義経記

巻第一
 
 

一 義朝都落の事

本朝の昔を尋ぬれば、田村・利仁・将門・純友・保昌・頼光・漢の樊(はん)■(かい:口+會)・張良は武勇といへども名をのみ聞きて目には見ず。目のあたりに芸を世に施し、萬事の目を驚かし給ひしは、下野の左馬頭義朝の末の子源九郎義経とて、我が朝に双なき名将軍にておはしけり。父義朝は平治元年十二月二十七日に、衛門督藤原信頼卿に与して、京の戦に打負けぬ。重代の郎等共皆討たれしかば、其勢二十余騎になりて、東國の方へぞ落ち給ひける。成人の子供をば引具して、幼達をば〔をさあいをば〕都に捨ててぞ落ちられける。嫡子鎌倉の悪源太義平、二男中宮大夫進朝長十六、三男兵衛佐頼朝十二になる。悪源太をば北國の勢を具せよとて越前へ下す。それも叶はざるにや、近江の石川寺に籠りけるを、平家聞きつけ、瀬尾・難破〔難破・瀬尾〕を差遺して〔生捕り〕都へ上り、六條河原にて斬られけり。弟の朝長も山賊が射ける矢に、弓手の膝の口〔をしたたかに〕射られて、美濃國青墓と云ふ宿にて死にけり。其外子供方々に数多有りけり。尾張國熱田の大宮司の女の腹にも一人ありけり。遠江國蒲と云ふ所にて成人し給ひて、蒲の御曹司とぞ申しける。後には三河守と名告り給ふ。九條院の常磐が腹にも三人あり。今若七つ、乙若五つ、牛若当歳子なり。清盛是を取って斬るべき由をぞ申しける。
 
 

二 常磐都落の事

永暦元年正月十七日の暁、常磐三人の子供引具して、大和國宇陀郡きしのをか(岡)と云ふ所に、外戚の親しき者あり、是を頼み尋ねて行きけれども、世間の乱るる折節なれば頼まれず、其國のたいとうじ(寺)と云ふ所に隠れ居たりける。常磐が母関屋と申す者楊梅町にありけるを、六條より取出し糾問せらるる由聞えければ、常磐〔は〕是を悲しみ、母の命を助けんとすれば、三人の子供を斬らるべし。子供を助けんとすれば、老いたる親を失ふべし。親には子をば如何思ひかへ候べき。親の孝養する者をば、堅牢地神も納受あるとなれば、子供の為にもありなんと思ひ続け、三人の子供引具して、泣く泣く京へぞ出でにける。六波羅へ此事聞えければ、悪七兵衛景清・監物太郎に仰せつけ、子供〔を〕具し〔て〕六波羅へぞ具足す〔参りける〕。清盛常磐を見給ひて、日来は火にも水にも〔と〕思はれけるが、〔今〕怒れる心も和ぎけり。常磐と申すは日本一の美人なり。九條院は事を好ませ給ひければ、洛中〔より〕容顔美麗なる女を千人召されて、其中より百人、百人の中より十人、十人の中より一人択び出されたる美女なり。清盛、我にだにも従はば、末の世には、子孫の如何なる敵ともならばなれ、三人の子供をも助けばやと思はれける。頼方・景清に仰せ付けて、七條朱雀にぞ置かれる。日番をも頼方〔が〕計らひにして守護しける。清盛常は常磐が許へ文を遺されけれども、取りてだにも見ず。されども子供を助けんが為に、終には従ひ給ひけり。さてこそ常磐三人の子供をば、所々にて成人させ給ひけり。今若八歳と申す春の頃より観音寺に上せ学問させて、十八の年受戒〔して(ヨ)〕、禅師の君とぞ申しける。後には駿河國富士の裾〔野〕におはしけるが、悪禅師殿と申しけり。八條におはしけるは、そし(庶子)〔そう(僧)(ヨ)〕にておはしけれども、腹悪しく恐ろしき人にて、賀茂・春日・稲荷・祇園の御祭毎に平家を狙ふ。後には紀伊國にありける新宮の十郎義盛世を乱りし時、東海道の墨俣河にて討たりけり。牛若は四の年まで母の許にありけるが、世の幼い〔をさあ〕者よりも、心ざま振舞人に越えたりしかば、清盛常は心に懸けて宜ひけるは、「敵の子を一所にて育てては、終には如何あるべき」と抑せられければ、京より東、山科と云ふ所に、源氏相伝の遁世して、幽なる住にてありける所に、七歳まで置きて育て給ひけり。
 
