十三 義経の最後
  

義経主従が幕府の警戒線を破って無事奥州に着き、藤原秀衡の歓迎を受けたのは、文治三年の何月であったか、その京都を出発した時日が不明なると同じく、今判然と知ることが出来ぬ。『吾妻鏡』には、義経が奥州に居るといって、朝廷に奏上したのを、三月のころとしてあるが、実はただ風聞に止まり、四月になってもなお行衡が分からなかったため、鶴岡八幡宮などで祈祷を行ったことは前にいった通りである。

三月に頼朝から奏上した結果、朝廷では院廟の下文を陸奥に下されることとなたが、これ主として秀衡の動静を探らんとするに過ぎなかった。そして先に平清盛から奥州に流された院北面の下臈、前山城守基兼を、秀衡が抑留して上京せしめぬのを不都合とし、早く召し上するよう、また東大寺大仏の滅金に用いんため、砂金三万両を秀衡に進上するように厳命が下った。

この院宣を伝えるに使者が鎌倉まで下がると、頼朝はこれに雑色沢方というものを差副えて奥州に遣ったが、秀衡が少しも異心なきよし陳弁しながら、密に用意をしているような形跡があるのを、沢方がみて帰ったというのは、九月の初ごろであった。この報告を得た頼朝はまた直ちに彼を京都に遣し、委しくこれを朝廷に奏せしめた。

秀衡は義経の事について何等答えるところがなかったが、基兼には特別に待遇を加え、基兼その人も京都に上ることを欲せぬ、また砂金は近来大かた掘り尽くし、定例の一千両さえ覚束ない、三萬両など思いも寄らぬことである。追って求め出すまで、御猶予を願いたいと返奏したので、頼朝は毫も秀衡に誠意なきを認め、奇怪至極なりと怒り、今一度砂金催促の使を下されたき旨を奏し、朝廷からまた使を下されることになった。

この事で朝廷に評議のあった九月二十九日から、約九日ばかり前に出た院宣によれば、まだ朝廷には義経の踪跡(そうせき)が不明であった。が、遅くともこの九月から十月の初にかけて、義経は既に平泉の晩秋に肌の寒さを覚えて居たのである。頼朝は永い間、京都付近といふ湾内で追ひ廻して居た鯨を、忽ち陸奥なる外洋に逃したようなものであった。最早焦心つても仕方がないこととなって了った。しかし義経が陸奥に入ったために、頼朝ははじめて彼の勢力範囲以外であった藤原氏を滅ぼす口実を得るに近づいたのである。

秀衡の威勢は、十余年前に義経が、鞍馬を抜け出て、下った時と少しも変わりがない。しかも猶、幕府の下に屈せずして、その管轄以外に傲然たる態度を構えて居た秀衡は、嘗(な)めて平家の手から晏然に義経を庇うたように、今は鎌倉の追捕を免かれしむる唯一の保護者であった。否ただに保護者であったがかりでなく、秀衡は義経を主君と仰ぎ、奥州をして関東に対し、?然たる一敵国たらしめんとしたであろう。

また頼朝は白河の関から外が浜まで、今の福島、宮城、岩手、青森の4県を包容する広大なる奥州一園の地が、その支配に属しなかったことは、武家政治を行う上に、非常な障碍であったのみならず、彼が容易に鎌倉を離れる能はざる理由の一は藤原氏が巨人の如くその背後から圧して居たことである。頼朝は豊臣秀吉が小田原北條氏を滅ぼしたと同様に、その実、何とかして藤原氏を滅ぼし、後顧の患なくここに武家政治を行う機会を狙っているのであった。

然るに今この好機が到来した。義経が秀衡に投じたことは、頼朝が言いがかりをするに最もよい口実を与えたものである。もし想像を逞(たくま)しくすれば、義経が無事に奥州に入ったことは、寧ろ頼朝が窃に喜んだところであったろう。あるいは彼をして安全に奥州まで下らしめたものは、義経と知って安宅の関を通過せしめた富樫左衛門尉よりも、満身これ政治家的なりし頼朝ではなかったかと想われるほど、この後頼朝の辣腕は藤原氏に加えられることとなった。

もっとも頼朝は軽々しく動く人でなかった。祖父以来の威望によって、よく奥州全国を収めた秀衡の手腕も、また彼の既に認めたところである。義経のこれに投じたることが、たとえ奥州を打つに口実を与えたとしても、頼朝は更により以上の好機を捕らえねばならぬと考えた。のみならず、義経の用兵神の如きに最もおおく恐れている。また義経が鎌倉武士に人望あることもよく熟知している。頼朝は自重してなお容易に動かなかった。

が、十月二十九日、秀衡は義経の將來に向かって、萬斛の涙を呑みつつ、平泉の舘に病死し、永くその遺骸を中尊寺金色堂の須彌檀下に横へた。義経の落胆と失望、ここに言い現わすべき言葉がない。ただこの報を得て独り微笑したものは実に頼朝であった。

