義経記

巻第七
 
 

一 判官北國落の事

文治二年正月の末になりぬれば、大夫判官は、六條堀川に忍びて在しける時もあり、又嵯峨の片辺に忍びて在しける時もありけるが、都には判官殿の御故に人々多く損じければ、義経故民の煩となり、人数多損ずるなれば、如何なる所にも在りと聞き、見ばやと思はれければ、今は奥州へ下らばやとて、別れ別れになりける侍共をぞ召されける。十六人は一人も心変りなくてぞ参りける。「奥州へ下らんと思ふに、何れの道にかかりてよからんずるぞ」と仰せられければ、各々申しけるは、「東海道こそ名所にて候へ。東山道は切所なれば、自然の事〔の〕あらんずる時は、避きて行くべき方もなし。北陸道は越前國敦賀の津に下りて、出羽國の方へ行かんずる船に便船してよかるべし」とて道は定め、「さて姿をば如何様にしてか下るべき」〔と〕様々に申しける中に、増尾七郎〔鷲尾十郎(ヨ)〕申しけるは、「御心安く御下りあるべきにて候はば、御出家候うて御下り候へ」と申しければ、「終にはさこそあらんずらめども、南都の勤修坊の千度出家せよと教化せられしを背いて、今身の置き所なきままに、出家しけると聞えんも恥かしければ、此度は如何にもして、様を変へもせで下らばや」と宣ひければ、片岡申しけるは、「さらば山伏の御姿にて御下り候へ」と申しければ、「いさとよ、それも如何あらんずらん。都を出でし日よりして、日吉山王、越後國に気比の社・平泉寺、加賀國下白山、越中國に〔蘆峅・岩峅、越後國には(ヨ)〕國上、出羽國には羽黒山とて、山社多き所なれば、山伏の行逢ひて、一乗菩提の峯、釈迦嶽の有様、八大金剛童子のごしんさし、富士の峯、山伏の祈義などを問ふ時は、誰かきらきらしく答へて通るべき」と仰せければ、武蔵坊申しけるは、「それ程の事、易き事候。君は鞍馬に在しまししかば、山伏の事はあらあら御存じ候らん。常陸坊は園城寺に候ひしかば申すに及ばず、弁慶は西塔に候ひしかば、一乗菩提の事あらあら存じ仕つて候へば、などか陳ぜで候べき。山伏の勤には、懺法阿弥陀経をだにも、詳かに読み候ひぬれば、堅固苦しくも候まじ。只御思召し立たせ給へ」とぞ申しける。「どこ山伏と問はんずる時は、どこ山伏とか言はんずる」「越後國直江の津は、北陸道の中途にて候へば、それより此方にては、羽黒山伏の熊野へ参り下向するぞと申すべき。それより彼方にては、熊野山伏の羽黒に参ると申すべき」と申しければ、「羽黒の案内知りたらん者やある。羽黒にはどの坊に誰がしと云ふ者ぞと問はんずるは如何せんずる」。弁慶申しけるは、「西塔に候ひし時、羽黒の者とて、御上の坊に候ひしが申し候ひしは、大黒堂の別当の坊に荒讃岐と申す法師に、弁慶はちとも違はぬ由申し候ひしかば、弁慶をば荒讃岐と申し候べし。常陸坊をば小先達として筑前坊」とぞ申しける。

判官仰せられけるは、「もとより法師なれば、御辺達は戒名せずとも苦し〔かる〕まじ。何ぞ男の頭巾篠懸笈掛けたらんずるが、片岡或は伊勢三郎、増〔鷲(ヨ)〕尾などと云ひたらんずるは、似ぬ事にてあらんずるは如何に」「さらば皆坊号をせよ」とて、思ひ思ひに名をぞ付けける。片岡は京の君、伊勢三郎をばせんじ(宣旨)の君、熊井太郎は治部の君とぞ申しける。さて〔は(ヨ)〕上総坊・上野坊・下野坊などと云ふ名を付き〔け〕てぞ呼びける。判官殿をば殊に知る人おはしければ、垢の付きたる白〔き〕小袖二つに、矢筈付けたる地白の帷に、葛大口村千鳥を摺にしたる柿の衣に、古りたる頭巾目の際までひつこうで、戒名をば大和坊とぞ申しける。思ひ思ひの出で立ちをぞしける。弁慶は大先達にてありければ、袖短なる浄衣に、褐の脛巾に、ごんづ〔わらんぢ(ヨ)〕履いて、袴の括高らかに結ひて、新宮様の長頭巾をぞ懸けたりける。岩透と云ふ太刀あひちかに差しなして、法螺貝をぞ下げたりける。武蔵坊は喜三太と云ふ下部を剛力になして、懸けさせたる笈の足に、猪の目彫りたる鉞、刃八寸許りありけるをぞ結ひ添へたる。天上には四尺五寸の大太刀を、真横様にぞ置きたりける。心つきも出立も、あはれ先達やとぞ見えける。総じて勢〔は〕十六人、笈十挺あり。一挺の笈には鈴・独鈷・花瓶・火舎・閼伽坏・金剛童子の本尊〔を〕入れたりける。一挺の笈には折らぬ烏帽子十頭、直垂・大口などをぞ入れたりける。残り八挺の笈には、皆鎧腹巻をぞ入れたりける。

斯様に出で立ち給ふ事は正月の末、御吉日は二月二日なり。判官殿の奥州に下らんとて侍共を召して、「斯様に出で立つと雖も、猶も都に思ひ置く事のみ多し。中にも一條今出川の辺に在りし人は、未だありもやすらん。連れて下らんなど言ひしに、知らせずして下りなば、さこそ名残も深く候はんずらめ。苦しかるまじくば、連れて下らばや」と宣ひければ、片岡・武蔵坊申しけるは、「御供申すべき者は、皆是に候。今出川には誰か御渡り候やらん。北の〔御〕方の御事候やらん」と申しければ、此頃の御身にては、流石にそよとも仰せられかねて、つくづくと打案じ給ひておはしける。弁慶申しけるは、「事も事にこそ候はんずれ。山伏の頭巾篠懸に笈掛けて、女房を先に立てたらんずるは、さしも尊く〔き〕行者にもあらじ〔見え候まじ〕。又敵に追ひかけられん時は、女房を静に歩ませ奉り先に立てたらんはよかるまじく候」と申しけるが、思へばいとほしや、此人は久我大臣殿の姫君、九つにて父大臣殿には後れ参らさせ給ひぬ。十三にて母北の方に後れ参らせ給ひぬ。其後は伝の十郎権頭より外に頼む方ましまさず。容顔も美しく、御情深く渡らせ給ひけれども、十六の御年までは幽なる御住なりしを、如何なる風の便にか此君に見え初められ参らせ給ひしより以来、君より外に又知る人も渡らせ給はぬぞかし。惆悵の藤は松に離れて便なし。三従の女は男に離れて力なし。又奥州へ下り給ひたるとても、情も知らぬ東女を見せ奉らんも痛はしく、御心の中も推量に〔おしはかるに(ヨ)〕、朧げならではよも仰せられ出さじ。さらば具し奉りて下らばやと思ひければ、「あはれ人の御心としては、上下の分別は候はず。移れば変る習の候に、さらば入らせおはしまして、事の体をも御覧じて、誠にも下らせおはしますべきにても候はば、具足し参らせ給ひ候へかし」と申しければ、判官世に嬉しげにて、「いざさらば」とて、柿の衣の上に薄衣被き給ひて御出である。武蔵も浄衣に衣被きして、一條今出川の久我大臣殿の古御所へぞおはしましける。

荒れたる宿のくせなれば、軒の忍に露置きて、籬の梅も匂あり。かの源氏の大将の荒れたる宿を尋ねつつ、露分け入り給ひける古き好も、今こそ思ひ知られける。判官をば中門の廊に隠し奉りて、弁慶は御妻戸の際に参り、「人や御渡り候」と問ひければ、「何処より」と答ふる。「堀川の方より」と申しければ、御妻戸を開けて見給へば、弁慶にてぞありける。

日来は人伝にこそ聞き給ひしに、余りの御嬉しさに、北の方簾の際に寄り給ひて、「人は何処にぞ」と問ひ給へば、「堀川に渡らせ給ひ候が、『明日は陸奥へ御下り候と申せ』と仰せの候ひつるは。『日来の御約束には、如何なる有様もしてこそ具足し参らせ候はんと申しては候へども、途々も皆差塞がれて候なれば、人をさへ具足し参らせて、憂目を見せ参らせ候はん事、痛はしく思ひ参らせ候へば、義経御先に下り候うて、若し存命へて候はば、〔来年〕〔秋のころは(ヨ)〕春の頃は必ず必ず御迎ひに人を参らせ候べし。それまでは御心長く待たせおはしまし候へと申せ』とこそ仰せられ候ひつれ」と申しければ、「此度だにも具して下り給はぬ人の、何の故にかわざと迎ひには〔を(ヨ)〕賜はるべき。あはれ下り著き給はざらん御先に、老少不定の習なれば、ともかくもなりたらば、とても遁れざりけるものゆえに、など具して下らざりけんと、後悔し給ひ候とも、甲斐あらじ御志ありし程は、四國・西國〔の〕波の上までも、具足せられしぞかし。されば何時しか変る心の怨めしさよ。大物浦とかやより、都へ帰されし其の後は、思ひ絶えたる言の葉を、又廻り来るとかく(ママ)慰め給ひしかば、心弱くも打解けて、二度憂き言の葉にかかりぬるこそ悲しけれ。申すにつけて如何にぞや〔と〕覚ゆれども、知られず知られで、我如何にもなりなば、後世までも実に残すは、罪深き事と聞く程に申し候ぞ。過ぎぬる夏の頃より心乱れて苦しく候ひしを、ただならぬとかや人の申し候ひしが、月日に添へて夕も苦しくなり増されば、其隠れあるまじ。六波羅へも聞えて、兵衛佐殿は情なき人と聞けば、捕りも下されざらん〔ずらん(ヨ)〕。北白川の静は、歌を歌ひ、舞も舞へばこそ、一の咎は遁れけれ。我々はそれにも似べからず。只今憂き名を流さん事こそ悲しけれ。何と言うても、人の心強きなれば力なし」と打口説き、涙も堰き敢へず覚えければ、武蔵坊も涙に咽びけり。燈火の明にて、常に住み馴れ給ひつる御障子の引手の元を見ければ、御手跡と覚えて、

