平泉高館周辺写真集22

 

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平泉周辺の写真をみることによって、高館をめぐる景観の意味について考えてみたい。
(少しずつ増やしていきます。また文章も追加されますので、随時ご覧下さい。)



2003年11月23日撮影

高館からの衣川にいたる景観

高館とは?
資料1 高 館関係文献集成(佐藤)
資料2 「衣 川誌」(胆沢郡誌ヨリ著)
資料3 「衣 川の和歌」(拾遺佐藤)


 

高館の麓に卯の花清水が湧いている
(2003年11月23日佐藤撮影)

晩秋の卯の花清水冷たくて胸しみ渡る曽良の悲しみ

高館の階段を一歩一歩と重い気持ちで下り、坂道を右手に折れる。しばらく行くと、「卯の花清水」の碑が見え る。

「卯の花清水」の名は、奥の細道を芭蕉の影のようにして付き従ってきた曽良の句「卯の花に兼房見ゆる白髪か な」から取られた命名であろう。曽良は、高館に卯の花の咲く中に曽良の面影をみた。兼房とは、義経記に登場する伝説的な義経の老臣である。兼房は、この高 館の地で、妻子と共に自害した義経の最期を看取り、ひとり生き残って獅子奮迅の働きをした挙句、自らは敵の大将の一人長崎次郎を、むんずと掴んで、業火の 中に 飛び込んで果てた。その時、兼房は、七十才に近い高齢だったという。

曽良は、芭蕉と共に初夏の高館に登った。それは義経が自害して丁度500年後に当たっていた。前日は大雨だっ たが、ふたりが平泉に来る日は、晴天となった。高館に登ると、ふたりの顔には、奥州の初夏の水気を含んだ風が吹き付けた。見れば、眼前には夏草の生い茂る 夢のような景色が拡がっている。歴史絵巻のように北上川は流れ、束稲山は雪舟の水墨画のように茫洋として聳えている。足もとの断崖を見れば、そこかしこに 白い卯の花が、風にそよぎつつ楚々として咲いている。その時、曽良に老いた侍が奮戦する姿がふっと浮ぶ。曽良は兼房の亡霊を見たかと思い、思わず背中を冷 たいものが走った。その瞬間、曽良は、自らの「分」あるいは「人生」というものを悟ったのだ。しかしそれはけっして諦めの心ではない。兼房が、不世出の武 将である源義経の家来となったのは偶然である。曽良もまた、恐るべき俳諧の才能をもった松尾芭蕉という芸術家の影のようになって奥の細道の旅を続けてい る。旅の途中で死ぬことさえも考えている芭蕉を前にして、彼は自分が、義経に付き従う兼房と同じ立場であることを「実感」していたはずである。つまり曽良 は、兼房の生涯に自らを重ね合わせてみていたのである。そのように考えて、「卯の花」の句を読むといっそう味わいが出て切なくなる・・・。

この清水で、手と口を清め、「卯の花」の句碑に手を合わせた。高平眞藤著の「平泉志」によれば、「兼房は義経 の乳父にして高舘落城の時自害し、其墓は高舘の中段にあり」との説があるが。現在はこの墓の跡というものは見あたらないようだ。通りの向こうには、東北本 線の踏切がある。これは明治期に敷設されたものだ。この線路を左に200mばかり進むと、無量光院跡がある。困ったことに、東北線は、秀衡が建てた無量光 院の敷地を分断してしまっている。

明治政府の常套句であった「文明開化」という言葉を、もう一度吟味して考えてみよう。それは、進んだ科学技術 をベースにした西洋文明をもって日本の遅れた文化を刷新することだった。しかしそのために、日本固有の美意識に根ざした大切なものが無視され蔑(ないが し)ろにされることになる転換点だった。言うまでもないことだが、文化とは、古ければいいというものでもないが、新しければいいというものでもない。それ は美意識というものを介在して、感じるものであり、国家政府によって押しつけられる性格のものではない。景色というものが、文化景観として意識されなかっ た時代にあっても、日本人は、各地各所において、「名勝地」、「景勝地」として、景観に固有の「美」を観ていた。この固有の「美」を無視した文明開化の発 想は、結果として固有の伝統的な「日本人の美意識」を無視した開発の思想である。歴史認識として、明治期から起こっている文明開化の思想こそが、現在でも 国土開発の根底に依然としてある。今こそこの誤った考えを反省し、各地方固有の美しい景観を取り戻す第一歩を踏み出すべきであろう。



