首途八幡神社と大報恩寺 |
平泉大使館(第)はどこに?!
(京都における奥州藤原氏)
この論考の目的は、単なる首途八幡神社や大報恩寺の紹介ではない。奥州藤原氏の京都における大使館とも言える平泉第(ヒライズミダイ或いはテイ:尚この呼称については、角田文衛氏が仮に言われている言葉であることを付け加えておく)の場所について、若干の考察を加えようとするものである。
1.奥州の大使館としての平泉第
奥州藤原氏が、京都の朝廷に対して外交工作を強めていったことは、京都の名門である藤原基成という人物を、その任(陸奥守)を解かれた後も平泉に留め置いた事実を持ってしても明らかである。おそらく平泉第のような場所を設けて、人物を配置し、連日京都の情報を探り、ある時には朝廷や力のある公家には、それ相応の進物などをしながら、奥州の平和維持の為に努力していたに違いない。
また当時奥州藤原氏は、金や奥州の特産物である絹やアザラシの皮や馬などを都に運び、逆に仏像や教典、常滑焼きなどを奥州に輸入することを頻繁に行っていたが、そのためにも京都には、彼らが滞在する屋敷や厩、倉庫などが絶対に不可欠であったはずである。
2.平泉第の責任者としての金売橘治
さて牛若もしくは遮那王と呼ばれて元服前の源義経を奥州の覇王藤原秀衡の前に連れていったとされる金売橘治(吉次)という伝説の人物がいる。この人物は謎の多い人物で、実在した人物ではないという研究者もいるようだ。
相原友直は、「平泉雑記」巻之三でこの人物について、次のように記している。
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○三條吉次 (十八)
金商人三條吉次カ名、諸書不同、義經記ニ信高ト云、熊坂之謠モ又同之、太平記劔巻二五條吉次季春ト云、義經勲功記同之、鎌倉實記ニ末春トス、平治物語ニ奥州ノ金商人吉次ト云者、京上リノ次ニハ必鞍馬ヘ参レリ、堀彌太郎ト云シハ此金商人コト也ト云リ、又鎌倉實記ニ(「南部叢書」に依る)「ハ三條吉次、後ニ堀彌太郎景光トスルハ云ハ、甚誤リナリト云リ、○吉次屋敷趾膽澤郡衣川村ニ有、居舘門ナトノ舊礎、今ニ残レリ、又山ノ目南磐井川○伊校本、岩井川、近所ニモ吉次屋敷趾ト云ル有、奥州白川ト白坂驛トノ間ニ華籠原○伊校本、華籠原、ト云ル處アリ、海道ノ傍ニ小社有リ、昔三條吉次・同吉内・同吉六ト云ル兄弟ノ者ハ、毎年都ヨリ黄金商ノ為ニ平泉ニ下リタルガ、或時此所ニテ盗賊ニ害セラル、此小社ハ其墓ニ祠ヲ立シナリト云、葛籠(カワゴ)ヲ捨置タル地故ニ名ツクルトゾ、又分散橋トイフ小橋有リ、盗賊金ヲ分散セシ處ナリト云、
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このようにそのその住居のあった京都の地名をとって、「五条」、「三條」などと呼ばれていたようである。また「山州名跡志巻之八」、葛野(かどの)項には次のような記述がある。
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木辻(キツジ)別名、或作吉次 御輿岡西四町許
○橘次宅
同村より東に入りて南方に半町ばかりもとにあり。今は畠となす。伝に言う。奥州の金商人橘次が上著の宅地と。近年に至て井あり。橘次井と號す。後の人宅を作り、遂に栄える日なし。但しこれ別人なり。その宅は「太平記劔巻」載る由にて五条にあり。
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この葛野(かどの)の木次についてはどうも、後の世の人が、木辻と橘治を語呂合わせのようにして創作した可能性が強い。相原もこの件に関しては、
「妙心寺南門ノ東ニ木辻村アリ、古官家木辻ノ領所ニシテ今ニ於テ第宅ノ址アリ、土人木辻ヲ誤テ橘次ト為ス、村中ニ一ツノ井アリ、又出門(カトテ)水ト號ス、是義經首途ノ日ニ用ル處ノ井ナルト云、是みな謬説ナリト雍州府志ニ出(タリ)」(雑記五巻の四)と俗説と否定的に見ている。
五条の方にあったという太平記の記載については平泉雑記と同じく、かなり信憑性の高い情報と見て良さそうだ。同じ「山州名跡志巻二十二」に五條橋西爪に八幡宮があることが、記載されているが、この社と橘治を結びつける証拠は一切見られない。
また平治物語では次のように記述している。
