イチローの直観と禅

イチローの天才はどこにあるか?!

1
この10月4日、大リーグに渡った、イチローの4年目のシーズンが終わった。年間安打数を262本として、大リーグ記録を更新したイチローをどのように考 えるか。絶賛の渦の中にいる人物を褒めるのは簡単だが、そんなことをやるのは私の性分に合わない。いったいイチローの感覚とは何なのか。彼のいったいどの 部分が、人より優れていて、天才の資質はどこに見いだせるのか。そんなことを少しばかり考えてみたい。

今期後半のイチローを見ながら、感じていることがある。前と比べて、バッティングが感覚的になっているということだ。最近特に、勝負が早い。安 打を欲しがって勝負が早くなっているのでは、どうもなさそうだ。初球からでもどんどんとバットを振ってゆく。以前は、もっとを考えながら打席に入っていた ように感じる。この変化はなぜか。極端に言えば、来た球をとにかく何でも打って行こうとするようにすら見える。

だから余計、スリリングになっている。少し目を離していると、イチローの勝負は終わってしまっている。これはイチロー自身の打席での集中の仕方 が変わって来ているからだと感じる。つまり、イチローはより直感的に、ボールに反応していこうとしているのである。

禅で言えば、考えているうちは煩悩の虜。無心になって只座るようになって、初めて心の呪縛から解き放たれると言われる。そうして心は何物にも囚 われない無我の状態となる。去年までのイチローは、少し考えすぎだった。特に昨年の後半は、350でトップだった打率が見る間に下がって312で終わって しまった。思い悩んで吐いたりするようなプレッシャーを経験している。その苦い思い出を克服して、今年の打率372、安打数262本が存在すると言ってよ い。

今のイチローは、理屈での試行錯誤は練習ですべて終わっていて、いざ試合になったら、只々、直感的に心を白球に集中しているのであろう。きっと 試合中、打席でのイチローの脳波テストをしたならば、禅の達人とおなじような波形が現れるに違いない。

この感覚を、イチローは、現代野球では夢と言われる「4割」の打率の感覚であると感じているかもしれない。おそらく、イチローには、すでに 400を打つ感覚が、備わっているのだ。打率4割は、ピッチャーの技術が高度になった現代のベースボールでは夢の数字だ。この夢を実現するには、人間の直 感力を鍛えるしかない。直観でなければ、大リーグのピッチャーの150キロを越える速球や内と外に激しく揺れて落ちる変化球を4割の確立で打ち返すことは 不可能だ。

かつて大リーグで夢の4割の打率を3度残した選手がいる。タイ・カップ(1886-1961)である。彼の生涯打率は「367」。12回の首位 打者を獲得している。最高打率は、確か「420」だった。

タイ・カップは、「野球にとって最高の醍醐味は打つ方も、守る方も一球、一球に集中する緊張感だ」というような言葉を遺している。その意味は、 イチローの活躍を見ているとよく分かる。イチローが打席に入ると球場全体に独特の緊張感が生まれる。それは、何でもないゴロでも、イチローの脚力が、それ をヒットにしてしまうからだ。最近では、イチローの打球に備えて、イチローシフトのような守備位置の工夫も見られる。

この前は、イチローの打球を処理しようと慌てた2塁手が、足を捻ってケガをしてしまったということもあった。普通の選手であれば、余裕をもって 処理できるものが、イチローのスピードによって、自ずと野球がスリリングなものに変わるのである。言ってみれば、今イチローが、大リーグでやっているパ フォーマンスは、イチロー革命というよりも、かつてベースボールというスポーツが誕生時に備えていたスピードとスリルと創造性に満ちたものへの回帰の現象 である、という見方もできる。

2
イチローには、バッティングに関する不思議な体験エピソードがある。それは開幕直後の1999年4月11日に起こった。イチロー自身、間違いなくヒットが 打てるというほどのいい球が来た。そこでバットを振ると、何故かボテボテのセカンドゴロになった。それでもイチローは全速力で一塁に向い疾走する。すると 頭の中で予期しないことが起こった。脳裏に、今打った凡打と理想のバッティング、両方のイメージがフラッシュバックしたというのである。この時、一塁ベー スを駆け抜けた、イチローは、失敗に終わったにもかかわらず、味わったことのない幸福感に満たされた。

