我がすむ里

巻の下


藤塚
藤塚は音なし川の南にして、大久保町、人家の後の山上にあり(る)古松をいふ、これ藤沢といへる地名の根本ならんか、元より日本国の一名を藤根の国と称し、国津柱を藤の根にまとひ繋ぎて、不朽にいたるの義なるよし、詞林採要(葉)抄にも見たれば、此地を藤沢といへるも、繁花(か)かぎりなきの因あるに似たり、藤塚の辺を熊野堂と呼ぶ、むかし、此松の下に熊野権現の社ありて、後、藤沢山の境内に遷といふ、爾るや否やをしらず、今は、この塚は感応院の持なり


井差大権現
今、金井氏これを祠りて、稲荷と合殿にす、初め、金井宗斉法橋昌与の勧請にして、貞享三年、宗禎与伯(とものり)これを再営すといふ、また、この後の山に、吟風享といふ茶享の跡あり、これも、金井氏の古文書の中に、三本松の虚空蔵菩薩は、行基菩薩の御作なり、その仏前の灯火は、我が砂山の吟風享に見ていと淋しげなりとあり


成福寺
大久保町の南にあり、東輝山医王院と号す、真言宗、当宿感応院の末寺なり、本尊薬師瑠璃(るり)光如来の霊像は古しへ、行基菩薩この尊像を彫刻ありて、末法衆生の為に逆即是順の利益を顕はし給へとて、この音なし川に投入給ひけれバ、不思議にもこの仏像水上へ流れ給ふ、これより世に川上薬師と称して、今に利益著明(いちじる)し、御長七寸、世に稀なる霊仏なり、当院中興開山聡海法印、応永三十三年乙巳六月八日の遷化なり


金剛院
成福寺の戊亥にあり、日照山と号す、同じく瑞光寺の末寺なり、本尊大日如来の座像、長一尺八寸、御腹籠りの尊像は、七寸五分なり、中興開山善雄法印、寛永九年壬申九月二十八日遷化、すべて、当院及び成福寺ともに、昔し大久保町北側より出火の時、北風烈しく、両院の古書什物等残りなく焼失す、ゆえに、起元の年号、開山の名、一切伝わらず、当院に、毎年九月九日、是性坊の開山忌と唱へ、児童多く聚りて角觝(すもう)を興行す、むかしより爾なりとぞ、この是性坊ハ、この院の開山なりやと思ハる


遠方稲荷社
金剛院の西にあり、近来の勧請なり、棟札に、文政四年巳八月造立とあり、この神躰ハ品川台町唐冠稲荷と同社なりといへり


一本松
遠方稲荷の西なる荒塚に、松一株あり、農夫畑を耕す時、過(あやまっ)て塚の裾(すそ)を穿(うが)ちて、白骨を見し事あり、また、武器の出し事もありしとぞ、何人の塚なるや、由来伝はらず、唯此辺合戦のありし所とのみ古老いへり、依て、我れ考がへ思ふ事あり、康正元年の冬、藤沢合戦とて、上杉宣政と北条憲定と藤沢において対陣し、敵も味方も入乱れ、三日の間挑ミたたかふ、然るに、上杉方武威さかんにして、北条憲定敵しがたく、終に腹切れしかバ、軍勢四途路(しどろ)になり、討死するもの数をしらず、この時、藤沢の側への松林の中に、栗毛の馬にうち跨がり、二ツ引竜の差物したる武者一騎、勝誇りたる上杉勢に切りかかり、天晴の勇士と見へけれバ、上杉方中村冶部少輔重頼、はるかにこれを見て、一文字に馳寄て鑓(やり)を合せたるに、中村や(の)勇やまさりけん、彼の武者を討取しづしづと本陣へ立帰り、この首を見るに、未だ二十にも足らぬ色白き若者にて、髪の毛にハ香を焚きこめて、いと奥床しき振舞なれバ、中村も哀れにおぼへ、陣中にありける太田左衛門大夫道灌ハ、物の情を知りたる人ゆへ、この首級を見せて手向の歌一首と望みけれバ、道灌とりあへず
かかるときさこそ命の惜からん かねてなき身と思ひしらずバ
と、ありけるにぞ、余りにいたはしとて中村重頼もまた
なき身とハ誰もしれどももつともに 今はにおよぶ事おしぞ思ふ
と、これハ、大田道灌の暮景集に見へて、慥かなり、されバ、この辺ハ康正の古戦場にして、この一本松の荒塚も、戦死の屍を埋めし処なりと覚ゆ、いまもこの松の枝を伐れば、虐疾(をこり)を病とて、諸人恐れて近よらず、また世に、道灌のかかる時といへる歌は、自身の辞世なりといふハ誤りなり 


馬場窪
一本松の戊亥の方、窪き処の字なり、この地、将軍家御上洛の時、助郷役馬を多く繋ぎたる処といふ、御殿地御用の茅を積置し地も、この艮位につづきて、今に茅場と呼ぶ


法華塚
馬場の窪の側、稲荷の社地にあり、坂戸町の旧農平野満尭といへる人、深く法華経を尊信し、家業の余力(いとま)、自ら法花一千部を読誦す、寛政十二年より文化四年にいたり、八ヵ年にして願満し、又別に、一字三礼を以て一部を書写し、文化六年、茲に石浮図を建つ、其深信を感じてここに附す

善士平野満尭相州藤沢人也家世々業農為邑豪冨自先奉佛信法満尭家政之暇自寛政庚申至文化丁卯読法華経及一千部又書写一部因建石浮図表願所者之為資祖先親属冥福二者祈子孫家族安寧近介于余請作銘以識其所由余随喜其功徳而述黄偈言曰
一時我仏 放白毫光 現大神変 普照東方
發実相義 欲説経王 皆見斯瑞 仰胆彼蒼
諸仏説之 妙法難思 如優曇■ 布有現時
欲令彼衆 悟具及知 以大事故 出現於斯
随喜其然 功徳誦百 千于読于 矧建塔焉
文化六年己巳冬十一月朔旦丁巳伊勢■蒭復聞中合掌撰併書


