我がすむ里

巻の中






相模州藤沢駅 無逸小川泰二編輯


小栗堂
藤沢山塔中照院、世に、これを小栗堂と呼、当院は、小栗満重の古蹟にして、照手姫閑居の旧地なり、本堂にハ、小野篁の作の閻魔、又恵心僧都の作の地蔵尊を安ず、其外、小栗判官、ならびに照手姫法躰の像、また霊宝多し、庭前に、小栗主従十一人の墓あり、世に名高き名所にて、能(よく)人の知ところなり

小栗満重墓  堂の後の方にあり、家臣十人の墓、いづれも五輪の形にして、青苔あつく封じ、懐古の情を催すにたるのミ

八徳水  墓の辺りにありて、聊の清泉なり、清く、潔よく、冷に、香ばしく、性柔らかにして、味ひ甘く、飲で人に中(あた)らず、是を服して、諸病を除く、此八つの功徳を具したるゆへ、八徳水と名づく、この水は、小栗判官蘇生し時、眼を洗ひしと云伝ふ、涌出滴々として、寒暑に増減なく、清冷、甘味今猶むかしにかはらず

愚考がふるに、小栗の事蹟ハ鎌倉大草紙をはじめ種々の説あれども、これを取ず、当院に伝来する、小栗の伝記あり、世の伝説と異なれども、爰に記す、久代(そのかみ)、後小松院の御時、常陸国小栗の城主小栗孫五郎満重、その子小次郎助重といふものありけり、同国結城の旗下に属し、武雄(ぶゆう)の誉れ、近国に聞ゆ、応永年中、小栗一家謀叛の企てあるよし、鎌倉に讒言するものあり、管領持氏大ひに怒り、一色左近将監、木戸内匠助(たくみのすけ)を先陣とし、吉見伊予守、上杉四郎を後詰(ごづめ)として、大軍を以てこれを責たり、小栗父子、防ぎ戦かふ事五十日余日、兵粮矢種ともに竭(つき)て、籠城かなひがたく、満重は、腹臣十人を将(い)て商買(あきびと)にいでたち、三州をさして落ゆく、子息助重も、甲州のかたに逃れ去りぬ、小栗の城、ここに没落す、時に、満重は、相模なる藤沢の辺にさしかかり、日暮に及んで宿るべき家なし、此地に横山太郎とて、無道強慾にて冨栄へ、浮める雲の栄耀(えいよう)を貪ぼるものあり、小栗主従の人品を見て、我が家に迎へ、酒をすすめて響応し、此を殺して財宝を奪はんと、ひそかに一類の悪人どもを諜らひけり、小栗満重、庭におりたち見るに、桜の樹に鹿毛なる駿馬(しゅんめ)をつなげり、この馬、人を咬(かむ)ゆへに鬼鹿毛と名付て、諸人恐れ近よらず、横山太郎、これを指さし客もし此馬に乗らバ道中の料に進らすべしと、満重、元より馬術の達人なれバ、轡(くつわ)を取てこれに乗る、自由自在にはせめぐり、これハ鬼鹿毛にあらず猫鹿毛なるべしと笑ふ、横山、大ひに愕ろき、これ常人にあらず、これを殺す事容易からず、依て、ひそかに毒酒を設けて殺さんことを議(はか)る、此家に、照手と呼女あり、父ハ北面の浪士なりしが、子なき事を悲しミ、日光山中禅寺の観世音に祷(いの)りて、此女を設く、両親、世を早くして、孤独(みなしご)となり、唄女(うたひみ)と成落(おちぶれ)て、此家に奉公す、此日、満重主従の毒酒に害せらるるを歎き、ひそかに事実(ことのよし)を満重にかたる、に爰おいて、満重、酒宴の席にいたれども、病気となりとて一切にこれを飲ず、横山、手づから盃をすすめ、強て満重の口におしつくるに、満重は此毒気の臭を、鼻よりひき入れ、たちまち心神悩乱して、倒れたり、其余、十人の家臣是を呑で、皆死せり、横山太郎、大ひによろこび、衣服路財を奪ひ取り、その屍骸を上野が原に捨たり、時に、藤沢山十四代太空上人、夢に青き衣服を着たる童子二人、閻王よりの書札なりとて出す、上人ひらき見給ひしに、日本国常陸国小栗満重主従十一人、毒害せられて上野が原にあり、其十人ハ定業なり、満重ハ命竭ず、上人はやくこれを扶け、紀州熊野の温泉に入れよとあり、上人、夢さめ、夜の明るを待、彼所に住て見給ひしに、小栗の屍とおぼしくて、指頭(ゆびさき)すこし動くあり、上人扶けかへり、車に乗せ、法弟二人を附て、遙々と紀州熊野へ送りけるに、満重ハこの温泉に入て、速かに本腹せり、又、彼の照手ハ、毒害のありさまを視て、恐れ惑ひ、此家を逃り出て、武蔵金沢なる六浦のかたへ走る、追手の者、これを捕へ、衣服を剥とり、六浦の侍従川に投入てかへる、照手、一心に観世音を念ず、此地に日光山専光寺といふ観音の霊場あり、此尊像より光明を放ち、照手、思はず浅きかたに流れよる、この野嶌が崎に、齢六十にあまる漁夫あり、この奇特を感じ、照手をいたはり、家に連かへれり、時に、漁夫の妻、嫉妬を起し、夫の家にあらぬ日を待て、照手を縛(いまし)め、青松葉を焚てこれを薫(いぶ)す、念彼(ねんぴ)観音の力、そのけぶり照手が身にかからず、召使の婢(おんな)、これを憐れミ、其松葉を海に棄たり、この半焼(もへさし)の一枝、岸に流れより、根を生じ、照手が薫松(いぶしまつ)とて、今に彼の地に残れりさても此妻、いよいよ嫉く思ひ、女衒(ひとかひ)の手に売渡し、美濃の国青墓(をほはか)の駅にて、遊女となる、此時に当て、小栗満重ハ、毒病全く愈(いへ)て京都に登り、逆心なきよし奏聞を経、鎌倉より御許の書を得て、本領安堵して本国に帰る、この次序(ついで)を以て、鎌倉に訴へ、悪徒横山太郎が一族を退治し其首を路頭にさらし、夫より藤沢山に登り、先恩を謝し奉り小栗の城に帰る、子息助重を家督として、家を続(つが)しめ、遊女照手をも迎とりて、昔日の情に報ゆ、時に満重ハ、応永三十三年丙子三月十六日に逝去す、重厳院満阿弥陀仏と法号す、小栗助重、父満重菩提のため、藤沢山に登り、墓を立て、追福をいとなむ、照手も今年剃髪し、長照尼と号し、閻摩堂の東に草の庵りを結び、水を汲み、花を摘で仏に事(つか)へ、永享十二年十月十四日、ここに終りを示す、長照院寿仏坊と法名す、其遺蹟、顕然として今藤沢山塔中の一坊となり、長照院と称して、小栗尊霊の廟所を別当す

