八 壇の浦海戦
  

平家の最後は今は近づいてきた。三年の久しい間、その根拠とした屋島の本営は内裏も陣屋も焼き払われて、跡は源氏の兵馬に蹂躙(じゅうりん)せられ、平軍は波上に漂い、船中に日を送り、遠く西に去って、長門の彦島なる知盛の軍と合し、最後の一戦に源平の運命を定めんと、健気にも決心した。

この決心は、全く知盛によって激成されたもので、平家の中で、武士らしい武士は実にこの知盛であった。彼は宗盛と異なって恥を知る武将である、また維盛や忠度などをはじめ、平家の一門には風流才子をもって満たされたのに、彼は独り毅然たる丈夫であった。平家の都落ちをした時も、彼のみはこれに反対して、潔く義仲と一戦を遂げんとしたのであった。平家一門が族を挙げて壇の浦の水屑と消え、武士らしき華々しい最後を遂げて、後々まで同情の涙を注がしむることを得たのは、実に知盛の力であったといってよい。もしこの際知盛がいなかったら、平家は更に一層悲惨なる、しかも卑怯未練な最後を遂げたかも知れぬのである。

彼は固より東軍が如何に陸戦に長じているかを知っている、故に範頼に対しても出来るだけ陸上の合戦を避けた、そして就くが如く離れるが如く、関門海峡を扼(やく)して持重の計をなし、東軍の糧道を断ち兵船を奪い、範頼を死地に陥らしめた手腕は見上げたものである。

然るに今や彼は古今独歩の戦略家義経と対抗接触することになった。彼はいかなる策略計画を以て最後の一戦を試みようとするのであろうか。

知盛は一の谷に、屋島に、義経のいかにえらい大将であるかを了解している。そしてその機敏な行動を取り、いつも背面攻撃で成功したことを観ている。

彼は最早従来の戦法で義経に乗ぜられるものではないのみならず、ただ敵を引き受けて防御することが、攻撃軍に勝つ能はぬという戦略上の原則も、彼のよく知っている所である。彼は根拠地たる彦島に引き籠もって、徒らに敵の至るを待つものでなかった。
それに平家は水軍に一日の長を有している。

これは日露戦争に東郷大将が根拠地たる鎮海湾を出て、ボルチック艦隊を対馬水道に逆襲せんとした策戦と相類している。しかも敵手たる義経はロヂェスウェンスキーのような庸将でなかった。

これに対して、義経の苦心は、実に大なるものでなければならぬ。彼は九州に渡った範頼が、手も足も出ぬ窮境にあったのを知っていたのみならず、之に依頼しようなどと、最初から考えなかったのも無論である。しかし平家の強大なる水軍を攻めるには、彼にもそれだけ強大なる水軍を編成せねばならぬが、第一に彼はまだ一度も海戦の経験がない。東軍も多く水戦に習わぬ、平軍を屋島から追い落とした彼は、更に最後の海戦について苦心惨憺たらざるを得なかった。

幸い紀州の熊野別当湛増も馳せ加わった。伊予の河野通信も味方となった。渡邊の浦に残しておいた梶原景時以下の兵も到着したが、それで彼の兵力は果たして平軍に拮抗することができるであろうか。また四国は久しく平家の根拠地であった。土佐あたりに源氏方がなかったではないが、その勢力は微々たるものである。

彼はまず四国を従えておかねば、ひとたび四国を離れた後、また何日何時敵方となって、背面から脅かされるかも知れぬ。

されば義経は自重して急に平軍を追わなかった。一方に於いてその兵を休養し、糧食の準備を十分にせしむると同時に、讃岐から伊予にかけて、まず平家の勢力を駆逐せしめた。

そしてこの間、瀬戸内海の豪族で、兵船を有っていた、後には海賊大将となった島々の武士に激を飛ばして、鎌倉の御家人にするから、味方になれと勧誘した。

こんなことに一ヶ月ばかり費やしたであろう、彼は三月二十日頃漸く周防にやってきた。
そして国の在庁、船所五郎正利というものが、元来当国の船奉行であったが、義経に数十艘の船を献じたので、二十一日、これを案内として、いよいよ長門へと進発することに決し、船中で大将分を集めて評定した。

