺退治の話もある程武勇の聞こえが高かった。この人が平家に反対して兵を挙げるに至った動機は今以てよく分からぬ。『源平盛衰記』などには頼政の嫡子仲綱が馬の事で宗盛に辱しめられたのを原因の様に書いてあるが、すでに七十以上の老体を以て、今迄平家と親密にして来たものが、ただそれだけの事で戦争をするに至ったとも思われぬ。想像ではあるが、恐らくこの事件の後には後白河法皇がお在になったのではあるまいか。

頼政が平家を討つに付いて先づ眼を着けたのは前に言った寺院の勢力である。寺院の中でまづ金江の三井寺、これは源氏と関係の深い寺で、義家の弟義光はこの寺の新羅明神で元服をしたので新羅三郎と名乗った。今一つは当時勢力を失っても、なお積年の余威を有する藤原氏と最も関係の深い奈良の興福寺、この興福寺から更に叡山の延暦寺を説かしめて、南都北嶺の聯合(れんごう)を策せんとしたのである。しかして後白河法皇の二宮で極めて不遇な地位に居られた高倉宮以仁王を奉じて計書を進めたが、その計書は清盛をはじめ平家一門が高倉上皇の御供をして、安芸の宮島に参詣をした不在中に極めて秘密に進行し、以仁王から国国の源氏へ平家追討の令旨を下されたのは、恰度上皇が厳島より御還幸の日、治承四年四月九日であった。この令旨の御使を勤めた者は新宮の十郎源行家、行家は十日の夜出発して近江から美濃尾張信濃を経て甲斐に越え、到るところの源氏を語らいつつ、伊豆に下って頼朝に会い、それから奥州の義經までも訪ねて行ったということである。

この事は五月十五日まで関係者の外誰も知らなかった。しかも京都で流石の平家が、少しも感づかなかった程よくその秘密が保たれた。が十五日に至り以外にも紀州熊野の方から報知が来た、それは行家出発の際内々新宮へ通知して、愈々関東の源氏を催すに付き、家人共に触れ廻し、内々用意して行家の上洛を待てと言って遣ったので、那智新宮の者供が密に相談をしていると、それが熊野の本宮に知れた。そこで熊野の別当は平家方であったから、衆徒を率いて新宮に押し寄せ、ここに合戦となって平家方は敗北した、そしてその趣が同時に福原に注進されたのである。

福原の別荘にいた清盛はこの報を得て大いに驚き、大軍を率いて京都に入り、東国勢の上らぬ中に、早速以仁王を捕らえて土佐へ流すことに決し、検非違使源太夫判官兼網以下に命じて以仁王召捕に向はしめた。この兼網は頼政の子である、平家は猶頼政が事件の張本人ということを知らなかった、如何にもこの密謀が巧く出来ていたことが想像されるではあるまいか。兼網は無論父頼政にこれを通じた、そして頼政は以仁王へ申し上げて急ぎ三井寺へお出を勧め、王は取る物も取り敢えず女房の姿に身を扮し、忍んで三井寺へ落ちられた。その後、悠然と兼網等は王の御所に向かったが、御所には長谷部信連という者が、唯一人踏み留まって大いに奮闘し、以仁王はやすやすと三井寺に入られた。

頼政は二十日に、嫡子仲網、二男兼網、三男頼兼、その他の一族黨(とう)に渡邊黨を引き連れ、火をかけてその屋敷を焼拂し、三井寺へ行って以仁王を奉じた。しかして三井寺より興福寺へ牒状を出し、平家は王法の敵佛法の敵なれば、同心一致してこれを討たんと言い遣った。興福寺は早速返事を寄せてこれに同意し、また自ら方々の寺へ牒状を送った。延暦寺は初め大いに賛成したが、平家に誘惑されて変心してしまった。斯(か)く延暦寺は変心し、南都の兵はまだ来らず、三井寺だけで平家の軍を禦(ふせ)ぐことが出来ぬと評議の末、頼政は以仁王と一緒に奈良へ走ろうとしたが、平家は知盛、重衡等を将とし、大軍を以てこれを宇治に要撃し、ここに王も頼政も頼政の一族も、あるいは討たれあるいは自害してしまった。

