「ナガシマ・ジャパン」勇気なき敗戦

ー何故負けたナガシマ・ジャパンー


 


アテネ五輪野球での日本チームの準決勝敗退を見ながらつくづくと思った。
「勇気ある者は勝ち勇気なき者は敗れる」と。相手はオーストラリアだが、日本チームは、自分に敗れたことになる。この試合、勝負どころは、七回だった。六回好投していた松坂投手が、右に流し打たれて一点を献上した直後の七回、野球の神さまは、日本チームにも公平にチャンスをくれたかに見えた。まず小笠原の打球がショートでイレギュラー。続く和田の当たりも相手のエラーを誘って、二アウトながら、一、三塁のタナボタの絶好機を迎えた。ここで勇気を持った策が必要だった。これは決して結果論ではない。野球に限らず勝負事の定石(セオリー)というやつだ。

ところが、ここで、先に仕掛けたのが、オーストラリアチームだった。それまで無得点に抑えていた好投の右投手を思いきって、左投手にチェンジ。何とその左投手とは、阪神在籍中のウィリアムス投手だった。サイド気味から投げる変速投手だ。しかも対決の相手は阪神で同僚の左打者藤本内野手。おそらく、オーストラリアのベンチでは、はじめから頭にあったシナリオだったに違いない。

日本のベンチは、本来ならば、当然右打者のピンチヒッターを使うのべきだった。ところが何を考えたのか、あるいは勇気がなかったのか。日本チームの中畑ヘッドコーチは金縛りにあったように動かない。代打の切り札不在、との声もあるが、それは当初から分かっていたはずだから関係ない。一球目、サイドから大きなカーブが来たが、まったくタイミングが合わず、空振りをした。ここで代打でも良かった。しかし中畑ヘッドは動かない。結局、藤本は、力のないサードフライで万事休す。これで勝負があった。「日本チームは99%負け」と私はその時確信して、テレビの前を離れた。もしも、藤本で行くとすれば、はじめからベンチがサインを出してプッシュバントでも仕掛けて、一か八かの腹を据えた勝負に出るしかない。

「勇気ある者は勝ち勇気なき者は敗れる」という言葉を実感したのは、女子マラソンでもそうだった。優勝した日本の野口には、自分から勝負を仕掛けるだけの勇気と戦略があった。彼女の勝利は、まさに勇気の賜物だった。彼女は、25キロ付近の上り坂で、勝負に出た。相手は実力では段違いのスーパースター、ラドクリフ(イギリス)だ。173cmと150cmの戦い。それはまるで小学生と大人の戦いのように見えた。野口の藤田コーチは、ラドクリフに勝つには、30キロから下りになる地点まで競っては負ける。だから、上り坂の25キロでスパートして勝負するしかないと、野口に予め策を与えていた。実力からすれば、相手が上だ。弱い者が強い者に勝つには、奇策が必要となる。その奇策が、スーパースターラドクリフの心の動揺を喚び、結局ラドクリフは、36キロ地点で泣きながらリタイアした。ラドクリフが熱中症に罹ったという説もあるが、完全な作戦がちだ。だからこそ、「勇気のある者は勝ち勇気なき者は敗れる」という言葉は生きているのである。

さて、ナガシマ日本と言われたアテネ五輪派遣の日本野球チームであるが、最大の敗因は、中途半端な指揮官の配置だったということを指摘しないわけにはいかない。妙なことを云うが、もしも一ノ谷の合戦や屋島の合戦で、現場の指揮官の源義経が、心の中で、「兄頼朝だったら、この場合どのように指揮するだろう」などと、悠長に構えているはずがない。刻々と変わる戦況の中で、そんな馬鹿なことをしていたら、おそらく平家の一騎当千の兵(つわもの)たちが、あんなに簡単に敗北してしまうはずはなかった。つまり最前線にいる義経は、その場で瞬間瞬間、全身全霊をもって勇気ある決断をしたことによって、源氏を勝利に導いたのである。

例えば、屋島合戦の前に、逆櫓論争という梶原景時との有名な口論がある。この時、梶原景時は、頼朝の名を出し、義経が嵐の中をこぎ出して行こうとした作戦を非難した。義経は、それに対して、戦の時に引く事など考えてやっていたら、そんなことでは、戦う前に敗れているのと一緒と引き下がらない。結局、義経は、子飼いの精兵七十騎を五艘の船に乗船させて、高波が逆巻く海にこぎ出したのである。残りの二百艘は、梶原と共に、その場に残ったのであった。その後、義経は、屋島に渡るや、次々に策を講じる。まず源氏に味方する者たちを募り、平家の裏を掻き、大群に見せかけて、海に平家軍を逃亡させて、あの有名な屋島の合戦に勝利するのである。一方、頼朝の事が頭にあって、動きの取れない景時は、屋島の合戦が終わる頃、二百艘の船に分乗した兵数千を引き連れて、屋島に渡ってくるが、大恥を掻き笑い者となる。結局、この逆櫓の大恥により、梶原は、義経を妬み、何とかこの人物を追い落とそうと、頼朝にありとあらゆる悪口雑言を並べて、兄弟を離反させることになるのであった。

このように現場の指揮官が、遠くにいる総大将のことを思って指揮しているようなことでは大決戦と言われるような戦には勝てるはずはない。アテネ五輪の野球にもまったく同じ事が云える。最後にあえて云わせてもらえば、この敗北の裏には、長島さん自身の私欲というものも少なからず働いていた気がする。私は、五輪直前、自分が行けないということで、元阪神監督の星野さんにでも、「日本野球の為に一旗脱いでくれ」とでも依頼するかと思った。ところが、現場指揮官としては、未経験の中畑ヘッドコーチにそれを託した。子飼いの人間だから、自分の意志が通じやすいと思ったのかもしれない。しかし現場の指揮官としては、残念ながら勇気を持った決断を出来ずに敗退してしまった。こうして日本チームは敗れるべくして敗れたことになる。冷静にふり返れば、勝利の神様は、日本にもオーストリアにも公平に勝利のチャンスを与えていたと思う。勝利と敗北を分けたもの、それは間違いなく「勇気」の二字であった。了
 

 


2004.8.25

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