それからというもの、イチローは、バッティングで迷うということがなくなったのだという。自分には「バッティング・センサーの感覚」がこの日に 付いた、イチローは本気でそのように思っているようだ。

どうしてか分からないが、イチローには、来た球に対する理想のスイングと今自分が現実において失敗したズレの両方が、脳裏に浮かぶのである。こ んな話は、古今東西でも聞いたことがない。イチローの脳裏に浮かんだイメージとはいったい何だったのか。

これは禅で言えば大悟(悟り)に近い感覚であると考えられる。その根拠は、一様に悟りを得た人間というものは、幸福感に満たされる点にある。

2千5百年前、インドにゴータマ・シュッタルタという修行者がいた。彼は「歴史上において、自分以上に難行苦行をした人間はいない」と、本気で 思い込むほどに修行に明け暮れた人物だった。でも、どうしても悟りは訪れない。彼は疲れ切って、川で身を清めていると、一人の少女が、その余りにも弱って いるゴータマの姿を見て、手に持っていた乳粥を勧めた。ゴータマは、無意識にこの粥を手に受けて、一口、二口、すすってみた。砂漠の砂のように乾ききった 彼の喉を清水のような白い乳粥が、食道を伝って、五臓六腑に染みこんでゆく。その時、修行者ゴータマの頭にひとつの感覚が芽生えた。「悟りは近くまで来て いる。いやむしろ自己のなかにある・・・」。そんな奇妙な感覚だった。そして幸福感が彼を包んだのである。これはゴータマの悟りのプロローグであった。

彼は探し求めていた感覚はこれだったのだ、と感じ、菩提樹の下に来て、「悟るまでこの場を離れないぞ」という強い決意を持って、そこに腰を下ろ したのである。そして明け方、ゴータマは、後に悪魔(マーラ)と呼ばる己の心の弱さに打ち克って真の悟りを得て、後にブッダ(目覚めた人)と云われる聖人 となった。ゴータマは、一瞬にして、人の一生というものや「苦」の意味をリアリティある直観として感じた。実に精妙な美しい感覚だった。すべてのものが、 光に満たされているように見え、全世界が自分を祝福しているように感じられた。彼は至福に満たされ、その悟りの感覚を味わいながら、数日その場に座り続け た。悟りとは、極度の精神集中が生んだ無我の境地である。その時、直観的なイメージが、どこからともなくやってくる。確か、若き一休禅師は、闇夜にカラス の鳴き声を聞いて、悟りを得たと云われる。悟りのような感覚は、突然にやってくるもののようだ。

先に挙げたイチローのセカンドゴロは、このような宗教者が多く体験した悟りの感覚に近いものと推測される。
 

3
イチローが禅者の悟りに近い感覚を得たエピソードには、実は複線がある。イチローは、単なるヒットという結果を求めるのではなく、自分が理想とするバッ ティングに近づくための常識では考えられないような練習を行っている。

ある時、西武球場で、黙々と投げ続けるバッティング投手と渡り合っているイチローがいた。すでに時間は30分以上が経過していて、投球は、ゆう に百球を越えている。しかし快音は聞こえない。それもそのはず。その間、イチローがバットを振ったのは、百球のうちたった四回だった。不思議に思ったの は、後ろでイチローの練習振りを取材しているマスコミの連中だ。練習終了後、そのことをイチローに質すと、イチローはいつもの調子で、「あるコースの高め の一点に来たボールだけを選んで打つ練習をしている。このコース打ってヒットになったのだが、自分の理想のスイングとイメージが合わないので修整をしてい る」と答えたというのである。意識を一点に集中し、しかも己のイメージにある理想のフォームで、来た球を打つ訓練である。

バッティングゲージに入って打たないで、ただ見ているというのも大変な訓練だ。ただ一点に来た球だけを待って他は全部捨てる。しかも球は、常に もの凄いスピードで、自分の前を掠めてゆくのである。動体視力を高めることにも通じる。

ある意味、これは禅の修行に近いものがある。禅には座る禅だけではなく、歩く禅というものもある。ゆっくりと禅道場が、寺の廊下を歩きながら、 心を調えて無我の境地に己の意識を持ってゆくのである。強いて云えば、イチローは、バッティングの奥義を極めてみたいと強く思って、自分なりの訓練法を考 えているうちに、バッティング禅という彼一流のスタイルを創り出してしまったということになるかもしれない。

