川村渇真の「知性の泉」

既存の学問や学校と、論理的思考との関係


 論理的思考と関係が深そうなものとして、真っ先に挙げられるのが学問だろう。そして、学問を学ぶ場所といえば、大学などの高等教育機関だ。しかし、大学で教育を受けても、論理的思考能力が身に付かない。それなら、既存の学問や学校は、論理的思考と関係ないのだろうか。これは極めて重要な点なので、明らかにしてみよう。

既存の学問に論理的思考は含まれていない

 当たり前のことだが、既存の学校で教えているのは、既存の学問である。こうした学問は、数学、物理、化学、音楽、文学、哲学、社会学など様々な分野が分かれている。では、学問の分野の中に、論理的思考という分野があるだろうか。論理的思考学とか、論理的思考学会とか、論理的思考学の教授とかが存在するのだろうか。もし世間で認められた分野であれば、いろいろな大学に存在するはずだが、そうなってはいない。なぜだろうか。
 ある大学教官によると、「論理的思考のような能力は、単独では教えるのが不可能」であり、「既存の学問の様々な分野の学習を通じて習得するもの」だそうだ。これが本当なら、論理的思考を独立した分野として作ることはできない。しかし、本当にそうだろうか。
 まず先に、「既存の学問の様々な分野の学習を通じて習得するもの」という点に注目してみよう。既存の学問を必死で学習すれば、論理的思考能力が身に付くのだろうか。もし身に付くとしたら、学問を勉強し続けている人々、つまり大学の教官達は、ほぼ全員が論理的思考を身に付けているはずだ。ところが、身に付けてない人の方が圧倒的に多い。この結果を見る限り、既存の学問を必死で学習しても、論理的思考が身に付くことはなさそうだ。
 もう1つの「論理的思考のような能力は、単独では教えるのが不可能」は、明らかに間違いである。本コーナーで説明している内容を用いれば、単独で教えられるし、学習者が独学でも習得できる。逆に「既存の学問の様々な分野の学習を通じて習得する」ことの方が、とんでもなく難しい。このような形だと、論理的思考自体の中身を明確に規定できず、成果の出るレベルでは身に付かないからだ。
 以上のように考えていけば、「既存の学問には、論理的思考が含まれていない」と分かる。実際、論理的思考の中身を、体系的に細かく説明できないでいる。

課題の解決や質の高い活動に役立つ要素が大事

 今度は、様々な課題を解決したり、質の高い活動を行うために、何が必要かを考えてみよう。既存の学問という枠組みを取り払って。
 やはり中心となるのは、思考方法そのものである。もちろん、どんな思考方法でも大丈夫なわけではない。質の高い思考結果を得るために、大事な考慮点が漏れてないとか、全体が論理的であるとか、説得力が高い形で第三者に説明できるとか、満たすべき点がいくつもある。そうなると、論理的思考方法以外に選択枝はない。
 さらに必要となるのは、物事を適切に評価する方法、論理的で建設的な議論手法などだ。また、いろいろな活動の質を高めるためには、管理技術、説明技術、質問回答技術、調査技術といった、実に様々な技術が必要となる。こうした各種技術は、論理的思考を行う際に使うので、論理的思考の支援技術でもある。
 論理的思考方法も各種支援技術も、既存の学問には含まれていないが、極めて重要な内容である。学問以外も含めて、どんな作業を行う場合にも役立つ。それも、作業の質を相当に高める効果が得られる。また、知的な活動の中心部分に相当する内容でもある。
 実際の課題を検討する際に、論理的思考方法や各種支援技術を、どのように使うのかにも注目してみよう。思考作業の全体をコントロールするのが、論理的思考方法だ。その途中段階で、必要に応じて各種支援技術を利用する。もっと先では、論理的思考方法や各種支援技術が、既存の学問を利用する関係となる。こうした形なので、論理的思考方法と各種支援技術を、「知の上位体系」と位置付けるのが妥当だ。
 相対的に、既存の学問は「知の下位体系」となる。ここまでの話を整理すると、次のような「知の体系」ができあがる。見て分かるように、上位体系は2層になる。

知の体系の概略
・知の上位体系
  ・論理的思考:基本要素、実用要素、強化要素
  ・各種支援技術:評価技術、議論手法、管理技術など多数
・知の下位体系
  ・既存の学問:数学、物理学、文学、経済学、社会学など多数

 既存の学問の中で、一番難しいのは、哲学の位置付けだ。もともと哲学は、論理的思考を含む内容である。しかし、論理的思考に関わる部分の進歩は、かなり古い論理学からほとんど進歩していない。非常に単純すぎるし、実用レベルにはほど遠い。自然科学も、最初は哲学に含まれていて、哲学から独立した。論理的思考も哲学から切り離し、それ以外の残った部分を哲学の範囲とすればよい。これにより、知の下位体系に哲学を入れられる。
 ここまでの説明で、既存の学問と論理的思考の関係が見えただろう。論理的思考や評価技術は、既存の学問の上位に位置付けられる重大な要素である。