 
 

高館の裏手は平泉バイパス工事だった
(2003年11月23日佐藤撮影)

赤や青、工事現場は雑然と資材積まれし高館の下

高館の東の山すそにそって旧国道を北に歩いて行くと、道は緩やかな下りになる。直ぐさまバイパス工事の飯場が あり、工 事用の資材やトラックが並んでいた。


高館の北裏(坂下)から盛り土越しに束稲山を観る
(2003年11月23日佐藤撮影)

赤とんぼ冬近くして高館の工事現場に逆さに眠る

かつてこの辺りの景色は、茫洋とした「夏草」の景色が遠くまで拡がっていた。しかし今は、万里 の長城を思わせる盛り土の壁が南北に延びてしまって、束稲山が、盛り土の上に座っているような感じにみえる。景観検討委員会の提言により、植生によって、 景観には十分に配慮するということであるが、そんな誤魔化しでどうなるようなものでない。

かつてこの辺りは高館に向かって桜が並ぶ美しい道だった
(2003年11月23日佐藤撮影)

かつてこの細道を越え芭蕉曽良衣川にぞいかんとぞする

桜並木のほとんどは、伐られてしまって、衣川から高館に続く道も只の工事用道路にしか見えな い。高館を掠めて伸びる平泉バイパスが景観を台無しにしているのがよく分かる写真だ。
 

今や平泉全体が工事現場となってしまった?(坂下地域周辺)
(2003年11月23日佐藤撮影)

平泉わが平泉古き良き平泉今夢跡消さる

 
この道の左右は坂下遺跡のある周辺だが、平泉全体が、巨大な工事現場となっている感じさえした。しかし工事には、地 元の人が現場でそんなに多く働いている訳ではない。工事機械の進歩で、人手がそんなに要らなくなったこともあり、この工事が地元経済に何らかの好影響を及 ぼしているとは到底思えない。平泉バイパスの工事を請け負っているゼネコン業者のほとんどは、不況にあえぎ、苦しんでいる業者ばかりだ。特に高館直下の工 事現場を請け負っている「M組」は、今年の十月に二千数百億円の負債を抱えて事実上破綻した企業である。地元経済の活性化にもならず、その企業のにとって も焼け石に水の公共事業の平泉バイパスは、いったい誰のために行われているのか。はなはだ疑問である。平泉の住民に、それとなく質問すると、そのほとんど の人が、「これほどまで、大規模なものになるとは思わなかった。ものすごく変わってしまった。もう昔の平泉はどこにもない」そんなことを言う。みんな諦め ムードだ。いつ果てるともない不況と相まって、典型的な過疎の町、平泉に残された道は、「世界遺産」になるという先人の遺してくれた文化遺産しかないの だ。しかし今はそれさえも、現代の万里の長城の如き平泉バイパス工事によって、ほとんど破壊され尽くしてしまっている・・・。

衣川橋から上流を見る
(2003年11月23日佐藤撮影)

どんどんと島の如くに成長す衣の河の中州かな
 

衣川橋から河口方向に束稲山を観る
(2003年11月23日佐藤撮影)

高架線やけに気になる衣川、古歌に詠まれし面影のなし

坂下から国道4号線に出て横断歩道を 渡り、中尊寺の寺領の境界になる衣川の川端に出る。衣川橋を途中で、 衣川を見れば、土砂がたまって、中州がどんどんと成長している。これは上流のダムや護岸工事によって、河床が高くなってきているせいだ。真下を除けば浅す ぎて川底が丸見えの状況だ。これでは衣川につい最近までいた固有の魚たちが消えて行くのも当然のことだ。洪水が起こり水が始終この付近で溢れる原因を根本 から取り除かなければ、結局は太田川のように、衣川を高い護岸を築いて檻に閉じこめた猛獣状況にしてしまうしかない。衣川は、まるでこの付近に明治初頭ま で居て絶滅させられたオオカミ(注1)に似ている。