以仁王の事は落着した、しかし三井寺や興福寺は明らかに平家に叛旗を飜(ひるがえ)したのである。又王の令旨を受けた方々の源氏は平家の専権に不平であった人心を煽(あお)って、だんだん起こって来るという風聞が京都に聞こえる。とかく世の中は騒がしく、落ち着かない形勢になって来た。そこで後白河法皇が京都にお在になっては、安心が出来ないというので、清盛の別荘地福原へ御幸を願って、皇居をもこの処へ移すこととなった。これが所謂(いわゆる)福原遷都である。一つは奮勢力の中心地を避けて新勢力の根據地に都を移したのであるが、また南都北嶺の寺院勢力から遠ざかるためであった。しかし福原は到底帝都に適しなかった、そして住み馴れた京都は、公卿や雇従の人々に恋しがられて、間もなくまた還幸せられることとなったのは、平家が末路に近づく第一歩であった。

かく頼政はその計書が脆くも破れて果敢ない最後を遂げたが、この以仁王の挙兵は、諸国の源氏が一時に起こって平家を滅ぼす導火線となったことにおいて歴史上重大である。実際のところ諸国の源氏に兵を起こさしめたのは、以仁王の令旨が非常な効力であった。これは日本国民が常に皇室を中心としている所以で、王は亡くなられても令旨は生きている。いわば諸国の源氏が二十年来の圧迫から爆発せんとしていたところに、この令旨が導火をつけて日本国中に拡がったのである。

が平家方から言えば、その主謀者たる頼政を余りに信任したことが唯一の手ぬかりであった。いよいよ頼政が三井寺を指して出発するというその時まで、平家は頼政が以仁王に関係していることを知らなかったことは、所謂千丈のこれも蟻の穴からで、平家の滅亡を速めた所以は、実にこの頼政に対する不注意であったといえる。世間では、頼政を助けて置いたのが平家滅亡の基であると、もっぱら思っているし、清盛もこの事をしきりに後悔した様であるが、しかしこれは頼朝が源氏の嫡流、平家征伐の総本家で、遂に鎌倉幕府を開く様になったから恁うう言われるので、この場合平家の滅亡は必ずしも頼朝を要しなかったのである。頼朝一人を殺すとも平家の運末になれば諸国の源氏皆敵とならんと言った重盛の語が適中したのは、平家の運命を最もよく言い表している。頼朝がいなかったら義經がこれに代わったかも知れぬ、義經がいなかったとしても木曽義仲など、散々に荒らし廻って、よし終を全うしないまでも、平家の勢を挫(くじ)いて天下の形勢を一変することは無論出来たのである。そして時勢はどこどこまでも新勢力たる武家の世となるのであったろう。

さて以仁王の令旨を頂戴した国々の源氏は愈々(いよいよ)兵を起こした。第一に頼朝が旗挙げをしたのは八月の十七日、さの左右にあって事を謀った者が北条時政土肥実平をはじめ伊豆の豪族で、平治の乱に領地を失い流浪して相模に来ていた近江源氏の佐々木一族や、相模の三浦氏などこれ等がその主なるもので、先づ伊豆の目代山木判官兼隆を攻めて軍陣の血祭りとした。もっとも頼朝は伊豆に流されていても、京都との連絡を付けて絶えず様子を窺い、時節が来たら一度は旗を挙げようと思っていたので、令旨を賜はるや直ぐに決心して起こったのである。この時清盛は頼朝のまだ勢力を得ぬ内に討とうと、相模の大場景観をして京都より帰らしめた。そして景観は石橋山で頼朝と戦ったが、この戦で頼朝は殆ど身を以て免れるという大敗北で、一先づ箱根に逃げて、箱根から土肥へ出で、海路安房に渡って一息ついた。

次に木曽義仲は帯刀先生義賢の二男で、やはり為義の孫であった。孤子(ここ)となって木曽の山下という所に育ったが、中々武勇に長じて源家再興に身をやしていった。以仁王の令旨を頂戴するや、また兵を駈け集めて立所に千余騎を得、遙かに頼朝に應じたのが九月七日で、頼朝と義仲の二人はここに源氏の最も重要なる中心人物として、一人は海道、一人は山道と、兵を挙げて攻め上る形勢を示した。

