平泉高館周辺写真集21

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平泉周辺の写真をみることによって、高館をめぐる景観の意味について考えてみたい。
(少しずつ増やしていきます。また文章も追加されますので、随時ご覧下さい。)


2003年11月23日撮影

高館からの景観の変貌を憂う


 

平泉バイパス工事は高館直下に差し掛かった
(2003年11月23日佐藤撮影)

弁慶の屋敷の跡と伝へ聞く辺りに掛かる工事止め得ず



何故、一度着工した公共 事業は止まらないのか?


冬将軍の到来を間近に、平泉バイパス工事は、問題の高館直下の工事に差し掛かっている。工事は、古文書などで、弁慶の屋敷の跡だったと伝えられている付近 に差し掛かっている。少し前まで、ここは北上川の河床だった辺りである。北上川は、この柳の御所から高館山の段丘を境にして、束稲山との間を自由に行き来 した。つまり高館から見えた茫洋とした景色は、北上川という畏敬の自然(神)に対する信仰心が作りあげたものだったのだ。

北上川に限らず、川という存在は、住む者たちに限りのない恩恵であり、それを神とも呼んで崇めたのである。しかしこの神たる自然は、一方では、逆らうもの には容赦のない害をももたらした。例えば、洪水と言えば、今ではイコール水害と単純に解釈されるが、川の領分を間借りして、田んぼとしたり、畑とする者に とっては、毎年肥えた土を運んでくれる大切な恵みそのものだった。

四大文明の発祥をみるまでもなく、あらゆる文明というものは、大河の流域で起こった。それにしても人間はいつの頃から奢った考えを持つに至ったのだろう。 治水にしても、日本には、もともと信玄堤など、自然への畏敬を忘れない優れた治水技術があった。それは人間は、自然の一部であるという謙虚な認識を前提に して行われたある種の自然を敬う思想であった。日本人は、この川への畏敬をもって、川幅をゆったりと取り、支流を大切にし、遊水池や湿原を利し、岸辺に生 える蘆なども川の一部として大切にしたものだった。

明治維新は、日本の川にとって大きな悲劇の始まりであった。欧米流の、治水は、科学技術によって、自然を征服できるという合理主義と進歩主義の権化のよう な考え方に基づいて執り行われた。その為に、川は急速に変化させられた。まず川は、まっすぐにされ、岸辺からは木や草が取り払われ、護岸工事と称して、川 の水路化が推し進められた。その結果、川特に、都市部の川は生態系乱し、川を太古の昔から住処として生き抜いてきた固有の生き物たちが、絶滅し、あるいは その危機に瀕してしまった。

また川の源にある原生林は資源として、計画もなく伐採されたために、川下から次々と土砂が運ばれて、その結果河床はどんどんと高くなって行った。更に科学 を新たな神と崇める人々は、コンクリートのダムなるものを考案設計した。今やダム計画などは、欧米諸国では、堆積する土砂を取り除く術がないとして新たな 計画はス トップ、また徐々にダムを壊して川を以前あったような水路ではない生きた川に戻すということが常識になりつつある。

しかしながらわが国では、元祖の欧米諸国が方向転換をしたにもかかわらず、旧態依然として、ダムに対する信仰のような考え方が無くならないでいる。この北 上川でも、治水といえば、まずダム計画が最初に来る。現在、1941年に造られた田瀬ダム(岩手県和賀郡東和町)を筆頭に周辺に五つのダムが造られている が、実は今も世界的には古いとされる治水思想を金科玉条のようにして、巨大ダムが建設され続けている。胆沢ダムである。国土交通省のHPをみ ると、このダムの建設目的として、次のようなことが記されている。

<胆沢ダムの建設目的>
 胆沢扇状地の国営土地改良事業によって、新たに最大毎秒20トンの灌漑用水が必要になった。水沢市や金ヶ崎町に工場が集中し、工業用水の需要も増加し た。
また、一関遊水地が文化財保護のために縮小され、胆沢ダムは毎秒1830トンの洪水調節をすることに なった。発電は電源開発株式会社が17700kw、岩手県企業局が1500kwを発電する予定である。胆沢ダムはこれらの水需要に応じる大きさである。