座禅の効用は、心が落ちつき、リラックスした状態となると云われる。イチローをみていると、たとえ走っていても、歩いていても、背筋がまっすぐ に伸びている。しかも、どんなに早い運動をしていても、常に余裕がどこかに残っている。このスタイルは自然に身に付いたものかどうかは不明だが、彼の一見 クールに見える態度は、座の達人が禅定に入った横顔を思わせるものがある。

4
ある禅の高僧と食事を一緒にしたことがある。温泉での出来事だ。朝その人物と食事をすることになった。私は寝ぼけ眼で、開いたアジと卵、海苔、梅干しとタ クアンという朝餉をいただいた。すると横で、その高僧が食している。食す姿勢がはじめからまるで違っている。背筋を伸ばし、箸がUFOか獲物を射程にいれ たライオンのように右に左に動くのだ。そしてあっという間に食事は終わった。終わると、茶碗に白湯(さゆ)を入れて、箸を動かしながら、御飯茶碗、みそ汁 茶碗、を伏せて、合掌をして終わった。見事という他はない。

余りの手際の良さに、「修行のようですね」と言った。すると、高僧は、笑いながら、「禅は座るだけではないのです。生きることすべてが修行で す。食することはもっとも大切な修行のひとつ。ひとつもおろそかにはできません」と言われた。このまま、お膳を下げれば、すぐに昼の膳を盛ることになる。 禅寺では、そのような僧侶たちの日常が当然のようにある。我々は、禅と言えば、「座禅」とばかり思っているが、生きることそのものが、禅なのである。

イチローの一挙手一投足を見ていると、まさに禅者の生活のように映る。つまり彼は、バットマンだから、バットで、ヒットを打てば、それで良いこ とになるが、彼の場合は、バッターボックスに立つまでの、一連の動作こそが、大切になる。それはまるで禅僧の修行か宗教儀礼のようですらある。

試合の数時間前に、イチローは、グランドに入るという。ホームグラウンドでは、五時間も前にグランド入りをするらしい。そこでイチローは、我独 り入念なランニングとストレッチを繰り返し、バットの状態を確かめながら、やっとバッティングゲージに入る。守備練習でも同じで、愛用のグローブを点検し ながら、背筋を伸ばして、ライトの守備位置に着く。そしてあの我々が眼にする万人注目の2時間半のゲームがある。

イチローには、他の選手とは、練習に対する取組姿勢がまるで違う。準備が長いというよりは完璧な準備があって2時間半の試合があるのだ。この準 備に要する一連の動作には一切の妥協がない。しかもそこには彼特有のリズムがあり、マスコミや他の選手が入り込む余地がないようなオーラが漂う。今年4度 目のオールスター出場を果たしたスーパースターのイチローに、大リーグの名だたる選手が、イチローと一言話したいと、彼のバッティングゲージの前で列をな したというのは有名なエピソードだ。我々はイチローのゲームしか見ていないが、イチローのイチローたるゆえんは、実は普段の日常生活にこそある。

好機で打てずに、悔しさで、グランドにバットを叩きつける選手がいる。ひどいのは、叩きつけて、バットを折ってしまう者もいる。イチローにはあ り得ないことだ。イチローのバットを作っているのは、久保田五十一(くぼたいそかず)さんという日本のバット職人である。かれこれ、12年間、イチローの バットを作り続けている。イチローとバットは一体であり、バットに対する感謝は、他の選手の追随をまったく許さない。「打てないのは、バットのせいではな く、自分のせい」と言ったのは、イチローではなく、現在中日監督の落合博満の言葉だ。イチローのバットへの思いはこの落合の言を彷彿とさせるものがある。

試合中はもちろんだが、試合後には、イチローの行動パターンがある。グランドから、ロッカーに引き上げた後、バットとグローブ、スパイクなどを 一通りみがくのである。これは子供の頃からの行っているイチローの儀式のようなものだ。このように考えると、益々イチローの一日一日の選手生活が、禅者の 生き様のように感じてしまうのだ。162試合で、262本という安打数を記録し、イチローは84年振りに、大リーグ記録を更新した。

「小さな積み重ねがこのような大記録に結びついた。だから嬉しい」と、262本の新記録達成時に短いコメントを残したイチローに対して、現在大 リーグ最高の選手と言われるボンズは、「この262本の安打記録を破るとしたらイチローしかいない」と、禅者のごとき日常を送るイチローに最大級の讃辞を 送った。同感である。
 