二十二日に兵船纜(ともづな)を解いて西を指し、周防の大島まで進むと、先に範頼に従い、独り周防に留守していた三浦義澄もここに参会した。

「汝既に門司関を知れり、今案内者たるべし、先登せよ」と、義経の命に、義澄は畏(かしこ)まって先陣となり、壇の浦の手前、奥津のあたりまでやって来た。この奥津というところは、今長府の前方海上にある満珠の島の別名である。

平家は源氏が押し寄せると聞いて、堂々と根拠地彦島を出て、赤間が関を通過し、豊前の田の浦に進んで来た。両軍の間凡そ三十町ばかり、両軍の意気は?り、山雨来らんと欲して風楼に満つの形勢。

『吾妻鏡』には、平家の兵船は五百艘、源氏の兵船は八百四十艘と、義経の注進状に載せているが、これはおそらく誤りであろう。

平家方では一門の船百余艘、松浦党同じく百余艘、山鹿秀遠三百余艘、これだけで既に五百余艘となるのに、阿波民部大夫成良の三百余艘を加ふれば八百余艘に及んでいる。

源氏方は景時以下の兵船百五十艘、熊野湛増が二百余艘、河野通信が三十余艘、これに周防の船所や、三浦義澄の兵船数十艘を合わせて、まず約五百艘となるが、これも『源平盛衰記』の記事などから数えたのであるから、多少割引せねばなるまい。

仮に平家の兵船を八百艘とし、源氏の兵船を五百艘としても、その中には無論兵糧船が加わっていたことを勘定に入れねばならぬ。それに前にいったように、義経が阿波に渡った船数と兵力から割り出し、一艘平均二十騎の兵が乗り込んでいたものとすれば、平軍は多くて一萬二三千騎である、もし四国勢を差し引いたら、七八千騎ぐらいに過ぎぬ。そして源氏の軍も略これに伯仲しているが、更に翻って考えるに、東軍の屋島を攻めた全兵力が二三千騎に越えなかったとすれば、果たして七八千騎までに兵数を増やすことが出来たものであるかは疑わしい。それで更に割引して、余は源氏の軍がまず三四千騎、平家の軍が四国勢を合わせて四五千騎ぐらいであったろうと推定する。

いずれにしても、源氏の兵力が平家よりも多かったとは想像されぬ。平家は永い間船を生命とし、準備は十分出来ている。のみならず、平家の船には唐船も交じっていた。恐らく日宋貿易と関係深き平家の事とて博多に来ていた唐船を徴発したであろう。唐船は荒い外洋を航して我が国に来るのであるから、我が兵船よりも大きかったことは勿論の事で、平家はこれを御座船とし、軍兵も多く乗り込ませ、いはば平軍の旗艦や戦闘艦であった。

然るに義経は兵船を集めるに、非常に苦心をしたことは、既に述べた通りである。が、さりとて平家の兵力に比して余りに少なかったとは思われぬ。実際義経には陸戦に於いて宇治を攻めた時の心持ちであった。水戦に於いて初陣の義経、しかも敵地に入って勝手不案内の戦場、彼は決して軽々しく動くものではなかった。ただ彼を援けた河野通信や熊野湛増、多少水戦に慣れていたにせよ、必ずしも十分これに依頼する訳に行かぬ、彼は水戦に習わぬ東国に兵を中堅として戦わねばならぬ。それにこの度の戦は、彼が年来の宿志を果たすばかりでなく、彼が頼朝の怒を解かんがために、一死を覚悟して最後の決戦を試みんとするのである。彼はこの一挙にして、勝って京都に凱旋するか、敗けて西海の藻屑と消えるかの瀬戸際に立っていたのである。

馬上にあっては、鬼神を挫(くじ)く東軍武士も、船に乗っては自由がきかぬ、景時の逆櫓説、もし事実とすれば、畢竟船戦に経験を有しないからの心配に出たのである。それで義経は何時も陸から平家を攻めると、平家は屹度沖の方へと逃げる、どうしても最後の勝負は海戦でなければ、平家を全滅することが出来ぬようになっている。

これが恰度知盛の主戦説と一致している、そしてここに壇の浦の大合戦となった。義経はいかなる神算奇謀をもって平軍と決戦せんとするであろうか。

彼は元来六韜三略に通じている。彼はただその兵力だけに依頼しているものでなかった。大きくいえば天の時、地の利、人の和、之を利用して軍をせねばならぬと、どの戦にも細心の注意を払わぬことはなかった。思うに彼がよく人の利を得たのはその天性にあったといってよい程である。将士は皆義経のために命を捨てんと思った。一の谷の戦に畠山次郎重忠が範頼の麾下を脱して義経に帰したのもその一例である。屋島の戦に佐藤継信が代わって討死したのも、またその一例である。