辛からば我も心の変れかしなど憂き人の恋しかるらん

とぞ遊ばされたりけるを、弁慶見て、未だ御事をば忘れ参らせさせ給はざりけると哀れにて、急ぎ判官にかくと申せば、判官さらばとておはして、「御心短の御怨かな。義経も御迎ひに参りて候へ」とて、つと入り給へたりければ、夢の心地して、問ふに辛さの御涙、いとど堰き敢へ給はず。判官、「さても義経が今の姿を御覧ぜられば、日来の御志も、興醒めてこそ思召され候はめ。あらぬ姿にて候ものを」と仰せられければ、「予しに聞きし御姿の様の変りたるやらん」と仰せられければ、「是御覧じ候へ」とて、上の衣を押除け給ひたれば、柿の衣に小袴頭巾をぞ著給ひける。北の方見習はせ給はぬ御心には、実に疎からば恐しくも覚えぬべけれども、「さて我をば如何様に出で立たせて具し給ふべきぞや」と仰せられければ、武蔵坊「山伏の同道には、少人の様にこそ作りなし参らせ候はんずれ。容顔も御つくろひ候はば、苦しくも渡らせ候まじく候。御年の程もよき程に見えさせおはしまし候へば、つくろひ申すべく候が、唯御振舞こそ御大事にて候はんずれ。北陸道と申すは、山伏の多き國にて候へば、花の枝などを、『是少人へ』と参らせ候はん時は、男子の言葉を習はせ給ひて、衣紋掻繕ひ、姿を男の如くに御振舞ひ候へ。此年月の様に、たをやかに物恥かしき御心つき御振舞にては、堅固叶はせ給ひ候まじく候」と申しければ、「されば人の御徳に、習はぬ振舞をさへして下らんずるござんなれ〔と思ふなり〕。早夜も更くるに、疾く疾く」と仰せられければ、弁慶御介錯にぞ参りける。

岩透と云ふ刀を抜きて、清水を流したる御髪の丈に余るを、御腰に比べて情なくもふつと切る。末をば細く刈りなして、高〔く〕結ひ上げて、薄化粧に御眉細く作り、御装束は、匂ふ色に花やうを〔にぶいろにはなうらを(ヨ)〕引重ねて、裏山吹一襲、唐綾の御小袖、袴浅黄の帷を上にぞ著せ奉る。白〔き〕大口顕紋紗の直垂を著せ奉り、綾の脛巾に草鞋履かせ奉り、袴の括高〔く〕結ひ、白打出の笠をぞ著せ奉る。赤木の柄の刀にだみたる扇差添へ、遊ばさねども漢竹の横笛を持ち奉る。

紺地の綿の経袋に、法華経の五の巻を入れて懸けさせ奉る。我が御身一つだにも苦しかるべきに、萬の物を取附け奉りたれば、しどけなげにぞ見え給ふ。是やこの王昭君が胡國の夷〔に〕具せられて下りけん心の中も、今こそ思ひ知られけれ。斯様に出で立ち給ひて、四間の御出居に燈火数多かき立てて、武蔵坊を傍らに置きて、北の方を引立て、御手を取つて彼方此方へ歩ませ奉り、「義経山伏に似るや。人は児に似たるぞ」と仰せける。

弁慶申しけるは、「君は鞍馬に渡らせ給ひしかば、山伏にも馴れさせ給ひ候ひつれば、申すに及ばず候。北の方は何時習はせおはしまさねども、御姿少しも児に違はせおはしまし候はず。何事も戒力と申す御事にて渡らせ給ひ候ひける」と申す中にも、哀れを催す涙の頻りに零れけれども、さらぬ体にてぞありける。

さる程に二月二日まだ夜深に、今出川を出でんとし給ふ〔に〕、西の妻戸に人の音しける、如何なる者なるらんと御覧ずれば、北の方の御伝、十郎権頭兼房、白〔き〕直垂に褐の袴著て、白髪交りの髻引乱し、頭巾打著、「年寄り候とも、是非とも御供申し候はん」とて参りたり。北の方、「妻子をば誰に預け置きて参るべき」と宣へば、「相伝の御主を、妻子に思ひ代へ参らすべきか」と申しも敢へず、涙に咽びけり。六十三になりけるままに、よき丈な山伏にてぞありける。兼房涙を抑へて申しけるは、「君は清和天皇の御末、北の方〔は〕久我殿の姫ぞかし。唯仮初に花紅葉の御遊、御物詣なりとも、ようの御車〔御こしくるま(ヨ)〕などこそ召さるべきに、遙々東の路に徒跣にて出で立ち給ふ御果報の程こそ、目も当てられず悲しけれ」とて、涙を流しければ、残りの山伏共も、「理なり、誠に世には神も仏もましまさぬか」とて、各々浄衣の袖をぞ絞りける。

さて御手に手を取組みて歩ませ奉れども、何時か習はせ給はねば、唯一所にぞ在しける。をかしき事どもを語り出して、〔御心を〕慰め奉つて進め給ひけり。まだ夜深に今出川をば出でさせ給ひけれども、八声の鳥もしどろに鳴きて、寺々の鐘の声早打鳴らす程に明けけれども、漸々粟田口まで出で給ふ。

武蔵坊片岡に申しけるは、「如何せん。いざや北の御方の御足早くなし奉るべし」片岡に「申せ」と言ひければ、御前に参りて申しける様は、「斯様に御渡り候はば、道行くべしとも存じ候はず。君は御心静に御下り候へ。我等は御先に下り候うて、秀衡に御所造らせて、御迎ひに参り候はん」と申して、御先に立ちければ、判官の仰せには、「如何に人の御名残惜しく思ひ参らせ候へども、是等に捨てられては叶ふまじ。都の遠くならぬ先に、兼房御供して帰れ」と仰せられて、捨て置きて進み給へば、さしも忍び給ひし御人の、声を立てて仰せられけるは、「今より後は道遠しとも悲しむまじ。誰に預け置きて、何処へ行けとて捨て給ふぞ」とて、声を立てて悲しみ給へば、武蔵又立帰り、具足し奉りける。粟田口を過ぎて、松坂近くなりければ、春の空の曙に、霞に粉ふ雁の微に鳴きて通りけるを聞き給ひて、判官かくぞつづけ給ふ。

み越路の八重の白雲かき分けて羨ましくも帰るかりがね
北の方もかくぞつづけ給ふ。

春をだに見捨てて帰るかりがねの何の情に音をば鳴くらん

所々打過ぎければ、逢坂の蝉丸の住み給ふ藁屋の床を来て見れば、垣根に忍交りの忘草打交り、荒れたる宿の事なれば、月の影のみぞ昔に変らじと、思ひ知られて哀れなる。軒の忍を取り給ひて奉り給へば、北の方都にて見しよりも、忍ぶ哀れの打添ひて、いとど哀れに思召して、かくぞつづけ給ふ。

住み馴れし都を出でて忍草置く白露は涙なりけり

かくて大津の浦も近くなる。春の日の長きに、終日歩む歩むとし給へども、関寺の入相の鐘、今日も暮れぬと打鳴らし、あやしの民の宿借る程になりぬれば、大津〔の〕浦にぞかかり給ひける。
 
 

二 大津次郎の事

爰に〔又〕憂き事ぞ出で来たる。「天に口なし、人〔を〕以て言はせよ」と、誰披露するとしもなけれども、判官山伏になりて、其勢十余人にて、都を出で給ふと聞えしかば、大津の領主山科左衛門、園城寺の法師を語らひて、城郭を構へて相待つ。されども判官は、大津の渚に大きなる家あり、是は塩津・海津・山田・矢橋・粟津・松本に聞えたる商人の宗徒の者、大津次郎と申す者の家なり。弁慶宿〔を〕借らせけるは、「羽黒山伏の熊野に年籠して下向し候。宿を賜び候へ」と借らせたりければ、宿伝ふ〔しゆくだうの(ヨ)〕習なれば、相違〔左右〕なく宿を参らせたり。さ夜打更けて、懺法阿弥陀経同音にぞ読み給ひける。是ぞ勤の始なる。大津次郎は左衛門の召にて城にあり。大津次郎が女、物越に見奉りて、あら美しの山伏児や。遠國の道者とは宣へども、衣裳の美しさよ。如何にも只人に〔は〕あらず。

但し判官殿の山伏になりて下り給ふなるに、山伏大勢留めて、城に聞えては身の為も大事なり。次郎を呼びて此事を知らせて、判官〔殿〕にてましまさば、城まで申さずとも、私にも討つても搦めても、鎌倉殿の見参に入れて、勲功に与りたらば、然るべきと思ひければ、城へ使を遺して、男を呼び寄せて、一間なる所へ招きて言ひけるは、「時しもこそ〔所こそ(ヨ)〕多けれ、今夜しも我々、判官殿に宿を貸し参らせて候は、如何せんずる。御辺の親類我が兄弟を集めて搦めばや」とぞ申しける。

男申しけるは、「『壁に耳、石に口』と云ふ事あり。判官殿にておはすればとて、何か苦しかるべき。搦め参らせたればとて、勲功も有るまじ。実の山伏に渡らせ給ふにつけては、金剛童子の恐あり。実に又判官殿にておはしませばとても、忝くも鎌倉殿の御弟にてましませば恐あり。我が思ひかかり奉りても、た易かるべき事ならず。囂し囂し」とぞ言ひける。女是を聞きて、「地体が和男は、妻子に甲斐々々しく当るばかりを本とする男なり。女の申す事は上つ方の御耳に入らぬ事やある。城へ、いでさらば参りて申さん」とて、小袖取つて打被き、やがて走り出でてぞ行きける。

大津次郎是を見て、彼奴を放し立てては悪しかりなんとや思ひけん、門の外に追ひつきて、「ようれ今に初めたる事か。風に靡く刈萱、男に従ふ女」とて、引伏せて、心のゆくゆくぞさやなみ〔さいなみ(ヨ)〕ける。かの女は極めたるえせ者なりければ、大路に倒れて喚きけるは、「大津次郎は極めたる僻事の奴にて候ぞ。判官の方人するぞ」とぞ申しける。所の者是を聞きて申しけるは、「大津次郎が女こそ例の酔狂して、男に打たるるとて喚くは。又多くの法師の歎きともならんや。唯放し合せて打たせよ」とて、取さふる者なければ、ふすふす打たれて臥しにけり。大津次郎は直垂取つて著て、御前に参りて、火打消して申しけるは、「斯かる口惜しき事こそ御座候はね。女奴が物に狂ひ候。是聞召され候へ。何とも御渡り候へ、今夜は是にて明させ給ひて、明日の御難をば何として遁れさせ給ひ候べき。是に山科左衛門と申す人、城郭を構へて、判官殿を待ち申し候。急ぎ御出で候へ。是に小船を一艘持ちて候に召されて、客僧達の御中に舟に心得させ給ひて候はば、急ぎ御出で候へ」と申しける。

弁慶申しけるは、「身に誤りたる事は候はねども、然様に所に煩ひ候はんずるには、
取置かれては、日数も延び候はんず。さ候はば暇申して」とて出で給ひければ、「船をば海津の浦に召捨てて、疾く愛発の山を越えて、越前國へ入らせ給へ」と申しける。判官出でさせ給へば、大津次郎も船津に参り、御船をこしらへてぞ参らせける。かくて大津次郎山科左衛門の許に走り帰りて申しけるは、「海津の浦に弟にて候者、重用に逢ひて、疵を蒙りて候と承り候間、暇申して、別の事候はずば、やがてこそ参り候はん」と申しければ、「それ程の大事ならば、疾く疾く」とぞ申しける。