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○平治物語(岩波書店新古典文学大系)
「かの金商人(こがねあきんど)は、元は公家の青侍にてありしが、身貧しく、せん方なさに、始めて商人になりけるが、今度、九郎冠者につきて、又侍になされ、窪弥太郎(堀弥太郎)とぞ申しける」
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どうやら金売橘治は、その別名を窪弥太郎あるいは掘弥太郎と名の人物だったようである。もちろん「平治物語」は「戦記物語」である。多くの脚色が指摘されており、にわかに信じるわけには行かないが、何らかの真実の一端があるはずである。たとえば、金売商人の前には、貧乏な公家だったという記述はなかなか真実味がある。もしも基成の臣下の者が、彼と知り合いで、秀衡に彼を平泉第の責任者として推薦したということは十分考えられる。そこで彼は、奥州の指示によって隊商を組んで、金を商いながら、京の商品を奥州に持ち込みつつ、一方では平泉第の責任者として、外交工作にも手を染めていたのではあるまいか。
当然、義経の平泉入りという事実の裏側には、義経の母常磐御前が嫁いだ大蔵卿藤原長成と血縁にある基成との関係があり、ある種の政治的判断によるよるものであることは否定できない。このことについて、角田文衛氏は「当時半独立国を形成していた奥州藤原氏の勢威は、全国に鳴り響いていた。鎌倉家の再興を志す遮那王丸が出家を拒絶する一方、ひそかに長成夫妻に平泉に下向したい旨を告白し、その援助を懇願したことは、容易に察知されよう。(歴史読本昭和五十七年六月号 『幻の鎌倉進攻作戦』より」)と語っている。
奥州藤原氏にしてみれば、この遮那王丸を獲得することは、ひとつの外交カードの獲得であり、それは富を蓄えつつあった関東の武者たちが源頼朝を権力の中心に据えて、自分たちの浮沈を賭けてみようとするのと同様の高度な政治的な判断が働いていたことは間違いない。
先の平治物語のように、金売橘治が堀弥太郎同一人物であるかどうかは簡単には判断はできないが、二人が同一人物として後世に伝わっているのは、この人物が、義経を隠密裡に平泉に連れ出すなどのトップシークレットに携わっていて、当時から彼にまつわる噂が飛び交っていたからに他ならない。(尚、この謎の人物についての話は別の紙面において詳しく論じるつもりである。)
3.首途八幡神社について
その金売橘治の京都の館、すなわち平泉第と思われているのが、現在の上京区にある首途八幡神社である。
(住所:上京区知恵光院通居今出上ル桜井町102−1)
首途八幡神社は、織物で有名な西陣の側にある小社(東西に長い二百七十五坪ほどの敷地)であるが、京都で奥州文化を論ずる時には、どうしても避けて通れない重要な旧跡である。社殿によれば、この「首途」(かどで)とは、ここにはかつて奥州の金商人金売吉次が住居を構えていた所とされ、元服前の源義経が牛若丸と呼ばれていた頃に、ここから吉次と共に奥州に首途したと伝えられている。境内には、首途の井戸があり、「首途の清水」を汲んで旅に出れば、御利益があると信じられている。義経は平家追討に向かう時にも、この水で身を清めて戦場に向かったと言われている。京都事典(東京堂出版)によれば、「この地は桃園宮跡で桃園親王を祀ったとも」言われている。
またこの地は、平安宮の背後に位置しており、外交的な面では地勢的にもまさに第(大使館)として絶好の地である。祭神は、応神天皇、比売大神、神功皇后で、宇佐八幡宮を勧請したものと伝えられているが、はっきりと奥州藤原氏に関連あるとする文献などの証拠は見つかっていない。大内裏(だいだいり)の鬼門(北東)に位置していたことから、王城鎮護の社として、内野八幡宮とも呼ばれていたが、中世以降の度々の火災により、神社の大半は失われたようである。尚、現在の首途八幡神社は、戦後の混乱期に荒廃していたのを、昭和四十年代に地元の人々によって再興されているものである。
首途八幡神社について、相原友直は、「平泉雑記」巻の五の中で、次のように語っている。
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○橘次井 〔四〕
