平泉高館周辺写真集23
  

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平泉周辺の写真をみることによって、高館をめぐる景観の意味について考えてみたい。
(少しずつ増やしていきます。また文章も追加されますので、随時ご覧下さい。)



2003年11月23日撮影

高館からの衣川にいたる景観

高館とは? 衣川とは?
資料1 高 館関係文献集成(佐藤)
資料2 「衣 川誌」(胆沢郡誌ヨリ著)
資料3 「衣 川の和歌」(拾遺佐藤)

  六日市場

六日市場跡から衣川を挟んで南に関山中尊寺を望む
(2003年11月23日佐藤撮影)

衣川の平泉化は避けるべき!!

皆さまご承知のように、衣川は、平泉と衣川という川幅にして10mもないような川を挟んで平泉と境を分けている地域です。この衣川をヨルダン川と表した方 がおられましたが、確かにこの衣川は、エミシとヤマトを分かつ境界線でした。この川を挟んで、エミシの雄安部氏とヤマトの源頼義・義家親子が覇権を争っ て、前九年の役で対峙したのは有名な話です。平泉を建都した清衡は、何故自分の血の繋がった安部一族の都衣川ではなく、平泉を都としたのでしょう。そこに 限りない歴史のロマンがあります。

衣川の地は、歌枕として有名で、多くの歌人によって、歌に詠まれました。古の歌人たちは「衣川」あるいは「衣 の関」と聞くだけで、歌心をそそられ、訪れてもいない衣川を夢見て、歌としました。平泉と衣川は、歴史的にも一帯の場所であるに関わらず、ともすれば、こ れまで平泉にだけ、光が当てられてきた嫌いがあります。

しかし逆に言えば、ここに掲載した写真を見れば一目瞭然なように、開発の進んでいない衣川地域の方が、往時の 栄華を偲んでゆっくりと歩ける風情というものが残っています。かつて日本のどこにもあったような、でもそれでいて何かとても懐かしい景色が、そこかしこに 点在しています。もちろん衣川の河口付近は、堤防工事などで、かなり様相は変化しつつありますが、景観を意識した村造りを実行していけば、素晴らしい地域 になると思います。平泉では、ウォーキングトレイル(遊歩道)のようなものを、人工的に作っているようですが、むしろ何も手を加えず、このままの衣川を見 せて、どんなエピソードがある跡なのかを明示してもらえばそれでいいのです。

今、長者原廃寺跡の発掘が進んでいて、平泉の世界遺産登録の影響が徐々に出始めていますが、必要以上の発掘は せずに、必要最小限で留めるべきでしょう。失われつつある日本の里村の景色がここにはあります。衣川の歌枕のロマンによって、吟行に訪れる歌人や俳人も、 是非行ってみたいと思う地域です。その為にも、観光開発プランは、せっかく残っている景観を最大限活かす形で進めるべきです。世界遺産のコアゾーンなどと いうおよそ、この地域に相応しくない企画に踊らされることなく、腰の据わったプランが必要かと思います。くれぐれも衣川の平泉化は避けて欲しいものです。


 接待館跡
  
接待館跡
(2003年11月23日佐藤撮影)

黄金の都市平泉の全容解明のカギは衣川にある!!

往時の都市平泉は、京都に次ぐ都市で、10万もの人口を抱える大都市であった。しかし今だ、都市平泉の全容が解明された訳ではない。どのように見ても現在 の平泉町の柳の御所を中心とする地域から西方に中尊寺、毛越寺の周辺だけでは、10万の人口を収容することは不可能である。今、都市平泉について解明が 進んでいるのは、中心の一部に過ぎない。その意味で、衣川を挟んで都市の中心部としての平泉の北辺に隣接する衣川地 区の考古学的解明は重要となる。

都市の発展史の流れからいえば、安部氏の築いた衣川こそが、都市平泉の原型と考えられる。清衡は、その衣川というかつての安部氏の開いた都市衣川の文化的 伝統や都市機能を受け継ぐ形で、平泉を建都しようとしたのではないか。おそらく衣川周辺は、前九年・後三年の役の大戦争の直後には、見る影もないほど荒れ 果てていたに違いない。かつてそこには安部一族が絢爛たる居館を構え、その周辺には一族郎等の屋敷が点在し、さらにその周辺には、庶民も居を建てて、美し い黄金の都市衣川が拡がっていた可能性がある。その繁栄を横目でみて、陸奥守兼鎮守府将軍源頼義(988−1075が欲心を起こしたのではあるまいか。そ して前九年の役・後三年の役(奥州大戦争:1051−1087)の火ぶたは切って下ろされたのである。

