金売吉次伝説を探る






奥州の黄金伝説を語る時に避けて通れない人物に金売吉次という人物がいる。果たしてこの人物がどんな人物だったのかは、伝説が勝ちすぎており、なかなかその実像に迫るのは難しい。
 

1 吉次伝説の背景にある奥州の黄金文化

そこでまず金売吉次伝説を探る前に少し時代を遡って、吉次伝説の背景にある奥州の黄金文化に触れておこう。

宮城県遠田郡涌谷町に黄金山神社(こがねやまじんじゃ)という神社がある。社伝よれば、天平21年(749)に、この地から、日本で最初の金が産出されたことを記念して建てられたものであると言う。

時は聖武天皇(701−756)の時代で、世の中は、荒んだ社会情勢だった。遷都が繰り返され、国家の財政は疲弊しきっていた。悪いことは続くもので、地震や飢饉なども起こり、流行病も蔓延した。信心深い天皇は、国内の安定のために奈良東大寺に巨大な廬舎那仏(ぶるしゃなぶつ)を建立することを思い立った。

何しろその高さが、5丈3尺5寸というから、今で言えば、約14.7メートルにもなる。しかもこの大仏の全身を黄金で覆い尽くそうと言うのだ。財政疲弊の折に、このようなことを考える人物というものは、とんだ悪帝であるが、聖武天皇という人物は、本気で仏に救って貰おうと思っていたようだ。ところが如何せん、この当時黄金はすべてが輸入品である。簡単に手に入るような代物ではない。きっと時の財政担当は気が気ではなかったはずだ。

そこに陸奥に派遣していた陸奥守「百済王敬福」(くだらのこにきしきょうふく)から、黄金が出土したという知らせが、聖武天皇のもとにもたらされた。そして900両(約13キロ?)の黄金が陸奥から届いたのである。この大仏を覆うための黄金は、この10倍の量が使用されたと言われる。この知らせを受け取った天皇の喜びはいかばかりだったろう。きっと小躍りして喜んだに違いない。側に仕えていた万葉歌人で官僚の大伴家持(717?−785)は、こんな歌を詠って天皇の気持ちを代弁した。

 天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に黄金花咲く

後に家持は、政争の混乱に巻き込まれ、高齢にもかかわらず、アザマロの乱(780年に現在の宮城県築館町城野にある伊治城で帰順したはずのこの地方の蝦夷の豪族アザマロが朝廷から派遣されていたの紀広純を殺害して起こった反乱)などで混乱している陸奥に将軍として派遣されたが、皮肉にも68才にて陸奥で没した。

こうして奥州の地は、朝廷にとっては、是が時でも手に入れなければならぬ地となった。早い話が、日本にゴールドラッシュが起こって、奥州進出の意欲が強まったという訳である。この北へ北へと進む政策は、ロシアという国家の伝統的政策が、不凍港を目指す南下政策とするならば、当時の大和朝廷の国家政策は、黄金をめぐっての北進政策であったと言えないこともない。こうして、奥州には、次々に大和朝廷側の城(柵といわれる)が、軍隊とともに北進していくことになる。軍隊に混じって、当然金を掘る技術集団が大挙して押し寄せたであろう。
 

2 吉次の居館跡を推理する

世に金売吉次の館跡という場所は、有に10箇所を越える。どう考えても中世奥州と京都を往来した吉次が通ったとは考えられないような長野県や青森県にさえ吉次の館跡と伝わっている場所がある。これはおそらく金を掘る作業に一攫千金の夢を託した者達が、そこに金売吉 次の伝説を運んで行ったと推測される。

金を掘る者にとって、金脈を掘り当てることは、最大の成功物語であったはずだ。勢い遠い奥州の地に夢を抱いてやってくる人間にとって、まさに「金売吉次」は、憧れのヒーローだったに違いない。だから成功者や長者となった者は、その地の金売吉次と呼ばれたことであろう。ところが大概金鉱というものは、地元の土着の権力者によって、極秘のうちに掘られ管理されている。だから今となっては、地名や神社名などを持って推測するしかないような所がある。

そんな頼りない伝説が多い中で、私が吉次の居館跡として比較的信憑性の高いと考えている場所が三箇所ある。そのうちのふたつは、奥州(衣川村の長者原廃寺/金成町の金田八幡神社)にあり、もうひとつは京都市内(首途八幡神社)にある。
 

