義経記

巻第四
 

一 頼朝義経対面の事

九郎御曹司浮島が原に著き給ひ、兵衛佐殿の陣の前、三町許り引退いて陣を取り、暫く息をぞ休められける。佐殿是を御覧じて、「爰に白旗白印にて清げなる武者五六十騎許り見えたるは、誰なるらん覚束なし。信濃の人々は、木曾に従ひて留まりぬ。甲斐の殿原は二陣なり。如何なる人ぞ、本名〔仮名〕実名を尋ねて参れ」とて、堀弥太郎御使に遺され、家の子郎等数多引具して参る。間を隔てて、弥太郎一騎進み出で申しけるは、「是に白印にておはしまし候は、誰人にて渡らせ給ひ候ぞ。本名〔仮名〕実名を確に承り候へと、鎌倉殿の仰せにて候」と申しければ、其中に二十四五許りなる男の色白く尋常なるが、赤地の綿の直垂に、紫裾濃の鎧の裾金物打つたるを著、白星の五枚兜〔に〕鍬形打ちて猪頸に著、大中黒の矢負い、滋籐の弓持ちて、黒き馬の太く逞しきに乗りたるが歩ませ出でて、「鎌倉殿も知召されて候。童名牛若と申し候ひしが、近年奥州〔に〕下向仕り候うて居候ひつるが、御謀反の由承り、夜を日に継ぎて馳せ参じて候。見参に入れて賜び候へ」と仰せられければ、堀弥太郎、さては御兄弟にて坐しけりと、馬より飛んで下り、御曹司の乳母〔子〕佐藤三郎を呼出して色代あり。弥太郎一町許り馬を引かせけり。かくて佐殿の御前に参り、此由を申しければ、佐殿は善悪に騒がぬ人にておはしけるが、今度は殊の外に嬉しげにて、「さらば是へおはしまし候へ。見参せん」と宣へば、弥太郎やがて参り、御曹司に此由を申す。御曹司も大きに悦び、急ぎ参り給ふ。佐藤三郎・同四郎・伊勢三郎、是等三騎召連れて参らるる。

佐殿御陣と申すは、大幕百八十町引きたりければ、其内は八箇國の大名小名並居たり。各々敷皮にてぞありける。佐殿御座敷には畳一畳敷きたれども、佐殿も敷皮にぞ在しける。御曹司は兜を脱ぎて童に著せ、弓取直して、幕の際に畏まりてぞおはしける。其時佐殿敷皮を去り、我が身は畳にぞ直られける。「それへそれへ」とぞ仰せらるる。御曹司暫く辞退して、敷皮にぞ直られける。佐殿御曹司をつくづくと御覧じて、先づ涙にぞ咽ばれける。御曹司も其色は知らねども、共に涙に咽び給ふ。

互に心の行く程泣きて後、佐殿涙を抑へて、「さても頭殿に後れ奉りて、其後は御行方を承り候はず。幼少におはし候時、見奉りしばかりなり。頼朝池の尼の宥められしによりて、伊豆の配所にて伊東・北條に守護せられ、心に任せぬ身にて候ひし程に、奥州へ御下向の由は、幽に承りて候ひしかども、音信だにも申さず候。兄弟ありと思召し忘れ候はで、取敢へず御上り候事、申し尽くし難しく悦び入り候。是御覧候へ。斯かる大功〔事〕をこそ思ひ企てて候へ。八箇國の人人を始として候へども、皆他人なれば、身の一大事を申合する人もなし。皆平家に相従ひたる人人なれば、頼朝が弱気を守り給ふらんと思へば、夜も終夜平家の事のみ思ひ、又或時は平家の討手上せばやと思へども、身は一人なり、頼朝自身進み候へば、東國覚束なし。代官上せんとすれば、心安き兄弟もなし。他人を上せんとすれば、平家と一つになりて、却つて東國をや攻めんと存ずる間、それも叶ひ難し。今御辺を待ちつけて候へば、故左馬頭殿〔の〕生き返らせ給ひたるやうにこそ存じ候へ。我等が先祖八幡殿の、後三年の合戦にむなう(桃生)の城を攻められしに、多勢皆滅されて、無勢になりて、厨川の端におり下りて、幣帛を捧げて王城を伏拝み、『南無八幡大菩薩、御覚え〔御擁護〕を改めず、今度の寿命を助けて、本意を遂げさせて賜べ』と、祈誓せられければ、誠に八幡大菩薩の感應にやありけん、都に在する御弟刑部丞は内裏に候ひけるが、俄に内裏を粉れ出で、奥州の覚束なきとて、二百余騎にて下られける、路次にて勢打加はり、三千余騎にて厨川に馳せ来て、八幡殿と一つになりて、終に奥州を従へ給ひける。其時の御心も、頼朝御辺を待ち得参らせたる心も、争か是に勝るべき。今日より後は、魚と水との如くにして、先祖の恥を雪ぎ、亡魂の憤を休めんとは思召されずや。御同心も候はば、尤も然るべし〔ナシ〕」と宣ひも敢へず、涙を流し給ひけり。御曹司兎角の返事もなくして、袂をぞ絞られける。是を見て大名小名、互の心の中推量られて、皆袖をぞ濡らされける。

暫くありて、御曹司申されけるは、「仰せの如く、幼少の時御目にかかりて候ひけるやらん。配所へ御下りの後は、義経も山科に候ひしが、七歳の時鞍馬へ参り、十六まで形の如く学問を仕り、さては京都に候ひしが、内々平家方便を作る由承り候ひし間、奥州に下向仕りて、秀衡を頼み候ひつるが、御謀反の由承りて、取敢へず馳せ参る。今は君を見奉り候へば、故頭殿の御見参に入り候心地してこそ存じ候へ。命をば故頭殿に参らせ候。身をば君に参らする上は、如何仰せに従ひ参らせで候べき」と申しも敢へず、又涙を流し給ひけるこそ哀れなれ。さてこそ此御曹司を大将軍にて上せ給ひけり。
 
