第一稿

藤原基成の研究

1.謎の人物・基成の出自

藤原基成という不思議な人物がいる。どこかで聞き覚えがあるようなないような。実はこの人物こそ奥州藤原氏の隆盛と衰退を一番近くで見た人物である。その意味でこの人物を追うことは、そのまま奥州藤原氏が何故いとも簡単に滅亡してしまったか、という謎を解く鍵となる。

基成はおよそ永久年間から保安年間(1113〜1123年)の頃に、藤原北家道隆(みちたか)の流れをくむ家に生まれた。父は白河院の近臣大蔵卿藤原忠隆の息子である。

尊卑分脈によれば、忠隆には男女合わせて10名(男8、女2)の子供がいた。この中で注目しなければならない兄弟がいる。腹違いの弟の隆頼と信説である。この二人は、平治の乱(1156年:注1)の首謀者の源義朝や藤原信頼に加担し、失脚した人物である。特に隆頼の方は、尊卑分脈にも「平治元年12月28日京都六条河原で首を刎ねられた上に大路に晒されたとはっきり記されている。時に27才の若さであった。この事件によって、源氏は凋落し、清盛率いる平家が全盛期を迎えるのであった。またこの事件は、基成の精神性を語る上では、外すことの出来ないエピソードであると思う。

さて妹二人の妹のひとりは、関白藤原基実注2)の正室となって、後の関白藤原基通注3)を生み、もうひとりの方は、藤原隆季に嫁いで、後の権大納言隆房を為している。このことから基成という人物が以下に院政の時代にあって、かなりのレベルで権力の中枢に顔の利く位置にいたかが知れると思う。

2.若き基成、奥州に赴任

さてこのようなエリートを地でいくような30歳〜40歳前後の基成が、康治2年4月(1143年)、「陸奥守藤基成を以て鎮守府将軍に任ず。従五位の上に叙す」(本朝世紀)として、奥州藤原氏二代目基衡が居を構える平泉に入ることとなった。この時、平泉の都は、初代清衡が江刺郡豊田館から平泉に平泉に館を移して、また40年近くしか経っておらず、まだまだ平泉の都は建設途上であったはずだ。このような新しい奥州の都を訪れた中央のエリートの官僚基成の感慨は、いかばかりであったろう。いかに鎮守府将軍とは云え、都育ちの若い男にとって、新しい都とはいえ5年(1143年〜1148年)も奥州の片田舎で暮らすことはかなりの抵抗もあったはずだ。

3.奥州の二代目基衡のこと

この頃平泉の政治的な地位は、二代基衡の御世となりかなり安定してきた時代だった。基衡は初代清衡亡き後(1127年)兄弟との相続争いに勝利して十数年が経っており、彼の年齢はおそらくこの時、働き盛りの37,8歳の時であったはずだ。

ところが基衡は、この少し前に奥州藤原政権が中央政権との軋轢の中では、政治力がなければ駄目なことを痛感させられる事件に遭遇した。それは1140年の佐藤季春事件である。基衡は、南奥州の防御の要として信夫郷飯坂大鳥城に、佐藤季春を信夫の荘司として派遣していた。彼は藤原北家藤原秀郷の流れをくみ、奥州藤原氏累代の重臣であり、基衡とは乳兄弟で幼なじみでもあった。そこに基成の前任者である陸奥守鎮守府将軍藤原師綱(もろつな:赴任1139年〜1143年頃)が、奥州藤原氏の資金の元である荘園の徹底調査をしようと、信夫郷に検察使をし向けて徹底調査を試みようとした。基衡の命を受けていた季春は、その検察使の非礼な態度に怒ったのか、武力をちらつかせて追い返してしまった。さてこれに激怒したのが、新陸奥守師綱であった。この件により基衡も、中央政権に対して立場を危うくし、忠臣の季春は、御館(みたち)基衡と奥州政権を守ろうとひとり自分が罪を背負って、恭順の態度を示し、「これは偏に、私の不始末。主人基衡に罪はございません」とやった。これにいたく心を痛めた基衡は、砂金一万両さらに様々な宝物を師綱に用意して、忠臣季春を救おうとしたが、一族5人は斬首となってしまった。この季春について尊卑分脈は、触れてはいないが、後の源義経の身替わりとなって忠義を尽くした佐藤継信、忠信兄弟の父佐藤基治の祖父ではないかと想定されている。この逸話は、「十訓抄十巻」や「古事談四巻」に記載されており、奥州藤原氏の権力の成長過程を良く物語て面白い。この事件によって、基衡は政治力、つまり中央政権とのパイプの必要性を痛感したに相違ない。こうなると基成が、基衡によって、思いの外、厚遇され、居心地のよい赴任になったことは想像に難くない。