3 衣川村の長者原廃寺と吉次

ひとつ目の長者原廃寺は、平泉町から衣川を隔てた衣川村にある。昔から口承により、この地は金売吉次の館跡と言われてきた。そこで1958年(昭和33)に発掘調査が行われたが、その出土遺物から、どうも11世紀代の寺院跡ではないか、と言う一応の結論が出された。もちろん伝説を信じる人々は落胆した。吉次の館ではなく、只の寺だったとすれば、実に味気ない話となるからだ。でも私はこの地が、平泉の船着き場であったと思われる場所にも近いことに注目している。それは柳の御所の遺跡発掘調査の進展から、中世の奥州がこれまで考えられていたような馬を使った陸上の交易だけではなく、船で北上川から太平洋を行き来しているとの研究成果からしても、大商人であったであろう金売吉次の館や倉庫、あるいは平泉政権の税関や貿易センターような建物が存在した可能性を否定することは出来ないであろう。だからもう少しこの場所の発掘範囲を広げて、この地域の遺構跡を調査し直して貰いたいと思う。

別の見方をすれば、この地名の長者原廃寺の「長者」というのは、今日のように金持ちを意味する言葉ではなく、昔で言えば本来の意味は「駅の長」ほどの意味に過ぎなかったかもしれない。つまり律令制の古代においては「駅」と書いて、「うまや」と読ませたが、この「駅」とは「律令制で全国の主要な諸道に設置された公用の旅行・通信のための施設」(広辞苑)なのである。どうもその「駅」が後には、単に「長者」という名で呼ばれた可能性がある。であるから長者原廃寺が、吉次の跡でなく廃寺の跡であったとすると奥州道を北へ向かう駅の長(おさ)が住まう場所だったのかもしれない。
 
 

4 金成町の金田八幡神社(東館)と吉次

ふたつ目は宮城県北部の「金成」町の金田八幡神社である。この地は、その地名から言っても、まさに金堀の人間が多く植民してきた匂いのするような雰囲気の町である。金成は、地勢的にも、平泉の玄関口にあたるような位置にあり、少し山に入れば沢地なども多く、いかにも金が産出しそうな所である。そこに金売吉次の居館跡と言われる古社金田八幡神社がある。地元ではこの地を東館(とうだて)と呼ぶが、奥州街道を東に入った場所に小高く聳える山城そのものである。

その社に伝わる古文書「奥州栗原郡三迫金成村熊野三所宮」(延宝三年(一六七五年)八幡山金田寺現住職 承栄 記:佐藤解読)には、次のようなことが記されている。
 
 

「(前略)奥州栗原郡金田荘金生村(古くは神生村、俗書には神成の後に金生と改め現在に至る)
東館住(古くは金田城、今俗に戸館と云う)金売橘次信高の両親は、裕福で知恵の優れた男児を授かろうとして、紀州熊野三所大神を常日頃信 心していると、ある夜熊野の神様が母の夢に立たれて、三つの紅色の橘(みかん)をくだされた。すると母は即座に子を孕まれて、三人の男児を生まれた。長男は橘次、次男は橘内、橘六と云った。

兄弟はみな健康で美しい若者に成長した。成人して商才にも恵まれ、その才知は世に並ぶ者もないほどであった。一家はその御利益に感謝を し、毎年熊野山に詣でて熊野の大神の神力を敬い、ついに金生の里に熊野三所宮をたてることになった。時に承久四年九月(一一七四年)のことであった。

一家は令をもって宮室を造り三つの神の御正体を一輪の中に安置し、これを本宮とした。本宮には阿弥陀様を、新宮には薬師様を、那智の宮に は千手観音様を安置した。また村に三つの寺も創建した。大照山の南方には円教寺を建て、天皇や国司が使用する祭田寺を寄付した。その領地は、わずかである。(この祭田の地は省令によって、熊田と呼ばれる)

最後の寺は、橘祥寺であるが、この寺は兄弟が、紀州に紅橘を求めて、それを金生の里に持ち帰り、新宮の地に植樹したので、この寺の名を熊 野山橘祥寺(俗称は橘寺)としたのである。この本宮社職には熊野大林寺那智の別当宮司の熊野山翁澤(おうたく)が就き、郷里の寺に戻り尊敬を集められた。(翁澤宮司は)御霊を熱心に崇拝し、日に応じて、新月新日ごとの祭祀を厳重に執り行った。すると三人の兄弟はこの熊野の大神の神力によって、その名は世に聞こえ、国司藤原秀衡公の家来となり、また金田の人々をもって源義経公を助けて、金生の里は隅々まで繁 栄を謳歌することとなった。(後略)」