 

三 牛若鞍馬入の事

常磐が子供成人するに随ひて、中々心苦しく、初めて人に従はせんは由なし。習はねば殿上にも交はるべくもなし。只法師になして跡をも弔ひてなんど思ひて、鞍馬の別当東光坊の阿闍梨は、義朝の祈の師にておはしける程に、御使を遺して仰せるは、「義朝の御末の子若殿と申し候を且は知召してこそ候らめ。平家世盛りにて候に、女の身として持ちたるも心苦しく候へば、鞍馬へ参らせ候べし。猛くともなだしき心もつけ、書の一巻をも読ませ、経の一字をも覚えさせて給ひ候へ」と申されければ、東光坊の御返事には、「故頭殿の君達にて渡らせ給ひ候こそ、殊に悦び入りて候へ」とて、山科へ急ぎ御迎に人をぞ参らせける。七歳と申す二月初に、鞍馬へとてぞ上られける。其の後画は終日に師の御坊の御前にて、経を読み書学びて、夕日西に傾けば、夜の更け行くに、仏の御明の消ゆるまでは共に物を読み、五更の天にもなれども、あまもよひもす(ママ)くまで、学問に心をのみぞ尽くしける。東光坊も、山・三井寺にも是程の児あるべしとも覚えず、学問のせい(精)と申し、心ざま眉目容類なくおはしければ、良智坊の阿闍梨・覚日坊の律師も、「かくて二十歳許りまでも学問し給ひ候ば、鞍馬の東光坊より後も仏法の種を継ぎ、多聞の御宝にもなり給はんずる人」とぞ申されける。母も是を〔聞き、〕「牛若学問のせいよく候とも、里に常にありなんどし候はば、心も武勇になり、学問をも怠りなんず。恋しく見たけれと申し候はば、わざと人を賜はり候うて、母はそれまで参り、見もし人に見えられて返し候はん」と申される。「さなくとも児を里へ下す事、朧げならぬにて候」とて、一年に一度、二年に一度も下さる。斯かる学問のせいいみじき人の、如何なる天魔の勧めにゃありけん、十五と申す秋の頃より、学問の心以ての外に変りけり。其故は、古き郎等の謀反を勧むにてぞありける。
 
 

四 正門坊の事

四條室町に古りたる郎等のありける。すり法師なりけるが、是は恐ろしき者の子孫なり。左馬頭殿の御乳母子鎌田次郎正清が子なり。平治の乱の時は十一歳になりけるを、長田の庄司是を斬るべき由聞えければ、外戚親しき者ありけるが、やうやうに隠し置きて、十九にて男になして、鎌田三郎正近とぞ申しける。正近二十一の年思ひけるは、保元に為義討たれ〔給ひ〕ぬ、平治に義朝討たれ給ひて後は、子孫絶え果てて、弓馬の名を埋んで星霜を送り給ふ。其時清盛に滅されし者なれば、出家して諸國修行して、主の御菩提をも弔ひ、親の後世をも弔ひ候はばやと思ひ、鎮西の方へぞ修行しける。筑前國みさか〔みかさ(御笠)(ヨ)〕の郡太宰府の安楽寺と云ふ所に学問してありけるが、故郷の事を思ひ出して、都に帰りて、四條の御堂に行ひ澄まして居たりけり。法名をば正門坊とぞ申しける。又四條の聖とも申しけり。勤の隙には、平家の繁昌しけるを見てめざましくぞ思ひける。如何なれば平家の太政大臣の官に上り、末までも臣下卿相になり給ふらん。源氏は保元・平治の合戦に皆滅されて、大人しきは斬られ、幼い〔をさあい〕は此処彼処に押籠められて、今まで頭をも差出し給はず。果報も生まれ変り、心も剛にあらんず源氏の、あはれ思召し立ち給へかし。何方へなりとも御供して世を乱し、本意を遂げばやとぞ思ひける。勤の隙々には、指を折りて國々の源氏をぞ数へける。紀伊國には新宮十郎義盛、河内國には石川判官よしみち、摂津國には多田蔵人行綱、都には源三位頼政卿、卿君円しん、近江國には佐々木源三秀義、尾張國には蒲の冠者、駿河國には阿野禅師、伊豆國には兵衛佐頼朝、常陸國には志多三郎先生義憲・佐竹別当昌義、上野國には利根・吾妻、是は國を隔てて遠ければ、力及ばず。都近き所には、鞍馬にこそ頭殿の末の御子牛若殿とておはするものを。参りて見奉り、心柄げにげにしくおはしまさば、文賜りて伊豆國へ下り、兵衛佐殿の御方に参り、國を催して世を乱さばやと思ひければ、折節其頃四條の御堂も夏の時分にてありけるを打捨てて、やがて鞍馬へ〔とて〕ぞ登りける。別当の縁に佇みける程に、「四條の聖おはしたり」と申しければ、「承り候」と申されければ、さらばとて東光坊の許にぞ置かれける。内々には悪心を挟み、謀反を起して来れりとも知らざりけり。或夜のつれづれに、人静まりて、牛若殿のおはする所へ参りて、御耳に口を当てて申しけるは、「君は知召されず候や。今まで思召し立ち候はぬ。君は清和天皇十代の御末、左馬頭殿の御子、かく申すは頭殿の御乳母子に鎌田次郎兵衛が子にて候。御一門の源氏、國々に打籠められておはするをば、心憂しとは思召されず候や」と申しければ、其頃平家の世を取りて盛りなれば、欺りて賺すやらんと、打解け給はざりければ、源氏重代の事を委しく申しける。身こそ知り給はねども、豫て然様の者ありと聞きしかば、さては一所にては叶ふまじ、所々にてとて、正門坊をば返されけり。
 