 

二 義経平家の討手に上り給ふ事

御曹司、寿永三年に上洛して平家を追ひ落し、一谷・八島・壇浦・所々の忠を致し、先駈け身を砕き、終に平家を攻め滅して、大将軍前の内大臣宗盛父子を、生捕三十人具足して上洛し、院・内の見参に入つて後、去ぬる元暦元年に検非違使五位の尉になり給ふ。

大夫判官、宗盛父子を具足して腰越に著き給ひし時、梶原申しけるは、「判官殿こそ大臣殿父子具足して、腰越えに著かせ給ひて候なれ。君は如何御計らひ候。判官殿は身に野心を挟みたる御事にて候。其義如何にと申すに、一谷の合戦に庄三郎高家、本三位中将生捕り奉り、三河殿の御手に渡りて候を、判官大きに怒り給ひて、三河殿は大方の事にてこそあれ。義経が手にこそ渡るべきものを、奇怪の者の振舞かな。寄せて討たんと候ひしを、景時が計らひに、土肥次郎が手に渡してこそ、判官は鎮まり給ひしか。其上『平家を討取つては、関より西をば義経賜はらん。天に二つの日なし、地に二人の王なしといへども、此後は二人の将軍やあらんずらん』と仰せ候ひしぞかし。かくて武功の達者、一度も馴れぬ船戦にも、風波の難を恐れず、舟端を走り給ふ事鳥の如し。一谷の合戦にも、城は無双の城なり、平家は十萬余騎なり、味方は六萬五千余騎なり。城は無勢にて寄手は多勢こそ、軍の勝負は決し候に、城は大勢案内者、寄手は無案内の者共なり、た易く落つべきとも見え候はざりしを、鵯鳥越とて鳥獣も通ひ難き巌石を無勢にて落し、平家を終に追ひ落し給ふ事は凡夫の業ならず。今度八島の軍に大風にて波夥しくて、船の通ふべきやうもなかりしを、唯船五艘にて馳せ渡し、僅に五十余騎にて、憚る所〔左右〕なく八島の城に押寄せて、平家数萬余騎を追ひ落し、壇浦の詰軍までも終に弱気を見せ給はず。漢土本朝にも是程の大将軍争かあるべきとて、東國・西國の兵共一同に仰ぎ奉る。野心を挟みたる人にておはすれば、人毎に情を懸け、侍までも目を懸けられし間、侍共『あはれ侍の主かな。此殿に命を奉らん事は、塵よりも惜しからじ』と申して、心を懸け奉りて候。それに左右なく鎌倉中に、入れ参らせ給ひて御座候はん事いぶせく候。御一期の程は、君の御果報なれば、さりともと存じ候。御子孫の世には如何候はんずらん。又御一期と申しても、何とか御座候はん」と申しければ、君此由を聞召して、「梶原が申す事は、偽などはあらじなれど、一方を聞きて相計らはん事は、政道の汚るる所なり。九郎が著きたるならば、明日是にて梶原に問答せさせ候べし」と仰せられける。

大名小名、是を聞きて、「今の御諚の如くにては、判官もとより過り給はねば、若し助かり給ふ事もありなん。されども景時が逆魯立てんとの論の止まざる処に、壇浦にて互に先駈け争ひて、矢筈を取り給ひし其遺恨に、斯様に讒言申せば、終には如何あらんずらん」と申しける。召し合せんと仰せられ言ふ時に、梶原甘縄の宿所に帰りて、偽申さぬ由起請を書きて参らせければ、此上はとて、大臣殿をば腰越より鎌倉に請取り、判官をば腰越に留めらる。判官、「先祖の恥を清め、亡魂の憤を休め奉る事は本意なれども、随分二位殿の気色に相叶ひ奉らんとてこそ、身を砕きては振舞ひしか。恩賞に行はれんずるかと思ひつるに、向顔をだにも遂げられざる上は、日来の忠も益なし。あはれ是は梶原めが讒言ござんなれ。西國にて斬りて捨つべき奴を、哀憐を垂れ助け置きて、敵となしぬるよ」と、後悔し給へども、甲斐ぞなき。

鎌倉には二位殿、河越太郎を召して、「九郎が院の御気色よきままに、世を乱さんと内々企むなり。西國の侍共附かぬ先に、腰越に馳せ向ひ候へ」と仰せられければ、河越申されけるは、「何事にても候へ、君の御諚を背き申すべきにては候はず候〔候はねども〕へども、且は知召して候やうに、女にて候者を判官殿の召置かれて候間、身に取りては痛はしく候。他人に仰せ付けられ候へ」と、申し捨ててぞ立たれける。理なれば重ねても仰せ出されず。又畠山を召して仰せられけるは、「河越に申し候へば、親しくなり候とて、叶はじと申す。さればとて世を乱さんと振舞ひ候九郎を、其儘置くべき様なし。御辺打向ひ給ひ候べし。吉例なり、さ〔も〕候はば、伊豆・駿河両國を奉らん」と仰せられければ、畠山萬に憚らぬ人にて申されけるは、「御諚背き難く候へども、八幡大菩薩の御誓にも、人の國より我が國、他の人よりも我が人をこそ、守らんとこそ承り候へ。他人と親しきとを比ぶれば、譬ふる方なし。梶原と申すは、一旦の便によりて召使はるる者なり。彼が讒言により、年来の忠と申し、御兄弟の御仲と申し、仮令御恨み候とも、九國にても参らせ給ひて、見参とて重忠に賜ひ候はんずる伊豆・駿河両國を、勤賞の引出物に参らせ給ひて、京都の守護に置き参らせ給ひて、〔御後を守らさせ給ひて候はん程の〕御心安き事は何事か候べき」と、憚る所なく申し捨てて立たれける。二位殿理と思召しけるにや、其後は仰せ出さるる事もなし。腰越には此事を聞き給ひて、野心を挟まざる旨、数通の起請文を書き進じられけれども、猶御承引なかりければ、重ねて申状をぞ参らせられける。
 
 