然からば天の時は如何、彼は暗夜を利用し、三草山を越えて安々と一の谷の背後に出たではないか。暴風という天候を利用して、屋島合戦に平軍の不意に出たではないか。もしそれ地の利に至っては彼が戦に臨むごとに、その策戦計画に当たり、必ずまずその考慮に入るものであった。

宇治の要害も、一の谷の天険も、彼はたちまち我が物として敵を木葉微塵に潰滅せしめた。
この壇の浦に於いても彼は決してこれを見逃さぬ、しかもこの場合彼は潮時潮流等の天の時地の利を合わせてこれを策戦計画の上に利用し、人の和を以て大捷を博したのである。

元来潮流の変化するのは、月がその地の真南に来る時刻、言い換えれば、月がその地の子牛線を経過する時刻によって左右されるもので、月の経過した時から、およそ三時間ばかり後に高潮となり、低潮となるのが、一般的の現象である。されど瀬戸内海における潮時と潮流とはこの一般的現象を呈する外洋とは、全然趣を異にするばかりでなく、場所によって異同がある。殊に関門海峡のあたりはすこぶる趣味多き変化を呈し、いわばその付近の人々が知っているのみである。

中にも注意すべきは、高潮の時刻と潮流の方向の変化が、全く一致せぬことで、潮流は高潮または低潮の時刻を過ぎること約三時二十分の後に始まり、三時間ばかり継続する。そしてまた、この早鞆瀬戸においては、由良、鳴戸、早吸の各瀬戸とは反対に、漲潮が去って内海から外洋即ち日本海に向かって流れ、落潮が外洋から内海に向かって流れ来る。

次に潮流の速度は、高潮の場合には零あるのが通例であるが、この海峡では、高潮の時刻と潮流方向の変化が一致せぬため、その速度の零であるのは、高潮の時刻でなく、それより約三時二十分を経過したる潮流の方向変化の時である。そしてそれよりおよそ三時間を経過した時を中心として、最も激烈を告げる。現今早鞆瀬戸の中央、即ち壇の浦の前面最も狭きところで、最速度が八浬であるが、だんだん内海に入るに従って速度を減じて来る。

この壇の浦海戦のあった陰暦三月二十四日、無論今日から七百年前の昔、多少天然の現象にも相異があるであろう。また当時の暦は宣明暦といって、現今の暦法から見れば、不完全の点を免れぬが、幸いにもこの月十五日に月蝕があって、満月の日即ち俗に大潮という日がわかっている。それから推して二十四日の潮流や高潮、低潮等を調べると、
   高潮          午前五時十分頃
   落潮 (内海へ東流)  午前八時三十分頃より
      (この時潮流最も緩なり速度零)
   低潮          午前十一時十分頃
      (この時潮流最も急なり速度八浬)
   漲潮 (外洋へ西流)  午後三時頃より
      (この時潮流最も緩なり速度零)
   高潮          午後五時十分頃
   最急潮流        午後五時十五分頃
   落潮 (内海へ東流)  午後八時三十分頃より
      (この時潮流最も緩なり速度零)
   低潮          午後十一時十分頃
      (この時潮流最も急なり速度八浬)
である。

そうすると、午前五時十分頃高潮の後約三時二十分なる午前八時半頃には、いままで漲潮であった潮流が方向をかえて落潮となり、内海に向かって流れ始める。その方向をかえる時、潮流の速度は零であるが、だんだん速度を加えて、低潮午前十一時十分頃最も激烈を呈し、また次第に緩流となって、午後三時落潮漲潮に変じ、外洋に向かって西に流れんとするとき、潮流の速度また零となる。そして前と同様午後五時四十分頃最も激烈に達する。

この調査は今こそ海洋研究家に知られているが、源平の当時にあっては、この地方に住んだ老船頭でなければ、こんな特殊の現象を知っていた筈がない。それに関門海峡の東口には中央水道、南水道および北水道の本流の外、渦流がある、湍潮が出来ている。その間に船を操縦するには、余程水路に熟しておらねばならぬ。今も外国船には必ず水先案内が付くところである。