私に曰、長照院に伝来する、小栗小伝といへるハ、きはめて古き文書なりしが、紙中蠧(むし)ばんで、読がたし、元禄二年、呑了といふ僧これを補なふ、また文化のころ、鎌倉荘厳院左学頭海雄、かさねてこれを補綴せりといふ、漢文の元書を左に記す
 

小栗小伝
人皇百一代後小松帝御宇有小栗孫五郎平満重其子小次郎助重者領常州小栗城其先出■(糸+晋)紳家至今満重殊好武同国結城氏麾下以驍勇聞矣応永中有讒満重有不臣之意者官領持氏信之遣一色左近将監木戸内匠助為先鋒以吉見伊豫守上杉四郎令後援以大兵攻之小栗父子防戦数月兵食共竭孤立不能久守城終陥矣従族多亡満重竊欲赴于三州佯為買客与部下士到相州助重穿道者服向甲斐遁満重至相之藤沢主横山太郎家太郎視客以為奥?巨商持輸財産赴華洛者因招其徒謀殺以欲奪之明日張■行酒々闌満重出後園見櫻下繋一駿此馬性嚼人故称鬼鹿毛横山謂満重曰客乗否乗得則與之満重曽熟騎御之術乃欣然而諾執輿跨之或横或縦一跳一踊無一不如意者横山等視以為神心?服栗知以力■抗也於是乎更合歌妓欲以酒鴪有遊妓照姫者常州人父母祈日光山中禅寺観世音所生也父母早亡終為孤獨零丁為妓女常信観世音忠信出于天此日侍酒於満重悲満重之中毒密以実告故満重託疾而辞酒横山強之不置不得巳而下一滴身心悩悶殆如死人部下士飲者皆斃横山等大喜奪衣帛財産挙屍棄上野原云此夕藤沢山上人遊行十四世太空上人也夢青衣官人告曰我為閻王使者乃呈書上人書中有謂曰日本国常■小栗満重与部下十士為鴪毒害其十士者命数所極也満重獨未竭故使再阿蘓速浴熊野温泉則応平復数日矣附以券印上人夢覚待天明与徒弟数人到上野原飢犬集食屍群鳥蟻附啄獨満重手足?動口鼻気通於是輿而帰山即造車因之属縄数條榜其胸前云斯是送致熊野本宮温泉病夫也若有人賜一挽之恵施一歩之挙則功徳大勝千僧供養之利益遠矣令着僧二人省朝夕左右之不日而到彼処得浴温泉形気復故云初照観人間危艱如剣樹刀山世界幻苦無一可楽忽逃去隠于武之金沢六浦追捕者尋至呵責杖笞裸其身投之待従川照姫悲困至心観世音名号此地有日光山専光寺即大士霊場也大士威力忽救護没溺之苦恍惚得上陸野嶌崎漁人号浦翁者得見之以哀愍之故倶而帰家愛撫彌日翁妻嫉之窃命奴婢丘積松葉縛照姫於中央放火焼之黒煙滔天殆欲絶矣姫正念跌座口誦観世音名号合掌帰命当此時煙塵瓢遶不侵傷姫身可謂水能漂火不能焼金言掲焉奴婢等驚懺悔歎撒松葉投之江其燼余松枝流至瀬戸海岸終生根繁殖今瀬戸海岸有照姫薫松妬婦尚猶恚之鬻為妓女流落轉移在濃之青墓此時満重疾全復乃嘱其姻家訟事実乎官廰官覈其事跡殊賜恩免復満重之官禄帰郷之日受官之令命封横山邸並其徒属刑之遂上藤沢山謝先恩於閻王堂欽修法楽連日事竭帰常■迎照姫於濃州報旧恵云満重衰老之日使四方捜索助重漸而得修験道之中迎立為世子所願巳足乃深帰依三宝念仏三味以寿卒実応永三十三年丙子三月十六日也法名重厳院満阿弥陀仏世子助重嗣封之明年再上藤沢山建亡父及十士之碑位於八功徳地之辺大営追福于閻王堂照姫亦以満重卒之年薙髪受具為尼号長照比丘尼住閻王堂之傍別安地蔵尊一躯及満重肖像香華奉仏厳居川観念仏竟以永享十二年十月十四日端座而逝曰長照院寿仏房今藤沢山内之一坊長照院即其遺跡也巳上


