川村渇真の「知性の泉」

2003年の独り言?


●2003年12月31日:今年最大の成果は写真道のサイト

 2003年も今日で終了。本サイトの更新頻度を年間で比べると、今年がこれまでで一番低かったと思う。最大の理由は、趣味のサイトである「我が道を行く 写真道」を立ち上げ、それに注力しすぎたことに尽きる。
 写真道のサイトは、3月から準備を始め、5月7日に一般公開した。それ以降も積極的に内容を追加し、少しずつ充実させていった。特に力を入れているのは写真表現に関する解説で、体系的および論理的な内容に仕上げようと努力している。まだまだ書き足りない分もあるが、かなり書けたと自分では思っている。
 書くのと平行して、写真撮影の機会も増やした。そのため、本サイトの更新に使うはずだった時間が大きく削られ、更新頻度の向上が困難になってしまった。遅くとも11月からは、更新頻度を上げるつもりだったのに。
 代わりに、写真道サイトの内容を充実できたので、今年はそこそこの成果を達成できたと感じている。写真表現を論理的に解説するサイトが他にないだけに、その存在価値は大きいと思う。その意味も含め、今年の成果は大きいのではないだろうか。

 本サイトは、公開開始から8年半を過ぎた。8年半という時間を改めて考えると、本当に長く続けているなと思う。長く続けるには、小さな目標を設定し、地道に努力するしかない。これから先も、この点は同じだ。
 今年中に仕上げる予定だった、論理的思考に関わる内容の充実、議論の姑息手段の紹介、本サイトの内容を活用するのに役立つノウハウなどは、残念ながらできなかった。その意味では、成果が不十分だと感じている。来年こそ、何とか仕上げなくては。

●2003年9月10日:議論の姑息手段を整理中

 この数ヶ月間、趣味のサイトを中心に更新してきた。結果として、こちらのサイトの更新がほとんど停止している。その期間があまりにも長かったので、更新頻度をもう少し上げることにした。
 以前の流れを続けるなら、論理的思考方法の続編が妥当だろう。しかし、今回は別な内容を先に取り上げる。「建設的な結論を得るための議論手法」コーナーに、準備中として載せていた「議論の姑息手段を知って適切に対処」だ。
 これに関しては、できるだけ早く解説しようと考え、以前から考察していた。だが、上手なまとめ方が思い付かなかったため、検討中のままだった。ここに来てようやく、まあまあの方法が得られたので、最優先で取り上げることにした。

 議論の姑息手段というのは、質の高い議論を邪魔する行為の中でも、特に悪質な行為のこと。具体的には、都合の悪い指摘や質問には回答しないとか、議論に参加しづらい雰囲気を作るとか、議論内容で勝てないとき人格攻撃に出るとか、根拠のない悪口を言い続けるとか、タチの悪い行為がいくつも含まれる。
 こういった姑息手段だが、実は広く使われている。主には、ネット上も含む多くの会議でだ。また、特定の個人や団体を批判するウェブページでもたまに見かける。日本では、国会でも数多く確認でき、政治家や官僚の得意技となっている。もちろん、外国も似たようなもので、どの先進国でも多用されている。しかも、知的レベルが低い人だけでなく、大学の教授でさえ行っている。それほど普及しているわけだ。
 今でも普通に使われているのは、質の高い議論を邪魔する行為だと認識されていないためである。もっと根本的な原因は、良い議論の方法を、高等教育機関ですら教育していない点なのだが。

 こうした状況を解消するためには、良い議論方法を教育するのが一番。しかし、それには大変な労力が必要となる。それより効果は低いものの格段に簡単なのは、代表的な姑息手段を明らかにして、その内容を広めること。広める内容の中には、姑息手段の中身だけでなく、なぜ悪いのか、どうすれば対処できるのかも含める。
 このような形で姑息手段の情報を広めると、姑息手段へ上手に対応できる人が増える。自分が攻撃されているときでも、誰かが攻撃されているときでも、姑息手段であることを指摘し、姑息手段の影響を取り除ける。