大津次郎家に帰りて、太刀取つて脇に挟み、征矢掻負ひ弓押張り、御船に踊り入つて、「御供申し候はん」とて、大津の浦を押出す。勢多の川風烈しくて、船に帆をぞ掛けたりける。大津次郎申しけるは、「此方はあはづ大王〔大はくてんわう(ヨ)〕の建て給ふ石の塔山、此処に見え候は辛崎の松、あれは比叡山」と申す。山王の御宝殿を顧み給へば、其行く先は竹生島と申して拝ませ奉る。風に任せて行く程に、夜半ばかりに西近江、何処とも知らぬ浦を過ぎ行けば、磯浪の聞えければ、「此処は何処ぞ」と問ひ給へば、「近江國堅田の浦」とぞ申しける。北の方是を聞召して、かくぞつづけ給ひける。

鴫が臥すいさは〔野さは(ヨ)〕の水のつもりいて堅田を浪の打つぞやさしき

白鬚の明神をよそにて拝み奉り、参河入道寂昭が、

鶉鳴く真野の入江の浦風に尾花なみ寄る秋の夕暮

と云ひけん古き心も、今こそ思ひ知られけれ。今津の浦を漕ぎ過ぎて、海津の浦にぞ著きにける。十余人の人々を上げ奉りて、大津次郎は〔御〕暇申す。爰に不思議なる事あり。南より北へ吹きつる風の、今又北より南へぞ吹きける。判官仰せられけるは、「彼奴は同じ次の者ながらも、情ある者かな。知らせばや」と思召し、武蔵坊を召して、「知らせて下らば、後に聞いて哀れとも思ふべし。知らせばや」と宣へば、弁慶大津次郎を招きて、「和君なれば知らするぞ。君にて渡らせ給ふなり。道にてともかくもならせ給はば、子孫の守ともせよ」とて、笈の中より萠黄の腹巻に小覆輪の太刀取添へてぞ賜びにける。大津次郎是を賜はりて、「何時までも御供申したく候へども、中中君の御為悪しく候はんずれば、暇申して、何処にも君の渡らせおはしまさん所を承りて、参りて見参らせ候はん」とて帰りけり。下郎なれども情ありてぞ覚えける。

大津次郎家に帰りて見ければ、女は一昨日の腹を据えかねて、未だ臥してぞありける。大津次郎「や御前御前」と言ひけれども音もせず。「あはれ和女は詮なき事を思ふなり。山伏留めて判官殿と号して、既に憂目を見んとせしよな。船に乗せて海津の浦まで送り、船賃などと責めければ、法もなく物を言ひつる間、憎さにかなぐり奪りたる物を見よ」とて、太刀と腹巻とを取出して、がはと置きければ、寝乱れ髪の隙より、恐しげなる眼しばたたき、流石に今は心地取直したる気色にて、「それも妾が徳にてこそあれ」とて、大笑に笑みたる面を見れば、余りに疎ましくぞありける。男言ふ〔とも〕、女の身にては、如何など制しこそすべきに、思ひ立ちぬるこそ恐しけれ。
 
 

三 愛発山の事

判官は海津の浦を立ち給ひて、近江國と越前〔の〕堺なる愛発の山〔へ〕ぞかかり給ふ。一昨日都を出で給ひて、大津の浦に著き、昨日は御船に召され、船心に損じ給ひて、歩み給ふべき様ぞなき。愛発の山と申すは、人跡絶えて古木立枯れ、巖石峨々として、道路すなほならぬ山なれば、岩角を欹てて、木の根は枕を並べたり。何時踏み習はせ給はねば、左右の御足より流るる血は、紅を注ぐが如くして、愛発山の岩角染めぬ所ぞなかりける。少々の事こそ柿の衣にも恐れけれ。見奉る山伏共、余りの御痛はしさに、時々代り代りぞ負ひ奉りける。かくて山深く分け〔入り〕給ふ程に、日も既に暮れにけり。路の辺二町許り分け入つて、大木の下に敷皮を敷き、笈をそばだてて、北の方を休め奉る。

北の方、「あら恐しの山や。是をば何と云ふ山やらん」と問ひ給へば、判官、「是は昔はあらしいの山と云ひけるを、何とてあらちの山とは名づけけん」と宣へば、「此山は余りに巖石にて候程に、東より都に上り、京より東に下る者の、足を踏み損じて血を流す間、あら血の山とは申しけるなり」と宣へば、武蔵坊是を聞きて、「あはれ是程跡形なき事を仰せ候御事は候はず。人の足より血を踏み垂らせばとて、あら血〔の〕山と申し候はんに〔は〕、日本國の巖石ならん山の、あらちの山ならぬ事は候はじ。此山の仔細は、弁慶こそよく知りて候へ」と申せば、判官「それ程知りたらば、知らぬ義経に言はせんよりも、など疾くよりは申さぬぞ」と仰せければ、弁慶「申し候はんとする処を、君の遮りて仰せ候へば、争か弁慶申すべき。此山をあらちの山と申す事は、加賀國に下白山に女体后の龍宮の宮とておはしましけるが、志賀の都にして、辛崎の明神に見え初められ参らせ給ひて、年月を送り給ひける程に、懐妊既に其月近くなり給ひしかば、同じくは我が國にて誕生あるべしとて、加賀國へ下り給ひける程に、此山の絶頂にて、俄に御腹の気つき給ひけるを、明神御産近づきたるこそとて、御腰を抱き参らせ給ひたりければ、即ち御産なりてげり。其時産のあら血を零させ給ひけるによりて、あら血の山とは申し候へ。さてこそあらしいの山あら血の山の謂れ知られ候へ」と申しければ、判官、「義経もかくこそ知りたれ」とて、笑ひ給ひけり。
 
 

四 三の口の関通り給ふ事

夜も既に明けければ、愛発の山を出でて、越前國へ入り給ふ。愛発の山の北の腰に、若狭へ通ふ道あり。能美山に行く道もあり。其処を三の口とぞ申しける。越前國の住人敦賀兵衛、加賀國の住人井上左衛門、両人承りて、愛発の山の関屋を拵へて、夜三百人、昼三百人の関守を据えて、関屋の前に乱杭を打ちて、色も白く向歯の反りたるなどしたる者をば、道をも直に遣らず、判官殿とて搦め置きて、糾問してぞ犇きける。道行く人の判官殿を見奉つては、「此山伏達も、此難をばよも遁れ給はじ」とぞ申しける。

聞くにつけても、いとど行く先も物憂く思召しける処に、越前の方より浅黄直垂著たる男の、立文持ちて忙はしげにてぞ行逢ひける。判官是を見給ひて、「何ともあれ、彼奴は仔細有りて通る奴にてあるぞ」と宣ひけるに、笠の端にて顔隠して通さんとし給ふ処に、十余人の中を分け入つて、判官の御前に跪きて、「斯かる事こそ候はね。君は何処へとて御下り候ぞ」と申しければ、片岡、「君とは誰そ。此中に汝に君と傅かるべき者こそ覚えね」と言ひければ、武蔵坊是を聞きて、「京の君の事か、せんじの君の事か」と言ひければ、かの男、「何しにかくは仰せ候ぞ。君をば見知り参らせて候間、かくは申し候ぞ。是は越後國の住人上田左衛門と申す人の内に候ひしが、平家追討の時も御供仕りて候ひし間、見知り奉り候。壇の浦の合戦の時、越前と能登・加賀三箇國の人数、著倒注け給ひし、武蔵坊と見奉るは僻事か」と申せば、如何に口利きたる弁慶も、力なくて伏目になりにけり。

「詮なき御事かな。此道の末には君を待ち参らせ候ものを。只是より御帰り候へかし。此山の峠より、東へ向うて能美越にかかりて、燧が城へ出でて、越前國國府にかかりて、平泉寺を拝み給ひて熊坂へ出でて、菅生の宮を余所に見て、金津の上野へ出でて、篠原・安宅の渡をせさせ給ひて、根上の松を眺めて、白山の権現を余所にて礼し給ひ、加賀國宮越に出でて、大野の渡し給ひて、阿尾が崎のはしを越えて、嶽の倶利伽羅山を経て、黒坂口の麓を五位庄にかかりて、六動寺の渡して、奈呉の林を眺めて、岩瀬の渡、四十八ヶ瀬を越え、宮崎郡を市振にかかりて、蒲原ながいしかと申す難所を経て、能〔美〕の山を余所に伏拝み給ひて、越後國國府に著きて、直江〔の〕津より船に召して、米山をおきかけに、三十三里のかりやはま(刈羽濱カ)・かつき・しらさきを漕ぎ過ぎて、寺の泊に船を著け、くりみやいしを拝みて、九十九里の濱にかかりて、乗足・蒲原・八十里の濱・瀬波・荒川・岩船と云ふ所に著きて、須戸うと道は、雪白水に、山河増さりて叶ふまじ、いはひが崎にかかりて、おちむつやなかざか・念珠の関・大泉の庄・大梵字を通らせ給ひて、羽黒の権現を伏拝み参らせ、清川と云ふ所に著きて、すぎのをか船に棹さして、あいかはの津に著かせ給ひて、道は又二つ候。最上郡にかかりて、伊奈の関を越えて、宮城野の原・榴の岡・千賀の塩竃・松島など申す名所々々見給ひては、三日横道にて候。かなよりの地蔵堂、亀割山を越えては、昔出羽の郡司が娘小野小町と申す者の住み候ひける玉造むろの里と申す所、又小町が関寺に候ひける時、業平の中将東へ下り給ひけるに、妹の姉歯が許へ、文書きて言伝しに、中将下り給ひて、姉歯を尋ね給へば、空しくなりて年久しくなりぬと申せば、『姉歯が標はなきか』と仰せられければ、或人『墓に植えたる松をこそ、姉歯の松とは申し候へ』と申しければ、中将姉歯が墓に行きて、松の下に文を埋めて、詠み給ひける歌、

栗原や姉歯の松の人ならば都の土産にいざといはましを

と詠み給ひける名木を御覧じては、松山一つだにも越えつれば、秀衡が館は近く候。理に枉げて此道にかからせ給ふべし」と申しければ、判官是を聞き給ひて、「是は只者にてはなし。八幡の御計らひと覚ゆるぞ。いざや此道にかかりて行かん」と仰せられければ、弁慶申しけるは、「かからせ給ふべき。わざと憂目を御覧ぜんと思召されば、かからせ給ふべし。彼奴は君を見知り参らせ候に於ては、疑もなき作事をして、君を欺り参らせんとこそすると覚え候。先へ遣りても、後へ返しても、よき事はあるまじ」と申しければ、「よき様に計らへ」とぞ仰せられける。