横山太郎屋敷跡
小栗堂より艮(うしとら)位のかた二十町はかり、俣野村十王堂の前の畑なりとぞ、村民(むらびと)あるひは亥戌の御殿跡など称す、これ、横山太郎ここに住で、無道不敵の振舞をなして、浮雲の栄華をなしたる処なりと云伝ふ


上野が原
上野が原といふは、同じく俣野村の内なり、平原今鋤(すか)れて田畑となる、里老の伝説に、満重ならびに十人の家臣害殺(せつがい)の屍を捨たりといふハ、今の大塚と呼ぶ荒塚これ其処なりと伝ふ、これは、東海道の往還より北に入事わづか二三歩にありて畑の中なり


鬼鹿毛谷
鬼鹿毛谷といふハ、大塚より北二町ばかりに鬼鹿毛坂あり、このかたはらの谷間を鬼鹿毛谷と字によぶ、彼の人を啖(くひ)し悪馬を繋ぎしところといふ、樹木欝蓊として、道を求めがたし、農夫に案内させて尋ぬべし、此辺りに、照手姫の硯水といふ名泉あり、また■田(ませだ)、桜の馬場などいふ処あり、皆いにしへに符号する地名なり


俣野五郎景平屋敷跡
西俣野村にあり字草苅場とよぶ処の側也、里俗今に五郎屋敷とよぶ、今総て畑となる、五郎景平は藤沢山開基の大檀那なり、法名各阿弥と号す、今藤沢山宇賀神の南に祠ありて、俣野大権現と崇む


東の土居
藤沢山東門の艮(うしとら)位にあり、これ往還筋駅の入口にして、藤沢宿長さ七百三十七間の東の端なり、これより藤沢山領の山谷といふ町を過て、江戸の方大鋸町掛り、御並木両側合せ千百五十七間、山谷川(まち)に一里塚有、これハ慶長九年二月、東海、東山、北陸の郡吏に命じて築かしめたるよし、太平年表に見たり、これ其ひとつなり、唐土(もろこし)には、是を里喉(りかう)といふ、これより戸塚駅まで一里三十町なり


諏訪明神社
往還の東山谷(さんや)の台にあり、石磴(いしざか)二十一級(だん)登りて石の鳥居あり、右りに一曲して又登る事二十六級、正面本社なり、祭神は都味歯八重事代主命(つまはやえことしろぬしのみこと)、建御名方命(たてみなかたのみこと)の二座にして、例祭毎年七月二十七日、別当不動院、これ、西村、大鋸、大久保、東坂戸までの惣鎮守なり、謹んでその基本をがふれば、往古宗祖一遍上人信州御遊化の時、諏訪明神上人に謁し、宗運不窮の守護神たらん事を願ふ、上人これを許して、笈の中に入れて御帰山ありける、四世呑海上人藤沢道場開基の砌り、建武二年乙亥(きのとのい)の秋初めて境内に鎮座なり、後八世渡船上人の時、文和年中神祠御造営、又三十二世普光上人、慶長九辰年御再建、同三十七世託資上人の時、慶安年中御再営、其後四十五世尊遵上人の時、大久保町旧農堀内将時、同将幸、上人に願ひ元禄十二年己卯(つちのとう)、社を東の山に遷し初て土生(うぶすな)神と崇む、此時は今の下段の地にして、北嚮(きたむき)にて官道に向ふ、このゆえにや、往還に落馬するもの多し、依て社を上段の地にうつし、南向にして街道を側にす、これより其災害(うれい)なし、五十三世尊如上人の時、本社の屋根を銅板(あかねいた)とす、寛永年中初て神輿(みこし)を造り、はじめて七月廿七日を祭礼とさだむ、安永二年御造営、又文政元戌寅(つちのへとら)年再建す、今の神殿これなり、当社の来由、鎌倉志の説に異なれども寺説に依てこれを記す