4.基成奥州になじむ

さて当の基成は、陸奥守の立場を久安4年(1148年)に一度解かれ、久安6年再び陸奥守の地位に復任した。この間でも、奥州と中央政府の左大臣藤原頼長との間では年貢増徴をめぐる争いが絶え間なくあり、基成はその間に入って、仲介の労をとったと見られている。そのことによって、基成は平泉政権にとってなくてはならぬ存在となり、仁平3年(1153年)陸奥守を辞任した基成は、都に帰り、宮中の競馬には奥州の馬を率いて参加したと伝えられる。基成以後は、基成の甥の藤原隆親(たかちか)が陸奥守の地位に就いた。このように考えると基成の陸奥守の赴任期は前後10年の長きに渡ったことになる。しかし基成は、これ以降も奥州の政治顧問のような立場となって、奥州に残ったとされる。しかも基成は、基衡の嫡男秀衡(1120年頃〜1187年)に自分の娘を嫁がせ、後に彼女は運命の子泰衡(1154年頃〜1189年)を生むこととなる。

この頃になると、奥州の基衡政権は盤石となり、毛越寺は第二期工事に入るなど、平泉の黄金文化はいよいよ隆盛となった。

5.基衡の急逝

しかし突然の急変が平泉と基成を襲った。保元2年(1157年)平泉の御館基衡の急死である。この時おそらく基成は44〜54歳位の年齢だったと思われる。また突然新しい御館の重責を負った秀衡は38歳前後であった。秀衡にとっても、年齢が近いとは云え岳父基成の存在は非常に大きなものだったはずである。一方基成も、この奥州は自分が支えなければというような強力な自負心と愛着のような観念が形成されていったと思われる。

保元3年(1158年)には、基成の義弟(妹の夫)基実が関白となり、奥州政権は、基成のコネクションの元に強力な閨閥を形成したことになった。

一方、奥州に厳しい態度を貫いてきた基衡の宿敵の左大臣頼長は兄の関白忠通との政争に敗れて、権力の座から滑り落ちていった。しかしこれに不満を募らせた頼長は、兄関白忠通の推した後白河天皇に納得のいかぬ崇徳上皇と結び、源為義、平忠正を誘って保元の乱を起こすに至るのであった。

この時基成には、予期せぬ痛恨の不幸があった。というのは二人の実弟信頼が平治の乱(1159)で逆賊として誅殺され、実子の隆実も一味とみられ官職を失い、奥州に下ってきたのである。以降基成は中央政権に対して距離をおいた考え方をとるようになったと考えられる。この事は直に基衡の舵取りにも影響を与えて、中央政権に対抗する政治的な志向を強めていったと考えられる。

6.基成奥州政権に隠然たる力を持つ

さて基成以降の都から鎮守府将軍、陸奥守は、基成という権力の下にある傀儡(かいらい)のような存在であったと考えられる。このことは奥州政権としては非常に統治しやすい形態ではあるが、荘園の発展その富の蓄積過程においては、動きの少ない支配形態であり、後に板東武者の上に祭り上げられた関東の鎌倉政権に簡単に敗北を期してしまう遠因ともなるのである。つまり古代の支配形態が一向に崩れないところに奥州政権の限界が見えるのである。