武蔵坊立添ひて、どの山をどの迫にかかりて行かんずるぞと、問ふやうにもてなし、弓手の腕を差伸べて、項を掴み、逆さまに取つて伏せ、強胸を踏まへて、刀を抜きて、心先に差当てて、「汝ありのままに申せ」と責めければ、顫ひ顫ひ申しけるは、「真には上田左衛門が内に候ひしが、恨む〔る〕事候うて、加賀國井上左衛門が内に候。『君を見知り参らせ候』と申して候へば、『罷り向ひ参らせて、賺し参らせ候へ』と仰せられ候へども、争か君をば疎に存じ参らすべき」と申しければ、「それこそ汝が後言よ」とて、真中二刀刺貫き、首掻放し雪の中に踏み込うで、さらぬ体にてぞ通り給ふ。井上が下人平三郎と云ふ男にてぞありける。余りに下郎の口の利きたるは、却つて身を食むとは是なり。

さて十余人の人々、とてもかくてもと打ふてて、関屋をさしてぞおはしける。十町許り近づきて、勢を二手に分けたりけり。判官殿の御供には武蔵坊・片岡・伊勢三郎・常陸坊、是を初として七人、今一手には北の方の御供として、十郎権頭・根尾・熊井・亀井・駿河・喜三太御供にて、間五町許りぞ隔てける。先の勢は木戸口に行き向ひたりければ、関守是を見て、すはやと言ふこそ久しけれ、百人許り七人を中に取籠めて、「是こそ判官殿よ」と申しければ、繋ぎ置かれたる者共、「行方も知らぬ我〔等〕に憂目を見せ給ふ。是こそ判官の正身よ」と喚きければ、身の毛もよだつばかりなり。判官進み出でて仰せられけるは、「抑も羽黒山伏の何事をして候へば、是程に騒動せられ候やらん」と宣へば、「何條羽黒山伏。九郎判官殿にてこそおはしませ」と申しければ、「此関屋の大将軍は誰殿と申すぞ」と問ひ給へば、「当國の住人敦賀兵衛、加賀國の井上左衛門と申す人にて候へ。兵衛は今朝下り候ひぬ。井上は金津に在する」と申しければ、「主も在せざらん所にて、羽黒山伏に手かけて、主に禍かくな。其儀ならば其笈の中に羽黒の権現の御正体観音の在しますに、此関屋を御室殿と定めて、八重の注連を引きて、御榊を振れ」とぞ仰せられける。

関守共申しけるは、「実にも判官にておはしまさずば、其様をこそ仰せらるべく候に、主に禍をかくべからん様は如何にぞ」と咎めける。弁慶是を聞きて、「形の如く先達候はんずる上は、山法師原が事を御咎め候うては詮なし。やあ大和坊其処退き候へ」とぞ申しける。言はれて関屋の縁にぞ居給へる。是こそ判官にておはしましけれ。弁慶申しけるは、「是は羽黒山の讃岐坊と申す山伏にて候が、熊野に参りて年籠して下向申し候。九郎判官殿とかやをば、美濃國とやらん尾張國とやらんより、生捕りて都へ上るとやらん下るとやらん承り候ひしが、羽黒山伏が判官と言はるべき様こそなけれ」と言ひけれども、何と陳じ給へども〔給ふともとて(ヨ)〕、弓に矢を矧げ、太刀長刀の鞘外してぞ居たりける。

後の人々七人連れてぞ来りける。いとど関守共さればこそとて、「大勢の中に取籠めて、唯射〔たたき(ヨ)〕殺せ」とぞ喚きければ、北の方消え入る心地し給ひけり。或関守申しけるは、「暫く鎮まり給へ。判官ならぬ山伏殺して後の大事なり。関手を乞うて見よ。昔より今に至るまで、羽黒山伏の渡賃関手なす事はなきぞ。判官ならば仔細を知らずして、関手をなして通らんと急ぐべし。現の山伏ならばよも関手をばなさじ。是を以て知るべき」とて、賢々しげなる男進み出でて申しけるは、「所詮山伏なりとても、五人三人こそあらめ、十六七人の人々に、争か関手を取らではあるべき。関手なして通り給へ。鎌倉殿の御教書にも、乙家甲家を嫌はず、関手を取つて兵糧米にせよと候間、関手を賜はり候はん」とぞ申しける。弁慶言ひけるは、「〔事〕新し〔き〕事を言はるるものかな。何時の習に羽黒山伏の関手なす法やある。例なき事は叶ふまじき」と言ひければ、関守共是を聞きて、「判官にてはおはせぬ」と言ふもあり、或は「判官なれども、世に越えたる人にておはしませば、武蔵坊など云ふ者こそ、斯様には陳ずらめ」など申す。

又或者出でて申しけるは、「さ候はば、関東へ人を参らせて、左右を承り候はん程、是に留め奉り候はん」と申しければ、弁慶、「是は金剛童子の御計らひにてこそ。関東の御使上下の程、関屋の兵糧米にて、道饌食はで、御祈祷申して、心安く暫く休みて下るべし」とて、ちつとも騒がず、十挺の笈〔を〕ば関屋の内に取入れて、十余人の人々、むらむらと内に入つて、つつとしてぞ居たる。猶も関守怪しく思ひけり。弁慶関守に向つて、問はず語りをぞし居たる。「此少人は出羽國の酒田次郎殿と申す人の君達、羽黒山にて金王殿と申す少人なり。熊野にて年籠して、都にて日数を経て、北陸道の雪消えて、山家々々に伝ひて、栗の斎料など尋ねて、斎食などなりとも取つて下るべく候ひつるに、余りに此少人故郷の事をのみ仰せられ候間、未だ雪も消え候はねども、此道に思ひ立ち候うて、如何せんずると歎き候ひつるに、是にて暫く日数を経候はん事こそ嬉しく候へ」と物語どもして、草鞋脱ぎ足洗ひ、思ひ思ひに寝ぬ起きぬなど、したり顔に振舞ひければ、関守共「是は判官殿にてはおはせぬげなり。只通せや」とて関の戸を開きたれども、急がぬ体にて、一度には出でずして、一人づつ二人づつ、静に立躊躇ひ躊躇ひぞ出で給ふ。

常陸坊は人より先に出でたりけるが、後を顧みければ、判官と武蔵坊と未だ関の縁にぞ居給へり。弁慶申しけるは、「関手御免候上、判官にてはなしと云ふ仰せ蒙り候ひぬ。旁々以て悦び入つて候へども、此二三人少人に物参らせ候はず候へば、心苦しく候。関屋の兵糧米少し賜ひ候うて、少人に参らせて、通り候はばや。且は御祈祷、且は御情にてこそ候へ」と言ひければ、関守共、「物も覚えぬ山伏かな。判官かと申せば、口強に返事し給ふ。又斎料乞ひ給ふ事は如何」と申しければ、長しき者、「実は御祈祷にてこそあれ。それ参らせよ」と言ひければ、唐櫃の蓋に白米一蓋入れて参らせける。弁慶是を取りて、「大和坊、是を取れ」と言ひければ、傍らより差出でて、受取り給ひけり。

弁慶長押の上についいて、腰なる法螺の貝取出し、夥しく吹鳴らし、首に懸けたる大苛高の数珠取つて押揉みて、尊げにぞ祈りける。「日本第一大霊権現、熊野は三所権現、大峯八大金剛童子、葛城は十萬の満山の護法神、奈良は七堂の大伽藍、初瀬は十一面観音、稲荷・祇園・住吉・賀茂・春日大明神、比叡は山王七社の宮、願はくは判官此道にかけ参らせて、愛発の関守の手にかけて留めさせ奉り、名を後代に揚げて、勲功大塊ならば、羽黒山の讃岐坊が験徳の程を見せ給へ」とぞ祈りける。関守共〔是を聴聞し、さも〕頼もしげにぞ思ひける。心中には「八幡大菩薩、願はくは送護法・迎護法となりて、奥州まで相違〔左右〕なく届け奉り給へ」と祈りけるこそ、心哀れなる祈とは覚ゆれ。夢に道行く心地して、愛発の関をも通り給ふ。其日は敦賀の津に下りて、せいたい〔けい大(ヨ)〕菩薩の御前にて、一夜御通夜あつて、出羽へ下る船を尋ね給へども、未だ二月の初の事なれば、風烈しくて行き通ふ船もなかりけり。力及ばず夜を明して、木目と云ふ山を越えて、日数も経れば越前國の國府にぞ著き給ふ。それにて三日御逗留ありける。

五 平泉寺御見物の事

「横道なれども、いざや当國に聞えたる平泉寺を拝まん」と仰せける。各々心得ず思ひけれども、仰せなればさらばとて、平泉寺へぞかかられける。其日は雨降り風吹きて、世間もいとど物憂く、夢に道行く心地して、平泉寺〔の〕観音堂にぞ著き給ふ。大衆共是を聞きて、長吏の許へぞ告げたりける。政所の勢を催して、寺中と一つになりて僉議しけるは、「当時関東は山伏禁制にて候に、此山伏は只人とも見えず。判官は大津・坂本・愛発の山をも通られて候なり。寄せて見ばや、如何様にも是は判官にておはすると覚え候」と僉議す。「尤も」とて大衆出で立つ。かの平泉寺と申すは山門の末寺なり。されば衆徒の規則も山上に劣らず。大衆二百人、政所の勢も百人、直兜にて、夜半ばかりに観音堂にぞ押しかけたる。十余人は東の廊下にぞ居たりける。判官と北の方は西の廊下にぞ在したる。

弁慶参りて、「今はかうと覚え候。是は余の所には似べくも候はず。如何御計らひ候。さりながら、叶はざるまでは、弁慶陳じて見候はん間、叶ふまじげに候はば、太刀を抜き、『憎い奴原』など申して飛んで下り候はば、君は御自害候へ」とぞ申して出でける。大衆に問答の間、「憎い奴原」と言ふ声やすると、耳を立ててぞ聞き給ふ。心細くぞありける。衆徒申しけるは、「抑も是はどこ山伏にて候ぞ。うち任せては留まらぬ所にて候に」と申しければ、弁慶申しけるは、「出羽國羽黒山の山伏にて候」「羽黒には誰と申す人ぞ」「大黒堂の別当に讃岐の阿闍梨と申す者にて候」と答へる〔けり〕。「少人をば誰と申〔し候〕ぞ」「酒田次郎殿と申す人の御子息金王殿とて、羽黒山には隠れなき少人にて候ぞ」と言ひければ、衆徒是を聞きて、「此者共は、判官にてはなき者ぞ。判官にておはしまさんには、争か是程に羽黒の案内をば知り給ふべき。金王と申すは、羽黒には名誉の児にて候なるぞ」。

