私が訪ねた世界遺産

エル・ジェム

エル・ジェム闘技場

オリーブ畑の中の建物
 チュニジアの首都チュニスから南方約200キロ、スースから南に60キロの内陸部にエル・ジェムの村があります。スースからスファックス行きの鉄道で行くと、果てしなく続くオリーブ畑の地平線上に忽然と大きな建物が姿を現し、近づくにしたがってそれがエル・ジェムを象徴する円形闘技場と分かります。このあたりでは、それほどに他を圧する大きな建造物です。

駅前通りから見た闘技場

短命に終わったローマ皇帝と闘技場
エル・ジェムの古代名は、「ティスドゥルス」といいます。ポエニ戦争の後、ローマがカルタゴの支配地を植民地としましたが、ティスドゥルスは、オリーブオイルなどの交易で最も豊かな植民地として栄えました。とくにカエサル以後約200年の間に、地中海沿岸の港と内陸部を結ぶ交易路の中継地点として、各地から商人などが集まり、カルタゴやスースに次ぐ商業都市となりました。  ローマ帝国の歴史上、ティスドゥルスが表舞台に登場したのは、238年、ローマ皇帝マキシミヌスの植民地への重税策に対して決起し、この地から時の総督ゴルディアヌスをローマ皇帝に選定したことでしょう。  ゴルディアヌスは皇帝としては短命に終わりましたが、アフリカ総督を務める間に建造したと考えられているのが、現在に残るエル・ジェムの円形闘技場です。

闘技場とエル・ジェム市街

36メートルの高さ
 円形闘技場は、ローマの支配地に数多く残っていますが、エル・ジェムのそれは、ローマ時代には3番目の大きさだったようです。  全体は楕円形をしていますが、長径で148メートル、短径で122メートル、全周は、427メートル、高さは36メートルもあります。往時は3万人を収容する能力があったようです。。

闘技場最上階の眺望

砦となった闘技場
 ローマの支配をへて、7世紀にはイスラム軍が侵攻してきました。このとき、ベルベル人の女傑ラ・カヒナが、円形闘技場に立てこもってイスラム軍に対抗しました。  その後も、たびたびこの闘技場は要塞として、時の権力に対する抵抗や反乱のために利用されました。  現在は、エル・ジェムの駅から見た正面側は非常にきれいに保存されていますが、反対の砂漠側は深くえぐれた状態で無残な姿をさらしています。これは、19世紀の暴動の折に、大砲の集中攻撃によって破壊されたことによるものです。

砂漠側からの闘技場

 エル・ジェムで世界遺産に登録されているのは、3階構造の円形闘技場だけです。円形闘技場の最上階に上って周囲を見渡してみても、民家や駅舎のほかには目立った建造物は見当たりません。  しかし、ローマ遺跡のあるところで、こうした娯楽場だけが存在したということは考えにくいのです。はたして他の遺跡はどうなっているのかと周辺を歩いてみると、いくつかの遺跡があり、現在も発掘作業が行われていました。

発掘調査中のローマ遺跡

 世界遺産の円形闘技場を基点に西方約1キロの範囲内で、ローマ遺跡が点在しています。見た目には目立った構造物はありませんが、かなり広範囲にわたって発掘作業が進められているようです。私は、ローマ時代の住宅の遺構で、モザイクで装飾された床や、柱廊あとを見せてもらいました。一般には公開されていないようです。

第2闘技場と子どもたち

土くれのもう一つの闘技場
 そして特筆すべきことは、エル・ジェムの円形闘技場は、世界遺産のほかにもう一つ、いや正確にいうともう二つありました。
 エル・ジェムの駅から線路沿いにスファックス方面にしばらく歩き博物館のあるあたりの線路をはさんで反対側に、規模は小さいけど明らかに円形闘技場の跡が残っています。アリーナに当たる部分は起伏のある地面としか見えませんが、今にも土に還りそうな日干し煉瓦で作られた周辺の構造が、傍目にもはっきりと観客席と見分けられます。保存状態は、世界遺産の円形闘技場とは文字通り「雲泥の差」といえるでしょう。しかもこの土くれの闘技場の下にもう一つ岩をくりぬいて作った闘技場があるというのです。世界遺産の闘技場は3世紀ごろの建造とされていますが、この二つはもっと古く、紀元前に建てられたとのことです。エル・ジェムに行ったら、こちらの闘技場にもぜひ足を延ばしてください。