現代の弁慶
ヤンキース松井への檄

 
がんばれ。松井と云いたい。イチローが牛若ならマツイは弁慶だ。その弁慶が、背中が丸くなって、子猫のようなバッティングは悲し過ぎる。日本では大男の弁慶も、ニューヨークでは借りてきた子猫になってしまうのか。四月に、「こっちでは、ホームランバッターではない。中距離ヒッターです」とオリコウさんよろしくマツイが云った時、「彼は自分を見失った」と思った。世界に羽ばたくなら野茂のようでなくてはならぬ。自分のプレースタイルを少しも変えては駄目だ。結局今のところ、すっかり「いい人」になった松井は内弁慶の典型的だ。

厳しい言葉で言えば、弁慶の持ち味とは、荒々しい腕力と人を喰った感性だ。その弁慶が人が良かったら、勧進帳で窮地の義経を救うために心を鬼にして主君の背をうつことなどどうして出来ようか。優しさとは、いっぺん鬼と化した人物がそうなるから貴くかっこいいのだ。

松井の欠点は、いつでも誰にでも相手を思いやる優しさにある。あんなに怖い顔をしている彼が差し出されたサイン帳に、いやな顔ひとつせず笑顔でサインをする姿を見たことがある。立派だ。しかし今は、そんなことをする時ではない。開幕以来のあの丁寧な試合後のコメントを聞くにつけ、あれではとても弁慶のようなアメリカ人の心を打つような荒法師にはなれないと思った。昨日、5月の成績を聞かれ、たった一本に終わったホームランを顧みて「こっちでは今のレベルではホームランを打つことは難しいということですかね」と寂しそうに笑うのを見て、すっかり力が抜けてしまった。

あんなインタビューなんか、している間に、自分を取り戻せと云いたい。松井とは何だ。松井の良さはなんだ。誰が見たって分かる。ボールを誰よりも遠くへ飛ばすことではないのか。

四月の段階で、人の話を聞く優しさがありすぎたということだ。確か四番の Jジオンビーが「まずはホームランではなく、3割を狙った方がいい、そうしたら、ホームランも出るようになる」確かに一理あるアドバイスだ。しかしだからと云って猫なで声ならぬ、左にこすったような打ち方は、イチローに任せて、自分とは何か、何で、これまで生きて来たのかと問うべきだろう。

昨今よく聞くことだ。アジアの他の国の若者と比べると、どうしても日本人は、競争になると弱いそうだ。慶応のある教授が言っていた。「昔は、絶対他の国の人間には、負けない。国を背負ったような気持ちで、留学中はがんばったものだが、最近の学生は、せっかくいい大学に留学しても、何だかんだ理由をつけて帰ってくるケースが多いんだ」と。

日本で優等生を通した人物も、生き馬の目を抜くようなアメリカの大学の競争の中ではひ弱な花のようなものでしかない。これも運動会で、一等賞もなくすような極端な平等主義がもたらした弊害だ。人をけ落としてのし上がれというのではない。自分の実力を過小評価するようなものにチャンスを与えるほど甘い社会ではないということだ。

この20年ほど、男には優しさが求められた。若い女性に結婚相手のことを聞けば「優しい人」などということが返ってくる風潮で、日本人は、極端に均質化した社会の中で、荒法師のような強い男を見忘れてしまったのだろうか。価値観を考え直す時期に来たのかもしれない。

闘うべき時、優しさを見せるのは、けっして美徳とは言えない。日本人の優しさの典型が松井にも反映しているというべきか。世界の中で、一番激烈な競争社会アメリカの中心都市ニューヨークにあって、松井は自分を見失って苦しんでいる。戦争の最中で、人の良さは、美徳ではない。それは命を失うことに通じる。確か松井は、日本を発つ時、命を懸けて、勝負したいと云った。今こそそれを見せてもらおうではないか。誰も松井の力を認めている。それは彼のスイングをみれば分かることだ。アスリートに限らず人間というものは、自分の力を信じられなくなった時、その世界を去らねばならぬ。だからまずは、戦え、松井、己の弱き心と。佐l藤

 


2003.6.2
 

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