三 腰越の申状の事
 

源義経、恐ながら申上ぐる意趣は、御代官の其一つに選ばれ、勅宣の御使として、朝敵を傾け、〔累代弓箭の芸を顕し(ヨ)〕会稽の恥辱を雪ぐ。勲賞〔抽(ヨ)〕行はするべき処に、思ひの外に虎口の讒言に依つて、莫大の勲功を黙止せらる。義経犯す事なうして咎を蒙り、誤なしと雖も、〔有功雖無誤(吾妻鏡)〕功有りて御勘気を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。

〔倩ら事の意を案ずるに、良薬口に苦く、忠言耳に逆ふ、先言なり。これに因つて(ヨ)〕讒者の実否を糺されず、鎌倉中へだに入れられざる間、素意を述ぶるに能はず、徒らに数日を送る。此時に当つて、永く恩顔を拝し奉らず、骨肉同胞の義既に絶え、宿運極めて空しきに似たるか、将又前世の業因を感ずるか。悲しき哉、此條、故亡父尊霊再誕し給はずんば、誰の人か愚意の悲歎を申披かん、何れの輩が哀憐を垂れんや。

事新しき申獣、述懐に似たりと雖も、義経身体髪膚を父母に受け、幾の時節を経ずして、故頭殿御他界の間、孤子となつて、母の懐の中に抱かれて、大和國宇陀郡〔龍門の牧〕に赴きしより以来、一日片時も安堵の思ひに住せず、甲斐なき命は存すと雖も、京都〔の〕経廻難治の間、〔諸国に流行し(ヨ)〕、身を在々所々に隠し、辺土遠國を栖として、土民百姓等に服仕せらる。

然れども幸慶忽ちに純熟して、平家の一族追討の為に上洛しむる。先づ木曾義仲を誅戮の後、平家を責め傾んが為に、或時は峨峨たる巌石に駿馬に策て、敵の為に命を亡さん事を顧みず。或時は漫々たる大海に風波を凌ぎ、身を海底に沈めん事を痛まずして、屍を鯨鯢の腮に懸く。加之甲冑を枕とし、弓箭を業とする本意、併亡魂の憤を休め奉り、年来の宿望を遂げんと欲する外は他事なし。

剰へ義経五位尉に補任の條、当家の〔面目、稀代の(ヨ)〕重職、何事か是に如かん。然りと雖も、今愁深く歎切なり。仏神の御助にあらざるより外は、争か愁訴を達せん。是によつて、諸寺諸社の牛王宝印の裏を以て、全く野心を挟まざる旨、日本國中の大小の神祇冥道を請じ驚かし奉りて、数通の起請文を書き進ずと雖も、猶以て御宥免なし。夫我が國は神國なり。神は非礼を享け給ふべからず。

憑む所他にあらず、偏に貴殿廣大の〔御〕慈悲を仰ぎ、〔ぐ(ヨ)〕便宜を伺ひ高聞に達せしめ、秘計を廻らして、誤なき旨に宥ぜられ、芳免に預らば、積善の余慶家門に及び、栄華〔を〕永く子孫に伝へ、仍て年来の愁眉を開き、一期の安寧を得ん。書紙に尽さず、併省略せしめ候ひ畢んぬ。義経恐惶謹言。

     元暦二年六月五日〔五月 日(ヨ)〕 

源義経
進上 因幡守殿へ〔大ぜんの大ぶ殿(ヨ)〕


とぞ書かれたる。是を聞召して、二位殿を初め奉りて御前の女房達に至るまで、涙をぞ流されける。さてこそ暫く差置かれけれ。判官は都に院の〔御〕気色よくて、〔京〕都の守護には義経に過ぎたる者あらじとい〔の〕ふ御気色なり〔ければ(ヨ)〕、萬事仰ぎ奉る。

かくて秋も暮れ、冬の初にもなりしかば、梶原が憤安からずして、頻りに讒言申しければ、二位殿さもとや思はれける。〔む(ヨ)次段へ続ク〕
 
 

四 土佐坊義経の討手に上る事

二階堂の土佐坊召せとて召されけり。鎌倉殿四間所に在しまして、土佐坊召され参る。梶原、「土佐坊参りて候」と申しければ、鎌倉殿「是へ」と召す。御前に畏まる。源太を召して、「土佐に酒」とぞ仰せられける。梶原殊の外に饗しけり。鎌倉殿仰せられけるは、「和田・畠山に仰せけれども、敢へて是を用ひず。九郎が都に居て、院の御気色よきにより〔ままに〕、世を乱さんとする間、河越太郎に仰せけれども、縁あればとて用ひず。土佐より外に頼むべき者なし。しかも都の案内者なり、上りて九郎を討ちて参らせよ。其勲功には安房・上総賜ぶ」とぞ仰せられける。

土佐申しけるは、「畏まり承り候。御一門を亡し奉れと、仰せ蒙り候こそ歎き入り存じ候」と申しければ、鎌倉殿気色大きに変り悪しく見えさせ給へば、土佐謹んでこそ候ひける。重ねて仰せられけるは、「さては九郎に約束したる事にや」〔と仰せければ、〕土佐思ひけるは、詮ずる所、親の首を斬るも君の命なり。上と上との合戦には、侍の命を捨てずしては、討つべきにあらずと思ひ、「さ候はば、仰せに従ひ候はん。恐にて候へば、色代ばかり」と申す。」