義経は三浦義澄を案内として奥津まで進んで来たが、義澄とても、一度門司が関に行ったことがあるばかり、当時にあっては、周防あたりの船頭も、この付近の険悪なる潮流をよく知っていたかは疑問である。義経は如何にして平軍と戦うであろうか。

長府から程遠からぬ串崎は、恰度田の浦の対岸で、その地の船頭は名を得た屈強のものであった。後ち足利尊氏が九州から攻め上るときも、その御座船は実に串崎船である。

義経は密かに串崎船十二艘を徴発して自らこれに乗り込んだ。彼は委細にこの付近の潮流について、老船頭の説明を聴き終わったとき、独り首肯いたであろう。彼の胸中には策既に成ったのである。

尤も開戦の時刻については、『源平盛衰記』には卯刻即ち今の午前六時頃となっている。
『吾妻鏡』には何等記載するところはないが、その戦の終わった時刻から推せば、また盛衰記と全く同様である。しかし『玉葉』には、義経が後白河院に言上した注進状を引いて、立派に正午十二時合戦を始めたと書いてある。

正午十二時は、落潮の最も激しく流れる午前十一時十分の後五十分時である。そして午後三時までだんだん緩流となり、最も戦うに都合よき時刻である。潮流の方向は源氏には最初こそ不利なれ、午後三時頃まで支え得さえすれば、潮流の方向ここに一変し、流れはますます激しくなって、平軍を西に圧するには追潮である。

義経の策戦計画は実にこの追潮を利用せんとするのであった。今もし朝六時に開戦したとすれば、形勢は全く反対となり、『源平盛衰記』などの戦況と一致せぬ。しかも盛衰記などに時刻を誤ったのは、恐らくこの壇の浦付近の潮流が特殊なものであることを気づかなかったためであろう。

また義経が自ら麾下の勇士を率いて、この串崎船に乗り込んだのは、最も熟練した船頭を利用し、彼等の勝手知った壇の浦海上、縦横無尽に乗り回し、軍の懸引きは言うに及ばず、機一たび熟せば、自ら挺身敵の本陣に斬り入らんとしたのである。

しかし知盛とても、壇の浦海上の潮流を利用することに注意しなかったのではない、元来彼が田の浦に船列を布いたことは、長門の側では陸上から背面攻撃を受ける恐れがあるが故に、最も安全な豊前の方に寄ったのも一つの理由であるが、また地勢上その潮流中最も大きな潮流たる北水道が多少長門の方に近寄っているので、流に従って敵軍を満珠干珠の辺に圧するに都合がよかったためで、彼の策戦計画たる、最初から機敏に、勇悍なる行動を取って、落潮の漲潮に変ぜぬ間に勝負を決せんとしたのであった。

彼はまた田の浦の湍潮を利用せんとしたようである。南水道の激流から、その一部は丁度田の浦の前面で海流して、岸に近いところはとの方向全く反対となっている。知盛は全軍を三手に分けて、九州勢を先陣とし、一門の船を中堅とし、四国勢を後陣とし、この湍潮を利用して、三方から源氏の軍を取り巻き、これを全滅せしめんと計画した。それが後陣たる四国勢の闘志なかりしと、義経の策戦更に巧妙を極めしめ、ついに失敗に帰したのは、平氏の運命が尽きる所以であった。

今如上述べたところで、知盛の策戦を批評せんに、知盛の計画は無論巧妙であった。しかし彼は潮流を利用するに於いて義経に一謀を輸し、また義経が串崎船を乗り回して、如何に機敏なる行動を取らんとせしかに、気が付かなかったのは実に彼の落ち度であった。

さて両軍は正午から船を進め、潮流の緩となるに従い、次第に相近づいてわずかに三丁ばかり、先陣でははや矢合わせが始まった。知盛は船の舳に立って号令を伝え、軍は今日を限り、各退く心あるべからず、各命をこの時に失って、名を後世に留めよ、東国の奴原に悪びれて見ゆな、何の料にか命を惜しむべき、心を一にして義経を取って海に入れよ、今度の執心此事にありと、士卒を激励して、爰を必死と戦った。