長吏事を聞きて、座敷に居直りて、武蔵坊を呼びて、「先達の坊に申すべき事候」と言へば、弁慶も長吏に膝を組みかけてぞ居たりける。長吏申されけるは、「少人の事承り候こそ、心も言葉も及ばずおはしまし候なれ。学問のせい(精)は如何様におはしまし候ぞ」と言ひければ、「学問に於ては、羽黒山には並もおはしまし候はず。申すにつけても過言にて候へども、容顔に於ては山・三井寺にも争か在しまし候べき」と讃めたりけり。「学問のみにも候はず、横笛に於ては、日本一とも申すべし」と言ひければ、長吏の弟子に和泉美作と申しける法師は、極めて案深き寺中一のえせ者なり。長吏に申しけるは、「女ならば琴・琵琶弾く事は常の事にて候。是は女ぞと疑ふ処に、笛の上手と申すこそ怪しく候へ。実に児が笛吹かせて見候はん」と申す。長吏実にもとて、「あはれさ候はば、音に聞えさせ給ふ御笛を承り候うて、世の末の物語にも伝へ候はばや」とぞ申されける。弁慶是を聞きて、「易き事や」と返事はしたれども、両眼真暗になるやうにぞ覚えける。

さてしもあるべき事ならねば、「其様を少人に申し候はん」とて、西の廊下に参りて、「斯かる事こそ候はね。ありてもあらぬ事を申して候程に、御笛遊ばさせ参らせて、承るべき由申し候。如何仕るべく候」と申しければ、「さりとては、吹かずとも出で給へ」と仰せられければ、「あら心憂や」とて、衣引被き臥し給ふ。衆徒は頻りに「少人の御出で遅く候」と申せば、弁慶「只今只今」と答へて居たりける。和泉と申す法師言ひけるは、「流石に我が朝には、熊野・羽黒とて、大所にて候ぞかし。それに左右なく名誉の児を平泉寺にて呼び出して、散々に嘲哢したりけると聞えん事、此寺の恥にあらずや。少人を出し奉りもてなす様にて、其序に吹かせたらんは苦しからじ」と申しければ、「尤も然るべし」とて、長吏の許に、ねんいち・みだ(弥陀)王とて、名誉の児あり。

花折りて出で立たせ、若大衆の肩首に乗つてぞ来りける。正面の座敷長吏、東は政所、西は山伏、本尊を後にし奉りて、仏壇の際に南へ向けて、少人の座敷をぞしたりける。二人の児座敷に直りければ、弁慶参りて、「御出で候へ」と申しければ、北の方唯闇に迷ひたる心地して出で立ち給ふ。昨日の雨に萎れたる顕紋紗の直垂に、下には白なへ色の衣を召したりければ、猶も美しくぞ見え給ひける。御髪尋常に結ひなして、赤木の柄の刀にだみたる扇差添へて、御手に横笛持ちて御出である。

御供には、十郎権現・片岡・伊勢三郎、判官殿は殊に近くぞ在しける。自然の事あらば、人手には掛くまじきものをとぞ思召しける。正面に出で給へば、殊に其時は燈火を高く挑げたり。北の方扇取直し、衣紋掻繕ひ、座敷に直り給ふ。今までは頑はしき所もおはしまさず、武蔵坊心安く思ひけり。何ともあれ、仕損ずる程ならば、刺違へて事如何にもならめと思ひければ、長吏に膝をきしりてぞ居たりける。

弁慶申しけるは、「詞候はぬ事、笛に於ては日本一ぞかし。但し仔細一つ候。此少人羽黒に在しまし候時も、明暮笛にのみ心を入れて、学問の御心も空々に〔御〕渡り候ひし程に、去年の八月に羽黒を出でし時、師の御坊、今度の道中上下向の間、笛を吹かじと云ふ誓言をなし給へとて、権現の御前にて金を打たせ奉りて候へば、少人の笛をば御免候へかし。是〔に〕大和坊と申す山伏〔の〕候が、笛は上手にて候。常に少人も是にこそ御習ひ候へ。御代官に是を参らせ候はばや」と申しければ、長吏是を聞きて感じ申しけるは、「あはれ人の親の子を思ふ道あり、法道〔師匠〕の弟子を思ふ志是なり。争か御痛はしく、それ程の御誓をば是にては破り参らせ候べき。疾く疾く御代官にても候へ」と申しければ、武蔵坊余りの嬉しさに、腰を抑へ空へ向ひて溜息ついてぞ居たりける。

「早々参りて、大和坊御代官に笛を仕れ」と言はれて、判官仏壇の影の仄暗き所より出で給ひて、少人の末座にぞ居給ひける。大衆「さらば管絃の具足参らせよ」と申しければ、長吏の許より、臭木のこう〔胴〕の琴一張、錦の袋に入れたる琵琶一面取寄せ、琴をば「御客人に」とて、北の方に参らせける。琵琶をばねんいち殿の前に置き、笙の笛をばみだ王殿の前に置き、横笛は判官の御前に置き、かくて管絃一切ありければ、面白しとも言ふも疎なり。只今までは合戦の道にてあるべかりつるに、如何なる仏神の御納受にてや、不思議にぞ覚えし。衆徒も是を見て、「あはれ児や、あはれ笛の音や。ねんいち・みだ王殿をこそ、よき児と有難く思ひつるに、今此児と見比ぶれば、同じ口にも言ふべくもなし」などと、若大衆共口々にぞ囁きける。

長吏寺中に帰りけり。さ夜更けて長吏の許より、やうやうに菓子積みなどして、瓶子添へて観音堂に送りけり。皆人疲れに臨みければ、「いざや酒飲まん」と、とりどりに申しけるを、武蔵坊「あはれ詮なき殿原かな。欲しさのままに誰も飲まんずる程に、程なく酒気には本性をただすものなれば、暫くこそ『少人に参らせよ』『先達の御坊・京の君』などと言ふとも、後はあぢきなき娑婆世界の習、『北の方に今一つ申せ』『熊井や片岡思ひざしせん』『伊勢三郎持ちて来よ』『いで飲まん弁慶』などと言はん程に、焼野の雉子の頭を隠して、尾を出したる様なるべし」。「酒は上下向の間断酒にて候」とて、長吏の許へぞ返しける。「希有なる山伏達にてありけるよ」とて、急ぎ僧膳仕立て、御堂へ送りけり。各々僧膳したためて、夜も曙になりければ、今夜〔ごや(後夜)(ヨ)〕の懺法をぞ読みける。伊勢三郎を使にて、長吏に暇をぞ乞はれける。心ある大衆達、徒歩にてむらむら消え残る雪を踏み分けて、二三町ぞ送りける。恐しく思はれし平泉寺をも、鰐の口を逃れたる心地して、足早に通られける。

かくて菅生の宮を拝みて、金津の上野に著き給ふ。唐櫃数多舁かせて、引馬其数あり、ゆゆしげなる大名五十騎許りにぞ逢うたりける。「是は如何なる人ぞ」と問ひければ、「加賀國井上左衛門と申す人なり。愛発の関へ行くぞ」と申しける。判官是を聞き給ひ、「あはれ遁れんとすれども遁れぬものかな。今はかくぞ」と宣ひて、刀の柄に手を打掛け給ひて、北の方の背に背を差合せて、笠の端にて顔を隠して、通さんとし給ふ処に、折節風烈しく吹きたりけり。笠の端を吹上げたりければ、井上一目見参らせて、判官と御目を見合せ奉り、馬より飛んで下り、大道に畏まつて申しけるは、「斯かる事こそ候はね。途中にて参り逢ひ参らせ候こそ、無念に存じ候へ。侍ふ所は井上と申して、程遠き所にて候間、彼方へとも申さず候。山伏の色代は恐にて候。疾く疾く」と申して、我が身馬引寄せて、左右なくも乗らず、遙に見送り奉り、御後遠ざかる程にもなりぬれば、各々馬にぞ乗りたりける。

判官は余りの事に行きもやり給はず、頻りに見返り給ひつつ、「七代まで弓矢の冥加あれ」とぞ、面々にもうしけるぞ哀れなる。其日は細呂木と云ふ所に井上著きて、家子郎等共を呼びて申しけるは、「今日行逢ひ参らする山伏をば誰とか見奉る。是こそは鎌倉殿の御弟判官殿よ。あはれ日来の様におはさんには、國の騒動道路の大事とこそなるべきに、此御有様になり給へる御事のいとほしさよ。討ち奉りたらば、千年萬年過ぐべきか。余りの痛はしさに、難なく通し奉りてこそ」と言ひければ、家子郎等共是を聞きて、井上の心の中、あはれ情も慈悲も深かりける人やと、頼もしくぞ覚えける。

判官其日篠原に泊り給ひけり。明けければ齋藤別当実盛が手塚太郎光盛に討たれける、あいの池を見て、安宅の渡を越えて、根上の松に著き給ふ。是は白山〔の〕権現に、法施を手向くる所なり。いざや白山を拝まんとて、岩本の十一面観音に御通夜あり。明くれば白山に参りて、女体后の宮を拝み奉らせて、其日は劔の権現の御前に参り給ひて、御通夜ありて、終夜御神楽参らせて、明くれば林六郎光明が背戸を通り給ひて、加賀國富樫と云ふ所も近くなり、富樫介と申すは当國の大名なり。鎌倉殿より仰せは蒙らねども、内々用心して、判官殿を待ち奉るとぞ聞えける。

武蔵坊申しけるは、「君は是より宮越へ渡らせおはしませ。弁慶は富樫が館の様を見て通り候はん」と申しければ、「たまたまあるとも知られで通る道のあるに、寄りては何の詮ぞ」と仰せられければ、弁慶申しけるは、「中々行きてこそよく候へ。山伏大勢にて通ると聞え、大勢にて追掛けられては悪しく候はんずれば、弁慶ばかり罷り候はん」とて、笈取つて引掛けて、唯一人行きける。富樫が許〔城〕を見れば、三月三日の事なれば、傍らには鞠・子弓の遊、傍らには鳥合、又管絃酒盛にぞ見えける。酒にすだれ〔酔ひ〕たる所もあり。武蔵坊相違なく館の内に入りて、侍の縁の際を通りて、内を差覗き見れば、管絃只今盛りなり。

武蔵坊大の声を揚げて、「修行者の候」と申しける。管絃の調子もそれにけり。「御内只今機嫌悪しく候」と申しければ、「上つ方こそ候とも、御後見の御方にそれ申して賜び候へや」とて、強ひて近くぞ寄りたりける。中間雑色二三人出でて「罷出でられ候へ」と言ひけれども、聞きも入れず。「狼藉なり。さらば掴んで出せ」とて、左右の腕に取付きて、押せどもへせども少しも働かず。「さらば所にな置いそ。放逸に当りて出せ」とて、大勢近づきければ、拳を握りて、散々にはりければ、或は烏帽子打落され、髻かかへて間所に入るもあり。「此処なる法師の狼藉するぞ」とて騒動す。富樫介も大口に押入烏帽子著て、手鉾杖に突きて、侍にぞ出でにける。

