野茂英雄は新しい日本人?!


大リーガー野茂英雄が日米通算200勝を達成した。最近の野茂の投球をはっきりって私は見ていない。痛々しくて見ていられないの だ。95年大リーグに颯爽と乗り込んだ野茂と05年現在の彼のイメージには余りに落差がある。

肩の故障による手術を経て、野茂の真骨頂であった速球は完全に影を潜めている。正直に言って、現在の彼の投球はいつ打たれて不思議でない状況が あ り、悲壮感すら漂っている。とてもでないが正視できないのだ。それでも投げ続ける彼の野球に賭ける情熱は、単なるハングリーを越えた何かがある。野茂は、 確か二、三度解雇されている。それでも腐らず、あの寡黙さで、淡々と自分を必要としてくれるチームのために馬車馬となって投げ続けるのである。そこに私 は、日本人特有の引き際の美学というものをまるっきり飛び越えた男の凄みを感じるのである。日本人もここまでタフになったか、ということだ。

もしかすると、野茂という人間の生き様が、日本人のこれまでの伝統的な人生観をあっさり変えてしまうようなことも感じる。これまで、日本 人は、引き「際」、散り「際」に「際」して、ある種定型的な美意識をもっていた。それは、「引き際のきれいさ」の事であり、「あっさりと少し余力を残す位 で引く」という定石であった。

野茂は、これまでの日本人の常識を覆している。私は、肘の故障や解雇騒動の時、正直、野茂もこれで現役引退かと、何度も思ったものだ。し かし野茂の精神は前しか向いていないように見える。少々のトラブルがあっても、野球をこよなく愛する野茂自身は、「我関知せず」と、いうような飄々とした 態度で、その度に不死鳥のように甦ってきた。

大リーガー野茂の意思力というものは、これまでの日本人にはまったく感じられなかったいい意味での頑固さがある。しかし投球の技術から野 茂という投手を厳しく見れば、野茂はまだ速球派から軟投派に脱皮したとは言えないであろう。厳しく言えば、彼はまだ綱渡りの技術不足の投手であるに過ぎな い。彼の現在を支えているものは、これまでの日本人にはなかった引き際の美学を度外視したタフな精神力である。もしも彼が軟投派の投手として開眼したら、 その時には、安心して見ることが出来る日が来るかもしれない。いや、絶対にそうなった日本人野茂投手を見てみたい。野茂英雄が、もう一歩脱皮する日を夢見 つつ、ともかく日米200勝達成を讃えたい。



2005.6.17 Hsato

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