元來秀衡には異腹に出来た二人の子があった。その一人は秀衡の後を承けた泰衡である。
「玉葉」にこの際のことを記して言う。
秀衡はこの兄弟の間が円滑に行かず、彼の死後或は義経の身に禍(わざわい)せぬであろうかと苦慮し、今を最後と覚悟するや、枕頭に二人を召し、義経をも病室に請じ入れた。彼は先づ二人に向かい、義経を大将軍として主君の如く仕えよと、くれぐれも遺言した上に、義経に背かぬという起請文を書かせた。そして義経にもまた起請文を出さしめ、三人同心一味して頼朝を襲う謀を廻らさんと誓うのを見終って瞑目した。これは固より兼実の伝聞に過ぎぬが、多少実を得たことであろうと思う。ただ頼朝を襲ういうのは、また恐ろしく義経の真意を知らぬものの言である。

幾たびも繰り返したように、義経はどこどこまでも兄に反抗する考えを有して居ない。
彼の心事は高潔なものであった。都を落ちて九州に下らんとした折も、大和から京都の寺々に潜行して居た時も、彼はただ源家のために、惜しからぬ命を永らへ、死するに勝る苦痛を忍んで居たのである。奥州に下った後、また何ぞ初一念を変ずるものであろう、彼の精?は、実に秀衡の忠言を容れずして奥州を飛び出し、黄?川にその兄と会わし当時から、亳も変らなかったのである。

頼朝は今や秀衡が死んだと聞いて、徐ろに対奥州策を実行することに取掛った、がその支配に属せぬ爲めに、藤原氏が義経を庇護するも、頼朝から直接に之を責める口実がない、又義経を庇うて居ると白状させることも出来ぬ、故に泰衛継いで立つや、頼朝はまづ泰衛が義経を奉じて兵を起こすものとなし、然る後朝廷の宣旨を請うて、泰衡を違勅の臣とし、これを追討するより外に方法がないと考えた。(p282)
 
 
 

(p293)
閏四月三十日、泰衡は兵数百騎を従えて、遂に義経を衣河の館に襲った。義経は僅かにその家人に防戦させたが、彼は今その最後が近づいたことを自覚した。泰衡の兵を一蹴してこれを走らすも、もっぱら彼にとっては何ら前途に光明がないことを知った。彼はその家に対して、彼の為し能うすべてのものを為したのである。むしろ頼朝の兵、いまだ至らざるに先立ち、その最後が来たことを自ら喜んだであろう。

義経は、その兵の敗戦する気色あるを見て、持仏堂に入り、先ずその夫人と女子を殺し、心静に自殺した。この時、義経三十一歳、夫人二十二歳。その女子は僅かに四歳であったと「吾妻鏡」に見えている。何たる悲惨の運命ぞや。彼は生まれ落ちたその時から、衣河の館で最後の日まで、一生ほとんどこれ数奇といってよい。彼が宇治河に義仲を破り、一の谷に平家を追い落とした得意の時代既に、その後には呪詛の声があった。屋島を攻め壇ノ浦に戦ったのも、彼の心はただ死地を求めるのであった。それを世人は、義経の全盛時代が、この間にあったと誤解し、頼朝は彼を窮迫して止まなかった。何ら無情なる兄ぞ。彼はその政治的眼光をもって、義経を観たために、その弟であることを忘れ、家を思う兄を思う義経の哀情を了解することが出来なかった。そして源家は僅か三代にして滅んだのである。

六月十三日、泰衡の死者新田冠者高平、義経の首級を持参し、腰越の浦に至って、これを頼朝に言上した。実検の使者は、侍所の別当和田義盛、同じく梶原景時、一人は義経に心服せる鎌倉武者、一人は義経を悲惨な運命に陥れた奸邪の小人。各甲直垂を着け、甲冑の郎党二十騎を相具し、その場に至れば、黒漆の櫃に入れ、美酒に浸してある義経の首を、高平は従僕二人に荷わしている。流石の景時も面をそむけた。義盛以下の人々は、この悲惨なる英雄が、変わりし最後の面影に、落ちる涙を拭いもあえず、両の袂も絞らんばかりであった。

「鎌倉大日記」によれば、義経の首級は、後日、藤沢に埋められたということである。藤沢坂戸町のほとり、亀形をなせる小高き丘陵に鎮座せる白旗明神社がその地点であろう。社の付近に首洗いの井と伝えられるところも残っている。もし義経が武士道の権化たる国民的英雄として景仰すべき人ならば、多くの人に知られぬこの白旗明神の社殿を更に荘厳にし、国民をして崇敬せしむる方法を講ぜねばならぬ。