天満宮社
一本松の艮位にあり、遠州高天神を勧請すといふ、堀内氏、これを祀る、此辺すべて天神山と呼ぶ、堀内氏先祖丹後守重親、本国遠州の人なり、数度の争戦、北条に忠勤し、其後此地に退隠して、正法斉と号したるよし、家譜に見へたり


法性稲荷社
大久保町南の岡にあり、永正丙寅三年、白柏木白玉といふ女、初めて勧請す、依て、白玉稲荷と呼たるを、安永三年未正月、法花勧請として、法性稲荷と称す、此地ハ、もと慈眼寺のありて、堂に霊作の観世音を安ず、門前の小坂を堂坂と名付、其坂の町を堂坂町といひ、又次の町をも坂戸町と呼ぶ、今にそのおもかげあり、中古、寺を内出の方へ引、旧地にこの稲荷のミを残せり


慈眼寺
東坂戸町の坤位、内出にあり、青入山と号す、天台宗にして、鎌倉小町宝戒寺の末寺なり、本尊観世音菩薩ハ、御長二尺の立像、御腹籠りの尊像ハ、一寸八分の正観世音にて、三浦大輔義明の守り本尊にして、災難消除、延寿長命の利益あらたにして、六十一年を以て開帳とす、当時ハもと堂坂町の岡にありて御除地なれども、寛文・延宝の比、荻生宗海と云し医師、此地を寄附してここに堂を営なむ、また近比、小松屋某、我が住居の内六尺通り二十間の地を割て、参詣の通路をひらく、境内に秋葉天神、稲荷、三峰等の祠あり


御殿地旧跡
東坂戸町の北にして、今に御殿と称す、その分地、西は妙善寺に対し、東は音なし川に添て、古木多く茂る、旧記に、御殿地所、間数八十六間に三十九間、土手高さ三間、外に馬踏二間、土手裏に五間、堀幅六間と見へたり、抑もこの地ハ、字撥塚とて、当宿の惣鎮守山王大権現たたせ給ひし旧地なり、寛永十一年、三代将軍家光公御上洛の時、山王権現は替地へ御遷座ありて、此処に御旅館を造営す、寛永十一年甲戌六月廿日、江戸御発輿、その夜ハ、神奈川宿に御止泊、同二十一日当舘に入御なりて、其夕つかた夕立のありけれバ
ひと通りふる夕立のあと晴て心涼しき夕暮の空
と、御詠ありしとぞ、当御殿ハ、御用済て後も、五十年ばかりハ其侭にてありしなり、御殿番、二宮長右衛門、小川重左衛門といふ御家人相勤む、御給料、玄米二十俵づづなりけるよし、其後、国領半兵衛殿御代官のみぎり、天和三年、御殿御取払ひになり、右両人ハ甲州本洲の関所御番仰付られ、其両家、今猶本洲にありとぞ、また当御殿表御門ハ、坤位のかた往還の町屋と並ぶ、間数六十間、道幅三間一尺三寸なり、この処も、しばらく空地にてありしが、又々御用の砌りまで家作いたすべきよし、御支配の御沙汰に依て、貞享元年より相当の御年貢を上納し、百姓源右衛門といふもの初めて家作せり


蟻平稲荷社
西坂戸町の北裏にあり、元禄二巳年の勧請にして、平野氏これを祀る、此祠の中に、古くより蟻の蛭(たう)を組ことありしが、近此は年々に倍増して、今ハ祠のうちに満つ、本草綱目四十巻、蟻の集解に蟻ハ君臣の義を正す故に蟻虫と名づく、巣を組、蛭をたつ、これを蟻蛭ともまた蟻封とも呼と見へたり、此吉事ならんとて、夫より蟻平稲荷と称す、珍奇故茲に附す、因に云、上杉の麾下に北条丹後といふ勇士あり、戦場に用ゆる四半(しはん)ハ、一尺四方の練絹に墨にて蟻一匹を書り、謙信、これを見て余りに小さしと笑はれけれバ、丹後答て進むにハ一番鑓、退くにハ後殿を勤むるゆへ、小さしとも人の目に立告すべし、亦、蟻ハ小蟲なれども、義を守るといふ意なりといへり


甘糟屋敷跡
甘糟太郎左衛門ハ、玉縄の城主左馬之助氏時の長臣なり、大永六年霜月十二日、房州里見の大軍にあたり、血戦して戸部川に討死せり、西坂戸町なる北側柏屋某住居の辺、これ甘糟氏の宅地なりといふ、因に曰、永禄の比、大谷治郎右衛門といへる者、小田原北条に属して藤沢に住けるよし、駅路の鈴といふ書に出たれども、其旧地今定かならず


妙善寺
西坂戸町の北にあり、長藤山と号す、日蓮宗にして、鎌倉比企ヶ谷妙本寺の末寺なり、本尊日蓮大菩薩の尊像ハ、当院の開山長藤日聞聖人、身延山に登て、宗祖の像を安置せん事を願ふ、中老日法上人、一七日、勧持品読誦ありて彫刻し奉り、当院に安ず、此寺、初真言宗にして、愛染堂真蔵院号し、長藤法印ここに住持す、爾るに文永八年九月十二日の夜、日蓮聖人固瀬龍の口の死地にいたり、不測(ふしぎ)の神変ありてその法難を逃れ給ひ、相州依智の郷、本間六郎重連へ御預けとなり、依智に御移りの時、当院に御立寄ありてしばし御休息、昨夜剣難をのがれ、今朝恙(つつが)なく日天子を拝し、妙経読誦ありし旧蹟なり、住持長藤も、大士の高徳を仰ぎ、忽ち改宗して御弟子となり、日聞と号し其寺を宗流となせり、旧地ハ、八王子権現の坤位に隣れる処なり、これ御除地にして、今の寺院ハ中古の建立なり
鐘楼 門を入て右にあり、銘ハ、鎌倉極楽寺の鐘と同文なり、左に