教育の効果を軽視する既存の学校

 既存の学問の次は、既存の学校とその教育を考えてみよう。あらためて言うまでもないが、既存の学校で教えている内容は、既存の学問である。当然、論理的思考方法、評価技術、議論手法などは含まれていない。ディベートを教えている学校はあるが、ディベートをいくら学んでも、良い議論手法は身に付かないため、議論手法を教えてないに等しい。
 結果として、大学や大学院を優秀な成績で卒業しても、論理的思考方法を身に付けていない。それどころか、ほとんど大学教官も、同じ教育を受けた人達なので、論理的思考方法を身に付けていない。これは日本だけの現象ではなく、他の先進国の大学でも同じだ。ただし、米国などの一部の大学では、この点に少し気付いているようで、様々な教育内容を取り入れている。というものの、論理的思考方法や評価技術を直接教えていないので、実際の成果は非常に小さい。
 このような状況が改善されない最大の原因は、教育の効果を(まったくに近い)ほとんど考えていないからだ。教育の効果は、学習者の知識、能力、経験で捉える。教科ごとに、どんな知識、どんな能力、どんな経験を増やすのか考察し、それらが少しで増すような教育方法も導き出す。その上で、卒業してから役立つ度合いの大きな教科を優先して選択する。学習者ごとに将来の目標が異なるので、役立つ度合いにも差があり、学習者ごとに学ぶべき教科も異なる。
 科目ごとの教育の効果を考えないと、教育内容の改善が進まない。現状は、そんな状態である。教育内容を決定している人は、効果など眼中になく、過去から続いている教科を、ただ惰性で継続しているだけだ。

教育内容の改善を邪魔する人々の意見

 教育内容を改善しようという意見は、以前から数多く出ている。しかし、それへの反論も、同じように数多くある。説得力が低い意見ばかりだが、代表的なものを挙げてみよう。
 学校の教育内容として、学問以外の内容が挙がらなかったわけではない。しかし、教える側の意見として「それは学校が教えるべき範疇を超えている」といった反論により、常に却下されてきた。教える側が、いろいろな理由を付け、学問以外の内容の教育から逃げているだけだろう。ここにも、教育の効果を軽視する意識が見える。
 最近では、「学問は役に立たなくても構わない」と言って開き直る人も出始めた。役に立たなくて構わないかどうかは、教える側が勝手に判断するものではなく、判断する権利は、教育費や税金を払っている学習者とその親にある。
 一歩譲って、役に立たない学問を教えて構わないとしよう。その場合でも、役に立つ教育内容と一緒に提供し、学習者が選べなければならない。役に立たない学問の支持者の主張に説得力があれば、選ぶ学習者が増えるはずだ。しかし、役に立たない学問の支持者は、このような形での実現を反対するだろう。選ばれないことは、本人達も自覚しているからだ。
 昔から「リベラルアーツ教育を受けることで、教養が身に付けられる」と主張する人もいる。でも、本当だろうか。素朴な疑問として、論理的思考方法、評価技術、議論手法などを身に付けていないのに、教養があるといえるだろうか。これらを身に付けてなくても教養があるといえるなら、その教養に大した価値はない。
 悲しいことに、こうした教養を主張する人は、教養の中身を明確に示さない。既存の哲学と同じように、説明になってない説明を繰り返している(これに関する詳しい話は「難しい内容の理解や哲学と、論理的思考との関係」を参照)。教養の中身を説明できないし、教養の中身を理解してないので、説得力はないに等しい。
 既存の教育内容を正当化しようとする意見は他にもあるが、どれも説得力がかなり低い主張となっている。この正当化には、根本的に無理があるからだ。これ以上取り上げてもキリがないので、この辺にしておこう。

知の上位体系を教えてこそ、真の高等教育機関

 学校の中でも、高等教育を扱うのが大学や大学院だ。そのため、大学や大学院を高等教育機関と呼ぶ。しかし、知の上位体系を知ったら、他の先進国の大学も含めて、高等教育を教えているとは思えなくなる。
 では、高等教育機関に相応しい教育内容は、どのようなものだろうか。ここまで読んだ人なら簡単に分かるだろう。論理的思考方法、評価技術、議論手法といった、知の上位体系に含まれる内容だ。大学がこれらの習得を提供できれば、高等教育機関と名乗っても恥ずかしくない。
 知の上位体系に含まれる内容は、大学から突然と始めるわけではない。小学校の高学年から少しずつ登場し、中学校や高等学校と進むごとに、比率が増えてくる。一番最初に登場するのは作文技術で、学習者は、伝えたい内容を言葉で分かりやすく表現する能力を習得する。続けて、説明技術、質問回答技術、調査技術、情報整理記録技術、発表技術などを学ぶ。並行して、論理的思考方法や評価技術の基礎も少しずつ勉強する。大学に入学する前に、知の上位体系の簡単な部分の習得を目指す。
 大学に入ったら、知の上位体系を本格的に学ぶ。既存の一般教養と置き換わる形で。今の一般教養の内容は、知の上位体系を学ぶ際の課題として登場させ、知識も一緒に習得する。こうした形でも、知の上位体系をある程度まで習得しているので、知識の理解度が現状よりも深くなる。
 以上が、新しい教育内容を採用した姿である。今の教育の内容と比べれば、学習者の大事な能力の習得に、格段の差があると分かるはずだ。本当に実施したら、驚くほどの効果を実感できるだろう。
 現状のようになった理由だが、仕方がない面もある。既存の学問が、非常に偏った形でしか進歩しなかったからだ。各分野の知識を増やす方向でしか進歩せず、論理的思考や評価技術といった極めて重要な分野は、まったくに近いほど進歩しなかった。
 しかし、状況は変わりつつある。本サイトで紹介しているように、知の上位体系の内容が、段々と作られている。これを採用すれば、知の上位体系の内容を教育できる。