 姑息手段が広く行われているために、世の中に悪い影響が出続けている。良い意見が姑息手段で攻撃され、本当の中身とは正反対の悪い印象を持たれて、最終的に却下されたりする。変わりに悪い意見が採用され、世の中の改善が大きく遅れてしまう。こうした状況が繰り返されている。その意味で、姑息手段は極めて悪い行為といえる。
 姑息手段で攻撃される対象は、必ず欠点があるとは限らない。完璧に近いほど欠点のない対象であっても、人格攻撃や根拠のない悪口などによって、悪い印象を持たれたりする。このように、対象が良くても姑息手段が効いてしまうのは、姑息手段の悪さを知らない人が多いからだ。

 姑息手段の悪い点や対処方法が広まれば、姑息手段が非常にやりにくくなる。少なくとも、姑息手段で攻撃された人や、姑息手段を見かけた人が、姑息手段の悪さや対処方法を知っていれば、姑息手段による攻撃を止めることができる。このような効果が期待できるため、議論の姑息手段を優先して取り上げる。姑息手段がやりづらい社会へ、少しでも近付くように願って。

●2003年8月7日:まずいものが出た!

 いやぁ、まずいものが出てしまった。それは、ミノルタの新製品デジカメ、DiMAGE A1。ほしい、凄くほしい。U30を買ったばかり(これは用途が異なるので本当は関係ないが)なのに加え、DiMAGE 7iも買ってから1年過ぎたばかりなのに。
 もともとDiMAGE 7iは、レンズ交換式デジカメを購入するまでの“つなぎ”だった。しかし、実際に使ってみると、期待以上に良かった。おかげで、露出補正まで反映する電子ビューファインダーのないカメラなんて、もう使う気がしない。それほど必須の機能だと思っている。

 DiMAGE 7iを買う前に一番期待していたのは、オリンパスのフォーサーズだった(当時は正式名称なし)。E-1という形で実際の中身が明らかになると、買う気が一気に消えた。最大の理由は、フォーサーズの仕様にある。銀塩一眼レフと同じく、ミラーの分だけフランジバックを大きく取っているからだ。これだと、広角レンズがレトロフォーカス型になって、高性能の超広角ズームが作りにくい。
 将来のレンズ交換式デジカメは、電子ビューファインダー付き、ミラーやペンタプリズムなし、高性能で高倍率の超広角ズームもあり、になると予想する。現在は、電子ビューファインダーに使う部品の解像度が低すぎるため、ミラーやペンタプリズムを載せているに過ぎない。電子ビューファインダーに使える部品の解像度が、80万画素(XGA:1024×768ピクセル相当)になったら(より正確には、その価格が採用可能なレベルに達したら)、色温度やガンマ調整機能付きで採用し、ミラーとかペンタプリズムを取り去るだろう。そうすれば、35mmフィルム換算で15〜150mmや20〜300mmといった高性能ズームが登場可能になる。
 よく考えると、フォーサーズにも、このような仕様を加えられる。ミラーなし版の仕様として用意すればよいだろう。レンズを間違って取り付けられないように、レンズマウントを違う形にして、位置合わせマークの形なども別にする。ミラーなし版のレンズは、標準フォーサーズのボディには取り付けられないが、逆は可能だ。標準フォーサーズのレンズは、マウント変換アダプタを介して、ミラーなし版のボディに取り付ければよい。当然、変換アダプタを介しても機能が正常に動くように、機械的および電気的にミラーなし版の仕様を設定する。この仕様を加えたら、ミラーなし版のボディやレンズを作るメーカーが出ると思う。そして、長期的には、ミラーなし版が主流となるだろう。もしかして、フォーサーズの仕様に、ミラーなし版が既に含まれているとか?

