平泉高館周辺写真集25
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平泉周辺の写真をみることによって、高館をめぐる景観の意味について考えてみたい。
(少しずつ増やしていきます。また文章も追加されますので、随時ご覧下さい。)


柳の御所景観

柳の御所の景観変化を見よ

柳の御所の景観
(2003.12.30 佐藤撮影)

「なぜなの?」と、来る人誰も高館の景観破壊に疑問投げかく


 

しだれ桜通信3


2003年12月30日、晴天ながら寒風凄まじき平泉を散策した。年末で、平泉の町を歩く人などいない。観光客は、バスか車で、中尊寺や毛 越寺に行ってしまう。いまや、工事現場と化した柳の御所などを訪れる物好きはない。11月23日に来た時よりもさらに柳の御所から高館にかけての盛り土は 整地され、一層高くなったような感じを受ける。

柳の御所の垂れ桜は、耳がちぎれそうな寒風にも凛として立っていた。実に美しい。昔の日本のサムライが、黙したまま 眼(まなこ)で、無言の諌言を発しているようにも見えた。思わず、角度を変えて何回もシャッターを切った。

柳の御所をかつての河川との境界線伝いに高館の方に歩いてゆくと、小さな田んぼがあり、その所に、民家の「エグネ」(注1)だろうか。 杉の木が切られて積んである。柳の御所から高館に掛けての民家の周囲は、平泉バイパス工事が持ち上がって以来、年々大きく変貌を遂 げている。民家は発掘調査のために移築を余儀なくされ、10年で、二度の移築を迫られているケースもあると聞く。

高館の周囲の田んぼや畑や民家は、クローバーやタンポポなどの雑草が群生する草むらとなり、歴史的な構築物としての柳の御所や無量光院を史 跡公園化するということで、今では見るも無惨な姿を晒している。

柳の御所の遺構の全容は、依然として分かっていない。いち早く、無量光院の遺構の全容が、手本としたという宇治の平等院の構造から類推し て、CGで復元しようとのプロジェクトも、進んでいるようだ。

しかし大事なことは、復元することではなく、あるがままに見せることにある。ローマのフォロ・ロマーノ(注2)は、世界遺産になっている が、復元したものではない。ローマの中心部にあって、発掘され廃墟となった遺跡そのものを見せているだけだ。

このように言うと、石の文化と木の文化は違う。ローマと平泉を一緒にしてもらっては困るという声が聞こえて来そうだ。しかしもう一度考えて 欲しい。多くの人が、無量光院で、何とも言えないような感慨に浸ったと語るのは何故か。それはその場に、これを建てた三代秀衡公。さらにこの寺院を命を賭 けて守ろうとした僧侶たちなど、様々な人々の思いがこの場に留まっているためかもしれない。

奥州の覇者と呼ばれ鎌倉の源頼朝すら恐れさせた藤原秀衡公は、この無量光院から祖父清衡公と父基衡公の眠る金色堂を拝し、金鶏山を黄金に染める夕日を眺め ながら、ひたすら奥州に集い来た者と都市平泉の平和を祈った。周知のように無量光院の壁面には、秀衡公自身によって狩猟の図が描かれていたと伝えられる。 狩猟とは、紛れもない戦を想定した軍事訓練のことである。したがってこれを描くことは、初代清衡公の中尊寺供養願文にある恒久平和の崇高な精神を受け継ご うとしたことを意味する。すなわち秀衡公は、戦というものを奥州から無くし、鳥獣でさえも安楽に過ごせる平和の楽土「平泉」の実現を希求したのである。そ れこそが無量光院建立の理由であった。

確かに現在の無量光院の跡には、然したるものは「何もない」。しかしそこにはやはり「何かある」のである。それはまさに無量光院に、三代秀衡公が託した建 立の念そのものだ。そんな不思議な感覚が、ここに立っていると確かに湧いてくる気がする。芭蕉も高館で同様のものを感じた。

だからどのような伽藍がここに聳え立っていたかということを研究することは大事だが、何も無量光院や柳の御所を無理して現代に甦らせようとする必要などな い。それこそローマの歴史遺跡のように、あの礎石の配置と中島と池の形状偲ばせる配置だけで、平和都市「平泉」として世界遺産となる価値は十分にある。あ とはJRの線路を何とかすべきである。遺跡の見せ方として、かつての偉容を復元しなければ駄目と考えるような幼稚な発想は改めるべ きだ。