潮流も平家に取って追潮なり、よし四国勢を除いても、その兵数は源平ほとんど相敵したり、平軍は漸く源氏の軍を圧して、中央水道を過ぎ北水道に迫った。義経は串崎船を乗り回して奮戦したが、彼は寧ろ潮流の変わるまで防戦的であった、そして平軍決死の働きと潮流の不利とに、源軍次第に退き、一時は形勢すこぶる振るわなかった。

知盛はもとより義経の最も恐るべきを知っている。また義経が常に先陣に進むことを知っている。そしてもし彼を殺さばこの戦は勝利なりと、義経にのみ目をつけ、敵の中堅を突かんと考えていた。それで『源平盛衰記』などによれば、彼は一策を案じて、彼の唐船を大将分の船のように見せ掛け、それには雑兵を乗り込ませ、小さい多くの兵船に一族をはじめ屈竟の勇兵を乗せて、源氏の軍が唐船に向かうところを、兵船で三方から追っ取り巻き、義経をも討たんとしたが、四国勢の内応したため、遂に失敗に終わったということである。

この四国勢内応のことは必ずしも信憑するに足らぬ。されど義経は元よりこの計画にかかる人でなかった。彼は落潮の変じて漲潮となるを待ち死力を出さんと、北水道を守って一歩も退かじと、奮戦していたのである。

敵も味方も、紅旗白旗入り乱れての接戦、想うに時は午後三時ごろ、落潮将に漲潮たらんとして潮流全く止みし壇の浦の此方、平軍は北水道よりも少し北に進んでいたであろうが、やがて次第にたぎり落ちる潮、平家の船は心ならず潮に向かって押し落とされ、源氏の船は自ら潮に追ひて出で来る。沖は潮いよいよ迅くして、船は岸へ岸へと付いていく。

形勢はここに一変した。義経は機倒れりとばかりに、まず敵船に漕ぎ寄せて乱入し、櫓をすて梶を捨てて逃げ迷う水手撮取を射り伏せ、船の進退自由を失わしめたのは、義経が我が海戦に新機軸を出したもので、平軍の混乱は絶頂に達し、平軍は遂に壇の浦に追いつめられ、今や勝敗の数歴然となった。

知盛はや是までなりと、建禮門院、二位尼の乗られる御船に参り、自ら船を掃除して見苦しいものを海に取り入れ、最後の用意を急げば、二位の尼今を限りと、練色の二衣引き纒い、白袴のそば高く挟んで安徳天皇を懐き奉り、帯にて我が身に結び合わせまいらせ、宝剣を腰に差し、神璽を脇に挟んで船端に臨めば、天皇御年八歳、まだ御幼年の事とて、いずこへ行くべきぞと仰せられるに、二位尼は武士御船に矢を射まいらせ候へば、別の御船に行幸したまへと、言いもあえず海に入る。

実にや鷁首還らず楚澤を悲しみ、鵬程際なし?門に接す。潮急にして舟矢の如きところ、島樹汀雲壇の浦海戦の昔を語るかのよう、誰か感慨無量ならざる。『吾妻鏡』には、安徳天皇を抱き奉り海に入ったものは按察局となっている。こんな場合いずれおそれと定めることは難しいであろう。つづいて八條院も入水された。やがて建禮門院も後れじと飛び入られたが、渡邊党の源五馬允熊手を下して引き上げた。義経は伊勢義盛に命じ、海には大事の方々入らせ給いたるぞ、取り上げ進らせたらん者共狼籍仕るなと下知を伝へしめて、多く女官の人々を助けた。

平家の一門では教盛、知盛、経盛、有盛、行盛、教経、或いは入水し、或いは討死したが、宗盛と、その子清宗は、死得ずして伊勢義盛に生け捕られた。都を落ちて海上に漂泊ふこと三年、次第に手をもがれ足を断たれて、最後まで残った一団が、宗盛等二三を除いて、悉く海底の藻屑と消えたのは、哀にもまた美しい悲劇である。平家にあらねば人ならじと、一世を睥睨(へいげい)した人々は、極端から極端へ、奈落の底へ追い落とされたのである。

『吾妻鏡』『玉葉』『醍醐雑事記』など、この平家の最後について、安徳天皇をはじめ奉り、人々が如何に成り行きしかを列挙している。互いに少しずつ相異したところもあるが、まず生け捕りになった面々は、

