義経記
 

島津久基(1891〜1949)校訂

(岩波文庫版 1939年3月15日刊)

はしがき

目次

巻第一

義朝都落の事
常磐都落の事
牛若鞍馬入の事
正門坊の事
牛若貴船詣の事
吉次が奥州物語の事
遮那王殿鞍馬出の事
 

巻第二

鏡の宿にて吉次宿に強盗入る事
遮那王殿元服の事
阿野の禅師に御対面の事
義経陵(みさぎ)が館を焼き給う事
伊勢三郎義経の臣下に初めて成る事
義経秀衡の御対面の事
義経鬼一法眼が所へ御出での事(鬼一法眼の事)
 

巻第三

熊野別当乱行の事
弁慶生まるゝ事
弁慶山門を出づる事
書写山炎上の事
弁慶洛中に於いて人の太刀奪い取る事(弁慶洛中にて人の太刀を取りし事)
弁慶義経に君臣の契約申す事(義経弁慶と君臣の契約の事)
頼朝謀反の事
頼朝謀反により義経奥州より出で給う事
 

巻第四

頼朝義経(に)対面の事
義経平家の討手に上り給う事
腰越の申し状の事
土佐坊義経の討手に上る事
義経都落の事
住吉・大物二箇所合戦の事
 

巻第五

判官吉野山に入り給う事
静吉野山に捨てられる事
義経吉野山(を)落ち給う事
忠信吉野に留まる事
忠信吉野山の合戦の事
吉野法師判官を追っかけ奉る事
 

巻第六

忠信都へ忍び上る事
忠信最期の事
忠信が首鎌倉へ下る事
判官南都へ忍び御出である事
関東より勧修坊を召される事
静鎌倉へ下る事
静若宮八幡宮へ参詣の事
 

巻第七

判官北国落ちの事
大津次郎の事
愛発山(あちらやま)の事
三の口の関通り給う事
平泉寺御見物の事
如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事
直江の津にて笈探されし事
亀割山にて御産の事
判官平泉へ御著の事
 

巻第八

継信兄弟御弔の事
秀衡死去の事
秀衡が子供判官殿に謀反の事
鈴木三郎重家(高舘)へ参る事
衣川合戦の事
判官御自害の事
兼房が最期の事
秀衡が子供御追討の事
 



はしがき

義経記は曾我物語と対称せられる中世の歴史物語である。形態・傾向・文章の上からは、軍記物の系列に属すると観られ得るのであるが、曾我物語と共に、英雄伝説的な意図の下に後世せしめられた物語である所に、おのずから他の軍記物とは同じならざる存在を成している。すなわち「判官贔屓」という諺を産んだほどの国民的敬愛の標的たる九郎判官源義經の一代記――但しその戦功時代を欠き、幼時と失意と、すなわちその逆境時代に注力を注いで精叙した――で、いわば義経に関する種々の伝説の淵叢たる観を呈している。作者は不明であるが、流布本の成立は、室町時代、恐らくその中期以前(義満の晩年以後、大略義持から義教頃までの間か・したがって太平記の成立には先立ち得ない。)と推定し得られる。

義経記は、作品としては、構想も完璧とは言い難く、描写も稚拙の域を脱し得ない部分すらある。読過の印象からすれば、軍記物と御伽草子との中間に位置する如き作品である。幸若舞の判官物諸曲ともほとんど同材をなし、ただそれよりは比較的抒情味が勝っている点で、むしろ平安時代の物語文学の遺風を存している。併(しか)し全編に漲る作者の義経愛好熱は、民衆と共に彼の不遇の英雄に対する絶対無限の傾倒と支援とを表明していることが歴々と感じられ。読む者には、漫(そぞ)ろに被痛感奮の界に率き入れしめられる。太平記ほど、漢臭に偏せず、曾我物語ほど、仏教臭に煩わされず、文飾もさまで、過当ではなく、平易軽快で、しかも上品さをも失わず、同時に適度の通俗味をも含んだ面白い文体である。純戦記文学としては、保元・平治にも比肩し得ぬ代わりに、軍記物中、平家物語に次ぐ佳きロマンと言ってよいであろう。