注1 「イグネ」とも発音。東北地方の家屋の周囲にある雑木(杉が主で竹や他にケヤキ、柿、栗、などの落葉樹も)を植えた屋敷林。東北独特の景観を醸し出 す。
注2 イタリアの首都ローマの中心部にある古代ローマの歴史遺跡。パラティーノの丘など4つの丘に囲まれた窪地に造られた神殿や凱旋門、聖なる道(ヴィ ア・サクラ)、記念柱、会堂(バシリカ・アエミリア)、その他公共施設を指す。「フォロ・ロマーノ」とは、「ローマ市民の広場」の意。ギリシャの「アゴ ラ」同様、西洋民主主義の原点がここにある。19世紀発見され、円柱や神殿が遺る。現在ユネスコ世界遺産に「ローマ歴史地区」として登録されている。 


工事機械が並ぶ柳の御所の工事現場にたった一本の桜の木が立つ
 

工事機械が並ぶ柳の御所の工事現場にたった一本の桜の木が 立つ
(2003年12月30日佐藤撮影)

文明の利器、怪獣のごと くして夢跡に立つ桜かな


平泉バイパスの路面は北へ伸びる

平泉バイパスの路面は北へ伸びる
(2003年12月30日佐藤撮影)


 

北上川の岸辺は人工的でしかも急斜面である

北上川の岸辺は人工的でしかも急斜面である
(2003年12月30日佐藤撮影)

 


 
柳の御所と高館の対岸から平泉バイパスの盛り土を見る
柳 の御所と高館の対岸から平泉バイパスの盛り土を見る
(2003年12月30日佐藤撮影)
 
新高館橋を渡って、対岸に来た。いざ歩いてみると、北上川の河面から吹き上げてくる川風は、耳が千切れるほど冷たかった。やっ との思いで橋を渡 りきると、焼石岳が高館の北方遙か先に白い衣を纏ってどっかと腰を下ろしている。田んぼの畦道を通って北上川の岸辺に立つと、この川独特の何とも言えない よい匂いがした。今日は特に空が青く澄み渡っている。川面をみれば、笹波がたって、まるで海のようだ。その岸辺に一艘の小舟が強風 に揺られながら漂っていた。

けれど、対岸をみれば、紛れもなく、北上川は平泉バイパス工事の盛り土が壁のようになって、この大河と平泉の聖地を分けてし まっている。悲しいといえども、これが現実の平泉なのだ。私たちはその現実から目を背けるべきではない。

ふと、なぜか西行さんのことを思った。当時、西行さんは、この大河をどのようにして対岸に渡ったのであろう。奥州藤原氏の財力があれば、大きな船を幾艘も 繋げて、橋としたかもしれない。いや西行さんのことだから、目の前にあるような小さな渡し船に、でんと座って、北上川の春風を受けながら、のんびりと桜の 花の歌でも詠んでいたに違いない・・・。そんな途方もないことを考えていて、こんな歌が浮かんだ。
 

西行はいかに渡らむこの大河束稲山の桜見むとて

高館から束稲山を望む

高館から束稲山を望む
(2003年12月30日佐藤撮影)

 


こんな高館からの景観を見たら芭蕉は何と言うだろう?!

 

こんな高館からの景観を見たら芭蕉は何と言うだろう?!
(2003年12月30日佐藤撮影)


高館の直下にある変電所
(2003.12.30 佐藤撮影)


 

昔からずっと思っていたことであるが、高館に登る参道に何故か、電力会社の変電所が広い場所を占領している。地元の人は、目が馴れたのか、誰もこの変電所のことをとやかく言う人はいないが、とにかく、平泉一の景勝地である高館の直前にこのような景色を損ねる構築物があるのは、どのように考えてもおかしい。もっと遠くから尋ねてくる観光客の目線で物事を考えた方がよい。彼らは、義経公のことを思い、芭蕉さんの「夏草や」という名句が誕生した場所を見にやってくるのだ。最近では、電力会社も、「白い国の詩」という雑誌などを発刊し、奥州藤原氏の特集をするなど、文化的な取り組みをしてきているようだが、現実の景観の保全に、もっと目を向けて欲しい。ともかく、現実、高館の変電所のような状態を何とか改善することを一日も早く実行してもらいたいものだ。電力会社の問題では、平泉の町を蜘蛛の巣のように張っている電柱電線問題もある。

何故ここに変電所など置くのかと「高館」直下の景色を憂ふ


 
 


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2003.11.25
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