それにしても主流の北上川に限らず、南の支流太田川に寄らず、北の衣川もまた、水量が著しく減っている。かつ て は、帆船が北上川から、この衣川の河口を遡って、ここから1キロほどの月山橋の船着き場に行き交っていたと言われている。しかし今は、 小さなボートでも、浅すぎて、とても上流には上れない現状だ。川としての本来の機能を取り戻すような考え方が必要だ。ただ護岸を見れば、土手はコンク リート化され、この川が古より歌枕として有名な「衣川」という風情は失われつつある。あの歌人西行が、最晩年に平泉に到着し、寒風吹きすさぶこの川の畔に きて、岸辺に立つ松の老木に、涙を流したことを考えたならば、この風情ある歌枕地「衣川」の景観を守るべく努力すべきであろう。去年の台風六 号で、四号線に水が溢れたことは記憶に新しい。その後、周辺住民の強い要望もあり、急遽、堤防を高くする護岸工事が進められている。こうなると、ますます 衣川は、風情の乏しい地になってしまうだろう。

さて、船着き場の跡と思われている付近には、里人に金売吉次の館の跡と信じられてきた「長者原廃寺跡」 がある。しかし戦後の発掘調査によって、館ではな く、寺院の跡ではなかったか、という説が有力になりつつある。しかしこの場所に、金売吉次のような奥州藤原氏の「御用商人」が居を構えていたとしてもなん ら不思議ではない。安部氏の時代に、寺院だった伽藍をそのまま藤原氏の時代に利用したことも考えられる。金売吉次に関しては、栗原郡の金成町にも、金田八 幡神社のある通称東館と言われている所が、金売吉次の館跡と言われている。金売吉次が、奥州の金などの物産 を京の都に運び、帰りには、船にぎっしりと、都から仕入れたものを物産を平泉に運んでいた可能性は否定できない。衣川には、市が立っていたことを照明する ように「六日市場」 や「七日市場」などの地名が残されており、これまでは、人口が10万に及ぶという都市平泉の広がりが不明だった。今後、衣川など発掘調 査などの研究が進む過程で、それが明かされる可能性がある。

衣川橋から国道四号線伝いに関山中尊寺を観る
(2003年11月23日佐藤撮影)


 

(注1)オオカミは大神と書くように、山の神でもあった。実に畏敬される猛 獣だった。土地の言い伝えでは、月山神社・三峯神社のある三峯山の周辺にオオカミが棲んでいたということだ。一説によれば三峯神社は、山の神、つまりオオ カミを祀っているとも言われている。しかし狼は、人家にやってきて家畜を襲う、それに悪い病気を持っているという自分勝手な理由で次々と殺されていった。 そしてついには北海道を含む明治30年代に日本からオオカミは、日本人が絶滅させたのである。クマが今、同じ状況に晒されている。今年も、クマが金鶏山か どこかに現れたといって、大騒ぎになったが、考えてみれば、人間が、奥山をどんどんと伐採するから食料を確保できないクマが人家近くまでやってくるのであ り、クマが人家を襲っているのではない。人間様が、クマの領分をかすめ取ってきている現実こそ、考え直されるべきである。クマだって、このまま行けば、数 十年後には、絶滅する可能性がないとはいえない。黒姫山に住むC・W・ニコル氏が、テレビで、イギリスにはクマが絶滅していないと発言してびっくりしたこ とがあった。「テディ・ベア」などという可愛いクマキャラクターを創っているお国柄だから、当然クマが原生していると思いきや、そうではないのだ。おそら く、「テディ・ベア」ブームの背景には、絶滅させた申し訳なさや郷愁のような感情もあるのかもしれない。

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2003.11.25
2003.11.29 Hsato