 DiMAGE A1に話を戻そう。冷静に考えると、1年後ぐらいに登場する改良版のDiMAGE A1iを待つべきだろう。DiMAGE 7からDiMAGE 7iのときのように、ユーザーの満足する改良が行われるのは、最近のミノルタの傾向なのだから。最大の問題は、DiMAGE A1iの登場まで買うのを我慢できるかだ。うーん、ほしい。本当にほしい。
 もう1つ冷静に考えると、写真表現の幅を広げるために今一番必要なのは、超広角レンズが使えるデジカメ。デジタル一眼を買う手があるものの、どう考えても過渡期の製品でしかなく、2年ぐらいで陳腐化しそうなので、大金を出す気にはならない。こんな状況だからこそ、リコーからGR21のデジカメ版が出ないかと、実は期待している。これが出れば、とりあえず先に買っておき、DiMAGE A1iまで待てる気がする(本当か?>自分)。

●2003年7月22日:小型デジカメU30を衝動買い

 撮影する機会を増やそうと、ソニー製の小型デジカメU30を買ってしまった。小型デジカメを事前に何機種か調べたが、気に入った製品は見付からず。でも、店頭で触っているうちに、大きく妥協して衝動買いとなった。U30を選んだのは、35mmフィルム換算で33mmという広角レンズが付いてたから。これが唯一の選択理由で、他の気になる部分はすべて無視することにした。
 このカメラの位置付けは、トイ・カメラに近いだろう。撮影モードはフルオートだけで、露出補正やホワイトバランス選択などの機能はない。シャッターボタン半押しで、ピントと露出がロックする機能だけ。少しでも良く撮りたいなら、このロックだで何とかしなくては。
 実際に撮影してみると、いろいろな癖が分かってきた。少しくらい場面でフラッシュを使わないと、露出がアンダーになることが多い。おそらく、暗いときは露出をアンダーにして、手ブレを防いでいるのだろう。トイ・カメラとしては正解かも。この結果、かなりのショットで、撮影後のレベル補正が必要となるみたいだ。ピントが合った状態の表示も分かりにくい。
 画質は、最初から期待していなかった。予想どおり、圧縮率も高く、エッジも凄く強調した写真だ。いちおう200万画素なので、ウェブで公開する目的には何とか使える。いつでも持ち歩けるカメラを手に入れたからには、もっともっと撮影しなくては。

●2003年6月30日:本サイトは公開開始から8年経過

 本サイトの公開日は1995年6月29日なので、昨日でちょうど丸8年。あと2年で10年だ。そう考えると、長くやってるなと感じてしまう。更新頻度がときどき低下したりするものの、こういうものは長く続けることが大事だと思う。
 ここ2ヶ月ぐらい力を入れて更新しているのが、趣味のサイト「我が道を行く 写真道」だ。私の考える写真表現を、できるだけ詳しく明らかにしようと、言葉による説明を試みている。写真表現に関して、こんな形で突っ込んだサイトや本がほとんど(まったく?)ないので、貴重な存在になるだろう。
 今年の最初の予定では、論理的思考の更新に重点を置くつもりだった。しかし、仲間内だけに公開している写真サイトが好評だったため、一般公開することにした。同時に、写真表現に関しても書きたくなった。どんな内容でも、書きたいと思ったときが最良の書き時。どんどんと書き進むし、書いた内容の質も高まりやすい。というわけなので、当初の予定を取りやめてまで、趣味のサイトを精力的に更新している。
 書き進むうちに、書きたい内容も増えてしまった。目次に相当する「撮影時の視点」も、事柄数が3倍以上に増えた。その結果、2ヶ月ほど重点的に更新したのに、まだ半分程度しか書けてない。これまでと同じ方針で続けると、本サイトの更新が実質的に停止したままとなるので、労力を半分ずつに分けるのが妥当だろう。と頭の中で考えつつも、書きたい気持ちは止められそうもない。