弁慶是を見て、「是御覧ぜられ候へ。御内の者共狼藉し候」とて、やがて縁にぞ上りける。富樫是を見て、「如何なる山伏ぞ」と言へば、「是は東大寺勤進の山伏にて候」「如何に御身一人はおはするぞ」「同行の山伏多く候へども、先様に宮越へ遣り候ひぬ。是は御内勤進の為に参りて候。伯父にて候美作阿闍梨と申すは、東山道を経て信濃國へ下り候。此僧は讃岐阿闍梨と申し候が、北陸道にかかり、越後に下り候。御内の勤進は如何様に候べき」と申しければ、富樫「よくこそ御出で候へ」とて、加賀〔の〕上品五十疋、女房の方より罪障懺悔の為にとて、白袴一腰、八花形に鋳たる鏡、さては家子郎等女房達、下女に至るまで、思ひ思ひに勤進に入り、総じて冥帳につく百五十人、「勤進の物は、只今賜はるべく候へども、来月中旬に上り候はんずれば、其時賜はり候はん」とて、預け置きてぞ出でにける。

馬に乗せられて宮越まで送られけり。行きて判官を尋ね奉れども見え給はず。それより大野の湊にて参り逢ひけり。「如何に今まで久しく、如何に」と仰せられければ、「様々にもてなされて、終夜経読みなどして、馬にて是まで送られて候」と申しければ、武蔵を人々、上げつ下しつ守りける。其日は竹橋に泊り給ひて、明くれば倶利伽羅山を越えて、馳籠が谷を見給ひて、是は平家の多く亡びし所にてあるなるにとて、各々阿弥陀経を読み、念仏申し、かの亡魂を弔ひてぞ通られける。兎角し給ふ程に、夕日西にかかりて、黄昏時にもなりぬれば、松永の八幡の御前にして夜を明し給ひけり。
 
 

六 如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事

夜も明けければ、如意の城を舟に召して、渡をせんとし給ふに、渡守をば平権守とぞ申しける。彼が申しけるは、「暫く、申すべき事候。是は越中〔の〕守護近き所にて候へば、予て仰せ蒙りて候ひし間、山伏五人三人は云ふに及ばず、十人にならば、所へ仔細を申さで渡したらんは、僻事ぞと仰せつけられて候。既に十七八人御渡り候へば、怪しく思ひ参らせ候。守護へ其様を申し候うて渡し参らせん」と申しければ、武蔵坊是を聞きて、妬げに思ひて、「や殿、さりとも此北陸道に、羽黒の讃岐坊を見知らぬ者やあるべき」と申しければ、中乗に乗りたる男、弁慶をつくづくと見て、「実に実に見参らせたる様に候。一昨年も一昨々年も、上下向毎に御幣とて申し下し給はりし御坊や」と申しければ、弁慶嬉しさに、「あ〔目よく〕、よく見られたり見られたり」とぞ申しける。

権守申しけるは、「小賢しき男の言ひ様かな。見知り奉りたらば、和男が計らひに渡し奉れ」と申しければ、弁慶是を聞きて、「抑も此中にこそ九郎判官よと、名を指して宣へ」と申しければ、「あの舳に村千鳥の摺の衣召したるこそ怪しく思ひ奉れ」と申しければ、弁慶、「あれは加賀の白山より連れたりし御坊なり。あの御坊故に所々にて、人々に怪しめらるるこそ詮なけれ」と言ひけれども、返事もせで打〔空〕俯きて居給ひたり。弁慶腹立ちたる姿になりて、走り寄りて舟端を踏まへて、御腕を掴んで肩に引懸けて、濱に走り上り、砂の上にがはと投げ捨てて、腰なる扇抜き出し、痛はしげもなく続け打ちに散々にぞ打ちたりける。見る人目も当てられざりけり。北の方は余りの御心憂さに、声を立てても悲しむばかりに思召しけれども、流石人目の繁ければ、さらぬ様にておはしけり。

平権守是を見て、「すべて羽黒の山伏程、情なき者はなかりけり。判官にてはなしと仰せらるれば、さてこそ候はんずるに、あれ程に痛はしく情なく打ち給へるこそ心憂けれ。詮ずる所、是は某が打ち参らせたる杖にてこそ候へ。斯かる御痛はしき事こそ候はね、是に召し候へ」とて、舟をさし寄する。橄取乗せ奉りて申しけるは、「さらば早舟賃なして越し給へ」と言へば、「何時の習に羽黒山伏の舟賃なしけるぞ」と言ひければ、「日来取りたる事はなけれども、御坊の余りに放逸におはすれば、取つてこそ渡さんずれ。疾く舟賃なし給へ」とて舟を渡さず。

弁慶、「和殿斯〔が〕様に我等に当らば、出羽國へ一年二年の内に来らぬ事はよもあらじ。酒田の湊は此少人の父酒田次郎殿の領なり。只今当り返さんずるもの」とぞ威しけり。されども権守、「何とも宣へ。舟賃取らで〔は〕、えこそ渡すまじけれ」とて渡さず。弁慶、「古へ取られたる例はなけれども、此僻事したるによつて取らるるござんなれ。さらばそれ賜び候へ」とて、北の方の著給へる帷の尋常なるを脱がせ奉りて、渡守に取らせけり。権守是を取つて申しけるは、「法に任せて取つては候へども、あの御坊のいとほしければ参らせん」とて、判官殿にこそ奉りけれ。武蔵坊是を見て、片岡が袖を控へて、「痴がましや、唯あれもそれも、同じ事ぞ」と囁きける。

かくて六動寺を越えて、奈呉の林をさして歩み給ひける。武蔵忘れんとすれども忘られず、走り寄りて判官の御袂に取付きて、声を立てて泣く泣く申しけるは、「何時まで君を庇ひ参らせんとて、現在の主を打ち奉るぞ。冥顕の恐も恐しや。八幡大菩薩も免し給へ。浅ましき世の中かな」とて、さしも猛き弁慶が〔も〕、伏転び泣きければ、侍共一所に顔を並べて、消え入る様に泣き居たり。判官、「是も人の為ならず。斯程まで果報拙き義経に、斯様に志深き面々の、行末までも如何と思へば、涙の零るるぞ」とて、御袖を濡らし給ふ。各々此御詞を聞きて、尚も袂を絞りけり。かくする程に日も暮れければ、泣く泣く辿り給ひけり。ややありて北の方、「三途の河を渡るこそ、著たる物を剥がるるなれ。少しも違はぬ風情かな」とて、岩瀬の森に著き給ふ。

其日は此処に泊り給ひけり。明くれば黒部の宿に少し休ませ給ひて、黒部四十八ヶ瀬の渡を越え、市振・浄土・歌の脇・蒲原・ながはしと云ふ所を通りて、岩戸の崎と云ふ所に著きて、海人の苫屋に宿を借りて、夜と共に御物語ありけるに、浦の者共、搗布と云ふ物を潜きけるを見給ひて、北の方かくぞ思ひつづけ給ひける。

四方の海浪のよるよるきつれども今ぞ初めてうきめをば見る

弁慶是を聞きて、忌々しくぞ思ひければ、かくぞつづけ申しける。

浦のみち浪のよるよるきつれども今ぞ初めてよきめをば見る

かくて岩戸の崎をも出で給ひて、越後〔國〕國府直江の津、花苑の観音堂と云ふ所に著き給ふ。此本尊と申すは、八幡殿安倍貞任を攻め給ひし時、本國の御祈祷の為に、直江次郎と申しける有徳の者に仰せつけて、三十領の鎧を賜びて建立し給ひし源氏重代の御本尊なりければ、其夜はそれにて終夜御祈念ありけり。
 
 

七 直江の津にて笈探されし事

爰に越後の國府の守護鎌倉に上りてなし。浦の代官に〔は〕らう権守と云ふ者あり。山伏著き給ふと聞きて、浦の者共を催して、櫓櫂などを乳切木材棒にして、網人共を先として、理非をも弁へぬ奴原が二百余人、観音堂を押巻きたり。折節侍共、方々へ斎料尋ねに行きければ、判官唯一人在しける所に押寄す。直江の御堂に騒動する事聞えければ、弁慶走り合はんと急ぐ。判官問答し給ひけるは、昨日までは羽黒山伏と宣ひしが、今は羽黒近ければ引代へて、「熊野より羽黒へ参り候が、船を尋ねて是に候。先達の御坊は、檀那尋ねにおはしまして候。是は御留守に候。何事ぞ」などと問答し給ふ処に、武蔵坊ものの翔りたる様にてぞ出で来り申しけるは、「あの笈の中には三十三体の聖観音を京より下り参らせ候が、来月四月の頃には御宝殿に入れ参らせ候はんずるぞ。各々身不浄なるやう〔■〕にて、左右なく近づきて、権現の御本地汚し給ふな。仰せらるるべき事あらば、余所にて仰せられ候へ。権現を汚し参らせ給ふ程ならば、笈を滌がざらんより外はあるまじ」と威しけれども、少しも用ひずして、口々に罵り〔けり〕。

権守申しけるは、「判官殿道々も陳じて通り給ふ事その隠れなし。是には今程守護こそ留守にて候へども、形の如くも、此せう(尉)〔こむせう〕が承つて候間、上つ方まで聞召し候はんずる事にて候間、斯様に申し候。さ候はば、心休めに笈一挺賜はりて見参らせ候はん」と申しければ、「是は御本尊の渡らせおはしまし候笈を、不浄なる者に左右なく探させん事恐にてはあれども、和殿原が疑をなし、好む禍なれば、罪を蒙らんは汝等次第よ。すは見よ」とて、手に当る笈一挺取つて投げ出す。何となく取つて出したるが、判官の笈にてぞありける。

武蔵坊是を見て、あはやと思ひける処に、三十三枚の櫛を取出して、「是は如何」と申しければ、弁慶あざ笑ひて、「えいえい、〔方々は〕何も知り給はずや。児の髪をば梳らぬか」と言ひければ、権守理と思ひければ、傍らに差置きて唐の鏡取出し、「是は如何」と言へば、「児を具したる旅なれば、化粧の具足を持つまじき謂れがあらばこそ」と言ひければ、「理」とて、八尺の掛帯、五尺の鬘、紅の袴、重の衣を取出して、「是は如何に、児の具足にも是が要るか」と申しければ、「〔御不審尤もにて候。〕法師が伯母にて候者、羽黒権現のそうの一にて候が、鬘袴色よき掛帯、買うて下せと申し候ひし程に、今度の下りに持ちて下り、悦ばせんが為にて候ぞ」と言ひければ、「それはさもさうず」と申す。「さ候はば、今一挺の笈御出し候へ。見候はばや」と申す。「何挺にてもあれ、心に任す」とて、又一挺投げ出す。片岡が笈にてぞありける。此笈の中には兜籠手臑当、柄もなき鉞をぞ入れたりける。兎角すれども強く縢げたり。

