私が訪ねた世界遺産

ネムルート・ダゥ

ネムルート・ダゥ

山頂の陵墓ネムルート・ダゥ
 ネムルート・ダゥは、トルコの東アナトリアのほぼ中央にあります。南にはアタチュルク湖という巨大な人工湖が控え、その北のギュネイドウトロスラル高原の山中にある遺跡です。高原といってもそこは2000メートル級の山嶺が連なる山岳地帯で、ユーフラテス川の源流域です。ネムルート・ダゥはその山々の一つで、その頂上に陵墓があります。

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アクセスが難しい遺跡
 ダゥとはトルコ語で「山」という意味ですが、ネムルート山の標高は2150メートルあり、頂上の50メートルは大人のコブシほどの大きさの石を円錐状に積み上げた人工の山で、コンマゲネ王国の王アンティオコス一世の陵墓と考えられています。  私は、2010年にディヤルバクル方面から来て湖を渡り、ようやくたどり着いてこの遺跡を見学することができました。  標高2000メートルまで行くと遺跡への入り口があり、そこまでは車で行けますがそこからは徒歩で15分くらい石畳の山道をのぼります。するとまず東側のテラスに出ます。そこには、首だけが東側の山々に向いた彫像が整然と並んでいます。その上のほうには、それぞれの彫像の首のない台座がやはり東を向いて据えられています。

山の斜面に小さな礫

不思議な空間
 西のテラスに回ると同じように動物や人間をかたどった首だけの彫像が不規則に西側に向けて立っています。  つまり高さ約50メートルの陵墓を中央に東西にテラスをしつらえ、それらのテラスには人間や動物の彫像がならんでいるというのがこの遺跡の概観です。  これらの彫像は、アンティオコス1世自身をかたどったものやコンマゲネをかたどったものと考えられています。鳥やライオンの首などもあります。

西側テラスの彫像群

コンマゲネ王国の歴史
 ユーフラテス川の源流域では、紀元前千年以前にはクムフと呼ばれる都市的な共同体があったと考えられています。時代が下って古代ローマ時代にこの地域にはコンマゲネ王国が成立していました。その首都はサモサタと呼ばれていましたが、現在はネムルート・ダウの南にできたアタチュルク湖の湖底に深く沈んでいます。サモサタばかりかコンマゲネ王国に至るまでの多くの遺跡がいまや湖の下に眠っていて、かつてこの地域にどのような文化が花開いていたのかを探ることを困難にしています。  コンマゲネ王国は、紀元前162年から紀元72年にシリア北部からユーフラテス川の源流域を支配していて、セレウコス朝シリアやローマ帝国からは半独立国家として認められていました。コンマゲネ王国をBC69年から34年まで率いたのがアンティオコス一世です。

アンティオコス1世の像

人を寄せつけない世界遺産
 アンティオコス1世は、自分をアケメネス朝ペルシャのダレイオス1世の子孫と考えていたようです。また同時にマケドニアのアレクサンドロス大王の子孫でもあると主張していたようです。  自分の出自をなぜこのように言い張るのかは、コンマゲネ王国の微妙な立ち位置と関係がありそうです。ペルシャ帝国、セレウコス朝シリアに挟まれながら国を維持していかなければならないということを考えれば、ある時はペルシャにすり寄り、またある時はシリアにすり寄るということが必要だったに違いありません。だから、このネムルート・ダウの彫像には、ペルシャとギリシャ文化の影響を受けているものがあります。一つひとつの彫像の前に立つと、ああこれはギリシャ風だなとか、この動物はペルシャスタイルかなどと納得させられます。

遺跡入り口にある売店

 しかし、陵墓を山の頂上につくるという発想はどこから生まれたものなのでしょうか。  考古学的な調査が始まったのは1953年以後のようです。因みにここが発見されたのは1881年とのことです。  この遺跡へのアクセスは現在もなお難しいと思いましたが、もっとも近い町アドゥヤマンからが比較的便宜がよいと思います。夕日が西の山々に沈むサンセットが観光の目玉になっています。