因にいふ、安永癸巳(みつのとのふ)の五月神祠造立、大成の時藤田無適、当社の略縁起を額として社内に掲たるよし、これも何時しか紛失して、唯その讃辞の詩を伝ふるのみ

小引
昊天照古殿 千里遇清風 鳶鳥雲外飛
游魚躍水中 霊松廻画閣 楊抑覆深宮
葩椽重光彩 神人此日同
 藤田敬無適拝


因果地蔵
藤沢山裏門(ひがしもん)の外にあり、尊像地蔵菩薩は、石の立像なり、災難、病難、すべて願望にこの因果を救ひ給はれと祈願すれば、利生新なりといふ、万日堂の持なり


別地(わけち)山王社
町方と寺領の境、鎌倉山の内街道を入て瑞光の町落(はづれ)にあり、地名も山王と呼ぶ、当社は撥塚(ばちづか)山王と同躰なり、寛永十一年六月、将軍家御上洛に依て撥塚山王ハ坂戸町の西、高き丘に御遷座なり、然れば、大鋸町の辺よりは路遠くして参詣おこたり易し、これに依て、■に別社を勧請して別地山王と称し、そのころ大久保・大鋸の鎮守たり、此道筋は鎌倉通路にして、藤沢境に小橋あり、これより柄沢村なり


宗休庵
柄沢村にあり、隆昌院と号す、本尊鬼子母神の神像は、むかし正嘉・正元・文応・弘長と、うちつづき大慧星、大地震、洪水、早魃、暴風、饑饉、悪病ひまなく、人民死滅その数をしらず、日蓮聖人ふかくこれを歎かせ給ひ、弟子日法に仰せてこの尊像を彫刻せしめ、自分御開眼ありて災難消除の本尊として、人民塗炭の苦しみを救はしめ給ふ、其後、比企大学三郎能基に御授与ありて、比企が谷妙本寺に伝来す、■に元禄年間、赤穂の義士奥田孫大夫の末子出家してこの柄沢に止住し、妙本寺に永代千部を発起し、毎年三月九日より十五日まで千部修行今に怠りなく、世にこれを宗休千部といふ、斯のごとき大功を立たる故、彼の尊像を宝庫より取いだし、山主賜紫日等上人手づから宗休に授け給ふ、爾してより■に利益を施こし給ふ事、日を追月を追て末法廣布の現当今に赫々たり

私に曰、開基宗休の墓は比企が谷門前にありて、隆昌院宗休日心法師とあり

これより坂を越て渡内(わたうち)村、左りに観音の霊場あり、天嶽院の末法にして、慈眼寺と号す、路の右に八幡太郎鎧懸松、夫よりまた久成寺坂を下りて左りに久成寺あり


久成寺
玉縄郷の内なり、光円山と号す、日蓮宗にして身延山の末寺なり、当寺は享保年間の開基にて、四世日■(登+頁)上人の時、神祖東照宮御入有て御昼食を遊ばさる、御紋付の重箱拝領して什宝とす、当座に御朱印三石を賜ひ、境内四千六百四十五坪免除、天正十九年十一月とあり、此地は上古天文二年未十月十三日、後の山より雌雄の螺貝ぬけ出しより、法螺貝谷といふ、其跡の岩間より清泉涌出、清冷甘味なり、筧を以てこれを通じ、寺内に便利す、これより路の右りには円光寺、真言宗手廣青蓮寺の末寺なり、此辺玉縄城山の麓にして、相模尻とよぶ、左りに貞宗寺、御朱印十石、浄土宗増上寺の末寺なり、此寺に東照宮の叔母君なる貞宗院殿の御霊屋あるなり