●2003年5月14日:趣味のサイトの更新も一休み

 趣味のサイト「我が道を行く 写真道」を公開してから、かなり精力的に更新してきた。これだけ毎日更新できたのは、書きためた内容があったからだ。しかし、ついに底をついてしまった。というわけで、毎日の更新は昨日で終了。
 書いている内容の中で、もっとも力を入れているのは「表現意図を重視しながら写真を撮るとき、何を考えればよいか」だ。被写体を発見してから、シャッターを押すまでの間に、どんな点をどのように考えるのか、できるだけ体系的に明らかにしようと試みている。論理的思考が好きな人には、かなり面白い内容ではないかと思う。
 また、何気なく撮影している人の中には、新鮮な驚きを感じた人もいるのではないだろうか。たとえば、シャッターを押すまでの間に、こんな風に考えるのか。表現意図をこんなにも意識するのか。背景の雰囲気まで考慮するのか、などと。そんな人がいたなら、私の目的の1つは成功したことになる。
 今回書いている内容は、私が撮影するときに考えている内容とほぼ同じだ。しかし、ここまで本格的に考えることはなく、もっと不完全な形で考えている。今回書くことによって、かなり体系的に整理できた。これから撮影する際には、今までよりも深く考えられるように変わるだろう。このように、体系的に整理しながら書く作業は、自分のためにもなる。
 書きたい内容は、まだ残っている。構図とフレーミング、撮影直前の調整、表現意図を伝えるための様々な技などだ。これらをひととおり知って、それを使いながら何年か撮影し続ければ、そこそこの写真が撮れるようになると思う。残りの内容は、もう少し待ってほしい。

●2003年5月7日:趣味のサイトを公開

 長くやっている趣味の1つに写真がある。学生時代に始めたものの、社会人になってあまり撮影しなくなり、10年以上のブランクがあった。2002年1月から再開し、今では仲間を作って定期的に撮影会を開いている。
 撮影した写真はウェブページに掲載し、仲間内だけに公開していた。参加できなかったメンバーに、撮影した写真を見せる目的で。同じ写真をiBookに入れて持ち歩いていて、知り合いに見せる機会も多い。見せた結果が意外に好評で、一般公開したらと言われたため、思い切って趣味サイトを制作することにした。
 今の段階で用意できたのは、自分の目指す写真道の簡単な説明と、自分が撮影した写真だけだ。個々の写真には、撮影の意図や結果などを簡単に付けてある。今後は、写真の腕を上げるのに役立ちそうな内容を、書き加えていきたいと思っている。私自身、写真がそれほど上手なわけではないので、どれだけ提供できるか分からないが、やれる範囲内で努力するつもりだ。
 デジカメと写真器材の評価や、写真撮影の基礎を語ったサイトはあるものの、写真表現や写真道を取り上げたサイトは少ない。だからこそ、貴重な存在を目指そうと思う。

 サイトの制作だが、メンテナンスの負荷を軽減したいので、制作アプリにGoLiveを用いた(ちなみに、本サイトのHTMLとCSSファイルは、すべてテキストエディタで制作している)。専用アプリは、やはり便利だ。変更の手間を軽減できる機能があって、それを利用すれば、変更に強い形で制作できる。今回使ったおかげで、GoLiveを習得してしまった。
 制作したサイトは、大人の落ち着いた雰囲気を狙っている。写真以外はすべてモノトーンで統一し、デザインにはあまり凝らない形にした。短期間で制作したので、凝る余裕がなかったことも原因だが。

 一番悩んだのは、サイトの名称だ。かなり考えたあげく、「我が道を行く 写真道」と付けた。この言葉に込めた意味は、サイト内の「写真道の案内」に書いた。写真や写真道に興味のある人は、ぜひ覗いてみてほしい。アクセスは以下から。

      私の趣味サイト「我が道を行く 写真道

●2003年3月31日:相手の受け取り方を考えてないメール

 今年2月の上旬に、知らない人からメールが届いた。中国で起業した日本人で、新しいソフトのネタを探しているのだという。本サイトの「建設的な結論を得るための議論手法」を読み、これをもとにしたウェブベースの電子会議システムを作りたいので、私の了解を得たいと。
 こうしたメールで一番驚くのは、読んだ相手がどう思うのか考えていない点だ。メールを読んで、私は次のように思った。起業した会社で開発するなら、開発したシステムを販売するのであろう。そうなると、利益が生まれるはずだ。しかし、発案者の私から了解を得るメールなのに、その報酬にはまったく触れていない。他人のアイデアを無料で使い、自分だけ儲けるつもりだろうか、と。
 そこで私は、「オープンソース方式で開発し、広く無償提供するのであればOK」と回答した。もう1つ、「発案者である私の名前を、ソフトの作成者表示に含める」を条件に加えて。私の予想どおり、返事が来なかった。おそらくは、無料で使える形で了解が得られたら儲けものとでも思ってメールしてきたのだろう。たとえそうであったとしても、メールを読んだ相手がどのように受け取るのか、考えなかったのだろうか。あまりのレベルの低さにあきれてしまった。
 オープンソース方式での開発ならOKというのは、私の本心である。こうしたシステムが無償で使えれば、議論の質がかなり向上し、世の中の意見や提案も今よりも格段に良くなるからだ。ただし、まだ一部の内容しか書いてないため、全部を読んでも作れない。また、実際に役立つ(つまり議論の質が高まる)システムとして仕上げるためには、システムならではの機能も追加する必要がある。今の段階では、私の手助けなしでは相当に難しいはずだ。
 もし優秀な人(学校の勉強ができるのではなく、知的な能力が高い人)がいれば可能かも知れない。議論手法の基礎となっているのは、本サイトで紹介している論理的思考方法だ。その内容に当てはめながら、議論手法の説明していない部分を導き出せたら、議論手法の中身は用意できる。残りは、実際に役立つシステムに仕上げる機能を設計できるかどうかにかかってくる。こちらの方も、やっぱり難しいが。