この間、早50年以上も戦もなく、奥州は軍事的な面でも、実践経験のある武将達が次々と亡くなり、兵法は現代の日本と同じで、軍事訓練と文書の上だけの古ぼけたものと化していったこともあっただろう。

とりあえず、基成以降(1153年)から藤原秀衡が嘉応2年(1170年)に鎮守府将軍になり、さらに養和元年(1181年)宿願の陸奥守となるまでの、鎮守府将軍と陸奥守を挙げておこう。

氏名   任命年代             任期     基成との関係

藤原隆親 仁平2年(1152〜)     任期5年   基成甥

藤原信説 保元2年5月(1157〜)   任期5ヶ月    基成の実弟

藤原雅隆 保元2年9月(1157〜)  任期1年    基成の祖父の息子

源 国雅 保元3年(1158〜)     任期5年   村上源氏、後白河院の力?

藤原長光 長寛元年(1163〜)     任期5年    藤原式家末裔奥州下向せず?

藤原成房 仁安3年(1168〜1173) 任期5年   藤原南家、後白河院の力?

1173〜1176まで陸奥守不在     不在3年  

藤原範季 安元2年(1176〜1179) 任期4年   藤原南家後、白河院近臣 

1179〜1180まで陸奥守不在     不在1年

藤原実雅 治承4年(1180〜)      任期1年   北家後白河院の力、下向せず?

藤原秀衡 養和元年(1181〜1187)任期6年

 

このように見ていくと、奥州の政権が、どのようなルートを以て、中央の権力にコネクションを持つに至ったかが明らかになる。奥州政権は、保元の乱以降、基成の血縁の力により、後白河院にすり寄ることに神経を使っていることは明白である。しかも後白河法皇が院政を敷いた保元3年以降関白となったのは、基成の甥の基実である。様々な問題があろうと、どうにでもなる位の自信を持ち、海千山千の政治家になった基成の姿は想像に難くない。それと共に奥州における鎮守府将軍と陸奥守の地位は、徐々に有名無実化していった。その結果、まず鎮守府将軍の地位が、奥州の御館である秀衡に嘉応2年(1170年)授けられることとなり、宿願であった陸奥守はそれから11年後の養和元年(1181年)、ついに秀衡の手に渡ったのであった。

基成は、こうして平泉政権と中央を結びつける要の役割を果たし、奥州政治の基礎を構築したのである。

7.義経の奥州入りにもちらつく基成の影

さて基成の血縁によるネットワークの成果と思われる源義経の奥州入りについて触れておこう。周知のように義経の母常磐御前は、平治の乱で夫源義朝が殺されると、今若(全成)乙若(円成)牛若(義経)という三人の幼子を連れて雪の山道を落ち延びていったが、実母が囚われているとの噂を知って、勝者清盛の前に自首をする。その後彼女の美貌と決死の覚悟が幸いしたのか、清盛の寵愛を受け、後に大蔵卿藤原長成の妻となり、藤原能成(鷹司三位侍従)を生むこととなる。この夫長成は、基成の父の従兄弟に当たる人間で、妻常磐の意を汲んた夫長成が、基成経由で、奥州に義経引き受けてくれるように打診したのではという説がある。ともかく源義経の奥州行に関しても、少なからず、基成の血縁ネットワークの影がちらつくことは確かである。

義経が、初めて奥州入りしたのは、承安4年(1174年)の時であった。この時、基成は60歳前後、秀衡は55歳前後のことであったはずだ。時は平家全盛の時代であり、政治家基成はともかくとして、秀衡は軍事的な脅威を大きく感じるようになった。この辺りから、秀衡と基成の考え方の違いが、平泉の舵取りに影を落として、次第に退き差しならぬ対立関係として膨らんでいったと推測できる。秀衡は、次第に力を増していく、平氏と源氏の武家の力を意識しながら、義経を抱えることによって、いざという時の旗印のようなものをと考えていたのかもしれない。臣下の礼を以て義経を迎えたのである。ある意味では、秀衡は三国志的な意味で天下三分の計のような軍事バランスを取ることを考えていた。