 

五 牛若貴船詣の事

正門に逢ひ給ひて後は、学問の事跡形なく忘れ果てて、明暮謀反の事をのみぞ思召しける。謀反を起す程ならば、早業をせでは叶ふまじ。先づ早業を習はんとて、此坊は諸人の寄合所なり、如何にも叶ひ難しとて、鞍馬の奥に僧正が谷と云ふ所あり。昔は如何なる人の崇め奉りけん、貴船の明神とて、霊験殊勝に渡らせ給ひければ、智慧ある上人も行ひ給ひけり。鈴の声も懈らず、神主もありけるが、御神楽の鼓の音も絶えず、あらたに渡らせ給ひしかども、世末になれば、仏の方便も神の験徳も劣らせ給ひて、人住み荒し、偏に天狗の棲処となりて、夕日西に傾けば、物怪喚き叫ぶ。されば参り寄る人をも取り悩す間、参籠する人も無かりけり。されども牛若、斯かる所のある由を聞き給ひ、画は学問し給ふ體にもてなし、夜は日来一所にてともかくもなり参らせんと申しつる大衆にも知らせずして、別当の御護に参らせたるしきたへ(敷妙)と云ふ腹巻に、金作の太刀帯きて、唯一貴船の明神に参り給ひ、念誦申させ給ひけるは、「南無大慈大悲の明神、八幡大菩薩、掌を合せて、源氏を守らせ給へ。宿願真に成就あらば、玉の御宝殿を造り、千町の所領を寄進し奉らん」と祈誓して、正面より未申に向ひて立ち給ふ。四方の草木をば平家の一類と名づけ、大木二本ありけるを、一本をば清盛と名づけ、太刀を抜きて散々に切り、懐より毬杖の玉の様なる物を取出し、木の枝に懸け、一つをば重盛が首と名づけ、一つをば清盛が首とて懸けられる。かくて暁にもなれば、我が方に帰り、衣引被きて臥し給ふ。人是を知らず。和泉と申す法師の御介錯申しけるが、此御有様只事にあらじと思ひて、目を放さず、或夜御跡を慕ひて隠れて叢の陰に忍びて見れば、斯様に振舞ひ給ふ間、急ぎ鞍馬に帰りて、東光坊に此由申しければ、阿闍梨大きに驚き、良智坊の阿闍梨に告げ、寺に触れて、「牛若殿の御髪剃り奉れ」とぞ申されける。良智坊此事を聞き給ひて、「幼き人も様にこそよれ、容顔世に超えておはすれば、今年の受戒いたはしくこそおはすれ。明年の春の頃剃り参らさせ給へ」と申しければ、「誰も御名残はさこそと思ひ候へども、斯様に御心武勇になりて御渡り候へば、我が為、御身の為、然るべからず候。只剃り奉れ」と宜ひければ、牛若殿、何ともあれ、寄りて剃らんとする者をば、突かんずるものをと、刀の柄に手を掛けておはしましければ、左右なく寄りて剃るべしとも見えず。覚日坊の律師申されけるは、「是は諸人の寄合所にて静ならぬ間、学問も御心に入らず候へば、某が所は傍らにて候へば、御心静にも御学問候へかし」と申されければ、東光坊も流石いたはしく思はれけん、さらばとて、覚日坊へ入れ奉り給ひけり。御名をば変へられて、遮那王殿とぞ申しける。それより後には貴船の詣も止まりぬ。日々に多聞ににつたう(入堂)して、謀反の事をぞ祈られける。
 

