川村渇真の「知性の泉」

難しい内容の理解や哲学と、論理的思考との関係


 難しい内容を理解しているとは、どのような状態を指すのであろうか。また、理解と論理的思考とは、どのような関係があるのだろうか。対象を“難しい内容”に限って、世の中の人々の様子まで含めて考察したら、かなり面白い結果が得られた。大事な点だけ紹介しよう。また、難しい内容の理解に深く関係している哲学も、一緒に取り上げる。

理解の度合いの軸は2つある

 まず最初に、理解に関する状態を一般的な言葉で表してみよう。単純に考えれば、「理解していない」と「理解している」の2つの状態がある。しかし、「理解していない」から「理解している」へと一気に移行するわけではない。だんだんと理解が進み、ある時点で「理解している」状態へと達する。その途中に、アナログ的な段階があるわけだ。どのような途中状態があるかは、理解する対象によって異なるため、途中の状態が無段階にあるとしておく。この軸は理解の度合いなので、略して「理解度」と呼ぶ。
 理解度の高さは、理解対象の内容ごとに異なる。ある内容の理解度は高くても、別な内容の理解度が低いことはよくある。また、理解対象の内容が難しいほど、理解度が低い傾向が強い。さらに、興味のある内容ほど、理解度が高まりやすい傾向があるのは、多くの人が感じていることだろう。
 理解の度合いに関するもう1つの軸は、実際の理解度ではなく、自分が思っている理解度の高さだ。たとえば、論理的思考を自分では理解していると思っていても、実際に論理的思考ができない状態もある。このようなとき、本当の理解度は低いが、自分が思っている理解度は高い状態といえる。こちらの軸を、自分で判断した理解度という意味で「自己判断理解度」と呼ぶ。
 2つの軸の関係を、非常に単純化して見てみよう。各軸の値として「理解していない」と「理解している」だけを考える。理解度が「理解している」の場合、本当に理解しているのだから、自己判断理解度も必然的に「理解している」となる。当然の結果だ。
 では、理解度が「理解していない」の場合はどうだろうか。自己判断理解度も必ず「理解していない」になるのだろうか。理解対象の内容が簡単であれば、自己判断理解度も「理解していない」になる可能性が高い。しかし、理解対象が相当に難しくなると、「理解している」と勘違いする確率が高まる。難しい内容とは、論理的思考、評価方法、教養、真理、悟り、人を見抜く力、洞察力といったものだ。こうした内容を、自分は理解しているとして語っていながら、具体的な中身の説明を求めると、ほとんど回答できない人を見たことがあるだろう。
 大まかには以上のようになるが、実際には途中の状態があるので、これだけ単純にはならない。しかし、ここでの目的は、理解度と自己判断理解度が一致しない状態の存在を知ってもらうことなので、この程度の考察で十分だ。

理解度は、他人への説明内容で判断する

 では、「理解している」というのは、どのような状態なのだろうか。今度は、この点をもう少し突っ込んで考察してみよう。
 理解しているとは、対象内容について考えたとき、自分で「理解した」と感じることだろうか。これだと、自分が理解したと思っているだけで、本当に理解していないかも知れない。感じた状態は、自己判断理解度が「理解している」になっただけで、理解度の値の方は不明だ。
 こう考えると、理解度が「理解している」になるのは、自分が理解したと思うことではなさそうだ。自分が思うかどうかで判断できないなら、他人との関わりで判断するしかない。そこで、理解度を他人が調べるという形で考えてみよう。
 本当に理解しているなら(理解度が「理解している」のなら)、対象内容の中身を、他人に説明できるはずである。これは悪くない視点だ。他人に分かるように説明できれば、その内容に関しては理解していると判断できる。あくまで、説明した内容の分だけだが。もちろん、説明した内容に矛盾があったり、説得力が低ければ、理解しているとはいえない。というわけで、説明内容の正しさも判断基準となる。
 論理的思考は、この時点で登場する。説明内容が正しいのかを、論理的思考方法を利用して判断する。また、説明する側も、説得力を高めるために、論理的思考方法を利用できる。説明内容を、論理的思考方法による作成物の形式で作れば、内容が正しいか判断しやすい。
 実際には、何か説明したら、それへの質問が出てくる。こうしたやり取りを経て、説明内容が出来上がる。その内容が正しい部分は理解できている範囲であり、間違っている部分は理解できてない範囲となる。正しく説明できる範囲を明らかにすることで、説明者の理解の範囲も明らかになる。