しかし軍事的な意味では無知に等しい、エリート官僚基成にとっては、院の権威と己の血縁的ネットワークを持ってすれば、何とかなると、ひたすら政治外交による平和の維持を目指そうとしたはずである。

すでに奥州平泉は、退き差しならぬ時代の変化の中にいた。しかし奥州は、依然として古代的な生産様式と経済構造を抱えて、惰眠をむさぼりすぎた。そして遂に板東武者に担がれた源頼朝(治承4年8月17日:1180年)打倒平家の御旗を高々と掲げて立ち上がったのであった。風雲児義経は、熱狂して喜び、秀衡が止めるのも聞かずに、奥州をすぐさま放れて、頼朝の下に走って云った。秀衡は、累代の忠臣佐藤基治の二人の息子を継信と忠信他数十名の部下を付けて、義経の首途を見送ったのであった。はじめ互角と思われた源平の戦は、義経の軍事的天才もあって、一ノ谷合戦(元暦元年:1184年2月7日)で大敗した平家は、四国の屋島に逃れ、再起を期したが、その一年後、屋島の合戦(文治元年(1185年2月19日)でまたも義経の奇策もあって敗れ、ついに壇ノ浦の合戦(同年3月24日)滅亡してしまうのであった。

しかし最大の功労者と目される義経は、頼朝に内緒で勝手に任官したとの咎(とが)を受けて、いつの間にか追われる身となり、ついには追討の院宣(文治元年11月12日:1185年)まで発向されてしまうのであった。

まさにこれによって、まさに天下三分の計の軍事バランスは完全に崩れて、鎌倉に政権を樹立しようとする頼朝は、御家人と呼ばれる板東の荒武者に褒美のニンジンをぶら下げて、黄金の国奥州を我がものにせんとの欲望を露わにするようになっていく。

文治2年(1186年2月)頼朝は、秀衡に宛てて、「朝廷への貢馬や砂金などを鎌倉経由で送るようにとの無礼きわまる指示の文を出すなど、露骨な奥州政権の揺さぶりをかけて来るに至るのであった。

そしておたずね者となった義経が、必死の思いで文治3年2月(1187年)奥州平泉に着く。すでに義経は、兄頼朝率いる鎌倉勢との戦の基本戦略を提案を持っての平泉入りであった。秀衡もその構想を受け入れて、平泉を取り巻く館の配置や軍事訓練、信夫郷の館や国見の厚賀志山の堀など、戦に備えた体制を整え始める。しかし義経は、秀衡と基成の考え方が相違していることに着目して、基成に密かに密書を含めた文書を盛んに送って奥州の権力構造の分断を画すこととなった。そしてその最中で、秀衡は薨去してしまう。時に文治3年10月29日のことであった。この秀衡の急死には、大いなる謎がある。暗殺の疑いもあるとの風説も昔から、誠しやかに囁かれており、強ち虚構とかたづけるには、説得力が有り過ぎる突然過ぎる死であった。

目を落とす時、秀衡は、兄弟仲良く、義経を中心に据えてまとまれと遺言を云い、長男國衡には、自分の現在の妻である基成の娘を國衡の妻として渡した。もちろんこの女性は、泰衡の奥州四代目を嗣ぐことが決まっている泰衡の母でもある。いったいどんな思いで、秀衡は自分の息子達に諭したのであろうか…。

「秀衡死す」この情報は、直ちに鎌倉にもたらされ、そこで頼朝は完全に攻撃目標を、基成に向ける。以下は、吾妻鏡における基成にまつわる記事である。

頼朝はこの基成と泰衡宛てに盛んに義経を討てと、露骨な揺さぶりをかけるのであった。

 