長藤山妙善寺鐘銘
降伏魔力怨除結尽無余露地撃■(てへん+追)菩薩聞当集諸欲聞法人度流生死海聞此妙響音尽如雲集諸行無常是生滅法生滅々巳寂滅為楽一切衆生悉有仏性如来常住無有反易一聴鐘声当願衆生脱三界苦頓証菩提伏乞聖朝安穏天長地久伽籃繁昌興隆仏法十方施主現当二当心中所願決定員満
柳営沙門正覚日執欽而銘于時元禄七甲戌天九月日域相州藤沢長藤山妙善寺第九世中興開山諦応院日進造立之


正宗稲荷社
妙善寺の境内、門を入て左りにあり、当社の縁起を案ずるに、上古、相州の住五郎入道正宗、宝剣を鍛へし時の守護神にて、往昔三条小鍛冶宗近、尊神の加護に依て、世に誉れを顕わしたるを伝へ聞、正宗しきりに此御神を尊信す、時に後伏見院、正安元年二月、宝剣を鍛へて奉るべきよし勅命なり、然るに、この程五郎正宗、扁手(かたて)痛みて其業かなひがたし、依て増々祈誠を凝しけるに、不測や異人来りて相槌をうち、忽ち希代の宝剣を造りて叡感に預かる、茲において、鎌倉二の丸に社を造立す、後、正慶二年八月、兵火に炎上す、其頃、正宗の弟子綱広に、夢の中に告たまはく、我、近比法味に餓て、威力薄し、此度、火災に依て西の方にあり、汝早く尋ね来れよとなり、綱広大いに驚き、此処に来りしに、当寺境内榎の梢より夜々光りを放つよし、依て、綱広彼の榎に登りて、果して大枝の間より神像を得て、住僧と心を合せて、茲に祠を営み、正宗稲荷大明神と崇め奉りしとなり

泰二 此縁起を読で、深く疑ひ思ふ事あり、依て愚説を茲に附す、相槌の事ハ、巳に鎌倉今小路勝が橋の南に正宗邸ありて、茲に相槌の稲荷今に歴然として鎮座す、彼を虚にして、これを実にす、理において当らず、忝こくもこの尊神、法味に餓て法華読誦の声を聞まほしことならバ、日蓮聖人御説法最初の妙本寺もっとも近く、また剣難滅除の龍の口もまた遠からず、其余、法華の霊場星のごとくあるを顧みず、遙々辺境の一草廬に飛来り給ひしハ、神明頗ぶる不明に似たり、この縁起ハ、唯当社の由緒を重くせんとて、正宗の二字を牽施り、相槌の稲荷と混雑して、我が田へ水を引しものと見へたり、元来、釈尊の一代の御経、五千四十八巻、はじめ華厳経より無量義経までの五千巻を序文といひ、法華経八巻を正宗といひ、涅槃経等を流通といふ、これを一代三段序正流通と称する事、天台伝教の御釈よりして、宗祖大士の書にも出たりときけり、されバ、末法濁世の今日、一代の肝心たる正宗の法華、広宣流布の時なれバ、此正宗を守護する稲荷ゆへ、正宗稲荷と崇め祀りし事明々たり、論に及バず、勿体なくもこの尊神、不幸にして附会の縁起に神徳を覆ふ事幾百年、今日にいたり本源の光りを放ち、衆生を利益なし給ふこと、いといと尊とし、世俗の耳にハこの理通ぜずども、尊神ハ勧喜あるべし、我とし二十歳に満ず、黄色の觜を動かして、この道理を弁明する事、これ常時にあらず、さだめて神勅にもやあらんかと、憶せずしてこれを記す


常光寺
西坂戸町の南にあり、八王山摂取院と号す、浄土宗鎌倉光明寺の末寺なり、本尊阿弥陀仏ハ、長三尺の立像なり、この尊像ハ、安阿弥僧都一刀三礼の彫刻にして、もと鎌倉扇ヶ谷阿弥陀堂に安置し、将軍頼朝公尊信浅からず、後北条家も代々これを帰仰せり、開山上人、当山に移し奉る、また、当院御除地東西百五十間、南北百五十間、竹木免除、二反歩なり、当院ハ元亀三壬寅(申)のとし、明蓮社光誉上人始めて一字を草創し、衆生二世安楽の基ひを開き給ふ、在住二十五年、行年七十九歳を以て文禄三年甲午正月二十五日遷化なり、後、享保の比にいたり、稍荒廃に及ぶ、第九世心蓮社欣誉上人、鐘楼、本堂、表門等力を尽して再建に及び、享保十八年七月二十七日、七十六載(ママ)にて示寂す、これ中興開山なり、後、宝暦年間失火して、悉く焼亡す、同じく十二年、再建す、今の本堂、表門これなり、当院ハ幽寂たる勝地にして、廬山の白蓮社にも比するの仏境なり
観音堂 本堂の北にあり、正観世音菩薩、長三尺の立像にして、行基の作といひ伝ふ
鐘楼 本堂の側にあり、銘左にしるす