この奥州全土を巻き込んだ大戦争の終結後、豊田から平泉に居を移した清衡の心には、かつての奥六郡(奥州)の都が戦場となって荒れ果てていたのをどんな思 いで見たであろう。彼は、心を痛めながらも、ふとこの懐かしい衣川を修復し、川を隔てた平泉の地を、平和の都にしようという強い願望が沸々と湧いてきたの ではあるまいか。
そう思って、衣川の川縁に立ってみると、清衡の思いが伝わってきて、西行法師でなくても、どうしようもなく涙が溢 れてくる。

衣川地区の考古学的解明は、都市平泉の全容を解明するための最重要課題である。もちろん都市平泉の広がりの解明のためには、衣 川地区の他にも、瀬原地区(平泉町だが衣川村の北上川河畔に隣接した地域)、長島地区(北上川の東岸部から束稲山にかけての地域)、達谷地区(太田川を遡 る達谷窟あり)や一ノ関の山ノ目地域等々も当然ながら視野に入れるべきである。
でも衣川は、特別なのだ。

接待屋敷は、口承では三代秀衡(基衡の妻)の母君が居住した所とされている。この100mほど西側に奥大道と呼ばれた衣の間道が通っているが、秀衡の母君 は、行き交う旅人に接待したものと言われている。この地域は、調査によって、東西110m南北60mほどの地域と推定されている。秀衡の母君と いえば、観自在王院を創建した女性で、九州に流された安部宗任の娘である。仏教に対し深く帰依した教養高く情け深い女性であり、彼女ならばその位のことは しただろうと思われる。

現在でも毛越寺で、毎年5月4日(かつては旧4月20日)、「哭き祭」(なきまつり)という奇祭が、行われている。祭りは、毛越寺本堂で厳かに読経をした 後、棺を輿に納め、白旗(幡)を先頭にして僧立ちが、泣きながら、数珠を揉み、法螺をふき、唄を謳いながら、観自在王院の阿弥陀堂へと進み、鳴き声のよう な声で読経しながら阿弥陀堂を周囲を三周し、
近くにある母君の墓の前にお参りをするというものだ。かつては 周囲に鳴き声が聞こえるようにして僧たちは泣いたということだ。まさにこれは母君のお人柄を偲んで、当時の 葬列をそのまま模して伝えてきたものだろう。

ちなみに、菅江真澄は、その著「かすむ駒形」の 中で、この哭き祭をこのように描写している。

(原文)また花立山といふ山あり、そは基衡の妻(ツマ)、某(ソレ)ノ年(トシ)の四月(ウヅキ)二十日に身まかり、此室(ヲミナ)もろもろ花を好(スケ リ)とて、其日にあらゆる花を彩作(イロドリ)りて此山(に=脱)さして、室(ヲミナ)のなきがらをその花立山に埋(カクシ)てけるよし。基衡の室(ツ マ)は阿倍ノ宗任ノ女(ムスメ)にして、和歌(ウタ)にも志シふかかりける人にや、木草花をになうめで給ひしといふ。今も四月廿日には僧(ホフシ)あまた 出て、かりに葬(ホフリ)のさまして、目をすり掌を合せ数珠(ズズ)をすり幡を立(テ)、宝蓋(テムガイ)、宝螺(ホラ)、梵唄(ボムバイ)をうたふ。是 を四月の哭祭(ナキマツリ)といふ、もともあやしき祭也。むかしはこの哭(ナキ)祭の日は、知るしらず、僧等(ホフシラ)とともに経をうたひ金鼓(コム グ)を鳴らし、あるは、その声どよむまで、よよと哭(ナキ)しといひつたふ。
<菅江真澄全集第一巻(未来社1971年刊)所収より転載>