8.吾妻鏡に見る藤原基成

資料

@文治四年二月廿一日
義経を召し取れとの宣旨下る
宣旨 出羽守藤原保房言上仰東海東山両道国司并武勇輩被追討其身源義経及同意者等乱入当国以毀破旧符偽号当時 宣旨致謀叛事。仰。件義経忽図逆節。猥乖憲条。然間。神明垂鑑。賊徒敗奔。仍仰五畿七道諸国。慥可索捕之由。 宣下先訖。爰義経無所容身。逃下奥州。歪先日之毀符。称当時之詔命。相語辺民。欲令野戦云云。件符者。縡不出従叡襟。自由之結構。武威之所推也。因茲可毀破之由。即被下 綸旨畢。何以其状。今欲遵行哉。奸訴之趣。責而有余。加之如風聞者。前民部少輔基成。并秀衡法師子息泰衡等。与彼梟悪。既背鳳銜。虜掠陸奥出羽之両州。追出国衙庄家之使者。普天之下。寰海之内。何非王土。誰非王民。争存違勅。可同暴虐乎。而隠居凶徒。令巧謀叛。倩憶所行之体。殆超造意之首。但泰衡等。無同心儀者。且召進義経身。且受用庄公使。猶不拘朝章。争可免天譴哉。不日遣官軍。共可致征伐也。件等輩。早変容隠之思。宜抽勲功之節。縦云辺胡。更莫違越。蔵人右衛門権佐平棟範

院庁下 陸奥出羽両国司等 応任 宣旨状令前民部少輔藤原基成秀衡法師男泰衡等且召進義経身且受用国司及庄役使等事 右。源義経并同意輩闌入当国。更以毀破旧符。偽号当時 宣旨。致謀叛之由。出羽国司勒在状経言上。仍就彼状。被下 宣旨既畢。基成泰衡等。縦如風聞之説謬与狼心之群。勅命是重。慥改前非而守宣下状。召進義経身。件義経尋前咎後過。雖載 綸旨。積悪之余。天譴臻。奸謀無成。空以敗亡之後。窃捧毀符。遁赴奥州云云。誠雖云辺民之至愚。争可随奸心之余党哉。加之秀衡法師息子等。不顧責於幽顕。只寄事於左右。陸奥出羽両国吏務。自由抑留。追却使者。結構之趣還渉疑慮。事若実者。被処謀叛之同罪。令官軍以征伐。若鸞鳳銜。捕搦螫賊者。随其勲労。須有優賞之状。所仰如件。両国司等宜承知勿違失。故下。 文治四年二月廿六日 主典代織部正大江朝臣 

別当左大臣藤原(経宗) 判官代河内守藤原朝臣(清長) 右大臣藤原(実定) 民部少輔兼和泉守藤原朝臣(長房) 大納言源朝臣(定房) 左近衛権少将藤原朝臣(公国) 大納言兼右近衛大将藤原朝臣(実房) 散位藤原朝臣 権大納言藤原朝臣(兼雅) 紀伊守藤原朝臣 権大納言藤原朝臣(忠親) 土佐守藤原朝臣 権大納言藤原朝臣(実家) 勘解由次官平朝臣(宗隆) 権中納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣(朝方) 右衛門権佐藤原朝臣(定経) 権中納言藤原朝臣(実宗) 右少弁藤原朝臣(親経) 権中納言兼右衛門督藤原朝臣(頼実) 防鴨河使左衛門権佐平朝臣 権中納言藤原朝臣(定能) 木工頭藤原朝臣 権中納言源朝臣(通親) 左少弁藤原朝臣(親雅) 権中納言権大宰権帥藤原朝臣(経房) 権中納言藤原朝臣(兼光) 参議備前守藤原朝臣(親信) 参議左大弁兼丹波権守平朝臣(親宗) 参議左兵衛督藤原朝臣(隆房) 右京大夫兼因幡守藤原朝臣(季能) 宮内卿藤原朝臣(季経) 内蔵頭藤原朝臣(経家) 右近衛権中将播磨守藤原朝臣(実明) 修理大夫藤原朝臣(定輔) 修理右宮城使右中弁平朝臣(基親) 造東大寺長官権右中弁藤原朝臣(定長) 修理権大夫藤原朝臣(頼輔) 丹波守藤原朝臣(長経)