玉縄城跡
当城は大永年中北条氏綱の舎弟左馬之助氏時の居城にして、房■(刀+刀+刀)里見家と数度合戦あり、其後天正十八年豊臣秀吉公小田原征伐の比は、北条左衛門大(太)夫氏勝ここに在城せり、天下一統の後は、松平備中守隆綱の居城なり、志かるに城地はなはだ広き故、追手前円光寺曲輪といふ処に陣屋を構へ、栖(スマ)はれしとぞ、此後備中守、上総国大田喜へ国替せられ、夫より当城永く破却す、其城地の形を見るに、貞松寺に対したるかた追手口にして、内外の堀二重に構へ、櫓の跡は所々に見へたり、内堀の幅一丈余残りて、今なを水の存するところあり諏訪壇といふところは、地磐より稍高ふして樹木生茂る、正しく天守台と見へたり、御庭と呼処に椎の大木あり、快晴の日は、此辺りにて小田原の天守見ゆる、井戸は数々ありて、水涸(かれ)ず、城地の内古松多く、根笹、荊棘(いばら)しげりて人跡さらに絶たり、凡玉縄と称するところ、峯渡内、植木、城廻り、関谷、山谷新田等なり、凡千石余の惣名にして、藤沢宿御免状にも、玉縄とのみしるしたる由緒の旧地なり


荒(新)井白石先生墓
植木村龍宝寺にあり、当院は禅宗にして、小田原塚原長生(泉)寺の末寺なり、荒井築後守は初め勘解由と呼ぶ、実名■(王+與)(よ)、後に君美と改む、字は在中、また天爵堂と号す、宝永、正徳の頃、博学宏才を以て海内に名あり、著ハしたる書籍もっとも多く、東雅二十巻、本朝軍器考十二巻、藩瀚譜二十巻、方策合編十巻、すべて一代の著述、百五十四部、その巻数千巻に余る、実に本朝の豪傑なり、享保十年五月十九日に卒す、墓碑の四面塔は、巌窟の中にあり、正面に従五位下新井筑後守源君美公の墓とあり、碑文ハ湿気に朽缺して、見ざる処多し、左に記す

朝散大夫新井源公碑銘 英賀室直清撰
朝散大夫新井源公諱君美字在中初名与白石其号也其先上野人為新田族新田大炊助義重曽孫新田二郎某削髪為僧因其所居称荒井禅師覚義其子孫遂以荒井号其家後又易新井蓋我邦方言与荒井同訓也覚義之後世仕南朝有戦功南朝既亡荒井族流寓上下両野之間元亀之初有図書允某拠上野勢多郡女渕城公其後也祖勘觧由某方遭世屯亡土地卒往常陸従多賀谷修理大夫平宣家多賀谷敗去隠河内郡其宅門外有古橋里人号為古橋殿父与次右衛門正済母藤原氏坂井某女正済幼喪怙恃年十三来江府為武州人及壮為土屋家臣甚為民部君所任用民部若卒後有故而去公生而岐嶷悟夙成三歳時能書大字民部君愛其幼慧召置膝下比及十歳常在民部君側代書殆若老成云延宝三年従家君辞去天和二年公仕於堀田筑前侯合朝鮮来聘迺詣客舘与其学士等唱和韓人序其陶情集是歳丁家君憂居無何辞仕去隠居府下元禄六年十二月起就甲府之辟始至以儒職侍講筵優待曰渥後数年恃旨進公資格列為寄合衆宝永六年夏四月文廟始継大統秋七月賜公采地歳租五百石七年冬十一月以事使京師八年春二月還報称旨冬十月朝鮮来聘先斯命公掌其事有所建白皆施行是月叙従五位下任筑後守十一月陪賜菜地与前所食并為千石公以職在顧問毎出入風議必論事剴切動中肯綮将順匡救所■(てへん+畢)益不少正徳中国家不幸仍遇大衷而公漸老無意当世迺杜門謝客日夜以典籍為楽卒以此終公以明暦三丁酉二月十一日生享保十年乙巳五月十九日疾卒享年六十九娶日下氏朝倉長治女生二男長明卿今克家次宣卿先卒二女長適市岡正?次適石谷清■(夕+寅)公少時自負胆気不覊既而折節読書通経史百家之編中歳始遊於順庵木先生之門以該博見称最善唐詩豊?馴雅直与開元諸名家相■(吉+頁)頑由是四方争伝以逮海外之国而公之詩名檀天下其所著書蔵於家後世必有伝之者銘曰

公昔鴻漸 羽儀巌廊 暗節豹隠 蔚乎其章
国有一老 天不愍遺 朝野共慨 若亡蓍亀
隹城新卜 山河環周 既安且固 何啻千秋
享保十年乙巳月日 男明卿建


玉縄首塚
首塚は戸部川の側にあり、岡本村の切通しを出て戸部橋まで、左りの方同村なり、戸部川は水上、戸塚宿、元町を歴てここに流れ、末は川名橋の辺にて音無川に会して海に入る、此辺すべて鎌倉七郷の内、村岡の郷なりき、抑もこの首塚といふは、在昔大永六年霜月十二日の事なりき、房州の里見、大軍を卒し鶴が岡八幡の社を焼て軍威を示し、同時に玉縄の城に押寄たり、其時城将左馬介氏時、軍兵を城外に繰出し、この戸部川を前に当て対陣し、たがひに挑ミ戦ひけるが、玉縄の城兵、甘糟太郎左衛門を始めとして無双の勇士三十五人討死す、敵兵を討取ことまだ数をしらず、のち両軍相引となりて、氏時我手に討取ところの首を里見へ送り、その三十五人の首を請うけ、このところに埋みて塚となせり、これを村岡合戦といふ、まことに英雄万夫にすぐれしともがらも天運かぎりありて、今ハこの荒塚の主となり、春来ごとに菫(すみれ)・薺(なづな)ハ花さけども、昔にかへる月日はなし、勇士豪傑の夢のあと、心ある人ハここに泪をそそぐなるべし