この文書は、極めて後に書かれた金売吉次伝説の代表的な類型に属するものではあるが、ここから様々なことが推測される。まずこの社は吉次の館であるが、この地には、彼の父親である炭焼き藤太の伝説が残されている。それはどこかで聞いたことのあるこんな物語だ。
 

炭焼きで生計を立てていた藤太という人物のもとに京都より三条右大臣道高のオコヤという姫が清水寺の観音様のお告げにより、やってきて結婚をする。オコヤは、砂金をもってきて、これで米や味噌を買ってきてくれと藤太に云う。ところが藤太は、沼で鴨が群れているのを見て、これを投げつけて、鳥を捕らえてくる。驚いて「金」というものの価値を話すオコヤに藤太は、「そんなものならば、炭焼き小屋のまわりにいくらでもある」と告げる。こうして、藤太は金を商う商人となり、長者となる・・・。


この話は少々出来すぎである。思うに、この中に真実を見いだすとするならば、金で一山当てた藤太が、金に任せて、京都の良いところの娘を嫁に取ったというほどの物語ではなかろうか。田舎の金の価値も知らない人物が、「金」によって成り上がっていく過程を面白く語った人物がいて、このような奇想天外な炭焼き藤太伝説になったのであろう。
 

こうしてみると炭焼藤太伝説の全体的イメージは、「金」を目当てに来た金堀り職人が、見事金脈を掘り当て、次に豪邸を建て、京都の由緒あるところの娘を嫁にしたことが庶民感覚の中で、膨らみ今日のような成り上がり伝説として受け継がれ、各地にもたらされたと考えてもいいかもしれない。そしてその二代目が金売吉次ということになる。

当然、大金持ちになった藤太は、京都にも屋敷を設け、息子にも京風の教育を施したに違いない。ここで問題なのは、「金」という奥州に政治経済の要の如き物産の流通を、奥州権力を一手に握っていた藤原氏が、炭焼藤太如き氏素性もはっきりしない成り上がり者に簡単に許可していたかという問題が生じる。

そうして金田八幡神社に伝わる別の古文書「金田寺累縁起」の一説をざっと紐解いて見れば、このようなことが書かれてある。

「この社は、鎮守府将軍であった源頼義、義家親子が安倍氏と戦った時に、陣を張った場所で金田城と言われる。ここに康平五年(1062)、頼義は、金田八幡宮を勧請した。この社は代々従五位下周防守の清原成隆の子孫が社職を務めてきた。後に、寛治七年(1093)、鎮東将軍となった藤原清衡が、八幡宮に社領を加へて、八幡山金田寺を創し、閻浮壇金(えんふだんきん)の阿弥陀正像を立てて八幡宮の本地仏として崇め奉ったとある。それは運慶の作である。また保安元年(1120)に八幡の神體を安置した。」(八幡山金田寺累縁起:佐藤意訳)

つまりこの社は、頼義が興し、後に清原氏に取って代わって、奥州の権力を握った清原清衡が、藤原清衡と名を改めた後に、再興した神社なのである。しかもこの金成町の地勢を考えれば、まさに平泉の玄関口に当たる要衝の地であり、そう簡単にお金があるからと言って、氏素性もはっきりしないような金堀の藤太のような者に、この地を預けるなど考えられない。そのように考えると、もしかしたら、炭焼藤太と金売吉次の親子が、実は清原氏というれっきとした藤原清衡公の縁者だった可能性も俄に浮上してくるのである。

ところで、先に名の挙がった「清原成隆」という人物については、同じ金田八幡神社の伝わる古文書には、このように書かれている。「清原成隆は、北金成沢に居住し、文和年中(1352-55)修験となり、永和二年(1380)羽黒山に入峰し、三迫(さんのはざま)の惣先達(そうせんだつ)となった」。(金田八幡神社、清浄院文書)。このことからおそらく清原成隆は、金田八幡神社の中興の祖であったと見なされる。つまり清原氏がこの金田八幡神社の社家を受け継ぎ再興した時代から成隆の時代までで、三百年近い年数が経過していることになる。その間、金田八幡神社は、代々清原氏の血族の者が受け継いで行ったことになる。奥州が頼朝の軍門に下ってからでも二百年近い時代が過ぎている。