A文治4年8月9日
基成と泰衡が義経を匿っていることに対する沙汰が遅滞していること
八月大。九日壬申。台嶺悪僧等同意予州事。前民部少輔基成并泰衡隠容同人於奥州事。御沙汰頗遅怠。急速可令申達給之由。被仰右武衛云云。

B文治4年10月25日
義経を召し取れとの宣旨
廿五日丁亥。可追討予州之由。 宣旨状案文到着。於正文者。官史生可持向奥州云云。 文治四年十月十二日 宣旨 前伊予守源義経。忽挿奸心。早出上都。恣巧偽言。渉赴奥州。仍仰前民部少輔藤原基成。并秀衡子息泰衡等。可召進彼義経之由。被下 宣旨先畢。而不恐皇命。猥述子細。普天之下。豈以可然哉。加之。義経当国之中廻出之由。慥有風聞。漸送月緒。委加捜索。定無其隠歟。偏与野心。非軽 朝威哉。就中泰衡。継祖跡於四代。施己威於一国。境内之俗。誰不随順。重仰彼泰衡等。不日令召進其身。於有同意之思者。定遺噛臍之恨歟。専守鳳銜之厳旨。不同梟悪之誘引。随其勲功。賜以恩賞。若従凶徒。猶図逆節。差遣官軍宜令征伐。王事靡監。敢勿違越。 蔵人右衛門権佐藤原朝臣定経

C文治4年12月11日
義経追討の院の下文
十一日壬申。予州追討事。被下 宣旨之上。相副 院庁御下文。官史生守康帯之。赴奥州。今日参着。召入于八田右衛門尉宅。賜喰禄。亦彼御下文被披之。其詞云。 院庁下 陸奥出羽両国司等 可早任両度 宣旨状。令前民部少輔藤原基成并秀衡法師子息泰衡等不日召進源義経事 右。件義経。可令彼基成泰衡等召進之由。去春忝被下宣旨并院宣之処。泰衡等不叙用 勅命。無驚 詔使。猥廻違越之奸謀。只致披陳於詐偽。就中。義経等猶結群凶之余燼。慥住陸奥之辺境云云。露顕之趣。風聞已成。基成泰衡等。身為王民。地居帝土。何強背鳳詔。盍可与蜂賊哉。結構若為実者。縡既絶篇籍歟。同意之科。責而有余。慥任両度 宣旨。宜令召進彼義経身。若猶容隠不遵符旨者。早遣官軍。可征伐之状。所仰如件。両国司等宜承知勿違失。故下「云云」。 文治四年十一月日 主典代織部正大江朝臣 

別当左大臣藤原 判官代河内守藤原朝臣 右大臣藤原 右衛門権佐兼和泉守藤原朝臣 大納言兼左近衛大将藤原朝臣 摂津守藤原朝臣 権大納言藤原朝臣 左近衛権少将藤原朝臣 権大納言兼右近衛大将藤原朝臣 少納言兼侍従藤原朝臣 権大納言藤原朝臣 勘解由次官平朝臣 権大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣 権右中弁藤原朝臣 権大納言藤原朝臣 右少弁兼左衛門権佐藤原朝臣 権中納言藤原朝臣 左少弁平朝臣 権中納言兼右衛門督藤原朝臣 右中弁藤原朝臣 権中納言藤原朝臣 権中納言源朝臣 権中納言兼大宰権帥藤原朝臣 権中納言藤原朝臣 参議藤原朝臣 参議左大弁兼丹波権守平朝臣 参議左兵衛督藤原朝臣 右京大夫兼因幡権守藤原朝臣 宮内卿藤原朝臣 内蔵頭藤原朝臣 右近権中将兼播磨守藤原朝臣 修理大夫藤原朝臣 大蔵卿兼備中権守藤原朝臣 造東大寺長官左中弁藤原朝臣 修理権大夫藤原朝臣 丹後守藤原朝臣

