私が訪ねた世界遺産

ペルセポリス

万国の門

アレクサンドロスとペルシャ帝国
 イランのペルシア湾に近いところにシーラーズという大きな町がありますが、ここから東北約60キロのところにペルセポリスはあります。

 アケメネス朝(紀元前550年~330年)ペルシアのダレイオス(ダリウス)1世によって造られ、アレクサンドロス大王によって破壊された世界史上の大いなる遺産です。イスラム革命で追放されたイランのパーレビ国王は大ペルシアの再現を夢見て、1971年にここでイラン建国2500年祭を開きました。
「ペルセポリス」はギリシャ語からきた呼び名で、古来イランでは「タクテ・ジャムシード」と呼ばれています。

ペルセポリス俯瞰

ノウルーズとペルセポリス
 イランは、現在でこそイスラム教シーア派を国教としている国ですが、イスラム教が浸透する以前は、拝火教(マズダ教・ゾロアスター教)が人々の生活に密着していました。その伝統的な宗教行事の一つに新年を祝うノウルーズがあります。毎年3月21日(春分の日)がその日で、イランの1年はここから始まります。

 ペルセポリスは、ノウルーズを祝う祭典と密接な関係があった宮殿です。

 紀元前6世紀末に、ダレイオス1世の命により建設がはじまりました。アケメネス朝ペルシャ帝国の首都はスーサ(現イラン)にありましたが、宮殿は、夏宮としてエクバダナ(現イラン)、冬宮はバビロン(現イラク)、そしてノウルーズ祭儀を行う宮殿としてペルセポリスが造られました。

大王謁見の図
百柱の間入り口にある「大王謁見図」。左は2000年、右は2010年撮影。

 祭典が行われる時期になると、ペルシャ帝国のすべての支配地域から使節団が貢ぎ物を携えてこの宮殿に集まってきたのです。
 ダレイオス1世の子クセルクセス1世、アルタクセルクセル1世、アルタクセルクセス2世、アルタクセルクセス3世、ダレイオス3世と歴代の帝王がペルセポリスの拡充につとめましたが、紀元前330年、東方遠征途上のマケドニアのアレクサンドロス大王によって宮殿は灰燼にきせしめられ、ダリウス3世はバクトリア(中央アジア)で死亡し、アケメネス王朝は滅亡しました。

ペルセポリス

西アジアの3P遺跡
 私は、2000年、2010年と2度この遺跡を訪れました。たったの10年しか間隔が空いていませんが、2度目は印象が最初のときとかなり異なっていました。世界有数の観光スポットとしてより洗練されてきたといえると思います。エリアは広大のため2度とも上っ面をなでる程度にしか見学できなかったことが心残りでもあります。
 西アジアの3P遺跡は、パルミラ(シリア)、ペトラ(ヨルダン)とこのペルセポリスをさしますが、パルミラがシリア内戦で観光客の入国が不可能となっているいま、ペルセポリスは相変わらず世界中の関心を集めているに違いありません。

万国の門

 遺跡は岩山を背にした高台の上に広がり、おおまかに6区画より成り立っています。すなわち、クセルクセス門の区域、ダレイオス1世の謁見の間、宮殿跡、百柱の間、宝物殿跡、そして磨崖の王墓区域です。

 遺跡に上るための階段を上りきると、いきなり人面有翼獣の像を左右に配した大きな門が現われます。これがクセルクセス門で、「万国の門」とも称されています。正面の人面有翼獣の像は、顔の部分が破壊されていて、右側の像が著しい損傷を受けています。しかし、門を通り抜けると内側に向いた門の両側にも同じ像が左右にあり、こちらは両方とも比較的よく残っています。

アパダナ宮殿跡

アパダナ宮殿
 ダレイオス1世の謁見の間は、アパダナ宮殿とも呼ばれています。この宮殿に上るための階段が北側にありますがその側壁面に見事なレリーフが刻まれています。特に外国の外交使節や属国の朝貢使節の行列が描かれているので、2300年前のさまざまな民族の文化・風俗を知る手がかりとなっています。
 そしてその壁面の左右(階段スロープの壁面)には、牡牛と闘うライオン像が刻まれています。こうしたレリーフは、アパダナ宮殿の東側の階段にも描かれています。特に東側は保存状態がたいへん良いので、屋根で覆って保存に気が配られています。

タチャラ宮殿跡

 ペルセポリス遺跡の南西の一角には、各時代の帝王の宮殿跡があります。ダレイオス1世の宮殿、クセルクセス1世の宮殿、アルタクセスクセス3世の宮殿です。ダレイオス宮殿の階段や土台石の壁面にはやはり数多くのレリーフが刻まれています。

百柱の間

 百柱の間は、アパダナ宮殿の東側に位置しています。一辺が約70メートルのほぼ正方形の大広間は、縦横各10本の柱列が整然と並び宮殿の天井を支えていました。さらに玄関にあたる北側には、東西8本の柱が2列に並んでいたようです。広間への入り口は東西南北にありました。現在は、それぞれレリーフが施された門を見ることができます。大広間の百柱の大部分は破壊され、規則正しく並んだ柱の台座が往時を偲ばせてくれます。

レリーフ

世界史上の大遺跡
 私が2度目に訪れた時は、夕刻の太陽が南面にあったレリーフを鮮やかに浮き上がらせてくれ、あらためてその技術に感銘を受けました。

有翼獣

 宝物殿跡は、東側の山の麓にあります。その広さは、1ヘクタール以上あります。アレクサンドロスはペルセポリスを陥落させた後、1万頭のラバと5千頭のラクダでペルセポリスの宝物を略奪したとプルタルコスは書いています。想像を絶する富がペルセポリスに蓄えられていたことでしょう。

タチャラ基壇レリーフ


 遺跡の背後の山の中腹には、岩を削って作られたアルタクセスクセス2世の墓があります。このテラスからは、遺跡全体を俯瞰することができます。また、その南方の中腹にも、やや小規模ながら、王族の墓があります。
 私はかつて2度ペルセポリスを訪れました。最初は世界遺産サイトとはいえ、設備自体が十分ではなく、観光客はほぼどこでも自由に立ち入ることができました。しかし2度目は、整備された観光地という印象でした。切符売り場や、トイレ、駐車場がきちんと設置され、遺跡内の表示板や立ち入り禁止区域も明示されて、世界遺産への配慮を随所に窺うことができました。
 世界史上では人々の記憶に長くとどめたい重要な遺跡なので、これからも多くの観光客が押し寄せるのは間違いありません。イラン政府の保全活動におおいに期待したいところです。

基壇楔形文字