部分的にも、鬼一法眼、弁慶の生い立ち、土佐坊の夜討ち、大物浦の難、吉野別離、忠信の勇戦、奥州落ち等、幾多の好題目と好文字に富んで、後の謡曲、浄瑠璃、歌舞伎などの主材となった原像、一々指摘するの煩に堪えない。(特に謡曲の「橋弁慶」「船弁慶」「安宅」ないし歌舞伎一八番「勧進帳」などの諸作によって知られている各説話内容とは、かなり異なった姿をしている原形をば、それぞれ本題において見出し得るのも興味が深い。)

就中(なかんずく)、堀川御所の判官・喜三太主従の剛勇に弁慶のユーモア、あるいは童話にも似た諸勇士の土佐坊追っかけ、大物の風波乗り切りの冒険、御身替りを志願する忠信が忠孝と至情と、悪僧覚範との雪中の一騎打ち。衣川合戦の悲劇的週末の如き、いずれも興趣と迫力とをもって、本書の特色を発揮している。更に、貞烈な静の鶴岡の歌舞と、舌端火を吐く勧修坊得業の直言とに至っては、判官贔屓の高潮の極致とも言うべく、幾千万の義経ファンをして斉(ひと)しく快哉(かいさい:痛快なこと)を叫ばずに措かない。

義経記はもとより伝説的素材の集成に仮作的詩想が加えられて成ったものではあるが、その内容の全部が、些(いささか)の信憑をも置き難いほど、全然出たらめ夢物語では決してない。むしろ普通に漫然と想像せられている程度以上、史実との関係は、接触が保たれている。今その一斑を示す為に、主要な部分に就いての参考史料を附録に掲げて置くことにした。

義経記には寛永板・寛文板・元禄板等十数種の板本があって普通に行われ、近時の活版本も大抵それによって校合せられているが、誤脱が相当に多いのが遺憾である。今本文庫の校訂に当たっては、板本よりは、善本と信ずる校訂者蔵の古写本(八巻、無量、胡蝶装、江戸時代初期頃の書写)を底本とし、仮名遺・句読・漢字の充当以外濫(みだ)りに改めず、唯板本ないし現時通行の本に有って此に脱したと推し得られる部分(あるいは誤脱と言い得られずとも、通行本の方がよく通じる場合をも含む)は、[ ]をもって補い、通行本と竝(並)存するを便利とする場合は、[ ]を附して旁書(ぼうしょ)した。

尚、他に高木武氏蔵の「義経物語」と題する珍しい古写の一本(八巻。各巻共章節を立てず、かつ通行本とは、やや異同出入が多い。)を参考として校合し、これは[(ヨ)]の形をもって示すこととした。(底本を補正する意味において以外の、板本並びに義経物語との細かな異同の対照は、快適な繙(翻)読を妨げるいのを惧(おそ)れて、わざと割愛した。)通行板本に誤脱の多い一例は、巻頭の一説に「平治元年二月廿七日に」とある如き、平治の乱の史実から言っても、平治言念一二月でなければならないが、家蔵本、義経物語共に果然「一二月」となっている。(元和木活字本にも同様「一二月」とあるから、整版本になってから脱したものであろう。)のでも示され得る。が又家蔵本とても完全ではなく、却(かえ)って通行本や義経物語の方が正しい場合も少なくないから、それらの異同を照合校訂した主なる成果を、一目明かならしめる為、表に作成して「考異」として巻末に添えることにする。

本文の仮名遺は、現行の式に改め、漢字も適当に当てた。又各巻小章中、更に適宜、段階を立ててみたが、必ずしも当たらない所もあろう。偏に翻読に便したい意に他ならない。

なお義経記に関する詳細な考説は、拙著「義経伝説と文学」(明治書院)並びに岩波講座日本文学に収めた拙稿小論「義経記」に譲って、この處(ところ)には、ただ概要を述べるに止めて置く。

昭和十三年七月

島津久基識

 



2001.10.3
2001.11.2
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