清盛は維盛忠度などを大将として頼朝追討の軍を下す。京都を出たのが治承四年九月二十九日、やがて十月十三日には駿河の手越に到着した。その間に頼朝は安房から上総に出で、千葉常胤平広常などの豪族を従えて忽(たちま)ち勢を得、武蔵より鎌倉に着いたのが十月十五日、鎌倉は源氏奮縁の地で、頼義が奥州征伐の時八幡宮を勧請したという所である。平家の大軍が駿河まで下ったと聞き、頼朝は翌日鎌倉を出発して、箱根権現に祈請を籠め、足柄を越えて、二十日に駿河の鹿島という処まで進み、維盛寺と富士川を挟んで対陣した。この夜甲斐源氏の武田信義暗に乗じて平軍を襲わんとしたが、泥の水禽一度に飛び立ち、その羽音が如何にも大軍の押寄するかのようであったので、平家の軍は大いに驚き、俄に陣を引拂って京都に逃げ帰った。

頼朝は追って京都に攻上がろうとしたが、広常常胤など、先づ東国の根拠地を固めてから上がりたまえとしきりに諌めたので、頼朝は要害であり源氏発祥の地であるから、一先づ鎌倉に還って形勢を見ようと、軍を引き返して黄瀬河まで来たところ、その時年の頃二十余りの小冠者頼朝の旅舘にいたり、鎌倉殿に対面したいと申し入れたものがある。土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実等恠(あや)しいと見て取り、頼朝に執次がうとせず言い争っていると、頼朝聞きつけて、年格好で想像すれば奥州の九郎であろう、早く対面したいものであると、実平に案内せしめて請じ入るれば、果して九郎義經であった。頼朝は義經を近く招き、互いに過ぎ来し方を談じつつ、その昔八幡太郎義家が奥州征伐の時、弟新羅三郎義光遙々下って兄の軍に加わり、忽(たちま)ち敵を亡ぼした佳例も想い出されると、涙を流して悦ぶのであった。

義經は藤原秀衡の許にあって時機を窺っていたが、頼朝の旗挙げを聞いて、一日も早く飛び出そうとしたところ、暫く形勢を見ているがよかろうと、秀衡が奈何しても出さないので遂に舘を抜け出してしまった。そして秀衡もこの上は止めても止まるまいと、後から佐藤継信、忠信、兄弟の勇士を附けてやったが、義經は夜を日に継いで漸(ようや)く頼朝の軍陣に着き、ここに義經が年来の希望を達する端緒がはじめて開けた。この後頼朝は鎌倉に引き籠もり、その名代として義經が目覚ましき活動に、義仲も平家も木ツ葉微塵となるのは、八幡太郎に於ける新羅三郎以上というべき、花々しい時代はこれから近づいて来るのである。

当時東国は既に多く源氏方であったが、唯常陸の志太義廣、佐竹の一族、下野の足利忠網など平家に属していた。それもやがて討ち滅ぼされ、始めて関東全体源氏方になってしまった。義仲の方も越後の城資長、信濃の仁科一族位が敵対するのみで、その勢いは益々盛んである。五幾内附近では山本義經近江に起こり、延暦寺も平家に叛く。以仁王の令旨を国々に伝えた行家は尾張美濃の間に兵を挙げ、河内源氏の石川義基は河内に起こり、奈良吉野熊野の僧徒等も皆平家に反対してくる。京都以西は大丈夫だと思っていると、九州には肥後の菊池、豊後の緒方臼杵戸次、肥前の松浦などが源氏に應じて太宰府を攻める。四国には伊豫の河野氏が兵を起こすという風に、東西共に騒がしくなって来た。

清盛は先づ附近の騒動から鎮めようと、通盛知盛資盛その他一門の人々を将として近江に向はしめ、山本義經を破った。重衡は南部を攻めて興福寺東大寺を焼拂し、僧徒を殺し領地を没収した。しかし諸国の擾乱は却ってますます甚だしくなり、平家は形勢日に非なりという有り様であったが、その困難の最中に、養和元年閏二月四日、清盛は熱病を患って卒に薨去し、宗盛その後を継いで平家の総領となったが、その器量は兄の重盛に比して遙かに劣っていた、そして諸国の人心を収攬(しゅうらん)することが出来なかったのは、また実に平家に取って不幸と言わねばならぬ。