2015年の完成予定とのことだが、このダムが完成すると近くにある石淵ダム(岩手県胆沢郡胆沢町1946年着工)は水没することになる。日本では、官庁 によって、一端計画された工事は、たとえ時代遅れになろうと予算超過が起きようと、それを止めるのは容易ではない。原子力発電でもそうだったが、日本は治 水事業でも、先進国中もっとも遅れた国なりつつある。実に情けないことだ。

少し話が横道に逸れてしまった。ダムも道路もまったく理屈は同じだ。考えてみれば、工事中でも、その計画が、陳腐化したり、もう必要がない。あるいは予算 超過が見込めるという時には、市民も「○○工事評価検討委員会」に参加し、公共事業を止めることの出来る行政システムが早急に必要である。(これは当平泉 バイパス工事や「第二東名」などに該当すると思われる)このことは、 この数年間、平泉バイパスの工事をめぐって痛切に感じたことだった。

高館から柳の御所方向(南)を観る
(2003年11月23日佐藤撮影)

工事はや奥州四代強者が政務を執りし跡に来たりし

松尾芭蕉の句碑のある西端から柳の御所をみると柳の御所から高館山の稜線にかけて、盛んに工事 車両が、行き交っていた。盛り土をされて、かつての河道は、平泉バイパスの車道とされようとしている。このように北上川と聖地としての柳の御所と高館を分 割遮断する行為は、中国の風水の考え方を持ってしても、まったく受け入れられない計画である。この高館山に登って、工事を見た洋画家の村山直儀氏は、「こ んなことをしていると、障りがあるよ。ここはしかも源義経公が自刃した場所でしょう。そんな神聖な場所をこんな風に道路を平気で通すような感覚は理解でき な い。歴史というもの。先人というもの。自然というものに対しての畏敬というものがまったくない。暴挙だね」と切り捨てられた。まさに私も氏の憤慨の弁を聞 いて、その通りであると感じた。

高館山自身が崩壊の危機にあることを知る人は少ない
(2003年11月23日佐藤撮影)

木々伐られ草はむしられ高館は地滑りの危機あると知るべし

今あえて、大声で問いたい。バイパス工事に浮か れてばかりいるが、年々この高館山を間近で見聞してきたものとして、浸食と、木々の伐採によって、特に柳の御所から、芭蕉の句碑の辺りにかけて地滑りを起 こす可能性を指摘しておきたい。実際にこの上の写真に写っている木は、根が浮いて空洞が出来ている。雨が降る度に、どんどんと土そのものが、下に押し流さ れていて、大雨が来たら、大きな土砂崩れが起きて、高館山全体が、消滅する可能性がある。

かつて、高館山は、東にも北にも大きく張り出していて、古文書などを紐解いてみれば、少なくても体積にして現在の高館山三倍から五倍ほどの規模の里山で あった。そしてこの高館山こそは、北上川が溢れて、平泉の町を水が直撃するのを防ぐ堤防の役割を果たしてきた。そしてこの高館直下から束稲山にかけては、 下流の狭窄部でせき止められて起こる洪水を一時的に貯めこむ自然のダムとも言える「遊水池」となっていた。その代わり、この大地で取れる米は、すこぶる良 質な品質を保証してくれたのである。早急に、高館山の地滑りの可能性を専門家に見せて対策を打つべきである。

新高館から束稲山を望む代表的な景観も失せてしまった
(2003年11月23日佐藤撮影)







水鳥たちが消えた変わりに猛烈にカラスが増えている

岸辺から水鳥消へて今はもう烏以外に鳴く声のなし




高館直下を見れば夏草の湿原は消えて平泉バイパスが通る
(2003年11月23日佐藤撮影)






高館義経堂から南西に観音山と新高館橋方向を望む

 (2003年11月23日佐藤撮影)

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2003.11.25 Hsato