●2003年1月28日:教養に関して思考してみた

 以前に「難しい内容の理解や哲学と、論理的思考との関係」で、教養のような難しい内容を明らかにする思考方法について、少しだけ助言を述べた。書いてしまうと、自分で思考したくなるものだ。やってみると意外に面白く、そこそこの思考結果が得られたので、思考内容の全体像を公表することにした(その内容は「『教養の定義』について思考を試みる」を参照)。このような難しい課題を思考した内容というのは、思考の例として大きく役立つからだ。
 本サイトの内容を書くときに毎回感じることだが、思考内容を全部説明するのは非常に難しい。しかし、今回のように論理的思考方法の工程分けに従って説明すると、使った文字数の割には、多くの情報が詰め込めて、しかも分かりやすく仕上がったのではないだろうか。
 今回の内容が面白いと感じた人は、自分でも思考をぜひ試してみよう。もちろん、本サイトで紹介している論理的思考方法を用いて。そうしないと、思考結論の質は確保できない。

●2003年1月14日:気ままな浮遊思考記録のインデックスを改良

 本サイトでは、提供する内容を階層構造で整理している。内容を複数コーナーに分け、コーナー内にサブコーナーを設けて、各ページをどこかに割り当てている。このような形にすると、コーナー全体が扱う範囲、提供中の内容の位置付けが明確に伝わる。
 ただし、整理されてないサブコーナーが1つだけある。「どこにも入れなかった残り物達」の「気ままな浮遊思考記録」だ。ここだけは作成順に並んでいて、内容で分類されてない。この形式だと、内容の数が増えるほど、目的の内容が見付けにくくなる。何度も読む可能性がある内容なので、この欠点は見逃せない。
 そこで、少しだけ改良することにした。コーナー・ページに、内容で分類したインデックスを用意した。前からあるインデックスは、コーナー・ページの最後に移動して残した。
 用いた分類は、かなり大ざっぱなもの。取り上げた話題が様々なので、上手に分類できなかった。それでも、分類がないよりは格段に見付けやすい。書いた時期も大事なので、インデックスに年月も付けた。
 分類が後から変わりそうなので、今回の変更では、インデックスしか修正していない。もし分類順で各ページを作り直すと、分類が変わるたびにURLが変化する。検索エンジン経由で訪れる人もいるため、これは良くないからだ。
 インデックスだけの変更により、内容の分類順で見る際には、インデックスのページへ毎回戻る必要がある。目立つ欠点はこれだけであり、ある程度は改良できたのだから、よしとした。