八王山常光寺鐘銘并序
静以梵鐘者称名誦経之奥止斉合粥喫之遅速遺迎鳴之緩急警衆因茲処由待之行者有十余人深阿世阿発起勧萬品民単抽懇念折仰現二世正運丹誠成就莫太願望而己於戯大聖垂慈愍功徳鋳金鐘■■■王鋤輪劇苦忽脱南唐李帝累械重偉頓觧一聴鐘音■専覚妄夢来禽獣龍蛇魚貝虫羽毛鱗甲蠢霊等都無不秡済也成聲仏事得新圓通耳根清浄動静常往銘曰
八王山護 常光寺■ ■鐘新掛 鷲峰古処
響応遐邇 律調愚賢 昏速救迷 晨忽覚眠
上到有頂 下徹黄泉 化西弥益 仏閣安禅
檀寿保永 子孫殷堅 天長地高 地久久全
仰於 天子萬歳 台齢千秋于時萬治二天巳
亥孟夏吉辰


亀女の墓
常光寺の後山、卵塔場の中にあり、この女ハ、西坂戸町に住居したる福井某の娘にて、容顔麗わしく心操(こころばへ)もいと風雅く、そのころ美人の聞へあり、近郷の農家にも、藤沢の阿亀(おかめ)と麦搗(むぎつき)唄にも唄ひけるとぞ、短命にして、十七歳の時百日咳を煩らひ、身まかりけり、石碑にハ地蔵の立像を彫り、側らに寛文五年乙の巳九月十五日とあり、今に、咳に苦しむもの祈願すれバ験しありといふ、実に一笑千金の婢娟(たをやめ)なりし風姿も、今ハむかしとなり、賢こきも愚なるも同じ野外の塵となり、何れをそれとも尋ねわびぬるばかりなり、或人の俳句に
焚きバみなおなじ烟りの落葉かな
と、聞へたるもあわれいとふかし


八王寺権現社
常光寺の後山にあり、祭神ハ国挾槌(くにさつち)の命にして、山王権現の御子なり、山王ハ祭神大国主尊にして、国挾槌の御父なり、父子の御神ゆへ、山王を祀る地にハかならず八王寺を祀る事なりとぞ、これハ武蔵坊の(を)霊を祀るよし里俗ハ称すれども、これ義経(ぎけい)白旗の神に対して、合殿に祀るなるべし、当地は、四社の宮免一町一反歩のうちなり、四社といふハ、当社および白旗明神、山王権現、壁土山の側らなる大神宮なり、今ハ真言宗荘厳寺にて別当すれども、既に常光寺を八王山と呼を見れバ、正しく常光寺地主の神なりやとをもはる


冨士見山
常光寺の南にあり、古松四五株ある芝野なり、毎年正月三日の朝、富士信仰の族ここにつどひ、神■(みかがり)を焚て富士を遙拝する事なり、このところ風色鮮明にして、富士ハ乾位の方にあたりて足柄・箱根・雨降・丹沢の翠巒を抜出し、峯ハ時しらぬ雪をいただき、四時の眺望またいはんかたなし、石川丈山が白扇倒まにかかる東海の天と賦せしも、この地の風物とおもはる


荘厳寺旧地
常光寺の西、妙善寺旧地の山下なり、境内一反三畝歩の御除地なり、久代元暦元年甲辰の開基より、元文の比にいたるまで、五百有余歳、高徳の僧都かはるがはる住職し、密法修練ありし旧地なり、中古、寺を白旗神祠の山下に移し、其後ハ元屋敷と呼で今ハ一宇の草堂のみ残れり


永勝寺
仲の町の南にあり、法谷山祥瑞院と号す、一向宗にして、本尊阿弥陀如来正覚の像を安ず、また太子堂に安置し奉る聖徳太子の尊像ハ、宗祖親鸞上人の御作の霊像なりとぞ、在昔、大善智識親鸞上人東国御遊化の時、北条家において深く上人の道徳を随喜し、鎌倉常盤の里に堂宇をいとなみ、一向堂と称し上人この処に御止錫なり、後享禄年間、鎌倉兵乱に及び、堂宇残らず兵火にかかり炎上す、茲において御笏子貞(ママ)海法師、しバらくその闘淨(とうじょう)の乱を避て寺を藤沢に移し、一向専念他力本願の本基をこの地にひらき給ふ、当山永勝寺これなり、誠に五百年来の古名跡にして、山林幽鳥の囀(さへず)りまで凡ならず、紺瑠瑙地を踏のおもひあり、この門前永勝寺横町ハ、鵠沼村神明宮また固瀬・江の島それぞれの通路にして、砥上が原、八松原の名所も茲より入を順路とす
鐘楼 門を入て右りにあり、銘左に記す

法谷山永勝寺洪鐘銘并序
蓋我永勝道場者古跡宗祖聖人掛錫之地而法流盈於寰宇伝燈輝於東関其時北条氏欽服渇仰之余胥攸鎌倉結宇搆堂法輪盛転奈何享禄之乱堂宇為兵燹延焼焉剰奪洪鐘■以為軍器而逐無知其所在也爾後真海法師興中而改基於藤沢再建堂宇唯闕洪鐘矣至是現住恵俊乃議重鋳洪鐘普壇門遂依自他施■(口+親)不日成之抑洪鐘之為功徳也昔仏在世新懸洪鐘於祇園精舎盡夜六時鳴之純演法音上到悲想下徹無間偏令衆生發覚昏沈之眠打破無明之闇觸目響耳筍■之力蒲■之聲悉是無不仏之他力無量功徳何其言乃敷事耶銘曰
閻浮誘導 教在音聞 矧我宗極 信是自聞
寿尊名称 十方咸聞 衆之形之 洪鐘發聞
破無明聞 何弗憑聞 寛政三辛亥九月二十八日当山
現住釈慧俊再之


神明宮森
鵠沼村にあり、森のうちに、神明天照皇太神鎮座まします、当社ハ、むかし奈須与市宗高、元暦の闘ひに扇の的を射る時、一心に天照太神を祈念し奉り、難なく其的を射て落し、誉れを一天にあげしより、常陸国真壁郡に母方の所縁あるに依て茲に太神宮を勧請せりと云伝ふ、その時の弓なりとて、農家に伝来す、また、この森の辺を奈須野とも呼で、この原の雲雀ハ、野州奈須野にひとしくて他所の産よりハ声うるハしく、御片脚短かきを証とするよし、我去ぬる年駿河の駿東郡原の駅に遊びし時、鳥を飼人の物がたりに聞けり