鎌倉殿、「さればこそ、土佐より外に誰か向ふべきと思ひつるに、少しも違はず。源太是へ参り候へ」と仰せられければ、畏まつてぞ居たりける。「ありつる物は如何に」と仰せ有りければ、納殿の方よりして、身は一尺二寸ありける手鉾の蛭巻白くしたるを、細貝を目貫にしたるを持ちて参る。「土佐が膝の上に置け」とぞ宣ひける。「是は大和の千手院に作らせて、秘蔵して持ちたれども、頼朝が敵討つには、柄長き物を先とす。和泉判官を討ちし時に、た易く首を取つて参らせたりしなり。是を持ちて上り、九郎が首を刺貫き参らせよ」と仰せられけるは、情なくぞ聞えける。梶原を召して、「安房・上総の者共、土佐が供せよ」とぞ仰せられける。承りて、詮なき多勢かな。させる寄合の楯つき軍はすまじい。狙ひ寄りて夜討にせんと思ひければ、「大勢は詮なく候。土佐が手勢ばかりにて上り候はん」と申せば、「手勢は如何程あるぞ」と宣へば、「百人許りは候らん」「さては不足なし」とぞ仰せられける。土佐思ひけるは、大勢を連れ上りなば、若し為果せたらん時、勲功を配分せざらんも悪し。せんとすれば安房・上総、畠多く田は少なし、徳分少なくて不足なりと、酒飲む片口に案じつつ、御引出物賜はりて、二階堂に帰り、家の子郎等〔を〕呼びて申しけるは、「鎌倉殿より勲功をこそ賜ひて候へ。急ぎ京上りして所知入せん。疾く下りて用意せよ」とぞ申しける。「それ〔は〕常々の奉公か、又何によりての勲功候ぞ」と申せば、「九郎判官殿を討つて参らせよとの仰せ承りて候」と言ひければ、物に心得たる者は、「安房・上総も命ありてこそ取らんずれ。生きて再び帰らばこそ」と申す者もあり、或は「主の世におはせば、我等もなどか世にならざるらん」と勇む者もあり。されば人の心は様々なり。

土佐はもとより賢き者なれば、打任せての京上りの体にては叶ふまじとて、白布を以て、皆浄衣を拵へて、烏帽子に四手を付けさせ、法師には頭巾に四手を付け、引かせたる馬にも尾髪に四手付け、神馬と名付け引きける。鎧腹巻唐櫃に入れ、粗薦に包み注連〔を〕引き、熊野の初穂物と云ふ札を付けたり。鎌倉殿の吉日、判官殿の悪日を選び、九十三騎にて鎌倉を立ち、其日はさかう(酒勾)の宿にぞ著きたりける。当國の一宮と申すは、梶原が知行の所なり。嫡子〔の〕源太を下して、白栗毛なる馬白葦毛なる馬二疋に、白鞍置かせてぞ引きたる。是にも四手を付け、神馬と名づけたり。夜を日に継ぎて打つ程に、九日と申すに京へ著く。未だ日高しとて、四宮河原などにて日を暮し、九十三騎を三手に分けて、白地なる様にもてなし、五十六騎にて我が身は京へ入り、残は引き下りてぞ入りにける。

祇園大路を通りて、河原を打渡りて東洞院を下りに打つ程に、判官殿の身内に信濃國の住人に江田源三と云ふ者あり。三條京極に女の許に通ひけるが、堀川殿を出でて行く程に、五條の東洞院にて、鼻突にこそ行き會ひたれ。人の屋陰の仄暗き所にて見ければ、熊野詣と見なして、何処の道者やらんと、先陣を通して後陣を見れば、二階堂の土佐と見なして、土佐が此頃大勢にて熊野詣すべしとこそ覚えねと思ひ案ずるに、我等が君と鎌倉殿と下心よくもおはせざる〔御仲不和になり給へば何となく〕間、寄りて間はばやと思ひけれども、ありのままにはよも言はじ。中々知らぬ顔して、〔土佐〕が夫奴〔下人め〕を賺して問はばやと思ひて待つ処に、案の如く後れ馳せの者共、「六條の坊門油小路へは何方へ行くぞ」と問ひければ、云々に覚え〔教へ〕けり。江田追ひつきて〔は彼が袖を控へて申しけるは〕、「何の國に誰と申す人ぞ」と問ひければ、「相模國二階堂の土佐殿」とぞ申しける。後に来る奴原の侘びけるは、「さもあれ唯、身の一期の見物は京とこそ言へ、何ぞ日中に京入りはせで、道にて日の暮しやうぞ。我等共物〔殊更重荷は〕は持ちたり、道は暗し」と呟きければ、今一人が言ひけるは、「心短き人の言ひやうかな。今一日もあらば見んずらん」と言ひければ、今一人の夫が言ひけるは、「和殿原も今宵ばかりこそ静ならんずれ、明日は〔都は〕件の事にて大乱にてあらんずれ。されば我々までも如何あらんずらんと恐しきぞ」と申しければ、源三是を聞きて、是等が後に附きて物語をぞしたりける。「是も地体は相模國の者にて候〔ひし〕が、主に附きて在京して候が、我が國の人と聞けば、いとど懐かしきぞや」なんどと賺されて、「同國の人と聞けば申し候ぞ。実に鎌倉殿の御九郎判官殿を、討ち参らせよとの討手の御使を賜はりて上られ候。披露は詮なく候」と申しける。

江田是を聞きて我が宿所へ行くに及ばず、走り帰りて、堀川にて此由を申す。判官少しも騒がず、終としてはさこそあらんずらん。さりながら御辺行き向ひて土佐に言はんずるやうは、『是より関東に下したる者は、京都の仔細を先に鎌倉殿へ申すべし。又関東より上らん者は、最先に義経が許に来りて、事の仔細を申すべき処に、今まで遅く参る尾籠なり。急度参るべき』と、時刻を移さず召して参れ」と仰せられける。江田承りて、土佐が宿所、油小路に行きて見れば、皆馬ども鞍下し、裾洗ひなどしける。〔又傍らを見れば究竟の〕兵五六十人並居て、何とは知らず評定しける。土佐坊脇息にかかりてぞ居ける。江田行きて、仰せ含めらるる旨を言ひければ、土佐陳じ申しけるやうは、「鎌倉殿の代官に熊野参詣仕り候。さしたる事は候はねども、最先に参じ候はんと存じ候処に、途より風の心地にて候間、今夜は労り、明日参じて御目にかかり候べき旨、只今子にて候者を進じ候はんと仕り候折節、御使畏まり入り候由申させ給へ」と申しければ、江田帰りて此由を申す。判官殿日来は侍共に向ひては、荒言葉をも宣はざりしが、今は大きに怒つて、「事も事にこそ依れ、異議を言はする事は、御辺の臆めたるによつてなり。あれ程の不覚人の、弓矢取る奉公をするか。其処罷り立ち候へ。向後義経が目にかかるな」とぞ仰せられける。〔江田は〕宿所に帰らんとしけるが、此事を聞きながら帰りては、臆めたるべしと帰らざりける。