六 吉次が奥州物語の事

かくて年も暮れぬれば、御年十六にぞなり給ふ。正月の末二月の初めの事なるに、多聞の御前に参りて、所作しておはしける所に、其頃三條に大福長者あり、名をば吉次信高〔むねたか(ヨ)〕とぞ申しける。毎年奥州に下る金商人なりけるが、鞍馬を信じ奉りける間、それも多聞に参りて念誦して居たりけるが、この幼人を見奉りて、あら美しの御児や。如何なる人の君達やらん。然るべき人にて坐さば、大衆も数多付き参らすべきに、度々見申すに、唯一人おはしますこそ怪しけれ。此山に左馬頭殿の君達のおはすものを。「実やらん秀衡も、『鞍馬と申す山寺に左馬頭殿の君達おはしますなれば、太宰の大弐清盛の、日本六十六箇國を従へんと、常は宣ふなるに、源氏の君達を一人下し参らせ、磐井郡に京を建て、二人の子供両国の受領させて、秀衡生きたらん程は、大炊介になりて、源氏を君と傅き奉り、上見ぬ鷲の如くにてあらばや』と宣ひ候ものを」と言ひ奉り、拐し参らせ、御供して秀衡の見参に入れ、引出物取りて徳に〔にナシ〕付かばやと思ひ、御前に畏まつて申しけるは、「君は都には如何なる人の君達にておはしますやらん。是は京の者にて候が、金を商ひて毎年奥州へ下る者にて候が、奥方に知召したる人や御入り候」と申しければ、「片辺の者なり」と仰せられて、返事もし給はず。これござんなれ、聞ゆる黄金商人吉次と云ふなり。奥州の案内者やらん。彼に問はばやと思召して、「陸奥と云ふは、如何程の廣き國ぞ」と問ひ給へば、「大辺の國にて候。常陸國と陸奥國との堺、菊多の関と申して、出羽と奥州との堺を、いなんせき(伊奈関)と申す。其中五十四郡」と申しければ、「其中に源平の乱〔出で〕来たらんに、用に立つべき者如何程あるべき」と問ひ給へば、國の案内は知りたり、吉次暗からずぞ申しける。

「昔両国の大将軍をば、をかの大夫とぞ申しける。彼が一人の子あり。安倍権守とぞ申しける。子供数多あり。嫡子厨川次郎貞任、二男鳥海三郎宗任・家任・盛任・重任とて、六人の末の子に境の冠者りやうぞうとて、霧を残し霞を立て、敵起る時は水の底海の中にて日を送りなどする曲者なり。是等兄弟、丈の高さ唐人にも越えたり。貞任が丈は九尺五寸、宗任が丈は八尺五寸、何れも八尺に劣るはなし。中にも境の冠者は一丈三寸候ひける。安倍権守の世までは、宣旨・院宣にも畏れて、毎年上洛して逆鱗を休め奉る。

安倍権守死去の後は宣旨を背き、偶々院宣なる時は、北陸道七箇國の片道を賜はりて、上洛仕るべき由、申され候ひければ、片道賜はり候べきとて、下さるべかりしを、公卿僉議ありて、『是天命を背くにこそ候へ。源平の大将を下し、追討せさせ給へ』と申されければ、源の頼義勅宣を承りて、十一萬騎の軍兵を率して、安倍を追討の為に、陸奥國へ下り給ふ。駿河國の住人高橋大蔵大夫に先陣をさせて、下野國いもうと〔いりこふぢ(ヨ)〕申す所に著き〔給ふ(ヨ)〕、貞任是を聞きて、厨川の城を去つて、阿津賀志の中山を後にあてて、安達の郡に城戸を立て、行方の原に馳せ向ひて源氏を待つ。大蔵大夫大将として五百余騎、白河の関を打越えて、行方の原に馳せ附き、貞任を攻む。

