「ここだよ。歩道を見て」
 多恵子は声に誘われるまま再び視線を戻した。横断歩道を渡りきった手前、多恵子から二十メートルほど離れた場所に、人が一人立っていた。
 多恵子はその人が声の主であるとすぐに確信した。声以上に多恵子を困惑させるに十分な風貌だったからだ。つやのある美しい黒髪が額や頬にかかって、黒いヘッドホンのコードを見えかくれさせている。精悍な少し太めの眉の下には、少し奥まった瞳が生気を宿してきらきらと輝いている。化粧っ気のない口元は固く閉ざされ、ひそやかな笑みをたたえている。この良い陽気にもかかわらず膨れ上がったあずき色のダウンジャケットを着込み、襟元には色の薄いマフラーを幾重にも巻きつけていた。肩から下げたショルダーバッグに、ヘッドホンのコードが吸い込まれている。ジャケットの下からはブラック・ジーンズに包まれた細い足が伸びている。
 この人は男? 女? 遠くから見ても、この世ならぬ雰囲気さえ感じられる。多恵子が呆然と見つめていると、相手はやおら口を動かした。
「ご明答。今からそこに行きますけど、いい?」
 多恵子の頭の中に、声が響いた。多恵子は思わずかぶりを振ってうなずいた。
 相手は笑みを絶やさずに多恵子に近づいた。そばまで来ると立ち止まり、ヘッドホンをはずす。そしてなぜかそれを両手にしっかり包み込んだ。
「こんにちは。私、杉原まこと、って言います。友達はみんなギィって呼んでるけど」
 多恵子はその人物――ギィの声を初めて生で聞いた。今まで頭の中で聞こえていたのと多少違和感はあるが、間違いなく同一人物の声だった。
 多恵子は戸惑いながら答えた。
「……こんにちは。あの……」
「どうも。……まるでナンパですね、これじゃ。実験に協力してもらえませんか?」
 多恵子は自分の胸がなぜかときめくのを抑えきれなかった。多恵子は気持ちを落ち着けようと、できるだけゆっくりうなずいた。
「あの、何をすればいいんですか?」

- 8 -
[Top] [Head] [Prev.] [Next]
[ 1 ] [ 2 ] [ 3 ] [ 4 ] [ 5 ] [ 6 ] [ 7 ] [ 8 ] [ 9 ] [ 10 ] [ 11 ]

Copyright (c) 1995-1996 by Y. Fukuda
e-mail to:fuk@st.rim.or.jp