理解した人の説明内容は、理解対象の中身が中心に

 理解した人なら、どのような内容を説明できるのか、もう少し詳しく考えてみよう。
 もっとも大事なのは理解対象の中身であり、本当に理解していれば、それを的確に説明できる。どんな要素が含まれ、どのような構造になっていて、どのように利用したり作業するのかなどだ。理解対象が論理的思考であれば、対象の種類が活動なので、どのような手順で思考を進めるとか、各工程で何を考えたり作ったりするのか、成功したら何が得られるのかなど、中身に関して本当に役立つ内容を説明できる。
 ただし、理解度に個人差があるため、説明内容の範囲が同じにはならない。また、難しい理解対象には正解がないので、人によって説明内容が異なる。その場合、説明内容に優劣が付けられることもある。理解対象が論理的思考なら、思考方法の違いは優劣で判断でき、判断する人によって判断結果が違ったりもする。
 理解対象の中身が説明できると、もう1つの点も明らかになる。それを理解したり習得した人と、そうでない人の区別方法だ。理解対象が教養なら、「教養がある」といった表現を用いる。こうした表現に対する、明確な判断基準を示せないと、理解対象を理解したとはいえない。
 理解対象が難しいので、判断基準が1つとは限らない。数段階に分かれたり、数種類の要素を組み合わせることもある。理解対象が教養の場合、「教養がある」と「教養がない」の表現を用いるなら、2つの判断基準を示さなければならない。
 本題から外れるが、判断基準と判断結果についても触れておこう。判断も評価と同じように、何かの基準を用いて結果を出す。そのため、判断結果は判断基準と一緒に示さないと意味がない。判断基準によって、判断結果が大きく変わるからだ。
 話を理解内容に戻そう。以上のように、本当に理解した人なら、理解対象の中身に関して、明確な内容を説明できる。また、表現に用いる判断基準も、中身から導き出して示せる。逆に表現するなら、こうした内容を説明できる人だけが、本当に理解しているといえる。前述のように、説明内容が論理的思考で評価され、正しいと判断されることも必須である。