其日の軍に打負けて、安積の沼へ引退く。伊達郡阿津賀志の中山にたて籠り、源氏は信夫の里摺上河の端、はやしろと云ふ所に陣取つて、七年夜昼戦ひ暮すに、源氏の十一萬騎討たれて、叶はじとや思ひけん、頼義京へ上りて内裏に参り、頼義叶ふまじき由を申されければ、『汝叶はずば代官を下し、急ぎ追討せよ』と、重ねて宣旨を下されければ、急ぎ六條堀川の宿所へ帰り、十三になる子息を内裏に参らせけり。『汝が名をば何と云ふぞ』と御尋ねありけるに、『辰の年の辰の日の辰の時に生まれて候』とて、『名をば源太と申し候』と申しければ、無官の者に合戦の大将さする例なしとて、元服せさせよとて、後藤内範明を差添へられて、八幡宮にて元服させて、八幡太郎義家と号す。其時帝より賜はりたる鎧をこそ、源太が産衣と申しけり。秩父の十郎重國先陣を給〔承〕はりて、奥州へ打下る。

阿津賀志の城を攻めけるに、猶も源氏打負けて、事悪しかりなんとて、急ぎ都へ早馬を立て、此由を申しければ、年号が悪しければとて、唐平元年に改められ、同年四月二十一日、阿津賀志の城を追落す。しがら坂〔しはらさ(ヨ)〕にかかりて、いなむ(伊奈)関を攻め越えて、最上郡に籠る。源氏続いて攻め給ひしかば、おから〔をかち(ヨ)〕の中山打越えて、仙北金澤の城に引籠り、それにて一両年を送り戦ひつれども、鎌倉権五郎景政・三浦平大夫為継・大蔵大夫光任、是等が命を捨てて攻めける程に、金澤の城も落されて、白木山にかかりて、衣川の城に籠る。為継・景政、重ねて攻め懸くる。康平三年六月二十一日に、貞任大事の手負ひて、梔子色の衣を著て、磐手の野辺にぞ伏しにける。弟の宗任は降人となる。境の冠者、後藤内生捕にしてやがて斬られぬ。義家都に馳せ上り、内裏の見参に入つて、末代まで名を揚げ給ふ。其時奥州へ御供申し候ひし、三つうの少将に十一代の末、淡海の後胤、藤原清衡と申す者、國の警固に止められて候ひけるが、亘理郡にありければ、亘理の清衡と申し候ひし、両国を手に握つて候ひし、十四道の弓取、五十万騎、秀衡が伺候の郎等十八萬騎持ちて候。是こそ源平の乱出で来たらば、御方人ともなりぬべき者にて候へ」と申しける。
 
 

七 遮那王殿鞍馬出の事

遮那王殿是を聞き給ひて、予て聞きしに少しも違はず、世にある者ござんなれ。あはれ下らばや。左右なく頼まれたらば、十八萬騎の勢を十萬騎をば國に留め、八萬騎をば率して坂東に打出で、八箇國は源氏に志ある國なり、下野殿の國なり。是を初として、十二萬騎を催して、二十萬騎になつて、十萬騎をば伊豆兵衛佐殿に奉り十萬騎をば木曽殿に付けて、我が身は越後國に打越え、鵜川・佐橋・金津・奥山の勢を催して、越中・能登・加賀・越前の軍兵を靡けて、十萬騎になつて、愛発の中山を馳せ越えて、西近江にかかりて、大津の浦に著きて、坂東の二十萬騎を待ち得て、逢坂の関を打越えて都に攻め上り、十萬騎をば天下の御所に参らせて、源氏すごさん(守護せんカ)由を申さんに、平家猶も都に繁昌して空しかるべくは、名をば後の世に止め、屍をば都に曝さん事、身に取つては何の不足かあるべき、と思ひ立ち給ふも、十六の盛りには恐しくぞ覚えける。