●2003年1月2日:文系と理系でなく数学系と非数学系

 「頭の使い方を良くする思考のヒント」コーナーにある「論理的思考と様々なものとの関係」の1つとして、文系と理系の違いを考えた結果が「文系および理系の視点と、論理的思考との関係」だ。これに関して、大事な話を少し補足したい。
 この種ので重要なのは、文系と理系の定義だ。現在では、文系の学問にも数学が入り込んでいるため、教科や学問分野で分けることに意味はない。その代わりに、数学との関係の深さで定義してみた。数学を利用するのが理系で、そうでないのが文系と。
 この定義だと、どの教科にも文系の要素と理系の要素が含まれる。その意味で、「文系の領域」と「理系の領域」という言葉を用いた。しかし、この言葉が示す内容から考えると、もっと適切な表現がある。「数学系の領域」と「非数学系の領域」だ(文系と理系の順序が逆になったのは、「非○○」よりも「○○」を前に置くのが言葉の表現として自然だから)。
 さらに考察を進めれば、「非数学系の領域」が何種類かに分けられるだろう。それが見付かると、「非数学系」の代りとして、「非」の付かない言葉を用いることができ、特徴を明確に伝えられる。残念ながら私の力では、分類を見付けられなかった。
 数学系でも非数学系でも、説得力のある内容に仕上げるなら、論理的という条件は欠かせない。数学系なら、数学を用いることで論理的を実現しやすい。ところが、非数学系では、数学に相当する道具がない。この点が現状での重大な問題であり、ダメな意見が数多く生まれる根本原因となっている。解消するには、論理的思考方法が必須だ。
 「非数学系」の代りとなる「非」の付かない分類が、もし見付かったら、分類のそれぞれで最適な論理的思考方法が得られるだろう。論理的思考方法の中心部分はそのまま使えるだろうから、思考方法に追加する要素の形で作れると思う。これが実現すれば、非数学系の領域における思考の質が、さらに1段向上するはずだ。その意味で、新しい分類を考察する価値は高い。相当に難しいことではあるが。

●2003年1月1日:今年の目標は「知の革命」の説明かも

 いよいよ2003年が始まった。連続的に流れる時間軸から見て、暦上の年の区切りに特別な意味があるわけではない。しかし、何かを決意して、新しいことや良いことを始めようとするきっかけになるなら、意味のある区切りに変わる。本人の気持ち次第というわけだ。
 昨年の年末には、本サイトの更新に力を入れた。その大きな理由は、この区切りのタイミングで、「論理的思考方法は、本当の『知の革命』を起こす」を発表したかったからだ。私も普通に育てられたので、小さい頃から「新年は特別なもの」という感覚を植え付けらた。それが完全に消えてないので、せっかく発表するなら、新年という区切りを選んでしまった。
 「知の革命」は極めて重要な変化である。今後は、これに関する詳しい話を、様々な内容の中に盛り込んでいくつもりだ。もっとも、本サイトのほとんどの内容が「知の革命」に関係しているので、今までどおりに更新していれば、詳しい話を紹介していることになるのだが。こんな感じなので、あまり力を入れず、気楽に進めていきたい。そんなわけで、タイトルに「かも」を付けておいた。
 更新に関して一番気になっているのは、頻度の低下である。この点は、今年こそ何とかしたいと思っている。それと、本サイトの内容をより多くの人が活用できるようにと考えた、項目一覧に含まれる様々な項目の作り方の解説を、できるだけ早目に用意したい。既に設計し始めたので、何とか作れるだろう。

 本サイトを開いてから、もう7年半が過ぎた。幅広い内容を取り上げてきたため、自分の思考能力を鍛えるのには、最高の機会や場所となった。その意味で、本サイトを作って本当に良かったと思う。
 最近強く感じるのは、自分の思考能力や分析能力が、毎年確実に向上していることだ。2年前だと大きな差はないが、5年前の私は、今の私よりも確実に劣る。思考能力や分析能力に大きな差があるからだ。同じ課題を検討したら、5年前の方が、かなり劣る検討結果を出すだろう。
 思考能力の基礎となっているのは、本サイトで紹介している論理的思考方法である。この内容は、私の思考方法をそのまま公開したに過ぎない。5年前の私は、思考方法がこのような形で整理できてなかった。また、含まれる要素の半分ぐらいは持っていたが、全部を総合的に使える状態ではなかった。総合的に使えるようになったのは、本サイトで公開するために整理した結果だ。整理している段階で、新しい要素も追加できた。その意味で、本サイトの作成は、私の能力を大きく向上させた。
 思考能力の向上に役立つ中身は、今後もずっと、積極的に公表したいと思っている。含まれる要素の全部を紹介し、時間が許す限り(限界はあるものの)詳しく書くつもりでいる。


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