清盛はその薨去に当たって、一日も早く頼朝の首を墓前に懸くるのが何よりの供養であると遺言したので、宗盛は直ちにその手配に及び、その月十五日重衡維盛に先づ行家を討たんが為、東国に向かって出陣せしめた。重衡等は三月に入って尾張墨股河に行家を破ったが、鎌倉の援兵大に到ると聞いて退却した。宗盛はまた院宣を請うて奥州の藤原秀衡を陸奥守に、越後の城長茂を越後守に任じ、秀衡に頼朝を、長茂に義仲を、何れも背面から討たせることとした。しかし秀衡は中立の態度を執って動かず、長茂は義仲と戦って敗北し、この計書も遂に書餅に帰した。

茲(ここ)に注意すべきは、その様に兵を起こした兵の源氏は皆頼朝を中心とし、頼朝のために働いているかと言うに、必ずしも然うではないのであった。平家の一門は元来同じ所にいて、同一の事情同一の利害関係の下に在ったから、清盛なり宗盛なり本家を中心として、皆その命令によって働き、最後まで殆ど歩調を一にすることを得たが、源氏は元々諸国に散在していたもので、一家兄弟と雖(いえど)もまた離ればなれに成長し、互いに顔も知らぬという様なこと、境遇も異なれば情誼も幾分か薄かったに相違ないであろう、平家を滅ぼすという点に於いてこそ一致しているが、その間に親密を欠いていたことは争われない所である。頼朝が源氏の嫡流として最も重んぜられていることは当然であるが、この時に至って義仲もまた頼朝に譲らぬ勢いがある。つまりこの時頼朝と義仲とが、源氏の二中心人物であったといわねばならぬ。

元来義仲の父義賢は、頼朝の兄の悪源太義平に殺されているので、義仲は頼朝の一族に対して多少の奮怨がある、平家を悪むと同時に頼朝などとも余り快くない。従って義仲は初めから頼朝の下に属かず、別々に行動していたが、遂に仲違を生ずる様なことになった。それは甲斐源氏武田信義の子信光が、縁組みの事から義仲を怨み、義仲は平家と一緒になって当家を滅ぼす企みがあると頼朝に誣(ふ)いた。頼朝は固より源氏の嫡流を以て自ら任じている、それに義仲はその下について来ぬばかりでなく、日に盛んになって来たのを見て、実は内心安からず思っていたので、これを聞いて大いに怒った。又かの行家は頼朝には叔父に当たる人で、初めは頼朝を憑にしていたが、頼朝に領地を貰おうとして興えられなかったため不和となり、一千余騎の兵を率いて義仲と一緒になって終った。頼朝はますます怒って自ら兵を率いて信濃に打って出で義仲を討とうとしたが、義仲は平家追討の大事を控えていながら、頼朝と軍をするのは大事の前の小事であると、越後へ退いてこれを避けたので、頼朝もまた鎌倉へ引き返し、速に行家を追い出すか、左もなければ子供の義高を人質に出せと言って遣った。で義仲は己を得ず義高を鎌倉へ渡して事なしに済んだ。がそれはただ表面のことに過ぎぬ、頼朝と義仲とは何処までも別々の勢力で、何時でも分れ争う理由が伏在していたのである。

さて義仲は既に城長茂を破って越後を取り、殆ど北陸道全部を従え京都に迫らんとする形勢を現した。そこで寿永二年四月平家は義仲追討の大軍を発し、維盛通盛忠度等を将として北陸道に向はしめたが、平家の軍は連戦連勝、越前を取り加賀を従え、一部は越中まで進んだ。義仲は越後に居たが、兵を進めて礪並山に押し寄せ、奇計を以て大いに平家の軍を破り、勝に乗じて逃ぐるを追い、加賀から越前に出で、長駆して近江に至り、湖水を渡って、七月二十二日、叡山延暦寺に陣を張り、いよいよ京都に肉迫することとなった。平家は此際の処置を奈何すればよいであろうか。源氏が東国に潜勢力を有せる如く、平家は瀬戸内海以西に潜勢力を扶植している。尤も一時九州四国の方で、河野氏や菊池氏など源氏に応じ兵を挙げたのもあったが、四国では阿波の民部太夫田口成能が河野氏を降参せしめ、太宰府の方では平家の最も信頼せる平家貞の子貞能が能く平家の為に働いている、筑前の原田種直も平家方となり、菊池氏なども遂に屈伏してしまった。で貞能は九州の兵を率いて京都に来り、義仲の兵と近江の粟津に戦って敗北したが、九州はなお平家の勢力圏であった。
また畿内附近に兵を挙げた者は一時平家に討たれたけれど、その残党が復彼方此方に起って、吉野でも衆徒が騒ぎ出すという有様である。更に困ったのは京都の搦手とも言うべき丹波辺の豪族が叛いて来たことで、今や腹背敵を受け、このまま京都にいるのは滅亡を待つようなものである。然からば大英断か臆病か、宗盛は京都を引き払って第二の根拠地太宰府へ行こうと決心した。一つは頼朝が鎌倉に引籠んで勢力を張っているのを観て、之に傚(なら)ったとも言えよう。またその実は、前に挙げた四囲の形勢の外に、京都は福原ではもはやその兵力を集めるに力が及ばなかったためであろう。