此男奴に知らせばやと思召し、近く召して仰せられけるは、「汝なれば知らするぞ、人に披露あるべからず。我こそ左馬頭義朝が子にてあれ。秀衡が許へ文一つ言傅ばや。何時の頃返事を取りてくれんずるぞ」と仰せられければ、吉次座敷を辷り下り、鳥帽子の先を地に付けて申しけるは、「御事をば秀衡巳前に申され候。御文よりも只御下り候へ。道の程御宿直仕り候はんずる」と申しければ、文の返事待たんも心許なく、されば連れて下らばやと思召しける。「何時頃下り候はんずるぞ」と宣へば、「明日吉日にて候間、形の如くの門出仕り候はんずる」と申しければ、「さらば粟田口十禅師の御前にて待たんずるぞ」と宣ひければ、吉次「さ承り候」とて下向してけり。

遮那王殿別当の坊に帰りて、心の中ばかりに出で立ち給ふ。七歳の春の頃より十六の今に至るまで、朝にはけうくんの霧を払ひ、夕には三光の星を戴き、日夜朝暮馴れし身の、師匠の御名残も今ばかりと思はれければ、頻に忍ぶとし給へども、涙に咽び給ひけり。されども心弱くては叶ふべきにあらざれば、承安二年二月二日の曙に、鞍馬をぞ出で給ふ。白き小袖一重に唐綾を著重ね、播磨浅黄の帷子を上に召し、白き大口に唐織物の直垂召し、しきたへ(敷妙)と云ふ腹巻著籠めにして、紺地の綿にて柄鞘包みたる守刀、金作の太刀帯いて、薄化粧に眉細く作りて、髪高く結ひ上げ、心細(ママ)にて、壁を隔てて出で立ち給ふが、我ならぬ人の訪れて通らん度に、さる者是にありしぞと思ひ出でて、跡をも弔ひ給へかしと思はれければ、漢竹の横笛取出し、半時ばかり吹きて、音をだに跡の形見とて、泣く泣く鞍馬を出で給ひ、其夜は四條の正門坊の宿へ出でさせ給ひて、奥州へ下る由仰せられければ、善悪御供申し候はんと出で立ちけり。遮那王殿宣ひけるは、「御辺は都に留まりて、平家の成り行く様を見て知らせよ」とて京にぞ留められける。

さて遮那王殿粟田口まで出で給ふ。正門坊もそれまで送り奉り、十禅師の御前にて、吉次を待ち給へば、吉次未だ夜深に京を出で、粟田口に出で来たる。種々の実を二十余疋の馬に負せ先に立て、我が身は京を尋常にぞ出で立ちける。あひあひ曳柿したる摺尽の直垂に、秋毛の行縢はいて、黒栗毛なる馬に角覆輪の鞍置いてぞ乗りたりける。児乗せ奉らんとて、月毛なる馬に沃懸地の鞍置きて、大斑の行縢、鞍覆にしてぞ出で来たる。遮那王殿「如何に、約束せばや」と宣へば、馬より急ぎ飛んで下り、馬引寄せ乗せ奉り、斯かる縁に遇ひけるよと、世に嬉しくぞ思ひける。吉次を招きて宣ひけるは、「宿の馬の腹筋馳せ切つて、雑人奴等が負著かん。顧みるに駆足になりて下らんと覚ゆるなり。鞍馬になしと言はば、都に尋ぬべし。都になしと言はば、大衆共定めて東海道へぞ下らんずらんとて、摺針山より此方にて追掛けられて、帰れと言はんずるものなり。帰らざらんも仁義礼智〔信〕にも外れなん。都は敵の辺なり。足柄山を越えんまでこそ大事なれ。坂東と云ふは源氏に志の有る國なり。言葉の末を以て、宿々の馬取りて下るべし。白河の関をだにも越えば、秀衡が知行の所なれば、雨の降るやらん風の吹くやらんも知るまじきぞ」と宣へば、吉次是を聞きて、斯かる恐しき事あらじ。毛のなだらかならん馬一疋をだにも乗り給はず、まして恥ある郎等の一騎をだにも具し給はで、現在の敵の知行する國の馬を、取りて下らんと宣ふこそ恐しけれとぞ思ひける。されども命に随ひ、駒を早めて下る程に、松坂より越えて、四の宮河原を見て過ぎ、逢坂の関打越えて、大津の濱をも通りつつ、勢多の唐橋打渡り、鏡の宿に著き給ふ。長者は吉次が年来の知人なりければ、傾城の数多出でて、もてなしけり。
 
 

巻第一  了
 


2001.10.3
2001.10.4
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