八松原
辻堂村東分なり、源平盛衰記にも見へたる古き名所なり、愚按ずるに、八松と云ハもと八的にて、鎌倉繋昌の比八的の稽古ありし事、東鑑にも往々出せり、第一に下針(さげばり)、第二かうがへ、第三草木の葉、第四総(ふさ)、第五貝殻、第六畳紙、第七四半(しはん)、第八踏(くつ)を立る、これを八的と呼で弓勢を様(ため)したる事、当世鉄炮御様(ためし)御用あるに同じく、その射術を調練したる場所ゆへ、八的が原といひしなるべし、鎌倉松葉が谷も、奈須与市彼所に屋敷跡のこりて、その時的場ありし故に、的場が谷といひしよし古老いへり、これも同日の論なり、八ツ松稲荷今に存せり、また加茂の長明が歌に
八松の八千代の影におもなれて砥上ヶ原に色も替らし


固瀬川
水源二流なり、一流ハ藤沢喜久名橋を流れ、音なし川といひ、一流ハ戸塚より戸部川となり、二流川名橋の辺に会し石神を経て固瀬川とて海に入る、惣じてこの海岸通り、鎌倉盛んなりし時京都への通路にして、極楽寺口の切通しより七里が浜、腰越の宿、固瀬を歴て此川を渡り、円蔵村にかかり馬入川にいたる、これむかしの往還なり、円蔵ハむかし■島(ふところしま)と呼ぶ、そのころの狂歌に
腰越てかたせを通るのみ虱み■島や宿り成らん
昔日青砥左衛門藤綱、北条時頼に召れ重き政道の任を蒙むりしも、この固瀬川にて牛の尿(いば)りするを見て、北条殿の仏事せらるるハこの牛の尿に似たりといはれし一言によれり、また大庭景親を此辺に獄門にかけし事も、東鑑に出たり、宗尊親王京都に皈り給ふ時
帰りきて又ミん事もかた瀬川濁りし水のすまぬ世なれバ
又藤原為相卿の詠に
打わたす今や汐干のかたせ川思ひしよりハ浅き水かな


砥上が原
固瀬川の西の海辺すべて砥上が原なり、この地佐々木某殿御預所にて、五ヶ年目にハ御鉄砲、大筒、火箭、地雷火、狼煙等御様(ため)し御用あり、夏百日を限りとす、この事享保年中よりはじまる故に、里俗ハ鉄炮御場所と呼ぶ、むかし西行法師茲を過るに、野原の露のひまより風にさそハれ鹿の声の聞へけれバとありて
柴松の葛のしげみに妻こめて砥上ヶ原に子鹿鳴なり
こは西行物語に見ゆ、また為相の歌に
立帰る名残ハ春に結びけん砥上が原の葛の冬枯
また加茂の長明が
浦近き砥上が原に駒とめて固瀬の川を汐干をぞ待


袂が浦
固瀬川の東、江の嶌の前をいふ、これより腰越浦を唐土(もろこし)が原といふ和歌の名所なり、この海辺、すべて江の浦といふ、江の浦の嶋ゆへ、江の嶌と名づく、堯恵のうたに
散さじと江の嶌人やかざすらん亀の上なる山桜花
なびきこし袂が浦のかひしあらハ千鳥の跡を絶す問なん


乳母島
この海辺を西に去事一里ばかりにして、海中に峨々たる巌石突起す、その高さ七八丈、紆曲屈伸、竪に割たる法螺貝の片われを視るがごとく、奇観いふばかりなし、形に依て、筆嶋とも呼、本名、御根と称し、尾根大明神を祀る、我考がふる一説あり、尾根ハ御根(おんね)にて、当相模国の根の盤石の、片はしの現はれたるならんか、大山石尊といふも、雨降山の絶頂の土崩れ、わずかにこの地盤の山骨あらはれたる、これを尊とみ、石尊宮と祀る、されバ山に在てハ石尊宮、海に在てハこの御根の御神こそ、当国の根本と崇めまつるべき道理なり、今ハこの社もたびたび風波に荒るゆへ、小和田上郷に遷す、この社内に、昔より伝へたる歌
相模なる小和田が浦の乳母が嶌誰をまちつつ独寝(ひとりね)をする
この嶌根、大小ふたつの大巌の根廻り広く、平岩・沓岩・鯨通しなど名付るところ有て、その外高低の巌石海中に隠顕し、すべてこの裾岩の廻り一里有余と云り、長閑(のどけ)き春の汐干にハ岩根ひろくあらはれ、鮑とる海士(あま)、栄螺(さざえ)つく童子、みなこの磯の風景にして、東にハ絵の嶌、鎌倉山、固瀬の漁村、西には富士、足柄、二児の山々、伊豆の岬、葉嶌(はしま)、大嶌まで、鴎の沖に遊ぶがごとく波間がくれに見わたり、誠に当国美景なれバ、文稚の輩ハ弥生の比を待て渡海し、巌間に酒をあたため鮮魚を切て、吟詠するものも多しと聞り


山王権現社
宿内領家町坤位(ひつじさる)の山上に鎮座す、石階二十一級(だん)にして石の鳥居あり、また登る事五十三級にして本社にいたる、祭る神ハ、大国主命なり、もと当社ハ藤沢宿最初の惣鎮守にして、寛永十一年の夏、この地に御選座なり、末社に稲荷、金比羅神、三峰の三社あり、社地ハ、四社の御除地一町一反畝の内なりとそ