勘違い人の行動を知ることも、判断に役立つ

 上記のように説明してもらう方法は、相手が本当に理解している場合には成功しやすい。しかし、本当は理解してないのに、自分で理解していると思っている人(理解度が「理解してない」で、自己判断理解度が「理解している」の人。つまり、理解していると勘違いしている人なので、ここでは短く「勘違い人」と呼ぶ)が相手だと、期待したようには進まない。
 勘違い人は、理解対象の内容を何とか説明しようとする。しかし、実際には理解していないので、理解対象の中身に関しては説明できない。仕方がないので、中身ではない内容を説明しようとする。出てくる説明内容にはいろいろあり、理解対象が持つ雰囲気を言葉で表現したり、別な物との関係を説明したりする。
 代表的な例をいくつか挙げてみよう。対象内容が論理的思考なら、「論理的思考は、数学を勉強すると習得できる」とか、「論理的思考には理系の考え方が求められる」とかだ。対象内容が教養なら、「教養を身に付けるというのは、文化を理解し、人間にとっての文化の必要性を理解すること」とか、「教養とは、人間としての魅力や幅を広げるもの」と言ったりする。どれも理解対象の中身を説明しておらず、発言内容の中身は空に等しい。ただ言葉の雰囲気だけで説明しようとしている。他の方法として、別な言葉で言い換えただけの説明も使われる。
 内容自体の説明が出ない場合でも、本当は理解している可能性が少し残っている。それを見極めるために、理解対象の中身自体に関して説明するようにと、相手に依頼する必要がある。念のため、相手に「説明できないと理解してないことになる」点を示した方がよい。それでも説明できない場合は、理解してないと判断して構わない。
 こうした手順を採用すると、中には怒り出す人もいる。原因は、理解していないことがバレてしまったためのようだ。プライドだけが高い人にありがちが行動である。また、怒りながら「これだから〜を理解できない人間は困る」と言ったりもする。「〜」の部分には「文化、芸術、教養、学問、哲学、科学、抽象論」などの言葉を入れることが多い。この発言自体も、内容が不明確で根拠もなく、言葉の雰囲気だけで説明しようとする特徴が出ている。
 以上のような特徴を、理解した人の場合と比べれば、その違いが鮮明になる。大事な点を説明できる人と、説明できなくて別な内容を話し続ける人の違いだ。ここまでの話を総合すれば、相手が本当に理解しているのか見極めるのに、2つの視点が使えると分かる。理解対象の中身を説明できるかと、説明する際に勘違い人の行動を取るかの2つが。

論理的思考の欠如が、勘違い人を生む土壌に

 論理的思考方法を習得し、以上のような内容を知った後で、世の中の電子会議室やウェブページを見ると非常に面白い。難しい内容に関しては、理解していると勘違いしている人が、かなり多く見付かる。
 一番驚くのは、大学教官の中にも意外に多くいる点だ。該当する比率を考えると、一般の人より多いだろう。その理解対象として目立つのは、教養、文化、論理的思考だ。それらを、自分がさも理解している風に語るが、理解対象の中身自体はまったく説明しない。ただ単に「俺は分かってるぞ」という姿勢を、言葉や態度で示すだけだ。
 電子会議室で勘違い人が集まると、特徴がもっと大きく出る。教養などをテーマに掲げ、「〜を理解できない人間は困る」などと言いながら、一般の人が理解してない点を嘆く。同時に、違って自分たちは理解している、と言いたげな発言を繰り返す。もちろん、理解対象の中身に関する説明は含まれない。中身がなくて、分かった風の会話が続くだけだ。
 ここで紹介した、理解してるかの見極め方法を知った後では、勘違い人の会話がかなり滑稽に映る。安っぽいニセ物が、単に虚勢を張っているだけにしか見えない。レベルが低くて可哀想だと思うだろう。
 勘違い人が多く生まれるのは、教育に大きな原因がある。論理的思考、評価技術、議論手法といった、極めて大事な要素を何も教えていないのが現状だからだ。このおかげで、世の中の多くの人が論理的思考能力を持っておらず、単純な間違いや勘違いに気付きにくい。現状の教育体制が、勘違い人を多く生む土壌になっている。この状況を改善するには、教育内容を根本的に見直し、論理的思考などを教えるなければならない。