D文治5年3月20日
義経追補泰衡の請文を進す
廿日壬戌。亥剋。右武衛使者参着。被献消息。去十三日状。去九日。奥州基成朝臣并泰衡等請文到来。可尋進義顕(義経のこと)之由載之。

E文治5年閏4月30日
義経、泰衡に襲われて自殺す
卅日己未。今日。於陸奥国。泰衡襲源予州。是且任 勅定。且依二品仰也。与州在民部少輔基成朝臣衣河館。泰衡従兵数百騎。馳至其所合戦。与州家人等雖相防。悉以敗績。予州入持仏堂。先害妻廿二歳。子女子四歳。次自殺云云。 前伊予守従五位下源朝臣義経。改義行。又義顕。年卅一。 左馬頭義朝朝臣六男。母九条院雑仕常盤。寿永三年八月六日任左衛門少尉。蒙使 宣旨。九月十八日叙留。十月十一日拝賀。六位尉時不申畏。則聴院内昇殿。廿五日供奉大嘗会御禊行幸。元暦元年八月廿六日賜平氏追討使官符。二年四月廿五日賢所自西海還宮。入御朝所間供奉。廿七日 補院御厩司。八月十四日任伊予守。使如元。文治元年十一月十八日解官。

F文治5年5月22日
奥州の飛脚、義経の誅戮を報ず、また頼朝が基成宿館で義経を誅殺されたことを京に報告
廿二日辛巳。申剋。奥州飛脚参着。申云。去月晦日。於民部少輔館誅与州。其頸追所進也云云。則為被奏達事由。被進飛脚於京都。御消息曰。去閏四月晦日。於前民部少輔基成宿館。奥州。誅義経畢之由。泰衡所申送候也。依此事。来月九日塔供養。可令延引候。以此趣。可令洩達給。頼朝恐恐謹言。

G文治5年8月25日
泰衡は逃げて、基成親子捕虜となる
廿五日壬子。泰衡逐電之間。分遣軍兵於方方。雖被捜尋之。未知其勢存亡。仍猶可追奔奥方之由。有其定。今日遣千葉六郎大夫胤頼於衣河館。召前民部少輔基成父子。胤頼欲生虜彼等之処。基成不及取兵具。束手為降人。然間相具之参上。子息三人同従父云云。

H文治5年9月3日
泰衡、河田次郎に討たれる
三日庚申。泰衡被囲数千軍兵。為遁一旦命害。隠如鼠。退似ゲキ。差夷狄島。赴糟部郡。此間。相恃数代郎従河田次郎。到于肥内郡贄柵之処。河田忽変年来之旧好。令郎従等相囲泰衡梟首。為献此頸於二品。揚鞭参向云云。 陸奥押領使藤原朝臣泰衡。年卅五 鎮守府将軍兼陸奥守秀衡次男。母前民部少輔藤原基成女。 文治三年十月。継於父遺跡為出羽陸奥押領使管領六郡。

I文治5年9月26日
基成父子鎌倉に召される
廿六日癸未。囚人前民部少輔基成父子四人。雖須被召具于鎌倉。非指勇士之間。不及沙汰。且其子細被申京都畢。仍暫被宥置之。追可有左右之旨。被仰含云云。

 9.基成晩年の哀れ

さてこのようにして、基成は、何とか奥州平泉を守り、自分の孫泰衡を守ろうとしたが、その夢は叶わなかった。この最後の文章の何と哀れなことか、それによれば、

”基成父子4人は、囚われの身となって鎌倉に送られ、さしたる勇士でもないので沙汰には及ばず、しばらくこのままにして置いていいのでは・・・”と、ある。おそらく頼朝が、そのように沙汰を下したのであろうか。