武蔵、御酒盛半に、宿所へ帰りけるが、御内に人もなくやあるらんと思ひて参りたり。判官御覧じて、「いしうおはしたり。只今斯かる不思議こそあれ。源三といふのさ者を遺したれば、あれが返事に従ひて帰り来れる間、鼻を突かせて行方を知らず。御辺向ひて、土佐を召して参れ」と仰せありければ、畏まつて、「承り候。もとより弁慶に仰せ蒙り候はん事を」とて、やがて出で立つ。「侍共数多召具すべきか」と仰せられければ、弁慶「人数多にては敵が心付き候はんに、唯一人相向ひ候はん」と出仕直垂の上に黒革威の鎧、五枚兜の緒を締め、四尺五寸の太刀帯いて、判官殿の秘蔵せられたりける大黒と云ふ馬に乗り、雑色一人ばかり召具して、土佐が宿へぞ打入りける。壺の中縁の際まで打寄せて縁にゆらりと下り、簾をさつと打上げて見れば、郎等ども七八十人許り座敷に列なりて、夜討の評定する処に、弁慶多くの兵共の中を、式代に及ばず踏み越えて、土佐が居たる横座にむずと鎧の草摺を居懸けて、座敷の体を睨み廻し、其後土佐をはたと睨み、「如何に御辺は如何なる御代官なりとも、先づ堀川殿へ参りて、関東の仔細を申さるべきに、今まで遅く参る、尾籠の致す所ぞ」と言ひければ、土佐坊仔細を述べんとする処に、弁慶言はせも果てず、「君の御酒気にてあるぞ、鼻突き給ふな。いざさせ給へ〔申すべき事あらば、君の御前にて随分陳じ申されよ。出でさせ給へ〕」と、手を取つて引立つる。

兵共色を失ひて、土佐思ひ切らば、打合いはんずる体なれども、土佐色損じて返答に及ばず〔流石に案深き土佐坊にて、さらぬ体にもてなし〕、「やがて参り候はん」と申しける上は、侍共〔も〕力及ばず、「暫く。馬に鞍置かせん」と言ひけるを、「弁慶が馬の有る上〔は〕、今まで乗りつる馬に鞍置きて何にせん。早乗り給へ」とて、〔土佐が小腕をむずと取り引立つる。〕土佐も〔聞ゆる〕大力なれども、弁慶に引立てられて、縁の際まで出でにけり。弁慶が下部心得て、縁の際に馬引寄せたり。弁慶土佐を掻抱き、鞍壺にがはと投げ乗せ、我が馬の尻にむずと乗り、手綱土佐に〔取ら〕せて叶はじと思ひ、後より取り、鞭に鐙を合せて、六條堀川に馳せ著き、此由申上げたりければ、判官南向〔南面〕の廣廂に出で向ひ給ひて、土佐を近く召して、事の仔細を尋ねらる。土佐陳じ申しけるやうは、「鎌倉殿の御代官に熊野に参り候。明日ふきやう(仏暁)に参り候はんとて、今宵風の心地にて候間、参らず候処に、御使重なり候程に、恐れ存じ候うて、参りて候なり」〔と申す。〕判官、「汝は義経追討の使とこそ聞け。争か争ふべき〔勢をば如何程持ちたるぞ〕」土佐、「努々存じ寄らざる事に〔て〕候。人の讒言にてぞ候らん。何れか君にて渡らせ給はぬ。権現定めて知見し坐し候らん」と申せば、「西國の合戦に疵を蒙り、未だ其疵癒えぬ輩が、生疵持ちながら熊野参詣に苦しからぬか」と仰せられければ、「然様の仁一人も召具せず候。熊野三つの御山の間、山賊満ち満ちて候〔と承り候〕間、若き奴原少々召具して候、それをぞ人の申し候はん」判官、「汝が下部共の『明日京都は大戦にてあらんずるぞ』と言ひけるは、それはやは争ふ」と仰せられければ、土佐「斯様に人の寃を申しつけ候はんに於ては、私には陳じ開き難く候。御免蒙り候うて、起請を書き候はん」と申しければ、判官、「神は非礼を享け給はずと云へば、疾く疾く起請を書け」とて、熊野の牛王に書かせ、「三枚は八幡宮に納め、一枚は熊野に納め、今三枚は土佐が六根に納めよ」とて、焼いて飲ませ、此上はとて許されぬ。土佐許されて出でざまに、時刻移してこそ冥罰も神罰も蒙らめ、今宵をば過ぐすまじきものをと思ひける。宿へ帰りて、「今宵寄せずば、叶ふまじきぞや」とて、各々犇めきける。判官の御宿には、武蔵を初として侍共申しけるは、「起請と申すは少事にこそ書かすれ、是程の事に、今宵は御用心あるべく候」と申せば、判官へらぬ体にて、「何〔程の〕事かあらん」と、事もなげにぞ仰せられける。さりながら「今宵〔は〕打解くる事候まじ」と申せば、判官、「今宵何事もあらば、只義経に任せよ。侍共〔は〕皆々帰れ」と仰せられければ、各々宿所へぞ帰りける。