私に曰、近年までこの塚に榎の大樹ありしが、今ハ枯てなし、碑名左に

  鎌倉郡玉縄首塚碑記
  西城小姓番士兼編修 間宮士信撰
  従五位下大隅守戸川恵 書并題額

室町氏季世関東擾乱北條左京大夫諱氏綱拠小田原城使弟左馬助氏時守玉縄城当是時也敵国相侵攻伐是務房有里見氏絶海■冦大永六年十一月十二日房冦放火焚八幡祠城兵逆戦于戸部川上斬馘甚多城兵亦死者三十五人氏時便以房人首級換吾兵三十五首為合■築塚後人号曰首■或呼甘糟■甘糟氏葢死者之長也大永距今三百余歳物換星移土人亦咸不知其由也郡人甘糟福原等奉先思孝追遠弗措将謀樹碑其孫裔存者聞之各戮力舎財合有地志編纂之挙余■其事乃遣朝岡泰任村井量令等採索焉自鎌倉迄藤沢甘糟等為之指導途過家側因説樹碑之課且不二主請銘於余余祖宗亦為北条氏之義不可辞係以銘銘曰

赴危殉■ 甘衷其元 妖気一斉 城塁得完
戸部之水 村岡之原 ■魄安在 惟一杯存
春草空緑 秋霜自繁 歴載三百 綿■(貌+しんにゅう)子孫 
  文政八年次乙酉冬十一月書

これより戸部橋を渡り、耕地を過ぎ山の内にいたり、円覚・建長の大刹を拝して鶴が岡にいたる順路、本道なり、本条の文、これより藤沢に戻る


感応院
藤沢山の南、大鋸町にあり、三島山瑞光寺と号す、真言宗なり、本尊不動明王御長一尺八寸の立像にして、智証大師の御作、当山開基の砌り、将軍実朝公御寄附の尊像也、御朱印三石七斗、その余御除地五ヶ所境内、東西百二十五間、南北四十二間なり、表門の額ハ三嶌山の三字を竪に書す、筆者伝はらず、謹しんで当山の来歴を案ずるに、開山道教律師ハ京都東寺遍智院の住にて、広橋大納言雅親卿の息なり、密法修練、戒行道徳の律師ゆへ、鎌倉三代の将軍右大臣実朝公御帰依浅からず、前の年右大将家勧請ありし三嶌明神の側において、建保戊寅六年を以て大刹を建立し、道教律師を開山とす、初めて三嶌山感応院瑞光寺と呼び、将軍家より不動の尊像一躰、御剣一口、良田若干を添て賜ふ、これ当院最初の紀源なり、開山律師ハ、嘉貞二年丙申五月二十六日に遷化あり、しかしてより久しく歳月を歴て北条の一乱に及び、天下の人民塗炭に苦しむ、この時当院も大ひに頽廃し、神廟僧舎ことごとく兵火の為に恢燼となれり、後足利義満公の世にいたり、応永五年を以て再建す、この折、中興開山は阿闍梨幸海法印なり、この幸海ハ応永七年庚辰十月十六日に遷化ありて、それより慶長十四年巳酉八月神祖東照宮鎌倉将軍家の由緒を以て関東法譚修学所の列に加へ給ひ、慶安二年巳丑八月征夷大将軍家光公、先般の列に依て山林竹木諸役を免除し御朱印を賜ふ、実に六百年来の古梵刹にして、松竹森々と茂りて仏閣を逵(めぐ)り、寂寞殊勝の霊境なり、委しくハ三十三世勝英阿闍梨の筆記に見ゆ、■にハその大畧をしるすのみ


滝川
門前を流るる小流なり、むかし建保の比、道教律師この瀧川の辺りに一宿し給ひしに、夜半に白気空中に立のぼり、白き御幣と化して巽(たつみ)位のかたへ飛さる、この奇瑞に依て律師この三嶌明神の社に一七日参籠す、後鎌倉に召れ、将軍実朝公ふかくその道徳を帰依し、■に瑞光寺を建立ありし事寺記に見へたり