真源寺
台町の丘にあり、風早山高松院と号す、浄土宗、同駅常光寺の末寺なり、開山願誉秀政法師、元禄十年丁丑(ひのとうし)五月十日に遷化す、境内、すべて御除地なり、霊作の本尊、その外什物等、文政三辰二月出火してことごとく焼亡す、今の本尊ハ阿弥陀仏の立像なり
鐘楼 鐘の銘、左にしるす

風早山真源寺鐘銘并序
相州高坐郡藤沢駅風早山高松院真源寺者山縁山大僧正学誉冏■上人中興開山之道場也当昔為■妣鋳鴻鐘雖懸楼損壊既有歳矣今予雖欲為再建空鉢資乏非可輙金(企)無十方助力則功難成也仍有信善男善女共霜雪■■炎暑擔笠分衛都鄙抖■廣■券遠近鄰里之浄財再調振於梵鐘而巳銘曰
改鋳鴻鐘 懸真源楼 崇徳撃■(てへん+追) 声合耳識
横竪斉響 抜苦与楽 法界円融 化益無窮
時安永十辛丑二月艮辰


白籏明神社
鎮座まします山を亀の尾山と呼、前を流るる川を、白籏川といふ、左りに弁慶松といふ千載の古木あり、それより石磴(さか)をのぼる事三十五級にして、小しの平地に大石あり、是、むかし社の跡といふ、また十七級登りて、本社にいたる、社地ハ、四社の宮免(みやめん)一町一反歩の内なり、抑も当社の縁起を考れば、鎌倉右大将の御舎弟、従五位下伊予守源義経、御兄の勘気を蒙り、文治五年閏四月晦日、奥州衣川の舘において御自害あり、同年六月十三日、奥州より新田冠者高平を使として、義経公の御首を鎌倉におくる、高平、腰越の宿に着し、事のよしを鎌倉へ注進す、これに依て、和田小次郎義盛、梶原平三景時を以て、首実験に及びたるよし、東鑑に見ゆ、その比、藤沢の河辺に金色なる亀、泥に染たる首を甲に負ひ、出たり、里人驚ろき怪しみけるほどに、側らにありける児童、忽ちに狂気のごとく肱(ひじ)を張、我ハ源の義経なり、薄命にして讒者(ざんしゃ)の毒舌にかかり、身ハ奥州高舘(だち)の露と消るのみならず、首をさへ捨られて、怨魂やるかたなし、汝等、よきに弔らひくれよ、といひ終て倒れぬ、諸人恐れて、これを塚となせり、これより、鎌倉御所に於て義経の怨霊さまざまの崇りをなして、右大将を悩ます、これに依て、首塚の北の山上に社をいとなみ、神とし尊とみ御法楽ありける、その時、鎌倉の在勤の諸侯もこれを尊信し、社の東にハ諸木、西にハ松を植て奉納ありしよし、社説に見ゆ、中古にいたり、坂戸町名主加藤惣左衛門勤役中、宝暦二年、御旅所初めて建つ、同七年、江戸神田神輿屋六兵衛をして、白木にて神輿を造らしめ、初めてこれを渡す、享保年中正一位に叙し奉り、当坂戸町一円の惣鎮守と仰ぐ、神徳霊応日々にあらたにして、亀の尾山の末ながく、氏子を守護なし給ふ事いと尊し
因にいふ、慶安太平記に、されバ由井民部正雪ハ、当七月廿六日の夜、江戸・駿府・京・大坂を一時に焼討んと手分十分なり、中にも正雪ハ駿府表の大将として千余人の軍兵を卒し駿府在番諸士の武具を奪ひ取て、久能山に立籠り、宇都の谷嶺(とうげ)に打て出、西国の通路を塞がんと、明れバ慶安四年七月廿一日江戸を発足し、主従十一人同勢二百八十人、紀州御舘の家来と偽り、行列正しく乗物静かにつらせ、其夜ハ藤沢に一宿し、明る廿二日未明に茲をうち立に、壷内左治馬はるかに指さし、あれハ何所やらんと問、熊谷六郎左衛門答て、あれハ白籏の森なり、といふ、正雪駕の内にて語りけるやう、これハむかし九郎義経奥州高舘にて御自害あり、義経并ニ弁慶の首を鎌倉に登せけるが、このところのものども神に祝ひ奉り、白籏明神と崇めたり、霊験いまにあらたなり、と語りぬ、それより駕籠をはやめける云々


義経首濯井
白籏横町のうちにあり、文治五年の夏、彼の義経公の御首をあらひ清めし水といふ


礼拝塚
同所御旅所の傍らにあり、義経公の首をこのところに埋め、塚とし、村人うやまひおそれ、往来にもかならず礼拝せしより此名あり、上古ハこの塚の上に大木の松ありしが今ハ枯失たりと老人いへり、一名首塚とも称す、前条首洗ひ水またこの首塚と云に付て、泰二発明の一説あり、茲に附す、永享八年二月十一日、足利六代義教将軍の命を受て新田の余類を対治せんと、平井加賀守広利、三千の兵を卒し京都を打立、第一に世良田蔵人政親を三州松平村にかくれ居たるを生捕、また桃井満昌を正行寺にて搦捕、児玉貞政を奥平村にて捕へ京都に連帰り室町の■に入置けるが、この三人とも、五月三日にハ三条河原にて首刎らるべきに定まりける、然るに平井広利ハ情ある人にて、幸わひこの程遊行上人在京なるにより、平井ひそかに上人に逢奉り、彼の三人の命を上人の御了簡(けん)にて助けて給へとありけるにぞ、上人も哀れにおぼしめし、翌日弘阿弥といふ法弟を以て将軍義教公へ告し上るやう、三州の囚人三人、近日御刑罸のよし、それに付、上古頼朝公の弟の首をバ朱塗にして、藤沢へ獄門にかけたる事あり、これハ朝敵なれども、同じ氏の者をバ斯する事、古例なりときけり、されバこのたび彼の三人の首も、朝敵なれども同じ源家の一族なれバ、古例に任せらるべしと言上す、将軍聞し召、もっともなりとて朱塗の獄門にすべしと定めらる、これに依て、平井広利、よろこんで余の罪人の首を獄門にさらし、ひそかに三人を助命なしたるよし、並合記といへる古代の軍記に見へて、証とすべし、この時、遊行十六代南要上人なり、これを以て考ふれバ、義経公の首を朱塗にして、この地にさらしたる事明白なり、首洗ひ水、首塚、すべてこの辺義経公の古跡なる事論をまたず、この並合記の説、東鑑の漏たるを補ふといふべし