判官は終日の酒盛に酔ひ給ひて、前後も知らず臥し給ふ。其頃判官は静と云ふ遊女を置き給ふ。賢々しき者にて、是程の大事を聞きながら、斯様に打解け給ふも、只事ならぬ事ぞとて、半物を土佐が宿所へ遺して、景気を見する。半物行きて見るに、只今兜の緒を締め、馬引立て、既に出でんとす。猶立入りて奥にて仔細を見すまして申さんとて、顫ひ顫ひ入る程に、土佐が下部共是を見て、「爰なる女は只者ならず」と申しければ、「さもあるらん、召捕れ」とて、かの女を捕へ、上げつ下しつ拷問す。暫くは落ちざりけれども、余りに強く責められて、ありの儘にぞ落ちにける。斯様の者を許しては悪しかるべしとて、斬りにけり。〔やがて刺殺して捨てにけり〕土佐が勢百騎、白川の印地五十人相語らひ、京の案内者として、十月十七日の丑の刻許りに、六條堀川に押寄せたり。

判官の宿所には、今宵は夜も更け何事もあるまじきと、各々宿へ帰る。武蔵坊・片岡〔両人は〕、六條なる宿へ〔女の許へ〕行きてなし。佐藤四郎・伊勢三郎〔は〕、室町なる女の許へ行きてなし。根尾・鷲尾〔は〕、堀川の宿へ行きてなし。其夜は下部に、喜三太ばかりぞ候ひける。判官も其夜は更くるまで酒盛して、東西をも知らず臥し給ひける。斯かる処に土佐が大勢押寄せ、閧を〔どつと〕作る。されども御内には人音もせず。静敵の鯨〔とき〕波の声に驚き、判官殿を引動かし奉り、「敵の寄せたる」と申せども、前後も知り給はず。唐櫃の蓋を開けて、〔御〕着長引出し、御上に投げ掛けたりければ、がはと起き、「何事ぞ」と宣へば、「敵〔の〕寄せて候ぞ」と申しければ、「あはれ女の心程けしからぬものはなし。思ふに土佐奴こそ寄せつらめ。人はなきか、あれ斬れ〔追払へ〕」とぞ仰せられける。「侍一人もなし。宵に暇賜はりて、皆々宿へ帰り候ひぬ」と申せば、「さる事あらん。さるにても男はなきか」と仰せられければ、女房達走り廻りて、下部に喜三太ばかりなり〔こそ候へ(ヨ)〕。「喜三太参れ」と召されければ、南面の沓脱に畏まつてぞ候ひける。「近う参れ」と召しけれども、日来参らぬ所なれば、左右なく参り得ず。「彼奴は、時も時にこそよれ〔何とて参らぬ〕」と仰せければ、蔀の際まで参りたり。「義経が風の心地にて、茫然とあるに、鎧著て馬に乗つて出でん程、出で向ひて、義経を待ちつけよ」と仰せられける。「承り候」とて、喜三太走り向ひ、大引両の直垂に、逆澤潟の腹巻著て、長刀ばかりをおつ取り、縁より下へ飛んで下りけるが、「あはれ御出居の方に、人の張替の弓や候やらん」と申せば、「入りて見よ」と仰せける。

走り入りて見ければ、白箆に鵠の羽を以て矧ぎたる、沓巻の上十四束に拵へて、白木の弓握太なるを添へてぞ置きたる。あはれ、物やと思ひて、出居の柱に押当て、えいやと張り、鐘を撞くやうに、弦打ちやうやうとして、大庭にぞ走り出でける。下もなき下郎なりけれども、純友・将門にも劣らず、弓矢を取る事、養由を欺く程の上手なり。四人張に十四束をぞ射ける。我が為にはよしと悦びて、門外に向ひ出でて、閂を外し、扉の片方押開き見ければ、星月夜のきらめきたるに、兜の星もきらきらとして、内冑透きて射よげにこそ見えたりける。片膝突いて、矢継早に指詰め引詰め散々に射る。土佐が真先駈けたる郎等五六騎射落として、矢場に二人亡せにけり。土佐叶はじとや思ひけん、さつと引きにけり。

土佐「穢し、かくて鎌倉殿の御代官はするか」とて、扉の陰に歩ませ寄せて申しけるは、「今宵の大将軍は誰がしが承りたるぞ。名告り給へ。闇討無益なり。かく申すは薄党に土佐坊昌俊なり、鎌倉殿の御代官」と名告りけれども、〔下郎なれば〕敵の嫌ふ事もあり〔なん〕と思ひ、音もせず。判官大黒と云ふ馬に、金覆輪の鞍置かせて、赤地の綿の直垂に、緋威の鎧、鍬形打ちたる白星の兜の緒を締め、金作の太刀帯いて、切斑の征矢負ひて、滋籐の弓の真中握り、馬引寄せ召して大庭に驅出で、鞠の懸にて、「喜三太」と召しければ、喜三太申しけるは、「下なき下郎、心剛なるによりて、今夜の先駈承つて候喜三太と申す者なり。生年二十三、我と思はん者は寄りて組め」とぞ申しける。土佐是を聞きて安からず思ひければ、扉の隙より狙ひ寄りて、十三束よつ引きひやうど射る。喜三太が弓手の太刀打を羽ぶくら責めてつと射通す。かいかなぐりて捨て、喜三太弓をがはと投げ捨て、大長刀の真中取つて、扉左右へ押開き、敷居を蹈まへて待つ処に、敵轡を並べて喚いて驅入る。もつて開いて散々に斬る。馬の平首、胸板、前の膝を散々に斬られて、馬倒れければ、主も倒まに落つる処を、長刀にて刺し殺し薙ぎ殺す。斯かりければ、それにて多く討たれたり。されども大勢にて攻めければ、走り帰りて御馬の口に縋る。差覗き御覧ずれば、胸板より下は血にぞなりたる。「汝は手を負うたるか」「さん候」と申す。「大事の手ならば退け」とぞ仰せられければ、「合戦の場に出でて死ぬるは法」と申せば、「彼奴は健気な者」とぞ宣ひける。「何ともあれ、汝と義経とだにあらば」とぞ仰せられける。