私に曰、此川に生ずる鰻驪魚(うなぎ)ハ皆一眼なり、これ豆州三嶌明神の御手洗に生ずる魚と同じとて、小児もこれを取らず

鐘楼  門を入て右にあり、銘左にしるす

瑞光寺鐘銘
夫■(てへん+建)槌一打三千之衆雲集霜鐘三振四生之苦氷消故能■尼免刀輪獄卒休湯■長眠聞之驚覚永夜因之而忽暁八部所以駢填三尊所以輻輳般若之標道場之主只在鳴鐘乎
時享保十八癸巳年十一月七日本願主当院三十世嵯峨御所無垢染院兼元祖前左学頭長英謹言


三嶌明神社
感応院本堂の西にあり、祭神大山積命なり、上古勧請の地ハ、本堂より北にして滝川の側、其跡に今ハ稲荷の禿倉あり、抑も当三島の社は、右大将頼朝公冨士の御狩御出馬の時、無事に御帰舘あらん事を御立願のため、建久四年癸丑の三月、豆州三嶌明神を■に勧請し、藤沢次郎清親奉行として五十日余にして落成に及び、法楽を奉り、神徳殊にあらたにして鎌倉より貴賤群集して、首途守護神と崇めける、今ハむかし、宮殿玲瓏(れいろう)の荘厳も絶て、只はづかの叢社(ほこら)を存し、松風の外神慮をすずしめ奉る鈴の音も聞へず、彼の阿仏尼が

哀れとや三嶌の神の宮柱ただここもとにめぐり来にけり

と、十六夜日記にも見たり、今も旅立の人ここに詣で、道中安全無事帰国を祈れバ、霊応むかしにかはらずといへり


能満寺
感応院の南にあり、智水山不動院と号す、本尊福満虚空蔵ハ行基菩薩の御作にして、其むかし弘法大師当国江の嶌に於て求聞持の御修法ありし尊像なり、また脇壇の大黒天ハ、運慶の作なりとぞ、当院ハ、天文の初め品(ほん)阿闍法師一宇を造立し初めて能満寺と称し、真言三密の秘法を修し国土安穏を祷る、この開山ハ、天文二十一年二月十三日遷化なり、第二世権大僧都祐慶、はじめて修験を以て寺職とす、爾してより今に十四代、鎮守諏訪明神ならびに船玉山王の別当たり、当寺ハ、天正二年火災にかかり、什宝寺記のこりなく焼亡す、依てその由来つまびらかならず


虚空蔵堂
能満寺の山上にあり、彼の行基の作の霊仏を安ず、丑寅年ハ開帳して、諸人に拝せしむ、末社に金比羅、三峯疱瘡神を祀る、すべてこのへん能満寺の御除地にして、正徳年中河原清兵衛様御代官の時、御除地一反五畝歩と上書したるよし鎌倉由井山観音寺に旧記ありといへども、宿方御図帳にハ御除地五畝歩余とあり、これによって、寛政中寺社御改の砌りもこれを上書しけるとぞ、因に曰、この虚空蔵堂山の北の山下に、森氏といふ旧農あり、藤沢開闢巳来の家にして、建保四年実朝御乗船を造りし時、樵人番匠を主宰(つかさどり)し家なりとぞ、近くハ小田原北条より竹木の催促状、その外古文書多し


藤(ふぢ)稲荷社
虚空蔵堂の辺りにあり、棟札に正一位一の宮藤稲荷大明神とあり、勧請ハ極めて古代にて、年歴しれず、当宿稲荷の最初にして、觸頭なりといへり、また此社の後に藤の古木の根株あり、むかしこの藤、虚空蔵堂の三本松より枝にまとひ梢を伝へて、西の谷に這広がり、弥生の末にハ花咲て一面に紫の雲棚引がごとく、藤沢といふ名もこれより起りしと寺説にいへり


船玉神社
船久保町右側にあり、そのむかしこの船久保ハ、将軍実朝公入宋の御企の時、御乗船を作るとて材木を伐りし地なりとぞ、此船玉の神祠も、海上守護の為に兼て勧請ありしといふ


御幣山(おんべいやま)
船久保の東の端左り側にあり、この山を御幣と呼び来りし事ハ、むかし建保間道教律師三嶌明神へ参籠の時、夜半の此不思議の白気祠のうちより立登り、空中にて白き幣と化し巽位をさして飛去り、此山にとどまる、この奇瑞より御幣山と呼なせり、また此地ハ藤沢次郎清親の屋敷跡ともいふ、南の山下に音なし川、北のふもとに滝川の流れありて、地盤もつともよろし、一構の敷地とハ見ゆれども、其証定かならず、この道筋戸部川の下流川名橋を渡り、右の山上に権五郎景政の霊を祀る御霊の宮といふあり、それより手広村青蓮寺、真言宗にして関東の檀所なり、常磐村を過て大仏坂を越、長谷寺にいたる、爰より鶴ヶ岡へ十八町、この道筋を長谷通りといふ、本文これより藤沢にかへる