以上のことから仮説を立ててみよう。清原の姓から藤原に改称した清衡は、清原氏の縁の者に、この金成という要衝の地を任せた。この地は、金の産地としても重要な場所であり、当然のことであった。奥州に頼朝が大軍を持って攻めて来た時には、この源氏の縁の神社に歴史に詳しい頼朝も立ち寄ったはずである。そこで藤原氏の縁者であった社家の清原氏は、戦わずに恭順の意を示し、そのことによって、社殿は頼朝によって安堵されたのではなかろうか。
 

5 奥州藤原氏と熊野との関係 

ところで奥州藤原氏と熊野神社との関係については、古くから様々と取りざたされていることは先刻周知の通りである。先に金売吉次の父の藤太が、熊野にお参りをして、吉次ら三人の息子を授かったことになっているが、今度は熊野古道の滝沢(滝沢王子社がある)というところに、こんな奥州藤原氏にまつわる不思議な伝説が残されている。

藤原秀衡が、熊野神社に祈願した結果、妻(藤原基成の娘)の腹に子が授かる。夫婦は熊野にお礼参りに出かける。ところが本宮へ行く途中の滝尻という所で、妻が俄に産気づいてしまった。そこで不思議にも熊野権現が現れて、「滝尻の裏山にある乳岩という岩屋があるからそこで赤子を産みなされ、赤子はそこに残して置けば大丈夫」とのお告げを貰い本宮への旅を続ける。赤子は山の狼に守られ、岩から滴り落ちる乳を飲み、両親が帰ってくるまですくすくと成長している。この赤子は、後に義経公を最後まで支えたと言われる泰衡の弟の泉三郎忠衡である。この熊野権現の霊験に感動した秀衡は、滝尻の地に七堂伽藍を建立し、経典や武具を奉納した。

現在この七堂伽藍は、後の兵乱により、焼失したと云うが、秀衡はこの寺を建てるために数々の黄金を壺に入れて寄進したと伝えられ、現在でも山のどこかに黄金の壺が埋まっているという口承もあるようだ。またこの近くの継桜王子社に近い道端には、秀衡が杖にしていた桜が芽吹いたと伝えられる秀衡桜(現在は明治に植えられたもので4代目と云う)が咲いている。

以上のような、藤原秀衡伝説が、熊野において、伝承されている背景には、距離的にも離れて相当離れていると思われている奥州と熊野が、想像以上の結びつきを持っていたことのひとつの証拠であろう。熊野の修験者たちが、山の尾根を越えて、出羽に向かい、出羽三山を興して陸奥における修験道の聖地となし、平泉の奥州藤原氏と親交を結び、彼らのパトロンであったと思われる。きっと多くの熊野の修験者の子孫たちが奥州に移住し土着したはずである。

義経の家臣である武蔵坊弁慶も、熊野新宮別当の湛増(たんぞう)の子と言われている。この湛増は始め平氏に組みしていたが、後に自分の熊野水軍を率いて義経のいる源氏軍に味方し、屋島・壇ノ浦の決戦では、勝利への決定的な役割を果たした人物である。もちろん今日弁慶がこの人物の息子であったという証拠は、今日何一つないが、熊野と源氏あるいは奥州との結びつきを象徴するキャラクターとして伝説化したと考えれば、それなりに辻褄(つじつま)は合ってくる。このように考えると、源平の合戦において、源氏方が勝利したことの影で、熊野の存在が単に「熊野詣で」(くまのもうで)という意味以上の何かがあるようにも感じられるのである。
 
 

6 吉次の京都の住居(?)首途八幡神社

さて金売吉次の京都の邸宅跡だったという場所が京都にもある。これが私が吉次の住まいとして信憑性の高いと思っている第三の場所である。現在、そこには(上京区知恵光院通居今出上ル桜井町)には「首途八幡神社」(かどではちまんじんじゃ)が祀られている。

 織物で有名な西陣の近くにあり、現在は東西に長い275坪程の小さな区画ながら、元々宇佐八幡宮を勧請したものされている。尚、中世以降の度々の火災により、神社の大半は失われていたようで、現在の社殿は、昭和40年代に地元の氏子の人々の総意によって再興されたものである。