されども判官も驅出で給はず、土佐も左右なく驅けも入らず、両方軍は白けたる処に、武蔵坊六條の宿所に臥したりけるが、今宵は何とやらん夜が寝られぬぞや。さても土佐が京にあるぞかし。殿の方覚束なし、廻りて帰らばやと思ひければ、草摺のしどろなるひやうし(拍子)鎧の札よきに、大太刀帯き、棒打突きて、高足駄履きて、殿の方へからりからりとしてぞ参りける。大御門は閂を鎖されたりと思ひて、小門より差入り、御馬屋の後にて聞きければ、大庭に馬の足音、六種振動の如し。あら心憂や、早敵の寄せたりけるものをと思ひて、御馬屋に差入りて見れば、大黒はなし。今宵の軍に召されけると思へば、東の中門につと上りて見れば、判官、喜三太ばかり御馬副にて、唯一騎控へ給へり。弁慶是を見て、「あら心安や、さりながら、憎さも憎や。さしも人の申しつるを聞き給はで、肝潰し給ひ候はん」と呟き言して、縁の板踏鳴らし、西へ向きてどうどうと行きける。判官あはやと思召して、差覗き見給へば、大の法師の鎧著たるにてぞありける。土佐奴が後より入りけるかとて、矢差矧げて馬打寄せ、「あれに通る法師は誰〔なるらん〕、名告れ。名告らで過せられ候な」と仰せられけれども、札よき鎧なりければ、左右なく裏は掻かじと思ひて音もせず、射損ずる事もありと思召し、矢をば箙にさし、太刀の柄に手を掛け、ずは〔と〕抜いて、「誰そ、名告らで切らるな」とて、やがて近づき給へば、此殿は打物取つては樊■(かい:ロ+會)・張良にも劣らぬ人ぞと思ひて、「遠くは音にも聞き給へ、今は近し目にも見給へ。雨児屋根の御苗裔、熊野の別当弁せうが嫡子〔に〕、西塔の武蔵坊弁慶とて、判官の御内に一人当千の者にて候」とぞ申しける。判官、「興ある法師の戯かな、時にこそよれ」と仰せられける。「さは候へども、おおせ蒙り候へば、此処にて名告り申すべき」と猶も戯れをぞ申しける。判官、「されば土佐奴に寄せられたるぞ」弁慶、「さしも申しつる事を聞召し入れ候〔給〕はで、御用心なども候はで、左右なく彼奴原を門外まで、馬の蹄を向けさせぬるこそ安からず候へ」と申しければ、「如何にもして彼奴を生捕つて見んずる」と仰せられければ、「只置かせ給へ。しやつがあらん方に弁慶向ひて、掴んで見参に入れ候はん」と申しければ、「人を見て人を見るにも、弁慶が様なる人こそなけれ。喜三太奴に軍せさせたる事はなけれども、軍には誰にも劣らじ。大将軍は御辺に奉る。軍は喜三太にせさせよ」と仰せられける。

喜三太櫓に上りて、大音揚げて申しけるは、「六條殿に夜討入りたり。御内の人々はなきか、在京の人はなきか。今夜参らぬ輩は、明日は謀反の余党たるべし」と呼ばはりける。此処に聞き付け、彼処に聞き付け、京白川一つになりて騒動す。判官殿の侍共を初として、何処や何処や〔此処彼処より〕と馳せ来る。土佐が勢を中に取籠めて散々に攻む。片岡八郎土佐が勢の中に驅入りて、首二つ生捕三人して見参に入る。伊勢三郎生捕二人首三つ取つて参らする。亀井六郎・備前の平四郎二人討ちて参る。彼等を初として、生捕分取思ひ思ひにぞしける。其中にも軍の哀れなりしは、江田源三にて止めたり。

宵には御不審にて京極にありけるが、堀川殿に軍ありと聞きて馳せ参り、敵二人が首取つて、「武蔵坊、明日見参に入れて賜び候へ」と言ひて、又軍の陣に出でけるが、土佐が射ける矢に、首の骨の中せめてぞ射られける。矧げたる矢を打上げて、引かん引かんとしけるが、只弱りにぞ弱りける。太刀を抜き杖に突き、はふはふ参りて、縁へ上らんとしけれども、上りかねて、「誰か御渡り候」と申しければ、御前なる女房立出でて、「何事ぞ」と答へければ、「江田源三にて候。大事の手負うて、今を限りと存じ候。見参に入れて賜び候へ」と申しければ、「判官是を聞き給ひて、浅ましげに思召して、火を点し差上げて御覧ずれば、黒津羽の矢の夥しかりけるを、射立てられてぞ伏したりける。判官、「如何に人々」と仰せられければ、息の下にて申すやう、「宵に御不審蒙りて候へども、今は最期にて候。御赦免を蒙り、黄泉を心安く参り候はばや」と申しければ、「もとより汝久しく勘当すべきや。只一旦の事をこそ言ひつるに」と仰せられて、御涙に咽び給へば、源三世に嬉しげに打頷きたり。鷲尾十〔七〕郎近くありけるが、「如何に源三、弓矢取る者の矢一つ〔筋〕にて死するは無下なる事ぞ。故郷へ何事も申し遺さぬか」と言ひけれども、返事もせず。「和殿の枕にし給ふは君の御膝ぞ」〔と申しければ〕、源三〔苦しげなる息を吹き出して(ヨ)〕「御膝の上にて死に候へば〔…候へば、一期の面目なり、今は何事をか…〕、何事をか思ひ置き候べきなれども、過ぎにし春の頃、親にて候者の、信濃へ下りしに、『構へて暇申して、冬の頃は下れ』と申し候間、『承る』と申して候ひしに、下人が空しき骨を持ちて下り、母に見せて候はば、悲しみ候はんずる事こそ、罪深く覚えて候へ。君都に在しまさん程は、常の仰せをこそ蒙りたく候へ」と申せば、「それは心安く思へ。常々問はするぞ」と仰せられければ、世に嬉しげにて、涙を流しける。限りと見えしかば、鷲尾寄りて念仏を進めければ、高声に申し、御膝の上にして、〔生年〕二十五にて亡せにけり。