(現代語訳)花立山という山がある。それは基衡の妻がその年の四月20日に亡くなったのであるが、このご夫人が生前色々な花を好んでおられたので、様々な 花 を花立山に挿して飾り、亡骸をこの山に埋葬したということである。基衡の妻は、かの安部宗任の娘にして、和歌への思いも大変深い お方で、 木や草花を 特に愛でられたと言われている。今も4月20日の命日には、僧侶が大勢参加して、葬儀のような儀式をして、泣くまねをし、手を合わせ、数珠を揉んで、幡を 立て、天蓋(てんがい)に、宝螺(ほら)を吹き、梵唄(ボムバイ)を歌う。これを称して、四月の哭き祭という。実に奇妙なお祭りである。昔は、この哭き祭 の日には、知る人も知らない人も僧侶とともに一緒になって、経を読み、唄を歌い、金鼓(コムグ)を叩いて、ある人などは、その声がかすれるまで、よよとば かりに泣いたということである。
(訳佐藤)
接待屋敷については、かつて二代基衡の時代に京から下ってきた藤原基成(陸 奥守 鎮守府将軍)が暮らした衣川館との郷土史家の説もある。そうなると源義経が自害した「衣川館」の比定地にも成り得る。また晩年の西行が雪の降る年の 瀬 に平泉にやって来た折りに、まずここに入って身繕いを整えて、衣川の岸辺に向かったことなども想像される。往古の歴史の様々なイメージが彷彿として浮かん でくる場所である。

七日市場跡

七日市場跡から南に関山中尊寺が見える
(2003年11月23日佐藤撮影)


衣川はかつて桜の園だった?!

接待館から100mほど西に進むと七日市場跡に辿り着く。大体衣の関とはこの周辺全体を総称して、そう呼ばれたものではあるまいか。今は道幅わずか3mほ どの小道だが、昔この道は、奥大道と呼 ばれる官道だったと見られている。写真は北を背にして奥大道を写したものである。七日市場の歴史を伝える板碑の背後には、現在栗の木が立っているが、この 辺りには、「関の 桜」と呼ばれた桜の大木が聳えていて、旅人の目を和ませたと伝えられる。この桜は、その昔、南蘇坊(なんそぼう)という全国を行脚僧が、奈良の吉 野山の桜を植樹したと言われている。この他にも、この周辺には、この僧が植えたといわれる桜が多く点在する。琵琶册跡に近 い川の沿岸に、「桜瀬の跡」という地名が残っているが、この桜は安部頼時の時代に遡ると言われている。おそらく、衣川の沿岸を桜並木が美しく彩っていたこ とであろう。往時の奥州の為政者たちの美意識が伺える。あの西行法師が、秀衡の時代に、束稲山の桜を見て、「聞きせじ束稲山の桜花吉野のほかにかかるべし とは」と詠嘆したという話は有名だ。束稲山の桜も、安部氏の時代から培われたものだったかもしれない。その意味で、今後の衣川地域の景観形成には、往時の 「桜の園の古都・衣川の復興」というイメージを念頭にしたプランがもっとも適しているようにと思われる。

写真の道を行くと左に神 明神社(関の明神社)が見える。道の先には衣川が流れてい て、川には「たたら石」と呼ばれる4個の大石が川を横切ってほぼ等間隔に並んでいる。かつてはこの石を伝って、中尊寺側に渡ったものと言われている。安部 氏の時代には、この周辺全体が衣の関で、この道を挟んで、宿場が並んでいたという説もある。奥州藤原氏の時代には、この周辺が更に発展し、市なども立つよ うになったのであろうか。



奥大道から三峯山を望む

奥大道から三峯山を望む
(2003年11月23日佐藤撮影)


三峯山は標高130mほどの里山だが、6つの神社(三峯神社月山神社、熊野 神社、荒沢神社、 幸ノ神社、和我叡登拳神 社)が社を構える聖地である。衣川のどこに立っていても、三峯山の美しい稜線を望むことができる。自然に手を合わせてしまう感じがする。ま さに三峯山は、聖地にして衣川のランドマークである。その麓には、衣の関跡と言われる場所がある。
 
長者原廃寺跡(伝金売吉次館跡)

長者原廃寺跡(伝金売吉次館跡)
(2003年11月23日佐藤撮影)


金売吉次の伝承の意味すること?!