勘違い人の発言内容は、哲学書の内容と類似

 勘違い人の発言内容をいくつも読むと、過去にどこかで読んだような雰囲気が漂っている。それは、古代ギリシャなどの哲学だ。哲学書に書いてある内容と、表現などがかなり似ている。
 ここでようやく哲学が登場する。理解のようなことを取り上げると、どうしても哲学に触れないわけにはいかない。もともと哲学は、知的な内容を全部含んでいたが、科学などが分離したため、現在では限られた範囲を指すようになった。今では、根本的な思考や生きる意味など、より原始的な知の事柄が中心となっている。全部を取り上げるのは大変なので、論理的思考に関わる大事な部分だけ取り上げよう。
 哲学では、定義が難しい言葉や対象を積極的に扱う。その場合、取り扱い方が重要となる。前述の理解の解説で示したように、対象の中身自体を明確に説明しないと、本当に理解したことにはならない。しかし、それが一番難しいので、他のものとの関係など、中身以外の内容で説明している場合が多く、中身自体の説明は少ない。とくに、古い哲学書で。
 この「中身自体を深く説明してない点」に、多くの人は気付いていないようだ。もしかしたら、この「深く」を理解するのが難しいのかも知れない。少しでも理解しやすいように、論理的思考や評価を取り上げよう。本サイトで紹介している論理的思考方法、評価技術、議論手法などは、具体的な作業手順、途中の作成物、作業で考慮すべき点など、非常に細かい内容まで含んでいる。対象の周辺ではなく、対象そのものに関して。これらは、相当に深く掘り下げて考察した結果である。
 これと比べて、哲学書の内容はどうだろうか。掘り下げの深さが、比べるのが可哀想なほど足りない。この足りない感じが、勘違い人の発言内容と似ているのである。もちろん、対象の中身自体に関する説明不足も含めて。

論理的思考は、哲学から生まれるべきもの

 今度は、論理的思考と哲学の関係を考えてみよう。哲学の中心は、知的な思考である。そのため、思考方法の中でも一番優れている論理的思考は、哲学に含まれるべき内容となる。実際、哲学の一部として論理学などがある。
 ただし、現状の哲学を見ると、論理的思考方法としての質がかなり低い。論理学のレベルでは、複雑な課題を検討するのに役不足となる。思考をどのように進めてよいのか(思考の道筋)も提示できないため、現実の課題に対して手も足も出ない状態といえる。
 こんな状態なので、論理的思考の質が低いまま、いろいろな課題を検討し続けている。当然、質の高い成果を得るのは難しく、掘り下げ度合いの低い内容になってしまう。これが、既存の哲学の状態であり、実際の成果の質がそれを示している。
 では、どうすればよいのだろうか。質の高い思考に必要な道具を、先に揃えるべきだ。論理的思考方法だけでなく、評価技術、議論手法といった、より細かな道具も含めて。評価技術や議論手法は、論理的思考方法を用いて設計するので、先に作るべきなのは論理的思考方法だ。ただし、簡単な思考方法ではダメで、質の高い思考を実現できるような、非常にレベルの高い思考方法を用意しなければならない。
 これらの道具が用意できたら、実際の課題を検討する段階に移る。最初は細かな課題から始めて、様々な分野のことを考察する。それらが集まってきたら、全体を含むような体系を考察する。以上の流れをまとめると、次のようになる。

哲学が考察すべき要素と考察順序
・第1段階:道具作成(知の上位体系となる:後で哲学から分離)
  ・実用的で優れた論理的思考方法
  ・論理的思考から導き出した評価や議論の方法など
・第2段階:考察実行(知の下位体系の一部となる)
  ・上記の道具を用いた、様々な事柄の考察
  ・考察した各事柄の体系化

 この中で鍵となるのは、何といっても論理的思考方法である。この質を高めないと、それ以降の質も高まらない。論理的思考を利用して、細かな道具を作り、論理的思考方法も含めた道具を用いて考察するのだから。
 第1段階で作成した知の道具は、哲学以外でも利用できる。科学などの学問はもちろん、実社会の様々な課題に対して。本格的に利用すれば、質の高い思考結果や実行結果が得られるはずだ。
 このような特徴から考えると、第1段階後の道具は、すべての知的活動に影響を与える、非常に重要な要素だと気付く。その意味で、「知の上位体系」として別に扱うべき内容である。そして、本サイトで構築を目指しているのは、この「知の上位体系」に相当する知の道具である。
 以上のような視点で哲学を捉えた場合、本質的な部分で、古代ギリシャ時代からほとんど進歩していない。「実用的で優れた論理的思考方法」を作ってこなかったためだ。

