王さんが宙に舞った。二年続けてのパリーグ制覇。これで念願の日本シリーズON対決が実現する。二人は、年齢で五歳
の違いがある。昭和33年、六大学のスターとして華々しく長嶋さんがデビューすると翌年、王さんが、甲子園優勝投手として、いがぐり頭も初々しく巨人軍に
入団し、すぐに打者に転向した。
ONが揃ったそれからの巨人は、とにかく強かった。「巨人・大鵬・卵焼き」と云われた時代が来た。黄金時代を築いた巨人軍は、V9
(1965−1973の間の9年連続リーグ優勝)という不滅の金字塔を立てた。
ON砲として、ふたりは球界のスターから日本の顔となった。ふたりの個性の違いは、誰の目にも明らかだ。いつも陽気な笑顔を振りま
く長嶋さんに対し、王さんはよくその深い眉間のシワが話題となるまるで武者修行の剣豪か求道者のようである。
V9時代の監督の川上哲治氏は、当時を振り返ってこう語る。
「あれは日本シリーズ前の夜のこと。昼の練習が終わり、夜はミーティングで鍛え抜いた。その後、レポートを回収してみると、王は紙に箇条書きで、びっしり
書いてあるのに対して、長嶋は、一行だけ、「よく分かりました」と書いてあり、大笑いした思い出がある・・・」
これほど二人の個性には差があった。だから川上監督は、チームを引き締める時には、何を言っても堪(こた)えない長嶋
をみんなの前できつく叱った。するとあの「長嶋さんも怒られているのだから」とチームが引き締まったと聞く。厳格な王に対して、長嶋はひとり豪華な自室で
遊ぶ裸のおぼちゃまの風情がある(ちょっといいすぎかな)。
日本シリーズで再三戦った野村阪神監督(当時の南海の捕手)は、バッターボックスに入る打者に対するツブヤキ作戦で有
名だったが、何としても長嶋さんには効かなかったという。ある時は、グランドの砂を足で蹴って知らんぷり、またある時は、プッと一発オナラをかましたりす
る・・・。
王さんは、当時悪童と呼ばれた堀内投手と同部屋だったが、その堀内が、再三門限破りを繰り返したのに腹を据えかねて、殴り飛ばした
こともある。その堀内氏は、当時王さんは、驚くような気迫で野球に取り組んでいたと振り返る。何しろ、夜、真っ暗な中で、「ビュッ・ビュッ」と繰り返され
る、鋭いバットスイングの音に目覚めて見ると、王さんが闇の中で、バットを振っているらしいのだ。何か鬼気迫る感じだ。
現在でもこのふたりの個性の違いは際立っている。長嶋さんは、どんな惨めな負け方をしても、選手のせいすることはな
い。そのことを王さんにも長嶋さんにも仕えた工藤投手は、「王さんの時は、野球観の違いもあって何度か、監督室に文句を言いにいったことがある。しかし長
嶋さんは、気持ちよく使ってもらえる。長嶋さんほど負けた時に選手のせいにしない監督もいない」と言っている。もちろんだからといって、王さんが、負けを
選手のせいにするという訳ではない。
いみじくも、その王さんの許(ダイエー球団)から、当の工藤投手が長島さんの許へ来る時、普通なら、何らかのわだかまりが出ても不
思議はないのだが、ふたりの間に、険悪な空気が流れたとは聞かない。長島さんからきっとあの甲高い声で、「ワンちゃん、申し訳ないけど頼むね」と云ったと
か云わなかったとか。
王さんは王さんらしく相変わらずの厳格さで、今年も当世の悪童捕手(?)城島のなめた態度に腹を立てて、思いっきり、椅子を城島の
尻にぶつけたというエピソードも残っている。
若い当時から、王さんは、絶対に打者長嶋を抜いてやるという気迫で頑張った。その結果ホームランをはじめとする数字の上では、長嶋
さんを上回ったが、絶対勝てないものがあった。ひとつは人気であり、ふたつめは選手としてのカリスマだった。当時から、ふたりは一緒に飲みにいくような関
係ではなかった。しかし別に仲が悪かった訳ではない。むしろ互いの力を認め合いながら、互いの凄さを認め合うライバルであった。
2年ほど前、王さんが、福岡ドームでのスパイ疑惑で窮地に立った時、一番最初に王さんに「大丈夫、俺が一番信じているから」と激励
の電話をしたのは、他でもない長嶋さんだった。個性は余りにも違うふたりだが、たったひとつだけ共通点がある。それは限りないほど、野球というスポーツを
愛してやまないという一点である。ともかく個性の違うふたりの日本シリーズでの対決が楽しみだ。佐藤