藤 沢 の 歴 史

−藤沢デジタル文庫−

 
 我がすむ里(小川泰二著)
● 鶏肋温故(けいろくおんこ:平野道治編著)

 

藤沢デジタル文庫開設の辞

ふとしたきっかけや出会いが人の人生を変えることがある。まさか私が神奈川県藤沢市の歴史に興味を持ち、そこに伝わる伝説や伝承を探ろうなど、つい三年前までは、考えもしなかった。

今から三年前の出来事である。平成11年早春に、一人の人物が、藤沢の白旗神社に白旗大明神として祀られている源義経公の御首と宮城県栗駒町沼倉に眠る御胴を八百十年ぶりに合祀したいという発願を抱いた。名を菅原次男と言った。菅原氏は、藤沢生まれの郷土史家平野雅道氏に唐突にこんな趣旨の電話をした。
「栗駒に源義経公の胴塚があるのですが、藤沢市に首塚があると聞いています。これを合祀したいと思うのですが?!」
降って湧いたような合祀の申し出だったが、話は平野氏の努力と白旗神社宮司近藤正氏や氏子の人々の義経公に対する熱烈な思いを通じてトントン拍子に進んだ。そして六月十三日には、これを「源義経公鎮霊祭」という形で、菅原氏の発願は、実現の運びとなったのである。

菅原氏は、藤沢白旗神社で、鎮霊祭を終えると、早速山伏姿に身を変え、朱色の笈を背負い、藤沢白旗社の近藤宮司や氏子の皆さまに見守られながら、奥州路を一路北へ向かった。道中雨や嵐に遭いながら、無事に七月二十五日、大役を果たし、栗駒の判官森御葬礼所に到着し、義経公鎮霊祭を齋行したのであった。

このことがきっかけとなり、藤沢の人々と栗駒の人々の間には、白旗大明神としての源義経公を通じて、強い親近感が生まれ、交流が始まった。実は私が立ち上げた「義経伝説」というホームページも、「たった一人で頑張っている菅原次男氏を何とか支援したい」という気持から始まったものである。でもどうせホームページを立ち上げるのであれば、一過性のものではなく、広く世の中に、源義経公なる人物を伝えると同時に、ともすれば伝承ロマンとして語られ、片づけられてしまう傾向を払拭し、歴史の中での正しい位置づけというか、再評価のようなものをしたいと思うようになったのである。

そこには当然、歴史史料の読み直し、またこれまで乏しい史料をつなぎ合わせるべく、地誌的あるいは民俗学的な史料をも含めた収拾が不可欠と思い、「奥州デジタル文庫」あるいは「義経デジタル文庫」また「栗駒山と沼倉の里研究」として、徐々に基礎となりえるようなものをデジタル化して来たのである。

そしてついに平成14年夏、藤沢の白旗社周辺の義経公にまつわる伝説伝承を収拾することとなった。今回その皮切りとして、藤沢市文書館が昭和五十一年三月にまとめ上げた「藤沢市資料集(二)をデジタル化させていただくことにした。昨日(2002.6.19)、藤沢市文書館に電話にて、趣旨を申し上げたところ、快諾をいただいた。挿入されている写真等は、鮮明度の関係で、デジタル化は不可能であるが、なるべく誠実に、デジタル化を果たし、義経公の没後の無念と伝説化の過程の一旦をご呈示できればと考えている。何分にも亀歩の私故にかなりの時間は掛かると思われるが、どうか皆さま、辛抱強く見守って頂きたいと思う次第である。

2002年6月22日

佐藤弘弥
 

(文政十三年) 
我がすむ里
小川泰二

 
巻 の 上
巻 の 中
巻 の 下
本朝七道之大略 小栗堂 小栗満重墓 八徳水 藤塚
相模国大略 横山太郎屋敷跡 井差権現祠
藤沢駅大略 上野原 成福寺
御代官支配歴代 鬼鹿毛谷 照手姫硯水 金剛院
藤沢御銭座 俣野五郎景平屋敷跡 遠方稲荷祠
当駅惣鎮守 東の土居 一本松 附藤沢合戦
藤沢山清浄光寺 諏訪明神社 馬場窪
  因果地蔵 法華塚
a 別地山王社 天満宮祠
a 宗休庵 法性稲荷祠
a 玉縄久成寺 慈眼寺
a 玉縄城跡 御殿地旧蹟
a 新井白石先生墓 蟻平稲荷祠
a 首塚 甘糟屋敷跡
a 感応院  妙善寺 正宗稲荷祠
a 鐘楼・滝川 常光寺 亀女墓
a 三嶌明神社 八王寺権現祠
  能満寺 冨士見山
a 虚空蔵堂 荘厳寺旧地
a 藤稲荷社 永勝寺
a 船玉明神社 神明森
a 御幣山 八松原
 a 西村海老名橋 固瀬川
a 喜久名橋 砥上原 袂が浦 乳母島
a 音なし川 山王権現社
a 砂山観音堂 真源寺
石神明神a 白籏明神社
西行戻松a 義経首洗水 禮拝塚
そ の 他
a 荘厳寺 弁慶松 
原序 a 本入台太神宮 新八谷
藤沢小志序 a 幡随和尚誕生地
「ふるきをたずねて…」 a 西之土居 ■城塚 酒盛場 車田
凡例 a 引地橋
「家君泰堂居士とし…」a a 養明(命)寺
a a 本願寺
a a 大庭古城


 

(天保十三年)
け い ろ く お ん こ
鶏肋温故

平野道治編著


 
本朝七道名義 大略 無音川 亀女の墓
藤沢発端 砂山観音堂 八王子大権現社
藤沢宿惣鎮守 藤塚 荘厳寺旧記
藤沢山清浄光寺 成福寺 感応院ノ末寺也 永勝寺
子院 長生院 金剛院 感応院ノ末寺也 山王大権現社
諏訪大明神社 遠方稲荷社 真源寺
三島山感応院 馬場窪 義経首洗井
三島明神社 妙典供養塔 礼拝塚
能満寺 天満宮社 荘厳寺
藤稲荷の社 慈眼寺 白旗大明神社
船玉神社 将軍家御旅館之旧地 新入谷
御幣山 妙善寺 西の土居
西村 正宗稲荷社 a
喜久奈橋 常光寺 鶏肋温故注a

 
 
 
藤沢市史料集(二)」より

はじめに

藤沢市史料集は、研究者にとって手に入りにくい史料で、是非とも必携の史料を出版することを目的としたものである。(一)では『相模国郷帳』(元禄十五年・天保五年)、『相模国高改帳』(享保二十年)、『姓名録』(明治四年)の四書を所収した。いずれも藤沢地域あるいは神奈川県内の史料調査には不可欠の史料である。

さて(二)では、『我がすむ里』、『鶏肋温故』を所収した。いずれも藤沢宿ならびにその周辺のことを記した地誌として注目されてはいたが、なかなか研究者の目に触れる機会がなかった史料である。
二書とも、幕府の手になる『文政七年書上』(『新編相模国風土記稿』の草稿)に啓発され、地元の人の手によって編纂された点意義深いものである。その意味において、幕末の藤沢宿場の様子が実態にそくしてえがかれている良質の地誌といえよう。

昭和五十一年三月吉日

藤沢市文書館運営委員長  児玉幸多


奥付

編集・発行 藤沢市文書館 〒251 藤沢市朝日町12-6
発行日 昭和51年3月20日
印刷 西岡印刷(株) 横浜市南区吉野町5-22


 

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