有名な哲学者の理解度は、あまり高くなかったと推測

 上記の内容を知ってしまうと、大きな疑問が生じる。それは「歴史上の有名な哲学者は、代表的な難しい課題に関して、どの程度まで理解していたのか」という疑問だ。これも実に面白い課題なので、少し考察してみよう。
 この世に存在する人なら、実際に説明してもらえば理解度が明らかになるし、普段の発言から自己判断理解度も知れる。しかし、既に他界した人だと、説明してもらうことができない。仕方がないので、残された資料から推測することになる。前述のように、哲学書などの記述は、勘違い人と似た内容となっていることが多い。そのため、理解度はあまり高くなかったと推測する。
 こうした推測結果を嘆く必要はない。どんな知的活動でも、過去の成果を利用して前に進む。そのため、新しい基準で一緒に評価すれば、古い人ほど不利であり、高くないと評価されてしまう。だとしても、哲学の基礎部分を作った人が、相当に賢かった点は変わらない。
 残念というか情けないのは、それ以降の哲学者達だ。基礎段階からの進歩が少なく、あまりにも遅すぎる。今後は「哲学が考察すべき要素と考察順序」のとおりに研究を進め、もっと質の高い成果を生む必要がある。

理解対象の中身の説明を試せば、理解度を自分で知れる

 ここまでの話で、難しい内容の理解および哲学が、論理的思考とどのように関係しているのか、大まかに理解できただろう。最後に、実際の理解度を自分で調べる方法を紹介する。
 方法は簡単で、理解対象の中身に関して、自分で説明してみるだけ。説得力のあるレベルで説明できた内容の範囲や深さの分だけ、理解していると判断する。ほとんど理解していなければ、何も説明できない結果に終わる。
 注意すべきなのは、説明内容の正しさを冷静に検査すること。それを可能にするためには、本コーナーで解説している論理的思考方法を、ある程度のレベルで習得しなければならない。あまり難しくない課題なら、基本要素だけで十分だろう。
 自分の理解度が把握できたら、それに見合った行動を取ろう。理解度が低い場合は、理解したつもりにならない方が無難だ。逆に、理解度が高い内容に関しては、自信を持って丁寧に説明しよう。
 絶対に避けるべきなのは、理解度が低いにもかかわらず、理解しているフリをすること。とくに教養や文化といった題材に関しては、理解するのが極めて難しいので、かなり頭の良い人でも理解度は低い。そんな現状を知れば、理解したフリなどできないはずだ。間違っても、レベルの低い大学教官にありがちな勘違い人には、くれぐれもならないように。

既存の哲学が、勘違い人を増やす大きな要因に

 既存の哲学に関して、もっとも大事な点にも触れておこう。それは、勘違い人との関係だ。
 勘違い人の発言内容が、哲学書の内容と似ているのは、単なる偶然ではない。勘違い人のほとんどは、哲学を勉強した過去があり、哲学の内容が良いことだと思っている。しかも、単なる良いことではなく、何か高尚なことだと思っている。だからこそ、似た感じの表現を用いるわけだ。高尚なことを言おうとして。
 ところが、既存の哲学の内容は、高尚なことでも何でもない。既存の哲学を勉強しても、質の高い論理的思考方法は身に付かない。また、理解しているか理解していないかの違いも知ることができない。しかも、既存の哲学では、有名な哲学者の作った内容が、理解していないに近い状態だとも示さない。それどころか、良い内容のように教えている。この場合、単なる良い内容ではなく、有名な哲学者の発した良い内容となるので、箔が付いた内容だと思わせてしまう。
 こうした教育を行えば、同じような表現を用いることが、何か高尚なことだと信じて当然だ。結果として、哲学にありがちな表現を使いたがる、勘違い人を生んでしまう。それも、高学歴の人に多く。つまり、既存の哲学が、勘違い人を増やす大きな要因になっているわけだ。
 今度は、既存の哲学を、教育内容として評価してみよう。最大の悪い点としては、勘違い人を生むことが挙げられる。良い点としては、自分の生き方を見つめたり、生きる意味を考えることだろうか。ただし、これも冷静に分析しなければならない。学習者は、哲学を学ぶことで、生きる意味を考えるきっかけが生まれる。しかし、哲学が思考方法を提供してくれないため、意味をどう考えたらよいのかが分からない。これを第三者から見ると、哲学は単に悩みを増やしているだけとなる。まるで、良い点ではなく悪い点のようだ。こうして良い点を分析したら、大きな良い点は見付からなかった。
 以上をまとめると、既存の哲学の教育は「質の高い知の道具を一緒に提供しない限り、哲学の教育は悪い点が多い」との結論に達する。多くの人が考えているのと、まったく逆の結果で驚いたかも知れないが。
 今後、哲学を教える際には、上記の点を強く意識して、教育内容を改良しなければならない。最低でも、理解と理解度の意味に加え、有名な哲学者が作った内容は理解度が低い点を、教える必要がある。さらに、勘違い人にならないための注意点も、教育内容として必須だ。哲学教育の良い点を多くしたいなら、これだけでは不十分で、論理的思考方法を追加しなければならない。