5
哲学者の西田幾多郎に「行為的直観」という論文がある。
その中に、「我々の行動は、固(もと)種的であり、行為的直観に物を見るより起こる。歴史的世界においては、動物の本能作用の如きものから人間の行動に至 るまで然らざるはない」とまるで、チンプンカンプンな文章がある。

この文章を私はこのように考える。例えば、何故ごった返す早朝の駅構内で、人は他人とぶつからずに通り過ぎることができるのか。その答えは、我 々個人個人の心のなかで、行為的直観というものが、働いているからである。西田の言う「行為的直観」とは、まさに駅構内を素通りする人間が、直観で先を見 通し、自分の歩を調整しているようなことを指していると思われる。もっと考えれば、四方の無数の個人も、それぞれが自らの歩くスピードを直感的に調整して いるから、ぶつからないのである。

この時、駅構内を歩く私の思考は、ただ四方から歩いてくる他人を見ている。考えているわけではないが、無意識で、自分の歩くスピードを調整して いる。初めて、早朝の駅構内を歩く人間は、そうスムーズには行かない。時として、相手の行く同じ方向に歩みを進めて、立ち止まったりする。行為的直観が、 未成熟なためである。時に、混んでいる合間を、もの凄いスピードで、抜けて行く人間がいる。行為的直観の鋭い人間は、それでも、他人とぶつかることなく、 立て込んでいる駅構内を難なくすり抜けて行く。

かつての巨人軍のスパースター長嶋茂雄は、「動物的な勘をもった天才打者」という称号が付けられていた。長島は、大学時代猛訓練で知られる立教 大学の砂押監督に徹底的に鍛えられた。何しろ、暗くなってから、長島に向かってノックが始まる。長島は、このノックを素手で受ける訓練をした。現役時代長 島は、顔を背けながら、難しいサードゴロをさばいてみせて喝采を受けたが、彼の持って生まれた感覚(行為的直観)は、この猛訓練によって、より鋭くなった のである。

長島が、顔を背けてボールを取る瞬間のことをスローモーションで考えてみる。すると飛んでくるボールは、一旦、長島自身の目から入って、瞬時に 飛んでくる軌道が計算される。もちろんその計算は、心のスクリーンでなされる。実の目よりも、遙かに心の眼の描き出す像こそが大事になる。長島のファイン プレーひとつにも、そこにはやはり彼一流の行為的直観が働いていることになる。

イチローのバッティングにおける行為的直観の働きを考えてみる。
まずイチローの目は、ボールの軌道と球種を瞬時で判断し、その軌道計算を行う。その軌道計算した予測のもとに、それに見合ったバットスイングを選ぶのであ る。流して左方向(レフト側)に打つのか。引っ張って右方向(ライト側)に打つのかを決める。基本は、低い当たり、ライナーが、打ち損じも、ゴロになるよ うなスイングをする。ここでも大切なのは、行為的直観が心に映し出すボールの軌道だ。

イチローが、ホームランを狙う時には、予め、高めのボールの下ッ面を逆スピンを掛けて、ライトスタンドを狙う。時々、ボールが高めに来て、本 来、ヒット狙いであった所を、瞬時に変えて、ホームランを打ちに行く時がある。イチローにおいて、ホームランは、偶然の産物ではなく、あくまで狙って打つ ものとなる。

イチローの行為的直観を考える時、普通の人間が駅構内を歩く時とは明らかに質の違う行為的直観が働いていることに気付かされる。つまり、イチ ローの行為的直観は、どちらかと言えば、コンピューターによる軌道計算に近いものがある。例えば、今、国際政治の世界で問題になっているような「弾道ミサ イル防衛システム」(BMD) がある。これは、敵が発したミサイルを上空に打ち上げているスパイ衛星が感知し、その軌道を瞬時に計算し、着弾前に、敵ミサイルを別の弾道ミサイルに打ち 落とすというものである。イチローの行為的直観には、このような理性の介入すら感じさせるものがある。

6
いったいイチローの目にピッチャーの投げたボールがどのように映っているのだろう。イチローの視力は、「0.9」とか「1.0」ということだから、往年の 大打者と比べて、けっして良い方ではない。