七月二十五日の晩、平家はいよいよ一門の第宅に火を放って出発した。後白河法皇をもお連れ申す計画であったが、法皇は奈何(いかん)しても京都にお在になって武士を操縦し、また旧のように院の勢力を回復しようという御考えであったから、義仲の勢が盛なのを見たまひ、義仲に依らんとして巧(うま)く平家の手を逃れ、二十四日の夜半、窃に法住寺殿を出御あり、鞍馬へ入って横川に出で、延暦寺へ御幸になって了(おわ)った。翌朝に至り、平家ははじめて之を知り大に騒ぎ出したが後の祭、宗盛は仕方なく安徳天皇と三種の神器を奉じて、福原より兵庫に出で、一門よくよく水に浮かんで、瀬戸内海を渡り九州に向かった。

京都を捨てて太宰府へ行こうという宗盛等の考えは寧(むし)ろよかったかも知れぬ。もし頼朝が鎌倉にいて動かなかった様に、平家も太宰府を根拠地として、まず九州を定めて形勢を窮(きわま)っていたら、或いは滅亡を免れぬとしても、余程長く踏耐えることが出来たであろう。しかしながらこれは事情が許さなかった。頼朝はもともと伊豆に流竄(りゅうざん)の身で初めから東国にいたから差支はないが、平家の人々は今迄京都にいて栄華を極め豪奢(ごうしゃ)に暮らしていた、それが仕方なしに遠い西国へ落ちて行ったもの、出発の際など維盛の如き、妻子と別を惜しんで一行に後れようとした程で、彼等は九州の果に奈何(いかん)しても落ち着いていられる筈がない。殊に建礼門院を始め婦人を連れている、この婦人達が如何に都を恋しがったかは言うまでもない。頼朝の鎌倉と平家の太宰府とは到底一所にならぬ。それで平家は無論九州に永住の積もりでなかった。一日も早く京都を回復しよう、都に還りたいと思っていればこそ、緒方維義などに追われて一溜まりもなく九州の地を見捨てたのである。そして少し勢がよくなると、屋島から一ノ谷あたりまでも出て来て自ら破滅を急いだのは、実に平家の免れ難い運命であった。

平家は都を落ちた。もはや誰も敵対するものが無いので、義仲は二十六日法皇を奉じて行家と共に大威張で京都に這入った。法皇は義仲に院の昇殿を許し京都を守護せしめられる、同時に平家を朝敵と見作してその官爵を削り、新天皇を立てられる。そして神器なくして天皇を立てるという例がないので、色々議論もあったが、天下一日も主無かるべからずという九條兼実の議に依って、高倉天皇の第四皇子後鳥羽天皇が御践祚(せんそ)になった。

この時義仲は、以仁王の御遺志に依って遂に平家の没落を見たのであるからという理由で、越後にお在になった王の御子北陸宮を立てようと主張したが、遂に用いられなかった。それに元来義仲は木曽の山中に育った非常な蛮(ばん)カラで、これが第一法皇のお気に入らぬ、そして北陸宮の一件から、義仲は多少自暴になった。また義仲の率いている北国兵は兵粮が乏しいので盛に掠奪(りゃくだつ)する。公卿(くぎょう)はじめ京都の人心が恟々(きょうきょう)として安んじなかったのは、羅馬の都に侵入した野蛮人も想いやられるばかりであった。されば法皇は又眼を東の方へ向けて、今度は頼朝を京都に召寄せ、義仲を除こうというお考えがある様になった。