おまけ:教養などの難しい課題を考察するなら

 ここまでの内容を読んだ結果、教養といった難しい課題に関して、深く考察したい人が出るかも知れない。そんな人のために、考察で注意すべき点を紹介しよう。
 前述した「哲学が考察すべき要素と考察順序」の内容に従い、まず論理的思考方法を習得する。その後、最低でも評価技術を、誰かと一緒に考察または議論するなら議論手法も学ぶ。他に、作文技術なども身に付けた方がよい。これで、考察の準備が整った。
 このすぐ後で、難しい課題を考察したいだろうが、2つの面で無理がある。まず、論理的思考方法や評価技術に慣れてないので、より簡単な課題で練習する必要がある。もう1つ、難しい課題を考察するためには、それに関わる簡単な課題を何十個も考察して、考察結果を蓄積する必要がある。というわけで、最低でも数十個の課題を選び、実際に考察してみる。
 この課題選びにも注意点がある。難しい課題の多くは、人間の特性と、人間が集まった組織や社会の特性が大きく関係する。この2つのを理解するために、人間や組織の特性を考察できるような課題を、練習として選ばなければならない。具体的な課題は、自分で考えてほしい。これを見付けるのも、大事な考察となるだろうから。
 こうした練習によって実力を付けた後、難しい課題の考察に取りかかる。難しいだけに、そう簡単には結果が出ないはずだ。普通なら、何年もかけて考察することになるだろう。この段階でも、1つだけヒントを与えよう。考察する目的に注目する点が大切だ。たとえば、課題が「教養」なら、「何のために教養が必要なのか」を出発点にする。この考え方は、論理的思考方法の基本なので、習得すれば当たり前の行動でヒントにはならないのだが、習得していない段階では気付かないので挙げてみた。
 こうした考察は、どの程度まで掘り下げたらよいのだろうか。これも大事な点だ。課題が「教養」なら、教養の中身の詳しい説明、教養がある人の判定基準、教養を身に付けるための方法あたりになる。判定基準や方法では、実際に試して効果がなければ意味がない。これらを全部説明できれば、本当に理解したといえる。かなり難しいことだと気付いたのではないだろうか。
 考察が行き詰まったら、同じ課題の過去の考察内容を探してみよう。残念だが、深い考察結果は見付からず、表面的な説明ばかり出てくる(分からないと正直に表明する人も多い)。原因は、質の高い思考道具を用いて考察した人が、過去にいなかったからだ。その結果、難しい課題の深い考察を、誰もまだ読んだことがない状況が続いている。しかし、本サイトで良い道具を紹介しているため、今後は読める可能性がある。それを作るのは、上記の方法で考察した人になるだろう。どうしても考察したくなった人は、本気で頑張ってほしい。

(2002年12月10日:作成)
(2002年12月13日:既存哲学の教育と勘違い人との関係を追加)


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