 この社の「首途」(かどで)の名の謂われは、元服前牛若と呼ばれていた義経が、ここから吉次と共に奥州に首途(旅立った)したと伝えられていることから付けられた名と言われている。境内には、橘次井(きちじい) と呼ばれる井戸があり、この水を汲んで旅に出れば、御利益があると信じられてきた。義経は平家追討に行く時にも、この水で身を清めて、戦場に向かったとされている。

この地を起点として、吉次は、奥州から金やその他の貴重な物産を運び、逆に京都の物資を奥州に運んでいたのであろうか。この社と奥州藤原氏が関係があるという証拠については、今の所、吉次の京都の住居だったという事以外には見いだすことができない。ただこの場所からそう遠くない地点(上京区溝前町)に瑞応山大報恩寺(だいほうおんじ)という古刹があるが、この社殿は、何とあの秀衡が寄進したという記録が雍州府志(ようしゅうぶし)という地誌に登場する。また江戸時代の百科事典とも言うべき和漢三才図会(わかんさんさいずえ:寺島良安著1712年自序)にもこの寺の開祖「求法上人」(ぐほうじょうにん)について、「(名は)義空、出羽の人で、藤原秀衡の孫である」と記している。とすれば、この周辺には、奥州の覇者となった秀衡公が、潤沢な資金力を背景にして、京都の御所に近い一画を手に入れて、奥州大使館のような区画を構築していたのかもしれない。
 
 

7 平治物語の吉次のイメージを読み解く

平治物語という軍記物語がある。作者は不詳であるが、最近の研究では、藤原伊通(ふじわらこれみち)あるいはその周辺にいた人物という説も浮かんでいる。成立年代については、平家物語より、少し早く1220年代から1230年頃ではないかと言われている。我々は金売吉次について、義経記の影響下にあり、どうも金売吉次が、鞍馬山にいた牛若を誘惑して、奥州に連れていった先入観があるが、この平治物語を読んでみると、別の吉次像が浮かんでくる。

それによれば、遮那王こと牛若は、母の常磐御前も継父となった一條大蔵卿長成も更に鞍馬の寺の師匠達もこぞって、「出家しなさい」というのに、一切耳を貸さず「兄二人が、僧侶になったのだから、自分は出家などしたくない。第一悔しいではないか(父の汚名をすすがなくては)」などと言って一向に聞き入れない若き日の血気盛んな義経がいるのである。周囲はこうしてこのような義経の噂が、清盛に漏れてしまうのを恐れている状態であったのだ。

そこにある日、奥州の金商人の吉次という者が現れるのである。
義経は、この人物にこう切り出す。
「自分を陸奥へ連れて行ってくれ。力のある人物を知っているから褒美には、金(こがね)をたんまり貰ってやるぞ。どうだ」
するとこの金商人は、
「いや。そのお連れするのは、訳のないことですけれども、もしもこのことが平氏にでも知れたら、それこそ罰せられてしまいますからね」と、尻込みをするのだった。
「何を申すか。こんな自分が死んだ所で、誰が何を聞くと言うのだ。ただ神社の境内で死んだ死人と同じく、盗人(ぬすっと)が、懐(ふところ)に手を入れる位だろうよ」と義経が強い口調で言うので、吉次はその勢いに押され、ついに、
「…分かりました。但し、このことについては私一人ではできないので、協力者の助けによって実行致すことになりましょう」と言うことになったのである。

ここまで読んだだけで、吉次に対するイメージは一変する・・・。と同時に義経という人物の、イメージもがらりと変わる。少年義経の中にある、強靱な復讐への意志というものを見せ付けられる思いがするのだ。つまり義経記では、周囲の影響によって、どちらかと言えば、奥州に連れて行かれるイメージがあるのだが、平治物語の義経のイメージはまさに、自分というものが既に確立されており、その強固な自己というものが感じられるのである。反対に吉次は、どこか商人の匂いがプンプンとする計算高い印象がする。しかも大事なのは、どうも吉次が、直接的には、奥州の覇者である藤原秀衡を知らない様子なことだ。もしも彼が秀衡という人物を知っていたら、義経公が、「力のある人物(秀衡の事を指す)を知っているから、金を褒美に貰ってやる」等とは言わないはずだ。もしも平治物語における「吉次」が真実に近いものであるとしたら、吉次はこの大物である義経を通じて、奥州藤原氏の中枢に知遇を得て、急速に政商として成り上がった人物という可能性も捨てきれないことになる。

つづく



2001.8.23
2001.9.7 H.Sato

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