暗さは暗し解きかねてぞありける。弁慶は手を握り〔合せ〕て南無八幡と祈念して、「其笈には権現の渡らせ給ひ候ぞ。返す返す不浄にして罰当り給ふな」と申しければ、「御正体にて渡らせ給はば、必ず開けずとも知るべき」とて、笈の掛緒を取つて引上げて振りたりければ、籠手臑当鉞が、からりひしりと鳴りければ、権守胸打騒ぎ、「斯かる事こそ候はね。実に〔実に〕御正体にて渡らせ給ひ候ひけるを」とて、「是〔それ〕受取り参らせ給へ」と申しければ、弁慶、「さればこそ、さしも言ひつる事を。笈滌がざらんには、左右なく受取り給ふな、御坊達」と言ひければ、左右なく人も受取らず。「予て言はぬ事か。滌がずば祈れ。清めには物が多く要らんずるぞ」と言ひければ、権守、「理を枉げて受取り給へ」と言へば、「笈滌がずば、権守が許に御正体を振捨て奉りて、我等は羽黒に参りて、大衆を催して、御迎ひに参らんずるなり」と威されて、寄せたりける者も一人々々散り散りにぞなりにける。

権守一人は大事になりて、「笈を滌ぎ候はんには、幾ら程物の要り候ぞ」と言ひければ、「権現も衆生利益の御慈悲なれば、形の如くにてこそあらんずれ。先づ御幣紙の料に檀紙百帖、白米三石三斗、黒米三石三斗、白布百端、紺の布百端、鷲の羽百尻、黄金五十両、毛揃へたる馬七疋、荒薦百枚、是敷きて積みて進らせば、形の如くなりとも、滌ぎて奉らん」とぞ申しける。権守、「如何に思ひ候とも、極めて貧なる者にて候〔程に〕、叶ひ難く候。悉くにて候はずとも、形の如く申上げて賜べ」とて、米三石、白布三十端、鷲の羽七尻、黄金十両、毛揃へたる神馬三疋、「是より外は持ちたる物も候はず。然るべく候はば、申上げて賜び候へ」と詫びければ、「いでさらば権現の御腹〔神慮を〕慰め参らせん」とて、兜籠手臑当の入りたる笈に向つて、何事をか申し、「むつむつかんかんらんらんそわかそわか」と申して、「をんころをんころ般若般若心経」などぞ祈りける。笈を突き働かして、「権現に其旨申上げ候ひぬ。世の例なれば、かくは執り行ひ候ひぬ。是等は御辺の計らひにて、羽黒へ届け参らせて賜び候へ」とて、権守が許にぞ預けける。

さて夜も更けければ、片岡直江の湊に下りて見れば、佐渡より渡したりける船に、苫をも葺かず主もなく、櫓櫂■(かじ:楫+戈)なども有りながら、波に引かれ揺られいたり。片岡是を見て、あはれ物や、此船を取つて乗らばやと思ひて、観音堂に参りて、弁慶にかくと言ひければ、「いざさらば此船取つて、今朝の嵐に出さん」とて、湊に下り、十余人取乗りて押出す。めうくわんおん(妙観音)の嶽より下したる嵐に帆ひかけ(引掛)て〔おひかけて〕、米山を過ぎて、角田山を見つけ、「あれ見給へや、風は未だ荒し。風弱くならば、艫を添へて押せや」とぞ申しける。

青島の北を見給へば、白雲の山の腰を離れて、宙に吹かれて出で来るを、片岡見て申しける〔は〕、「國の習は知らず、此雲こそ風雲と覚ゆれ。如何すべき」と言ひも果てねば、北風吹き来て、陸には砂を上げ、沖には潮を捲いてぞ吹きたりける。蜑の釣舟の浮きぬ沈みぬを見給ふにも、我が船もかくぞあらめと思ひ給ふに、心細くして、遙の沖に漂ひ給ひけり。「とても叶ふまじくば、唯風に任せよ」とて、御船をば佐渡の島へ馳せ著けて、まぼろし加茂潟へ船を寄せんとしけれども、波高くして寄せかねて、松かげが浦へ馳せもて行く。それも白山の嶽より下したる風烈しくて、佐渡の島を離れて、能登國珠洲が岬へぞ向けたりける。

さる程に日も暮方になりければ、いとど心ぞ違ひける。御幣をはいで笈の足に挟みて祈られけるは、「天を祭る事はさる事にて候へども、此風を和らげて、今一度陸に著けてともかくもなさせ給へ」とて、笈の中より白鞘巻を取出して、「八大龍王に参らせ候」とて海へ入れ給ふ。北の方も紅の袴に唐の鏡取添へて、「龍王に奉る」とて海に入れさせ給ひけり。されども風は止む事なし。

さる程に日も既に暮れぬれば、黄昏時にもなりにけり。いとど心細くぞ覚えける。能登國石動の嶽より、又西風吹きて船を東へぞ向けたりける。あはれ順風やとて、風に任せて行く程に、夜も夜半ばかりになれば、風も鎮まり、波も和らぎければ、少し人々心安くて、風をはかりに行く程に、暁方に其処とも知らぬ所に御船を馳せ上げて、陸に上がりて、苫屋に立寄りて、「是をば何処と云ふぞ」と問ひければ、「越後國寺泊」とぞ申しける。「思ふ所に著きたるや」と悦びて、其夜の中に國上と云ふ所に上りて、みくら町に宿を借り、明くれば弥彦の大明神を拝み奉りて、九十九里の濱にかかりて、蒲原のたちを越えて、八十八里の濱などと云ふ所を行き過ぎて、荒川の松原、岩船を通りて、瀬波と云ふ所に、左胡■(竹+録)、右靱、せんが桟などと云ふ名所々々を通り給ひて、念珠の関守厳しくて通るべき様も名ければ、「如何せん」と仰せられければ、武蔵坊申しけるは、「多くの難所を遁れて、是までおはしましたれば、今は何事か候べき。さりながら用心はせめ」と、判官をば下種山伏に作りなし、二挺の笈を嵩高に持たせ奉り、弁慶大の■(しもと:木+垂)杖に〔突き〕、「歩めや法師」とて、しとど打ちて行きければ、関守共是を見て、「何事の咎にて、それ程に苛み給ふ」と申しければ、弁慶答へけるは、「〔是は〕熊野の山伏にて候が、是に候山伏は、子々相伝の者にて候が、彼奴を失うて候ひつるに、此程見つけて候間、如何なる咎をも当ててくれうず候。誰か咎め給ふべき」とて、いよいよ隙なく打ちてぞ通りける。関守共是を見て、難なく木戸を開けてぞ通しける。程なく出羽國へ入り給ふ。其日ははらかい(原海カ)といふ所に著き給ひて、明くれば笠取山などと云ふ所を過し給ひて、田川郡三瀬の薬師堂に著き給ふ。是にて雨降り水増さりければ、二三日御逗留ありけり。

爰に田川郡の領主田川太郎実房と云ふ者あり。若かりし時より数多子を持ちたりけるが、皆先立てて、十三になる子一人持ちたりけるが、虐病をして、萬事限りになり〔に〕けり。羽黒近き所なれば、然るべき山伏など請じて祈られけれども其験もなし。此山伏達在する由を伝へ聞きて、郎等共に申しけるは、「熊野・羽黒とて、何れも威光は劣らせ給はぬ事なれども、熊野の権現と申すは、今一入尊き御事なれば、行者達もさこそおはすらん。請じ奉つて、験者一座せさせ奉りて見ばや」とぞ申しける。

妻女も子の痛はしさに、「急ぎ御使参らせ給へ」とて、実房が代官に大内三郎と云ふ者を、三瀬の薬師堂へ参らする。客僧達へかくと申しければ、判官仰せられけるは、「請用は得た〔け〕れども、我等が不浄の身にては、何を祈りて其効やあるべき。験〔詮〕もなからぬものゆえに、行きても何かせん」と仰せられければ、武蔵坊申しけるは、「君こそ不浄に渡らせ給へ、我等は都を出でしより、精進潔斎もよく候へば、仮令験徳の程はなくとも、我等が祈り候はん景気の恐しさに、などか悪霊も死霊も現れざるべき。たまたまの請用にて候に、只御出で候へかし」と申して、各々寄合ひ笑ひ戯れ奉りければ、「是は秀衡が知行の所にて候へば、定めて是も祇候の者にて候はめ。何か苦しく候はん、知らせさせ給へ」と申しければ、弁慶聞きて、「あはれや殿、親の心を子知らずとて、人の心は知り難し。自然の事あらば、後悔先に立つべからず。君の御下著の後、実房参らぬ事はあらじ。其時の物笑ひにも知らすべからず」とぞ申しける。「さて祈り手は誰をかすべき。護身は君、数珠押揉みて候はん為には、弁慶に過ぎ候まじ」とて出で立ち給ひけり。

御供には武蔵坊・常陸坊・片岡・十郎権頭、四人田川が許へ入らせ給ふ。持仏堂に入れ奉る。田川見参に入りけり。子をば乳母に介錯せさせて、具してぞ出で来〔たり〕たる。験者始め給ふに、よりましに十二三許りなる童をぞ召されける。判官護身し給へば、弁慶数珠押揉みける。此人々祈り給ひける景気〔気色〕、心中の恐しさにや口走る。幣帛〔も〕鎮まりければ、悪霊も死霊も立去り、病人即ち平癒す。

験者いよいよ尊くぞ見え給ふ。其日は留め奉りけり。日々に発りける虐病は、今は相違なし。いとど信心増さり、喜悦斜ならず。仮初なれども、権現の御威光の程も思ひ知られて、尊く思召しけり。御祈の布施とて、鹿毛なる馬〔に〕黒鞍置いて参らせける。砂金百両、「國の習にて候」とて、鷲の羽百尻、残る四人の山伏に、小袖一重づつ参らせて、三瀬の薬師堂へ送り奉る。使帰りけるに、「御布施賜はり候事はさることに候へども、是もたう(道)の習にて候へば、羽黒山に暫く参籠し候はんずれば、下向の時賜はるべく候。其間預け申し候べし」とて返されけり。

かくて田川をも立ち給ひ、大泉の庄大梵字を通らせ給ひ、羽黒の御山を余所にて拝み給ふにも、御参籠の御志はおはしましけれども、御産の月既に此月に当らせ給ふに、萬恐をなして、弁慶ばかり御代官に参らせらる。残りの人々は、につけのたかうらへかかりて、清川に著き給ふ。弁慶はあげなみ山にかかりて、(き脱カ)よ川へ参り逢ふ。其夜は五所の王子の御前に一夜の御通夜あり。此清川と申すは、羽黒権現の御手洗なり。月山のぜんぢやう(絶頂カ禅定カ)より、北の腰に流れ落ちけり。熊野には岩田川、羽黒には清川とて、流清き名水なり。是にて垢離をかき、権現を伏拝み奉る。無始の罪障も消滅するなれば、此処にては王子々々の御前にて、御神楽など参らせて、思ひ思ひの馴子舞し給へば、夜もほのぼのと明けにけり。