* * * * *

男(勇者)としての扱いも受けられず、頼朝の対後白河院用の外交カードのひとつと成り下がり、ただ頼朝の意のまま、その恩情にすがって生きながらえるいるその人生の、何と悲しいことか。それ以降、基成とその家族の消息は、歴史から姿を消すこととなる。

ここからは想像である。謎の人物基成は、辱めを受ける覚悟を持って、後白河院のいるふる里京都に帰ったのであろうか。それともあくまでも頼朝の恩情にすがって、屈辱の余生を過ごしたまま、鎌倉で命を終えたのであろうか…。

 


注1:平治の乱:1159(平治1)に京都で起こった内乱。保元の乱後、後白河天皇の親政、院政と続いたが、戦効のあった平清盛と源義朝との間の対立が深刻となり、清盛は藤原通憲と結び、一方義朝は通憲と不和の藤原信頼と結んで清盛を打倒しようと、清盛が熊野詣でに行った隙を見計らって、通憲を殺し、後白河院を幽閉するに及んだ。しかし素早く六波羅に戻った清盛は、信頼と義朝を討ち、ここに平氏の勢力は絶大なものとなったのであった。(参考・日本史小辞典 山川出版社) 

注2:藤原基実:1143〜1166。近衛家。父は藤原忠通。母は源国信の女。5摂家の一つ近衛家の祖。久安六年(1150)に正五位下に叙し、左近衛少将に任ず。以後累進して、保元2年(1157)正二位・右大臣となり、翌年一六歳で二条天皇の関白となる。その背景には父忠通と後白河院との蜜月関係がある。永暦元年(1160)には左大臣に昇進。永万元年(1165)六条天皇の摂政となる。しかし翌永万二年二四歳の若さで夭折。(参考・鎌倉室町人名辞典 新人物往来社) 

注3:藤原基通:近衛家。1160〜1233。藤原基実の子。母は大蔵卿藤原忠隆の娘。治承三年(1179)に関白となる。この異例の昇進の背景には、やはり後白河院の親任と平氏方の意向も働いたとされる。同四年(1180)には、安徳天皇の摂政となる。平氏西走の際には行動を共にせず、後白河院を叡山に逃がし、安徳天皇に替えて、後鳥羽天皇を擁立。一貫して後白河院の意をくんだ行動をとる。文治二年(1186)には、前年に頼朝追討の宣旨を責任を問われて、関白を辞す。代わって九条(藤原)兼実が摂政となる。しかしここでも後白河院の力によって、権力の実質は、まだ基通の手に留められている状態が続いた。これ以降、近衛家と九条家の対立は深刻さを増していくこととなる。建久七年(1196)には、兼実と鎌倉幕府の提携が崩れると、再び基通は関白の座につく。さらに土御門天皇の即位とともに摂政となる。建仁二年(1202)にこれを辞し、承元二年(1208)出家。法名は行理。天福元年(1222)七四歳にて薨去。七四歳。普賢寺摂政、または近衛殿と号す。(参考・鎌倉室町人名辞典 新人物往来社)

参考資料

吾妻鏡(新訂増補 国史大系) 吉川弘文堂 黒坂勝美編 昭和7年

全譯吾妻鏡(二)   新人物往来社 1976年

平泉町史 史料編(一)平泉町史編纂委員会 昭和六〇年

尊卑分脈(新訂増補 国史大系) 吉川弘文堂 黒坂勝美編 昭和32年

日本文化総合年表   岩波書店  1990年

みちのくの古代史 大塚徳郎著 刀水書房 1984年

平泉四代のすべて 七宮洋三編 新人物往来社 1993年

奥州平泉黄金の世紀 角田文衛 他著  新潮社 1987年

藤原秀衡      高橋祟著 新人物往来社  1993年

平安の春      角田文衛著 講談社学術文庫 1999年  


 

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2000.1.23