橘次ノ井、京西陣五辻ノ南桜井ノ辻子(ツシ)ニアリ、相伝フ、此所金賣橘次季春カ宅地ナリト、
此井大ニシテ水モ又清冷ナリ、義經橘次カ東行ニ従フ時、此所ヨリ首途スト、
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また和漢三才図会(平凡社東洋文庫版第12巻)では、「橘治井(きちじい)」として次のように説明されている。
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○橘治井
西陣五辻通の南、桜井の辻(上京区智恵光院通五辻下ル)
この地は金売橘治末春の宅地である。源牛若丸が始めて奥州に赴く時、首途をここで祝った。それに因んで首途の水と名付ける。(「国花記」による。
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次に平泉第だった可能性のある場所として、大報恩寺について見ていこう。
4.大報恩寺について
京都の五辻通り六軒に千本釈迦堂の名で知られる瑞応山大報恩寺(真言宗:だいほうおんじ)という寺院がある。
その門前の駒札には次のように記載されている。
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○大報恩寺<千本釈迦堂>
上京区五辻通六軒町西入溝前町
瑞応山大報恩寺と号し真言宗智山派に属する。釈迦如来像を安置するところから千本釈迦堂といわれている。開基は義空上人と伝え承久三年(1222)猫間中納言光隆の臣岸高が千本の地を上人に寄進したので、ここに小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが当寺の起こりであるという。
はじめは倶舎・天台・真言三宗の霊場として、堂塔伽藍も整い壮麗を極めたが、中世の兵火にかかって焼失し、今にのこるものは本堂(釈迦堂・国宝)のみである。
この本堂は本市に現存する鎌倉初期最古の遺構である。
本堂内に安置する本釈迦如来坐像(重要文化財)及び木造十大弟子立像(重要文化財)は快慶、行快などが選仏したもので、他に千手観音立像、銅造誕生釈迦仏立像、六観音菩薩像などいずれも重要文化財指定の古仏がある。
京都市
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この大報恩寺について、相原友直は、「雑記」巻之一で次のように記している。
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○大報恩寺 〔二十七〕
大報恩寺ハ、京北野千本ノ地ニアリ、本尊ハ釋迦也、故二俗二千本釋迦堂ト云、會テ猫間中納言光隆卿ノ家司岸高千本ノ宅ヲ捨テ、寺ト為シ如琳上人ヲ請ス、事ハ興彦龍ノ半陶稟大報恩寺幹縁ノ疏ニ見ヘタリ、或ハ言フ、今ノ本堂ハ藤原秀衡カ建立スル處ナリト、雍州府志巻四補遺ニ出タリ、
○同書巻五補遺云、大報恩寺ハ相傅フ求法上人義空、承久元年假リニ小堂ヲ構ヘ、一佛十六弟子ノ像ヲ安置ス、一説ニ貞應二年義空ノ俗姪奥州秀衡、上人ノ為ニ大堂ヲ建立ス、嘉禎二年、奉綸命大小乗三宗ヲ弘通ス、貞治二年二月、等持院尊氏公下府命涅槃經ヲ行ハシム、コレヨリ常典ト為ル、一説二瑞應山大報恩寺千本釋迦堂寺領百石餘用明天皇御草創、今本堂藤原秀衡ノ建立ニシテ請如琳一説如輪上人、此地有猫間中納言光隆卿之家、本坊名用明坊、例年二月有遺教經會式智積院前僧眞正隠居此京羽二重ニ出タリ、
○或説ニ、千本釋迦堂念佛ハ文永ノ頃、如輪上人是ヲ始メラレケリ、徒然草抄ニ出、
○或説ニ、昔秀衡上洛ノ時用シ車ノ輪相傅ヘテ此寺ノ什物也、
愚按ルニ、半陶藁大報恩寺幹縁疏ニ寺ノ古記ヲ引テ曰、求法上人義空創草之地也、上人生縁ハ羽州也ト云リ、秀衡ノコトヲ載セス、「然ルニ雍州府志ニモ或説ヲ引テ秀衡ノコトヲ載タリ、」何レノ書ニ出ルヤ、識者ニ尋ヌヘシ、
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諸説紛々入り乱れてていて、さすがの相原自身も大報恩寺のついてはもてあまし気味であるが、ともかく奥州の覇者藤原秀衡が寄進して建てたという話は注目に値する。
次に和漢三才図会の文章を読んでみよう。