西村
藤沢山惣門の前、榜示杭より戊亥のかたへ入、町屋なり、藤沢山御寺領にして、一山不入なり、此町家の横町に地蔵堂ありて、字を寺家と呼、この辺細き流れに海老名橋といふ丸木橋あれ、これハ上古藤沢山に海老名郷三千石を領したりし時、彼の知行の村々より御年貢米をつけ送る事、二千余駄に及ぶ、この通路に渡したる故に斯名づけたり、真顔のうたに

よい事をきく名橋またえび名橋七百余歳こし曲るまで

と、これハ真顔この地に遊びたる時、ふたつの橋を読合せたる祝ひ歌なり、西村を過て小しの耕地あり、土橋を渡りて御殿地にいたるの道なり


喜久名橋
藤沢山惣門の前百歩ばかり坤位(ひつじさる)にして、東海道の往還にかかる長さ十二間の板橋なり、大橋と呼ぶ、是信法師の東道の記といふ書に、それより路をいそぐに、藤沢といへる宿を過る比は夜もいたく更たり、此橋ハ何橋といふにやと馬の口とる男にとヘバ、喜久名橋と答ふとありて、歌に

ぬば玉の闇に渡らバ東路のきく名の橋もかひやなからん

とあり、これ元禄九年の道の記なり

近頃真顔の狂詠もあり、こハ海老名橋の条下にしるせり


音なし川
喜久名橋の下を流るる此川ハ、水源甲州海道八王子の側橋本より瀬谷を経て爰にいたり、末は戸部川に会し、片瀬川と号して江の嶌の海に入る、東ハ鎌倉郡、西ハ高座郡この川を分界とす


砂山観音堂
喜久名橋の南側往還入り口、銅(かね)の華表(とりい)あり、江の嶌参詣の本道なり、此道を入る事一町ばかりにて、右にあり、藤沢山持にて、金砂山と呼ぶ、本尊正観世音菩薩ハ、帯解観音と称し■■(月+任)(かいにん)守護、安楽産福子の利益あらたなるを以て、毎月十七日女人群参し(す)、これハ、その初め金井入道守清の次男太郎左衛門清仲、入道して清西と号し寛永年中この堂を営みたるよし金井氏の家譜に見ゆ

私に曰、金井太郎左衛門清仲ハ、今の蔦屋又左衛門の先祖なりといへり

これより木部や(屋)・蔵前をすぎて庚申堂あり、町の名とす、十町余にして石神の渡船場にいたる、むかしの固瀬川と云も、この辺より海までをいふ


石神大明神
渡船場の北にあり、村民ハ大明神と尊信すれども、地蔵尊の石像なり、七世の父母菩提の為、承応四年五月吉日栄誉敬白と彫つけたり、これを祈念すれバかならずしるしありとて、諸人参詣す、農民半兵衛といへるものこれを祠る、石神の船渡より越行て、左りに駒立山、右に義経の隠れ井戸あり、往還の馬くらい橋ハ馬鞍置橋なり、おきの反(かへし)切いとなる、此辺ハ、文治のむかし義経腰越の宿にて討手の切脱(ぬけ)、ここに身を逃れし跡とて其名のこれり


西行戻松
固瀬村路の左りにあり、昔日西行上人此松を立戻りて見給ひしゆへに戻り松といひ、また顧りの松ともいひ、あるひハ上人ここに休らひ、戯れに松の枝を西の方へ捩給ひし故捩松ともいふよし鎌倉志にも出せり、泰二別に考がへ思ふ事あり、往昔俊成卿千載集といふ勅撰の和歌集を撰ミ給ひし比、西行上人ハ鎌倉に在しけるが、勅撰ありときいて上京せんとおもひたち鎌倉を発足ありしに、路にて登蓮法師の京都より来るに往逢ける、西行うれしく、勅撰はいかが沙汰ありしやと尋ねられしに、登蓮答て、千載集とてはや披露に及ばれ、上人の御歌も多く出たりといふ、西行また尋ねて、我読し

心なき身にもあハれハしられけり鴫たつ沢の秋の夕暮

といふ歌も見へたりやと問れけれバ、其御歌ハ見へざりきとありけれバ、此歌の出ぬほどの集ならバ見て要なしとて鎌倉へ立戻られしと、此事ハ井蛙集に見へたり、案ずるに、西行上人此松のほとりにて登蓮法師に行逢、ここより鎌倉へ戻られしゆへ、戻松と其頃名誉に残りし物と覚ゆ、この鴫立沢の歌、後に新古今集に撰ばれて、三夕(さんせき)名歌の一首たり、これハ此書に預からざる名所なれども、一説あるを以てここに附録せり、本文これより又藤沢にかへる
 
 

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2002.7.11
2002.7.17 Hsato