卒業の基準は、学習者の習得度に変わる

 教育内容を変更するのに合わせて、卒業の基準も改善しなければならない。基本的な考え方としては、卒業の明確な基準を設定し、それを満たした学習者だけに卒業を認める。基準に含まれる内容は、知識、能力、経験の3つ。それぞれで、学習の対象となる科目の選択、試験目的、試験方法を明らかにしてみよう。
 知識に関わる科目には、必須科目と任意科目がある。誰もが学ぶべき科目を必須科目として設定し、全員が学習しなければならない。それ以外を任意科目とし、学習者が自分の人生目標に合わせ選ぶ。好き勝手に選べるのは一部だけで、大部分は人生目標に合ったものにさせる。なお、知識は能力教科の課題として取り上げることもあるので、独立した教科でないこともある。
 知識の試験の目的は、覚えているかではなく、理解しているかを調べること。試験問題は、それに沿って作る必要がある。もちろん、試験中に資料を見て構わない。ただし、小学校の学習内容に関しては、例外がある。漢字の(書き方ではなく)読み方や九九のように暗記する価値のある内容や、あまりにも基本的で覚えるしかない内容に関しては、暗記を強制する。当然、試験問題は、覚えているかを調べる形となる。
 能力に関する科目にも、必須科目と任意科目がある。誰もが学ぶべき能力を、必須科目として設定する。それ以外の能力が任意科目となり、学習者は自分の人生目標に合わせて選ぶ。各能力には、能力段階があるので、段階まで含めて設定しなければならない。必須科目として設定された能力であっても、それより上の能力段階は任意科目となり、学習者が選べる。
 能力の試験目的は、その能力が本当に身に付いたのか調べること。そのためには、能力に関係する作成物を、学習者に一人で作らせるしかない。試験用の課題を与えて作らせ、作成物の質を検査する。途中段階の作成物も含まれるため、途中で何を考慮したかまで分かる。もし不明な点があれば、受験者への質問で対応する。
 卒業基準での経験は、能力に関する経験を意味する。そのため、対象となる科目は能力とまったく同じ。卒業試験を行なわずに、在学中の実績の調査を試験の代わりとする。能力の学習中には、与えられた課題で作成物を何度も作る。作成物の質が悪ければ、何度も修正して仕上げる。こうした経験の回数を数えて、規定の数に達すれば、卒業資格として認める。能力の経験では、単なる作成経験ではなく、一定以上の質が大事だ。そのため、作成物の質を検査し、基準を満たした場合だけが数える対象となる。
 以上の話を整理すると、次のようになる。知識、能力、経験という3つの要素ごとに、対象選択、試験目的、試験方法を含めた。

卒業基準の3要素
・知識:知の下位体系の内容
  ・対象選択:必須科目と任意科目があり、任意科目は各人が選択
    ・各人の人生目標に合わせ、適したものを選択
  ・試験目的:知識の理解度を調べる
  ・試験方法:理解しているかを調べる問題に
    ・基本的に、資料を見ながら試験を受けて構わない
    ・例外:九九にように、暗記を必須とする内容もあり
・能力:知の上位体系の内容
  ・対象選択:必須能力と任意能力があり、任意能力は各人が選択
    ・各人の人生目標に合わせ、適したものを選択
  ・試験目的:能力が必要な作成物を、一人で作れるか調べる
  ・試験方式:与えた課題の作成物を作らせ、結果の質を検査
    ・試験の質を高めるため、作成物に関する質問も
・経験:知の上位体系の内容
  ・対象選択:能力と同じ
  ・試験方式:試験は不要で、学習中の作成実績を数える
    ・作成物の質を検査し、規定レベルを満たせば数える
    ・作成数を満たすように、卒業まで実績を積み重ねる

 この考え方は、卒業だけでなく、在学中の試験にも適用できる。こうして試験問題を作ると、知識や能力の習得度が、適切に調べられる。試験問題の作り方も、改善すべき重大な要素の1つである。
 以上のような形で卒業できるかを判定すれば、卒業者の知識、能力、経験が保証できる。現在のように、大学ですら、卒業生の知識や能力を保証できない状況では、卒業の価値は非常に低い。

 以上を読んで分かるように、現在の最大の問題は、既存の学校の教育内容である。本当に役立つ能力が身に付くように、大きく改良しなければならない。その際に問題となるのが、改良を邪魔する人々の存在だ。この存在こそが、本当の最大の問題である。該当する人が意外に多くいるため、解決はかなり難しい。

(2002年12月24日)


下の飾り