もっとも義経が衣川に自殺しなかったという噂は、その当時から既にあった。そして後世には、あるいは義経が奥州から北海道に入ったという説もある。また更に北海道から満州に入った。支那清朝の祖先となったなど、色々の説があるが、それは皆後人が作り出した創造に過ぎぬ。丁度安徳天王や平家の人々の隠れ家が所々方々にあり、豊臣秀頼が薩摩に逃れたというのと同じ事で、英雄の末路が悲惨なのに同情した結果である。しかしこの同情は香却って有り難迷惑であろう。義経といい、平家の人々といい、秀頼といい、その最期をとげねばならぬときに最後を遂げたのである。武士道にかけて死すべき時に死んだのである。これで死に価値があり、生に価値があるのである。

義経の死は頼朝の政治的生涯には、実にこの上もなく有り難いものであったろう。彼はこれが為に、易々と泰衡を滅ぼし奥州を平らげ、遂に日本全国に武家政治を布くことを得た。しかし彼はこれと同時に、その家のために犠牲となり働いた第一の人を失った。そして頼朝の薨後(こうご)一杯の土いまだ乾かざるに、幕府の中心は、たちまち去って北條氏に移り、源氏の本宗は遂に永く絶えて終わったのである。

偉人の一生、往々数奇を極め、その末路の悲惨なるもの必ずしも少しとせぬ。しかし義経の如き不可思議な運命の手に弄ばれたものは稀である。義経の生涯はそれ彗星の如き歟(か:詠嘆の助字)。その幼時はほとんど暗黒の帳(とばり)に包まれて、僅かに「平治物語」や「源平盛衰記」等を通じて、彷彿するに止まり、何ら正確な記録がない。然るに一度歴史の舞台に現れるや、光芒燦然、万人の胆仰驚嘆(たんこうきょうたん:心を揺さぶるほど驚かすさま)するところとなる。がそれも瞬間であった。たちまち暗黒の軌道に没し去って終わった。

黄瀬川に兄弟の相見から、都を落ちて、大物が浦の船出まで、前後僅かに五年、しかも宇治河の合戦から壇の浦の海戦までは一年と二ヶ月。この短い間において、天下の形勢に一台騒動を與(与)えて我が国の歴史を飾り、文学を賑わす幾多の事績を残せる義経の如きものは、果たして他にありや。

豈(あに:反語の意、何で)にそれ歴史と文学とのみならん。彼は、猶多くの方面において、後世に大なる教訓を垂れている。それは彼の人格である。武士として俯仰(ふぎょう:下を向くこと上を向くこと)天地に恥じざる底の人格を有し、しかもあれだけの事功を遂げながら、少しも政略家でない、政治的色彩を帯びぬところに、その性格が流露している。彼はその身命をまず父のために犠牲とし、家のために犠牲とし、また兄の犠牲となって一生を終わった。彼の如き高潔なる人格を有する武将果たして多く他にありや。

彼は敵を愛する程、仁愛深き武将であった。彼が身命を賭した平家との戦争一度終わるや、彼にはもはや敵も味方もない。彼は建礼門院をはじめ、平大納言忠時已下の人々を優遇したのみならず、平家の中心人物たる宗盛父子すら、その恩賞にかけて、命乞いをしようとまで決心したではないか。かくの如き情けある武将果たして多く他にありや。

彼はすべての事に決死の覚悟をもって当たっている。戦に臨んでは、何時も先陣に進む。しかも常に戦の死命を制する難局に自ら当たっている。一の谷の逆落とし、河尻の船出、皆彼は死中に活路を得たのである。彼は自ら戦に上手であるとは言わぬ。ただ戦場に向かった以上生還を期せずという処に彼の長所がある。彼はかくの如き教訓を我が国民に與(与)えている。

彼はまた騎兵戦において、今日まで類例なき大将であったことを示している。彼は東国の馬と弓をもって、義仲を破り、平家を破ったといってよい。宇治河から長駆して京都に入ったのも、丹波路から一の谷の搦め手に出たのも、また阿波の勝浦から屋島に馳せ着けたのも、皆騎兵を善く用いたに過ぎぬ。恐らく我が国の騎兵戦術は、彼によって絶頂に達したといってよい。

されば彼は戦の神である。軍神である。しかもその戦の神たり軍神たる所以は、また彼は仁慈(じんじ)の心に富みて、その兵を手足の如く働かせたために外ならぬ。彼が屋島において、佐藤継信の戦死を悲しんだことに、誰が「この君ならば命を棄てん」という心を起こさぬ者がなかろう。宇治河の合戦に打ち勝って、長駆京都に入るや、彼は宇治河における殊勲者を引き連れて法皇に拝謁した。熊谷次郎直実が一の谷に先陣を懸けたのは、実にこの中に洩れたためであるといわれている。
 

第十三章  つづく
 


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源義経研究

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2001.06.28
2001.09.24 Hsato