荘厳寺
領家町の北三町にあり、白王山盤若院と号す、古義真言宗、同宿瑞光寺の末寺なり、本尊不動明王、御長一尺八寸、両童子の像ハ、長七寸、ともに運慶の作なり、当山ハ、元暦元年、覚憲僧都はじめて堂塔を草創せり、後、寛喜・貞永の比大いに■廃す、応量坊と云る人、嘉貞元年を以てこれを再建す、これ、中興開山なり、後、五百三年を経て元文元年、火災にかかり、諸堂什物塵もととめず焼亡せり、宝暦年間、この地へ移し再建して、白籏神祠、八王寺、山王宮の別当たり、彼の旧地は、今本屋敷といふ
鐘楼 鐘の銘左に記す

白王山荘厳寺鐘銘并序
夫雲雷皷則震音於閭闔飛響於八紘鴻鐘發則驚長眠於沙界蒙巨益於群類是則所以没駄之妙用而緇素之鑚仰也粤有一宇梵刹翠観■(にんべん+霞)閣■■于樹頭暁山夕林雖事誦経而未桂梵鐘爰足発揮于遐方如爾所以新鎔洪鐘一口而伝蒲■之響則豈不可乎夫■(てへん+追)者所以猊孔乎遐邇而驚昏迷昭制禁攘衆殃也我豈可亟円焉乎遂使告郷縣之善士等尽■倒嚢中余長且観券近邑檀助遂果其志願屬治工之善範囲者既筍■之矣冀憶兆萬歳永振厥聲以息劇苦以觧倒懸於茲欲嘉檀信之高志漫揮樗材援毛錐而為之銘々曰
鐘磐一打 上徹天宮 下震地府 苦類所息
■尼免剣 業障奄碎 覚悟狂醉 同証一阿
時明和第三星次丙戊三月 現住法印頼雄


本入臺太神宮
白幡明神の艮位、山上にあり、森の中に叢祠あり、何れの時代の勧請なる事をしらず、感応院これを別当す、御棟札にハ、元禄十六年癸未六月吉辰これを再営す、大久保町・大鋸町惣氏子中とあり、当社地ハ、下畑四反四畝十八歩、但し分米一石三斗三升八合、感応院に書付あり、御伊勢山為御供免訴訟仕御縄除申候、承応三年午八月十八日、清田次郎左衛門、杉山次郎兵衛、蒔田八左衛門、金井善兵衛としるし、連印あり、これハ、成瀬五左衛門殿御代官の時なり、かかる霊社も、社頭つねに荒廃し蔦葛(つたかずら)神扉をとざし、詣人いと稀なり


新八谷
御伊勢山のつづき、四町にあり、一町ばかりの敷地にて、井戸も残れり、天正十八年、豊臣小田原征伐の時、池田民部常斉(とき)ハ、松田右兵衛太夫清秀等と倶に豆州山中の城に楯籠り、秀吉を防ぐ、敗軍に及で北条氏勝と同じく玉縄に退ぞき、民部ハ茲に蟄居す、新八は其名なり


幡随意上人誕生地
白籏明神の北、善行寺村なり、今、其家ハ伴右衛門といへる農民にて、姓を川嶌氏といふとぞ、師ハ、天文十一年壬寅十月十五日を以て茲に生る、幼稚の時、仏像を礼し僧を敬ふ、九歳の時、出家せん事を願へども両親これを許さず、既にして十一歳、竟(つい)に同国玉縄二伝寺に入て、範誉上人に従て落髪す、爾してより処々を経歴し、歳を遂て学行道徳天下に比類なく、慶長七年京都知恩院に住職し、参内して御経を講じ、叡感浅からず紫衣を賜ふ、同九年、関東の招きに応じ、下向して幡随意院を開基す、同十八年、蛮夷の凶賊九州に起り、耶蘇宗門の邪教をひろむ、されバ、一々にこれを捕へて刑罸すれバ、国中の人を鏖(みなこ)ろしにすべし、これ、高僧に命じて教導せしむるに如ず、当時、幡随意其器量にあたれりとて、神祖東照宮、直ちに召れ台命し給ふ様、我聞、仏法ハ国の守護なりと、今度師の正法を以て彼の邪教を退治して、国家を擁護せよ、これ邪法征伐の首途なりとて、御手づから蜀江の陣羽織と金の軍配団扇とを賜ひ、即時に九州に下向有て、処々に法莚をひらき浄土門の法籏を翻がへして彼の邪法を説なびけ、数度の宗論一度も後れをとらず、九州一円、刃に血塗らずして忽ち正法に帰し、仏門の大功一時にあらはる、これ、御年七十二歳の時なり、一生の間に大小の寺院を開基する事、数百ヶ寺、一日、微疾(びしつ)ありとて上足の弟子意天和尚を召て、宗要を伝法し、安座して筆を求め
白道運歩数十年 以火消火難思術
と書終り、筆を擲(なげ)、合掌して化す、時に寿算七十四、元和元年乙卯正月十五日なり、世に幡随意白道和尚と称す、■しくハ行化伝に見へたり