   内大臣宗盛        右衛門督清宗
   大納言時忠        二位僧都全眞
   讃岐左中将時実      内蔵頭信基
   法性寺執行法眼能圓    阿波民部大夫成能
   後藤内左衛門尉信康    美濃前司則清
   源大夫判官季貞
   摂津判官盛澄
  此二人『醍醐雑事記』には降人とある。
   飛騨左衛門尉経景     右馬允家持
   師典侍(先帝の御乳母)  大納言典侍(重衡の妻)
   師局(二位尼の妹)    按察使局
   律師忠快         法眼行明(熊野別当)
この外建禮門院、守貞親王も命を助けられ給うた。
 

次に入水、自害、行方知れぬ方々は、

   安徳天皇         八條院
   中納言教盛        中納言知盛
   修理大夫経盛       能登守教経
 

最後に討死の人々は、

   左馬頭行盛        小松少将有盛
 

其他備中吉備津宮神主・権藤内貞綱・同舎弟・菊池二郎等刎頸八百五十人。

かくて平家の一門は悲惨にして壮烈なる最後を遂げた。そしてまた入水自害も、行方知れぬものとなっているために、安徳天皇も壇の浦を落ち延び、源氏の眼の届かぬところに沈みたもうたと伝えられ、諸所に御遺跡といわれるところがある。或いは阿波の祖谷、肥後の五家など、人跡遠き山間には平家落人の子孫と称するものがいる。

しかし『玉葉』建久二年閏十月の條に、長門に御廟を建てられたことがあるのでも、安徳天皇潜幸説の取るに足らぬことがわかる。それが下の関の阿彌陀寺である。

想うにこの壮烈悲惨なる最後に同情する極、こんな伝説が起こったので、平家自身からいっても、武士道の面目として、徒らに生き延びるべきでない。もし実に生き延びたとしたならば、頼盛のように当時の人から指弾されたものであろう。

さて三種の神器は、朝廷でも、鎌倉でも、無論義経も、如何にして無事に迎え奉るべきかに苦心した。この戦の折りも、義経はまた直ちに御船に駆け付けた。幸にも内侍所は船中に置かれてあった。また神璽は浮かび出たが、宝剣は上らなかったので、其後色々と海人などに探させ、また神社佛寺に御祈祷があったけれど、遂に其の行方はわからなかった。

尤も眞の草薙剣は熱田神宮に祭られてあるので、天皇の奉侍されたのは崇神天皇の御代に模造されたものであった。で其時から二十余年の間清涼殿の御剣を宝剣の代にされたが、土御門天皇御譲位の時、御夢想に依って伊勢大神宮より進められたものを、宝剣に準ぜられることになった。

三種の神器と安徳天皇並に女院などを、無事に御迎え申すようにと云うことは、朝廷の切なる御希望であったのは言うまでもなく、頼朝もかつて此事を戒めている。義経も無論その考えで、この場合最も意を用いたが、終に天皇の御入水を見、宝剣の行方を失ったことは、義経の遺憾とする所であったろう。

併し、前記壇の浦の情況を考えれば、如何にも己むを得なかった次第と言わねばならぬ。第一水上の事であって、思う様にそれらの始末を付けることが出来ぬ。平家はどこまでも神器を放さず、神器と共に滅びる決心であったし、殊に源氏方は始め非常な苦戦で、僅かに最後の勝利を得た程であるから、無事に之を回復する余裕が無かったのである。

元暦元年正月木曽義仲を滅ぼしてから、ここに一年二ヶ月、一の谷・屋島・壇の浦三度の戦に、神謀奇謀敵の意表に出で、勇往邁進人の敢てし難きをなして、終に父義朝会稽の恥を雪(すす)ぎ、年来の素懐を遂げたのは、実に義経の雄飛した黄金時代である。

此時義経の年二十七歳、この年配でこれだけの成功をした武将は我国の歴史に於いてほとんど比類がない。北畠顕家は二十三歳、楠正行は二十四歳で討死し、共に忠臣の美名を不朽に伝えたが、その兵略に於いて目覚ましい勝利を得る点では、勿論義経と比較すべきでない。

併しながら義経の成功は、頼朝の怒を解き得なかったのみならず、かえってますます身の仇となって、頼朝の嫉忌を加えるばかりであった。そしてその功は頼朝に奪われて、義経の身は急転直下、再び闇黒なる運命の下に翻弄されねばならなかった。
 
 

第八章  了
 


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源義経研究

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2000.12.18
2001.03.27 Hsato