やがて御船に乗り給ひて、清川の船頭をば、いや権守とぞ申す。御船支度して参らせけり。水上は雪白水増さりて、御船を上せかねてぞありける。是や此はからうさの〔春、千種の〕少将庄の皿島と云ふ所に流されて、「月影のみ寄するは、たなかい川の水上、稲舟の漂泊ふは〔いつらしかは〕、最上川の早き瀬ぞ。琴も知らぬ琵琶の声、霞の隙に紛れる」と歌ひしも、今こそ思ひ知られけれ。かくて御船を上する程に、せんぢやう(絶頂)より落ち滾る瀧あり。北の方、「是をば何の瀧と云ふぞ」と問ひ給へば、「白糸の瀧」と申しければ、北の方かくぞつづけ給ふ。

最上川瀬々の岩波堰き止めよよらでぞ通る白糸の瀧
最上川岩越す浪に月冴えてよる面白き白糸の瀧

と〔口〕ずさみつつ、鎧の明神、冑の明神伏拝み参らせて、たかやりの瀬と申す難所を、上らせ煩ひておはする処に、上の山の端に猿の声の繁ければ、北の方かくぞつづけ給ひける。

引きまはすかちはは弓にあらねどもたか矢で猿をいて見つるかな

かくてさし上らせ給ふ程に、みるたから、たけ比べの杉などと云ふ所を見給ひて、矢向の大明神を伏拝み奉り、會津〔相川〕の津に著き給ふ。判官、「寄道は二日なるが、湊にかかりては、宮城野の原・榴が岡・千賀の塩竈など申して、三日に廻る道にて候に、亀割山を越えて、へむらの里、姉歯の松へ出でては、直に候。何れをか御覧じて通らせ給ふべき」と仰せられければ、「名所々々を見たけれども、一日も近く候なれば、亀割山とやらんにかかりてこそ行かめ」とて、亀割山へぞかかり給ひける。
 
 

八 亀割山にて御産の事

各々亀割山を越え給ふに、北の方御身を労り給ふ事あり。御産近くなりければ、兼房心苦しくぞ思ひける。山深くなるままに、いとど絶え入り給へば、時々は伝り奉りて行く。麓の里遠ければ、一夜の宿を取るべき所もなし。山の峠にて道の辺二町許り分け入りて、或大木の下に敷皮を敷き、木の下を御産所と定めて宿し参らせけり。いよいよ御苦痛を責めければ、恥かしさも早忘れて、息吹き出して、「人々近くて叶ふまじ、遠く退けよ」と仰せられければ、侍共、皆此処彼処へ立退きけり。

御身近くは十郎権頭・判官殿ばかりぞ在しける。北の方、「是とても心安かるべきにはあらねども、せめては力及ばず」とて、又絶え入り給ひけり。判官も今はかくぞとぞ思召しける。猛き心も失ひ果てて、「斯かるべしとは予て知りながら、是まで具足し奉り、京をば離れ、思ふ所へは行き著かず、途中にて空しくなし奉らん事の悲しさよ。誰を頼みて是まで遙々あらぬ里に御身を窶し、義経一人を慕ひ給ひて、斯かる憂き旅の空に迷ひつつ、片時も心安き事を見せ聞かせ奉らずして、亡ひ奉らん事こそ悲しけれ。人に別れては、片時もあるべしとも覚えず、唯同じ道に」と掻口説き涙も堰き敢へず悲しみ給へば、侍共も、「軍の陣にては、かくはおはせざりしものを」と皆袴をぞ絞りける。暫くありて息吹き出して、「水を」と仰せられければ、武蔵坊水瓶を取りて出でたりけれども、雨は降る、暗さは暗し、何方へ尋ね行くべきとは覚えねども、足に任せて谷を指してぞ下りける。

耳を欹てて谷川の水や流るると聞きけれども、此程久しく照りたる空なれば、谷の小川も絶え果てて、流るる水もなかりければ、武蔵坊唯掻口説き独言に申しけるは、「御果報こそ少なくおはするとも、斯様に易き水をだにも、尋ねかねたる悲しさよ」とて、泣く泣く谷に下る程に、山川の流るる音を聞きつけて悦び、水を取つて嶺に登らんとすれども、山は霧深くして、帰るべき方を失ひけり。貝を吹かんとすれども、麓の里近かるらんと思ひて、左右なく吹かず。されども時刻移りては叶ふまじと思ひて、貝をぞ吹きたりける。嶺に〔も〕貝を合せたる。弁慶兎角して水を持ちて、御枕に参りて参らせんとしければ、判官涙に咽びて仰せられけるは、「尋ねて参りたる甲斐もなし。早こと切れ果て給ひぬ。誰に参らせんとて、是まではたしなみけるぞや」とて泣き給へば、兼房も御枕にひれ伏してぞ泣き居たり。

弁慶も涙を抑へて、御枕に寄りて御頭を動かして申しけるは、「よくよく都に留め奉らんと申し候ひしに、心弱くて是まで具足し参らせて、今憂目を見せ給ふこそ悲しけれ。仮令定業にて渡らせ給ふとも、是程に弁慶が丹誠を出して、尋ね参りて候水を、聞召し入りてこそ如何にもならせ給ひ候はめ」とて、水を御口に入れ奉りければ、受け給ふと覚しくて、判官の御手に取りつき給ひて、又消え入り給へば、判官も共に消え入る心地しておはしけるを、弁慶、「心弱き御事候や。事も事にこそより候へ。そこ退き給へ、権頭」とて、押起し奉り、御腰を抱き奉り、南無八幡大菩薩、願はくは御産平安になし給へ。さて我が君をば捨て果て給ひ候や」と祈念しければ、常陸坊も掌を合せてぞ祈りける。権頭は声を立ててぞ悲しみける。判官も今は掻昏れたる心地して、御頭を並べてひれ伏し給ひけり。北の方少し御心地つきて、「あら心憂や」とて、判官に取りつき給へば、弁慶御腰を抱き上げ奉れば、御産易々とぞし給ひける。

武蔵少人のむづかる御声を聞きて、篠懸に押巻きて抱き奉る。何とは知らねども、御臍の緒を切り〔つぎ〕参らせて、浴を奉らんとて、水瓶にありける水にて洗ひ奉り、「やがて御名を付け参らせん。是は亀割山の亀の萬劫を取つて、鶴の千歳なぞらへて、亀鶴御前〔殿〕」
とぞ付け奉る。判官是を御覧じて、「あら幼なの者の有様やな。何時人となりぬとも見えぬものかな。義経が心安からばこそ、又行末も静ならめ、物の心を知らぬ先に、疾く疾く此山の巣守になせ」と宣ひけり。

北の方聞召して、今まで御身を悩まし奉りたるとも思召されず、「怨めしくも承り候ものかな。たまたま人界に生を受けたる者を、月日の光をも見せずして、空しくなさん事如何にぞや。御不審蒙らば、それ権頭取上げよ。是より都へは上るとも、争か空しくなすべき」と悲しみ給へば、武蔵是を承つて、「君一人を頼み参らせて候へば、自然の事も候はば、又頼み奉るべき方も候まじきに、此若君を見あげ参らせんこそ頼もしう候へ。是程美しく渡らせ給ふ若君を、争か亡ひ参らせ候べき」とて、「果報は伯父鎌倉殿に似参らせ〔あやかり〕給ふべき〔し〕。力は甲斐々々しくは候はねども弁慶に似給へ。御命は千歳萬歳を保ち給へ」とて、「是より平泉〔へ〕はまださ〔す〕がに程遠く候に、道行く人行逢うて候はんに、はか(いかノ誤カ)などばしむづかりて、弁慶恨み給ふな」とて、篠懸に掻巻きて、笈の中にぞ入れたりける。其間三日に下り著き給ひけるに、一度も泣き給はざりけるこそ不思議なれ。其日はせびの湯〔せみのから(ヨ)〕と云ふ所にて一両日御身労り、明くれば馬〔を〕尋ねて乗せ奉り、其日は栗原寺に著き給ふ。それよりして亀井六郎・伊勢三郎〔を〕御使にて、平泉へぞ遺されける。
 
 

九 判官平泉へ御著の事

秀衡判官の御使と聞き急ぎ対〔面〕す。「此程北陸道にかかりて、御下りとはほぼ承り候ひつれども、一定を承らず候ひつるによつて、御迎ひ〔をも〕参らせず。越後・越中こそ怨あらめ、出羽國は秀衡が知行の所にて候へば、各々など御披露候うて、國の者共に送られさせおはしまし候はざりけるぞ。急ぎ御迎ひに人を参らせよ」とて、嫡子本吉冠者を呼びて、「判官殿の御迎ひに参れ」と申しければ、泰衡百五十騎にてぞ参りける。北の方の御迎ひには御輿をぞ参らせける。

「かくもありけるものを」と仰せられて、磐井郡におはしましたりければ、秀衡左右なく我が許へは入れ参らせず、月見殿とて常に人も通はぬ所に据え奉り、日々の■(土+完)飯をもてなし奉る。北の方には容顔美麗に心優なる女房達十二人、其外下女半物に至るまで、調へてぞ附け奉る。判官は予ての約束なりければ、名馬百疋・鎧五十領・征矢五十腰・弓五十張、御手所には、桃生郡・〔牡〕鹿郡・志太郡・玉造遠田郡とて、國の内にてよき郡、一郡には三千八百町づつありけるを、五郡ぞ参らせける。

侍共には勝れたる膽澤・江刺・はましの庄とて、此中分々に配分せられけり。「時々は物を持つて慰み〔いづくへも出で慰み〕給へ」とて、骨強き馬十疋づつ、沓行縢に至るまで、志をぞ運びける。「所詮今は何に憚るべき、唯思ふ様に遊ばせよ〔遊ばせ参らせよ〕」とて、泉冠者に申しつけて、両國の大名三百六十人を選つて、日々の■(土+完)飯を供へたる。やがて御所造れとて、秀衡が屋敷より西に当りて、衣川とて地を引き御所造りて入れ奉る。城の体を見るに、前には衣川、東は秀衡が館なり。西はたうく(田谷)が窟とて、然るべき山に続きたり。斯様に城郭を構へて、上見ぬ鷲の如くにておはしけり。昨日までは空山伏、今日は何時しか男になりて、栄華開いてぞおはしける。折々毎に北陸道の御物語、北の方の御振舞など仰せられ、各々申出し、笑草にぞなり〔に〕ける。かくて年も暮れければ、文治三年になりにけり。
 

巻第七 了


2001.10.4
2001.10.31
Hsato

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