長者原廃寺跡は、 伝承であるが、あの伝説の人物金売吉次の館の跡と言われてきた。一六才の源義経を鞍馬寺から連れ出し、奥州藤原氏に引き合わせたあの謎の金商人「金売吉次」 である。この人物については、弁慶同様、架空の人物という見方もある。この人物に絡んでは、栗原郡の金成町に金田八幡神社(東 館)があり、昔から金売吉次の館跡と言われてきた。金成の地は、地勢的いっても平泉を守最前線地域である。近くには、吉次の父と言われる炭焼藤太夫妻の塚 の跡が残っている。これは金鉱発掘に従事した一族が、金という希少金属に発掘とその貿易に携わることによって、奥州藤原政権の重要な役職に就いていった過 程が見て取れるのではあるまいか。今日の金売吉次という人物の伝説には、確かに伝説に伝説が折り重なって、虚実ではないかと思えるような箇所も多い。しか し虚偽の塵を丹念払いつつ、その足跡になる遺跡や古文書などを追っていけば、吉次という人物が実在したことはほぼ間違いないのではないかと思うのである。

長者原廃寺跡は、戦後の発掘調査(昭和33年岩手県教育委員会)により、平泉の仏閣遺構に先行する寺院の跡ではないかという見方がなされるようになった。 安部氏の時代に、この長者原には、もしかすると国分寺に匹敵するような伽藍が立ち並んでいた可能性がある。その後、前九年後・三年の役のには、激しい戦乱 に巻き込まれ、紅蓮の炎に焼かれて廃墟となったいたであろう。この地を幼い記憶のなかで、覚えていた初代清衡にとって、この場所は、きっと特別の場所で あったに違いない。この場所は、東西55間、南北48間の段丘状の平坦地である。現在は田んぼとなっているが幾つかの礎石も見える。
も しも、この地を初めて訪れた者が、衣川のどこに中心になる寺院を建てるした場合、まず第一番にこの長者原廃寺跡を上げるのではなかろうか。それほど、この 場所は、地勢的にもあらゆる条件が整った場所である。この地に「長者原」という地名が残り、金売吉次が住んでいたという伝説が生まれた背景には、おそらく 奥州藤原氏以後にも、この地の為政者や財を成した人間が、皆この地に居を構えようとしたことが原因ではないかと考えられる。要するにここは縁起の良い長者 原なのである。また長者原という名には、かつての「宿駅」が置かれていた場所の名残とも考えられる。

ここに立って四方をみると、衣川という地が特別の地であることがわかる。衣川の流れは、長者原を守って、岸辺に高い断崖を備え、敵軍の侵攻を防ぐ天然の要 害なる。真南を見れば、関山中尊寺が在り、東には束稲山の山並みが、屏風のように凛として聳えている。西の遙か彼方を望めば、霊峰栗駒山がコニーデの美し い山並みを南北に伸ばしている。西南には、衣川に遷座された神々が鎮座する聖なる山三峯山が見える。
長者原から200mほど話され た衣川の岸辺付近には、渡船場跡(とせんばあと)と言われるかつての船着き場と見られている桟橋遺構が発見されている。桟橋の幅は約17mほど、張り出し は約4mほどである。またこの遺跡より300mほど川下には江戸時代のものと見られる御蔵場遺跡も存在している。

金売吉次という人物は、この場所
より金やアザラシの皮などの奥州の特産物を山のように積んで、京に向かいその帰りには、仏像やら焼 き物や着物などを積んで往来していたのではなかろうか。したがって、この金売吉次は、これまで言われてきたように単なる商人という よりは、奥州政権の財務大臣兼外務大臣のような重要な使命を負って活躍した人物ではなかったかと思われるのである。今での京都の西陣近くには、吉次の京都 の館跡との伝承のある首途八幡神社」(かどでは ちまんじんじゃ:上京区知恵光院通居今出上ル桜井町)という場所がある。この社の「首途」(かどで)の名の 謂われは、義経が、ここから吉次と共に奥州に首途(旅立った)したと伝えられていることから付けられた名と言われている。

いずれにしても金売吉次は、衣川の長者原の地を起点として、奥州から金やその他の貴重な物産を運び、逆に京都の物資を奥州に運んでい た可能性は高いと思われる。




並木屋敷跡から衣川のランドマーク三峯山を望む

並木屋敷跡から衣川のランドマーク三峯山を望む
(2003年11月23日佐藤撮影)






月山橋から衣川上流を望む

 

月山橋から衣川の上流を見る
(2003年11月23日佐藤撮影)

冬の衣川

冬の衣川
(2001年12月30日佐藤撮影)



小松柵跡

小松の柵跡
(2003年11月23日佐藤撮影)






衣の関跡

衣の関跡
(2003年11月23日佐藤撮影)



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2003.11.25
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