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○大報恩寺
(瑞応山)(北野釈迦堂、千本釈迦堂)上立売千本(上京区溝前町)にある。
寺領土 百万石余
本尊 釈迦如来(十大弟子) 三宗兼学(倶舎・天台・真言。今は真言を専らとする)
開基 求法上人(ぐほうじょうにん)
○求法
(名は)義空、出羽の人で、藤原秀衡の孫である。父忠明は日頃薬師仏を信じて、日輪を呑む夢を見て義空が誕生した。(十五才)で相州(さがみ)に赴(つ)き薙髪(ていはつ)、鶴ヶ岡八幡の告げによって天台山(比叡山)に登った。澄憲(とうけん)和尚に謁(まみ)えてその旨を深く得るとともに、秘密瑜伽(ゆが)をうけ、倶舎を研き大成した。寺を創り台・密・倶舎の三宗を弘めようとして、石清水・北野の霊廟に詣でて陰相を乞い霊地を得た。ここに猫間中納言光隆卿の家卒に岸高という者がいて、自分の土地を上人に喜捨(きしゃ)した。
(承久三年1223)小室を結び、本尊及び十大尊像を安置した。
(貞応二年1223)に大堂を建てんとしたが、大柱の用材がなかった。
時に摂州尼崎に材木を商う浄金という富商がいた。夢に老僧が現れて告げた。自分は洛陽の北隅に寺を創るのを見たが、汝の所蔵する巨材は大光柱に足るものである。自分にこれを売れ、と言った。浄金が承諾すると、老僧は大報恩寺という印を木の頭に刻んで去った。夢が覚めて材木を見ると、印文はあざやかであった。浄金は感嘆して京に行き尋ねると、千本の大報恩寺のことであった。夢中の老僧は重大弟子の中の迦葉(かしょう)尊者の容貌であった。浄金は歓喜に堪えずして材木を布施した。大堂は不日にして完成した。そこで四天王の像を造り、祈ること百日に至ると、たちまち仏舎利五粒を得た。
(嘉禎元年1235)畏(かしこ)くも綸命を受けて大・小乗の三宗を弘通(ぐつう:仏教を弘めること)した。
(仁治二年1241)四月三十日疾病もなく逝った。
(貞冶二年1363)将軍(足利)尊氏は本寺に命じて涅槃講(ねはんこう)を行わしめ、遂に常典(じょうてん)となった。
(したがって)毎年二月に「遺教経会」(ゆいぎょうきょうえ)がある。(智積院の僧侶が来て勤める)
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この文章から明らかなように、開祖の義空は、出羽の生まれで、秀衡の孫となっている。また父は忠明と称したことになっている。しかし残念ながらこの忠明という人物は、尊卑分脈などを辿ってもその消息ははっきりしない。出羽と言えば、1189年の平泉陥落直前に、秀衡の妻(あるいは妹とも言われる)を守りながら、酒田に逃げ延びた「酒田36人衆」の伝説が残されている。その女性は「徳の前」という名を名乗り、剃髪し尼となって泉流庵を結んだ。これが後に泉流寺となったというのである。この泉が流れるという書くこと自体が、生き残ったものの平泉の都に対する愛着や追慕の念を込めた命名のように感じられる。
そのような訳でこの義空という人物は、先の酒田36人衆に守られて、育った奥州藤原氏の末裔である可能性が高い。つまり秀衡の遺児のうちの誰かが母と共に平泉から酒田に逃れ、そこで設けた子が、祖父秀衡の威徳を偲びつつ、京の祖父縁の地(おそらく平泉第が過去にあった場所)に大堂を建て、一族郎党の霊を慰めることを己一生の宿望とし、ついにその望みを叶えたという話になる。もちろんこれは仮説に過ぎないが、かなり信憑性のある話ではあるまいか。
さいごに
以上、首途八幡神社と大報恩寺を「平泉第」の存在した場所として考えてみた。いずれも有力な資料がなく推測の域を出るものではないが、今後の研究の進展により、新たな文献の発見や考古学的資料の発掘などで、歴史の真実が浮かび上がってくることを期待したい。佐藤
2000.3.15
2000.3.19
2000.3.22
参考資料
京都の歴史散歩(上)1995年 山川出版社
京の駒札 吉田達也著 1991年 芸艸堂
歴史読本 昭和五十七年六月号「悲劇の英雄 源義経」
「奥州平泉黄金の世紀」から「平泉と平安京」角田文衛著 1987年 新潮社
「平泉雑記」 相原友直著 平泉町史 資料編二
「和漢三才図会12」(平凡社東洋文庫)
「保元物語・平治物語」岩波書店 新古典文学大系
「山州名跡志」(大日本地誌大系)第一巻 雄山閣 昭和46年