西之土居
往還、台町にあり、当宿西の入口、十二町十七間の端なり、これより西の方、両側坂戸分、御並木北側三百九十四間、此ところ石名坂入口、御支配の堺杭あり、これより引地橋まで、稲荷村分なり、南側同じく坂戸分、御並木九十四間にして、次引地橋まで、鵠沼上村分也、この町屋を車田とよぶ、江の嶌脇道あり、中古まで、台町より車田の辺、多くハ風早とのみ唱へたるや、元政上人の身延紀行に、藤沢のこなた風早といふ処より入りて、龍の口にいたると見へたり


■城塚
西の土居より南、小高き丘山に松二、三株あり、これを■城塚といふ、また、この前の窪かなる処を酒盛場と呼伝ふ、この地ハむかし■城場ありし地といふゆへに、今の車田といふ字も、廓田の誑りなりとぞ、その証定かならず


引地橋
往還にかかる土橋なり、鵠沼・稲荷・折戸・羽鳥四ヶ村の預りなり、橋を渡り、右側すこし稲荷分、養命寺の辺にてハ折戸村なり、左り側四谷まで羽鳥村、この辺すべて大庭の庄と云ふ


養命寺
引地橋を渡り、街道の右にあり、禅宗にして、大庭村蟠龍山宗源院の末寺なり、本尊薬師如来ハ、座像、長三尺、昆首羯摩の作にて、天竺像なり、脇壇の日光月光両菩薩及び十二神ハ、ともに運慶の作なり、当時ハ無双の古霊場なれども、上古火災に罹り古文書焼失して、その記伝あらず、この時、本尊、脇士とも不測にも火中を飛出、後の山松の樹のもとに在して、災を逃れ給ふ、当山ハ、鎌倉治世の頃、大徳の高僧在て開かれたりとのみ聞伝ふ、案ずるに、西行の撰集抄に、延文の比相州大庭に道徳不思議の僧ありと書れたるハ、定めてこれなるべしとハ思へども、其名さへ伝はらず、惜むに堪たり、天正の比、宗源院の暁堂和尚これを再興して、末寺とす、夫よりこのかた、門を構へ鐘を鋳て、今の結構をなす、本尊薬師仏ハ天竺国の霊作にして、二六の本願むなしからず、利益今尚あらたなり、■しくハ、当山の縁起、面山和尚の筆に出たり
鐘楼 鐘ハ楼門の上に掲く、銘左に記す

養命寺鐘銘并序
竊以索訶衆生皆従耳根而入円通此是楞厳合上観音大士之本誓也仏門大鐘之設蓋始于茲焉相州高座郡大庭庄養命精舎本為些兮村寺蟠龍山之樹海尊宿勤読妙経五千部而建立宝塔二基以培菩提樹根更中興比寺新建諸堂乃請其徒梅薫力主開法于茲焉薫公新鋳大鐘掛之堂(楼)上以醒六趣之幽夢可謂仏門功勲至矣頃偶訪余武府萬年山之僑居而乞之銘随喜余卒為之銘曰
相州伽藍 号之養命 梅尊中興 法則維正
薫公鋳鐘 仏家号令 声響晨昏 耳根清浄
六趣群生 入流見性 真俗信帰 遠近恭敬
檀家消■ 山門増慶 無上菩提 本末究竟
宝暦十三年癸未三月吉日前永平伝法沙門瑞方面山撰


本願寺
引地橋の北二町、稲荷村にあり、往生山称名院と号す、浄土宗、鎌倉光明寺の末寺なり、本尊揚柳観世音の座像、長八尺ばかり、慈覚大師の御作なり、当院ハ、むかし後醍醐帝の御時、天変地妖年々に多く、疫病大ひに流行し、人民死亡その数をしらず、帝はなハだ歎かせ給ひ、元亨元年七月三日、京都知恩院第八世善阿空円上人に詔のり有て、万民安全の法を修行せしむ、空円上人はすなわち百万遍の大数珠を多く造らしめ、諸国に念仏を唱へしむ、爾るに悪病消散せしにより、寺を百万遍と勅号し、叡感のあまり、禁裡の御重宝たりし弘法大師利剣の名号を賜ひけり、この空円上人の上足善阿上人、彼の大数珠と楊柳観音を受来りて、茲に一寺をひらき本願寺と号す、その大数珠今に伝来して、近郷近郡利益を蒙むる事、むかしにかはらず、この寺ハ、天明元年七月十七日、数日大雨して側らの山崩れ、堂宇微塵になりぬ、また、天保五年にも火災あり、この両度の難にも大数珠と本尊のみはつつがなかりしも、これまた不思議のひとつなりといふべし


大庭城跡
大庭村にあり、上古、大庭三郎景親この地に居住せしに始まり、後代、管領山内顕房が居城となり、このとき全く城廓を補理すと見へたり、また北条五代記に、小田原落城の時、同国大庭の城も同時に攻落すとあれバ、この比ハ小田原の要害なりしと思はる、その城地のすがた、東南高土手にして涸堀あり、城下ハ耕地にして、引地川の流れあり、里老の伝聞に、むかしこの耕地ハ一面の湖水なりしが、城攻の時寄手の大将攻あぐんで、一人の農夫を召、地理を尋ねて東の海岸まで一道の川を掘割り、一瞬間に水を引落し、城下忽ち陸地となり、当城即日に陥いたりと、これいづれの時代の合戦にやいまだその証を得ず、川を引地川とさへ唱れバ、前の里諺もちなみあるに似たり、また赤羽根村といふも、彼の湖水より一筋の川通じたる故、むかしハ阿伽吐村と云しとぞ、阿加とハ、水の事なり、今も赤羽根村に、その時水門をあづかりし旧家あるよし、その地の人語りぬ
 

我がすむ里 下之巻 終


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