時に平家は既に九州を出でて讃岐に移り、屋島に安徳天皇の行宮を立て、南海山陽両道を従えて余程勢力を回復していた。義仲は法皇の命を受けて、平家追討の為足利義清を先鋒として山陽道に向かい、義清は備中の水島で平家の軍と戦って大いに敗北した。然るに法皇が頼朝をお召になるという様なことを聞いたので、義仲は法皇の命に反いて京都に帰って来た。が義仲は京都の事など一切分らぬ、法皇のお行りになることがいつも自分の上手に出られるので、思う通りに勢力を扶殖することが出来ぬ、それに彼とまた仲違いした行家が法皇に信任せられて反対に立つようになった、彼や是やで心中頗(すこぶ)る平かでない所へ、法皇は院中を戒厳して法住寺殿に移り、兵を集めて義仲を詰問せられたので、義仲は大いに怒って法住寺殿に火を放け、法皇を摂政の第に奉じ 公卿(くぎょう)殿上人などの官職を停め、自ら院の厩(うまや)別当となった。是は十月二十一日のことである。

この際にいたるまで、頼朝の態度は注意せらるべきものである。当時関八州はいうに及ばず、東海東山の大部分に号令して、既に武家政治を行っている。幕府に公文所問注所などの役所を開いて、政治向裁判上の仕事を取り扱い、それらの役人には大江廣元、三善康信などいう京都で政務に熟練した人物を用いている。軍務と警察を兼ねた侍所には、和田義盛を別当として、軍兵の節度よく行届いている。そして頼朝の行き方は、まず民心を得るのが第一で、同時に武士を如何に御すべきかということに苦心した。これ彼がその根拠地を離れず凝と天下の形勢を観ていた所以で、法皇からお召しがあっても、自重して動かず、泰然として関東に静まりかえっていた。

正閏の上からは議論もあろうが、こんな次第で、実際京都と屋島とに天皇がお在になり、武家は平氏と源氏とが東西に相対しているのみならず、源氏の間にも頼朝と義仲とが相対して、なおこれに旧勢力の代表者たる、後白河法皇が京都に在ってこれを操縦せんとしておられる、言はば頼朝、義仲及び宗盛は各天下を三分して各その一を有し、互いに相拮抗(あいきっこう)しているので、その上に安徳天皇あり後鳥羽天皇ありといえども、その真相と実力とを論ずることになれば、当時我国はこの武家の三新勢力に支配されているのに、後白河法皇はまたその間に旧勢力を維持せんがため、孰(いず)れに依るべきかと眼を三方に配っておられる形勢であった。しかもこの三つの新勢力は殆ど相均しく、法皇も一時孰(いず)れに頼るべきかと御迷い遊ばされたところも見えた位である。ますざっと積って平家の勢力範囲が京都以西の二十ヶ国で、瀬戸内海を中心として活動していた。次に頼朝が板東八州に伊豆、甲斐、駿河、遠江、三河、尾張、信濃等十五六ヶ国で、義仲は北陸道から近江京都付近の一三四ヶ国に過ぎなかったが、彼は京都という最も大切なところを有し、その上に後白河法皇を奉じていた。

この平均した勢力は、今や孰(いず)れも動きが取れぬ、所謂三すくみと言う形となってしまった。もしこれを武力に訴えて解決せねばならぬ事情があったならば、不出世の戦略家なりとも現れ出で、この均整を破壊しなければ、局面を打開することが出来ないのである。果せえる哉その人は鎌倉方に出現した、黄瀬川の陣中で頼朝に対面を求めた小冠者の九郎義経、彼は疾風迅雷の如く、一撃して義仲を殪(たお)した勢で、平家を一ノ谷より追落し、続いて屋島壇ノ浦と、奇策縦横天下に敵なく、行くといて可ならざるなき非凡の働きに、頼朝はいながらにして、六十六ヶ国の総追捕使になることが出来たのである。
 

第4章 了


HOME

源義経研究

義経デジタル文庫

2000.10.4
2000.11.1Hsato