現在では、近視の選手が、コンタクトやメガネを付けて、視力を矯正しながら、強打者となっている例も多いから、通常の視力の良し悪しは、さほど の問題ではないようだ。

それより大切なのは、動態視力というものである。150キロの速度で、自分の体に向かってくるボールを捉えるには、むしろ動態視力と行動的直観 による素早いバットコントロール以外にはないような気がする。

かつての巨人軍の強打者川上哲治は、「ボールが止まって見えた」と語ったことがある。最近ではどこかで、「ボールの縫い目が見えた」ということ を言ったような気もするが誰か思い出せない。実際にボールが止まって見えるような感覚は得られるものだろうか。

コンマ何秒の間に、もの凄いスピードで自分に向かって飛んでくるボールが、あたかも時間が止まったように見える、なんてことが実際にあるものだ ろうか。

昔、こんな話を聞いたことがある。バイクに乗って自動車事故にあった人物の話だ。彼はバイクに乗っていて、いつもの道を、50キロ程度のスピー ドで、仕事場に向かっていた。すると対向車が不意に自分の車線に入ってきて、正面衝突をした。彼は学生の頃、体操選手だったが、当たってからの時間は、ま るで別の次元に入ってしまったように感じた。すべてがスローモーションのようになって、自分が頭から空中を舞っていることが分かった。彼はこれではいけな いと、瞬間に頭を下に向けて体を空中で反転させ前宙するように着地しようとした。飛んだ距離は、十数メーターになる。そこで彼は着地に失敗して、足を骨折 してしまったのである。彼はこのおそらく、正確に計れば、2,3秒に過ぎない時間を、とてつもなく長く感じたと私に語った。

不思議なこともあるものだ。このスローに周囲の情景が見えたということに何か秘密がありそうである。前に登山家の遭難記録の本をいくつか読んだ ことがある。その中で、ラインホルト・メスナー(1944-)の本だったか、他の人物だったかは、定かではないが、登山家の間では、心と体が離れる感覚に 見舞われることがあるとの、不思議な体験を語っていた。自分が、落ちているのに、自分が落ちて行くその姿をやはりスローモーションのように見ているという のである。その後、痛いと思って気が付いたら、崖の間に挟まって生きていたというものである。生死を争うような究極の体験だから、これをそのまま受け取る ことはできないが、人間には、実際の目とは違う、第三の眼とでもいうようなものがどこかにあって、常識では計れない時間感覚が働く瞬間があるようだ。

もちろん、イチローがいつもこのような超能力のような感覚によって、ヒットを量産しているということを言うつもりはない。表現するならば、イチ ローは、他の打者よりも、スローな感覚で、ボールを見ているのではないかと思うのである。これは、初めて150キロを体験した者と何度も150キロの速球 を見慣れている者を比較すれば一目瞭然だ。つまり初心者は、ボールを感覚として短く見ているのである。それに対して、イチローは、ボールの軌道をゆっくり と余裕をもって見極めることができる次元にいる選手ということである。

イチローが、今年の終盤になって、若い投手に頭にデットボールを喰らった。その後イチローは、知人のスポーツジャーナリストに語ったという。 「今回のデットボールは、普通なら、顔面直撃を喰らうような球だった。長く最後までボールを見ていられるからあの程度で済んだ」これを解釈するならば、普 通の選手よりも、長くボールを見極められるから、最後に避けて急所を外すことができたということになる。

今大リーグで、ボールを最後まで見極められる選手と言えば、バリー・ボンズとイチローである。誰にとっても、バッティングで難しいのは、内角高 めのストライクと、外角の低めである。特に内角高めは、どんな強打者にとっても難しい球とされる。ボンズは、内角高めに来たボールを最後の最後まで、待っ て、鋭く振り抜くことができる現代最高のスラッガーである。イチローは、ボンズほどの強打はないが、彼の場合は、ギリギリまで待って、引っ張ることもでき るが、内角高めをレフト側に流すことができる。外側のボールを流し打ちするのは普通だが、内角高めをレフト側に意識して打てる選手は、大リーグ広といえど も、イチロー位なものであろう。

このように考えてくるとイチローのボールの見え方というものは、人よりもより長くボールを見ていられる感覚が身に付いているということになるの ではないだろうか。

つづく



2004.10.5-2004.10.16 佐藤弘弥

義経思いつきエッ セイ

義経伝説