判官、弁慶・喜三太を召して、「軍は如何様にしなしたるぞ」と仰せられければ、「土佐が勢は二三十騎許りこそ」と申せば、「江田を討たせたるが安からぬに、土佐奴が一類一人も漏さず、命な殺しそ、生捕りて参らせよ」と仰せられける。喜三太申しけるは、「敵射殺すこそ易けれ、生きながら捕れと、仰せ蒙り候こそ、以ての外の大事なれ。さりながらも」とて、大長刀〔を〕持つて走り出でければ、弁慶「あはや彼奴に先せられて叶はじ」と、鉞引提げて飛んで出づ。喜三太は卯の花垣の先つい通りて、泉殿の縁の際を西を指してぞ出でける。爰に黄■(つき:年+鳥)毛なる馬に乗りたる者、馬に息をつかせて、弓杖に縋りて控へたり。喜三太走り寄りて、「此処に控へたるは誰」と問ひければ、「土佐が嫡子土佐太郎生年十九」と名告つて歩ませ向ふ。「是こそ喜三太よ」とて、つと寄る。叶はじとや思ひけん、馬の鼻を返して落ちけるを、余すまじとて追掛けたり。早打の長馳したる馬の、終夜軍には責めたりけり、揉めども揉めども、一所にて躍る様なり。大長刀をもつて開いてちやうど斬る。左右の鳥頭つと斬る。馬倒まに転びければ、主は馬より下にぞ敷かれける。取つて押へて、鎧の上帯解きて、疵一つもつけず、搦めて参るを、下部に仰せ付け、御馬屋の柱に立ちながら結ひつけさせられける。弁慶貴三太に先られて、安からず思ひて、走り廻る処に、南の御門に節縄目の鎧著たる者一騎控へたり。弁慶走り寄りて「誰」と問ふ。「土佐が従兄弟、伊北五郎盛直」とぞ申しける。「是こそ弁慶よ」とて、つと寄る。叶はじとや思ひけん、鞭を当ててぞ落ちける。「穢し、余すまじ」とて追掛けて、大鉞をもつて開いてむずと〔ちやうど〕打つ。馬の三頭に猪の目の隠るる程打ち貫き〔込み〕、えいと言ひてぞ引きたりける。馬こらへずしてどうど伏す。主を取つて押へて、上帯にて搦めて参りける。土佐太郎と一所に繋ぎ置く。

昌俊は味方の討たれ、或は落ち行くを見て、我は太郎・五郎を捕られて、生きて何かせんとや思ひけん、其勢十七騎にて、思ひ切つて戦ひけるが、叶はじとや思ひけん、徒武者驅散らして、六條河原まで打つて出で、十七騎が十騎は落ちて、七騎になる。賀茂川を上りに鞍馬を指して落ち行く。別当は判官殿の御〔師〕匠、衆徒は契深くおはしければ、後は知らず、判官殿の思召す所もこそあれとて、鞍馬百坊起つて、追手と一つになりて尋ねけり。判官「無下なる者共かな。土佐奴程の者を逃しける無念さよ。しやつを逃すな」と仰せられければ、堀川殿をば在京の者共に預けて、判官の侍一人も残らず追掛けける。土佐は鞍馬をも追出されて、僧正が谷にぞ籠りける。大勢続いて攻めければ、鎧をば貴船の大明神に脱ぎて参らせ、大木の空洞にぞ逃げ入りける。

弁慶・片岡は土佐を失ひて、「何ともあれ、是を逃しては、よき仰せは〔君の御気色も如何〕あるまじ」とて、此処彼処を尋ね歩く程に、喜三太向なる伏木に上りて立ちたる、〔が(ヨ)〕、「鷲尾殿〔の〕立ち給へる後の木の空洞に、物のはたらく様なるこそ怪しけれ」と申せば、太刀打振りてつと寄りて見れば、土佐叶はじとや思ひけん、木の空洞よりつと出でて、真下りに下る。弁慶喜びて、大手を拡げて、「憎い奴が、何処まで」とて追掛くる。〔土佐も〕聞ゆる足早なりければ、弁慶より三段許り先立つ。遙なる谷の底にて、「片岡此処に待つぞ、只おこせよ」とぞ申しける。此声を聞きて、叶はじとや思ひけん、岨をかい廻りて上りけるを、忠信が大雁股を差矧げて、余すまじとて、下り矢先に小引に引きて差当てたり。

土佐は腹をも切らで、武蔵坊にのさのさと捕られける。さて鞍馬へ具して行き、東光坊より大衆五十人附けてぞ送られける。「土佐具して参りて候」と申しければ、大庭に引据えさせ、縁に出でさせ給ひて、「如何に昌俊、起請は書くよりして験あるものを、何しに書きたるぞ。生きて帰りたくば返さんずるぞ。如何に」と仰せられければ、頭を地に付けて、「『猩々は血を惜しむ、犀は角を惜しむ、日本の武士は名を惜しむ』と申す事の候。生きて帰りて、侍共に面を見えて何にかし候べき。只御恩には疾く疾く首を召され候へ」とぞ申しける。判官聞召して、「土佐は剛の者にてありけるや。さてこそ鎌倉殿の頼み給ふらめ。大事の囚人を斬るべきやらん、斬るまじきやらん、それ武蔵計らへ」と仰せられければ、「大力を獄屋に籠めて、獄屋踏み破られ詮なし。やがて斬れ」とて、喜三太に尻綱取らせて〔繩取させて〕、六條河原に引出し、駿河次郎が手にて〔太刀取にて〕斬らせけり。相模八郎・同太郎は十九、伊北五郎は三十三にて斬られけり。討ち漏らされたる者共、下りて鎌倉殿に参りて、「土佐は仕損じて、判官殿に斬られ参らせ候ひぬ」と申せば、「頼朝が代官に参〔のぼ〕らせたる者を、押へて斬るこそ遺恨なれ」と仰せられければ、侍共、「斬り給ふこそ理よ、現在の討手なれば」とぞ申しける。
 
 

巻第四 つづく


2001.10.4
2001.10.12
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