我がすむ里

巻の上








相模州藤沢駅 無逸小川泰二編輯


本朝七道之大略
吾が皇国に五畿七道と聞えたるは、帝王数代にして漸く定まりたる事と見たり、その始め人皇十代崇神天皇の御宇十年の秋、詔りを下して四道将軍をさだめ四境の乱離を治めしむ、この時東海道には、武渟川別(たけぬかわわけ)を下して万民の消息を察せしめ給ふ、東海北陸の名はじめて此時に見へたり、後十二代景行天皇五十五年、東山道の名あり、四十代天武帝白鳳十四年の九月、畿内及び東海・東山・山陽・山陰・南海・北陸・築紫に使者を下すと旧史に見たり、この時猶いまだ西海道の名あらず、只築紫とのみ記す、四十二代文武帝の御時、博士を六道へ遣わす、これ新令を伝ふる為なりと有て、分註に西海道を除くとあれバ、総て七道と定めたりしは、此御時と思はる、文献通考には、五畿七道の内、凡三千七百七十二郷、四百二十四駅、八十八万三千三百二十九課町と記せり、就中この東海道は、景行天皇四十年冬十月朔日、日本武尊勅命を蒙り、東夷征伐のため草薙の宝剣を振て武徳を駿?に耀(かがや)かし、夫より進んで当相模の国大住郡雨降山の絶頂に日月の王旗(みはた)を翻し、夫より東夷を始めとして蝦夷の千島まで切従がへ、四海皇徳に靡(なび)きしより今に至るまで一千七百二十五年、彼の草薙の余光一天にかがやき、万民その御蔭に戸ざしを遺(わす)れ身を泰山と唄ひ楽しむこと、また類ひなき聖代(みよ)になんありける、また関の東を吾妻と称し来りし事は、日本武命この相模より上総に御渡海あらんとせしに、俄かに波風たちてすでに王舟(みふね)を覆いへさんとす、その時御供に在(まし)ましける御愛妾橘姫宣(のたま)ふやう、今濤(なみ)あらくして王船を傾けんとす、これ竜神の所為なり、願くは妾この海に沈んで生贄となり、王身(おんみ)を■(けものへん+恙)(つつがな)くせんといひ終りて、波の底に沈み給ふ、風波忽ちをさまり王船彼の国に着給ふ、そののち奥?より御凱陣の時碓日嶺(うすいたうげ)に登り、遙かに東の海を顧りみ給ひ橘姫の事を思し出られ吾妻哉々(あづまやあづまや)と三度まで歎き宣まひし、これ関の東を吾妻といひ風俗(ならわし)たる、所謂は斯としられたり、又往還駅宿にて馬に鈴をつくる、これを駅路の鈴といふは、孝徳天皇の御時初めて関々宿々を定め、駅馬伝馬に鈴をつけたるよし日本記に見えて、古歌に
 神もさぞ降くる雨を篠塚や駅(むまや)の鈴の小夜深き声
   逍遙院
 旅人の山路経わぶる夕霧に駅(うまや)の鈴の音響く也
   衣笠大臣
天子より七の鈴を七道の国の司に賜ひ、其年々の貢物を馬に負せて帝都(みやこ)に送る時、又は公卿の御方参勤交代の折、この鈴を馬に附るゆへ、鈴の音聞ゆれば夜半にも関の戸をひらき、宿々にハ駅の長の送り迎へせし事とぞききぬ、されバ日本の七道ハ唐の十道、宋の二十三路にもをさをさ劣らず、中にも東海道は、外の六道にすぐれ公卿の勅使諸候の参府ひきもきらず、貴賤往来間断なく、実にや四海平穏にして、億兆の春をかさねんとこそ見にけれ、既にこの東海道の名ありてより一千九百十九年に及べども、正しく五十三宿と定められし事ハ、神祖御入国己後の事なりとぞ


相模国大略
当相模国は上管八郡、中の下国高十九万四千二百石、田一万千四逆三拾六町足柄上郡・足柄下郡・綯岐(ゆるぎ)郡・大住郡・愛甲郡・鎌倉郡・三浦郡・高座郡の八郡外に津久井県これを合せて一国と定む、和名抄に、相模また佐加三、また佐賀牟とも書す、古事記日代の宮の段に、弟橘比売の歌に、佐泥佐斯佐賀年能遠怒邇(さぬさしさがむのをのに)とよめり、また同書に、倭建命足柄の坂本にいたり御粮を食(きこ)しめす、其地の神白き鹿と化し来るを打殺し退治して此国を領給ひしとあれバ、此辺足柄の坂に古くより神の住居て我が有(もの)とし領したるゆへ、坂神の国といふを中略して相模といひならはしたるものなるべし、此事、諸国名義考といふ書に記して明白なり、伊勢の本居ハ、武さしもの国、むさかみの国とて上下両国なるを、下略して武蔵といひ、上略して相模とよぶなりと論ず、猶牽強(こぢつけ)の弁に似たり泰二愚案には、日本武尊初て当国に入給ひ、雨降山の絶頂より国中を東南に見渡したりし時、片下りに見ゆる国故にさがみの国と呼始めたるなるべし、今彼の山に登りて一望して古意を知るべし、当国の惣社寒川明神在すが故に高座(たかくら)郡といふ、高御(たかみくら)座とハ神の御座所をいふ、今ハ高座(たかざ)郡また高座(かうざ)郡などよぶ、古言に戻るといふべし、また此国都会の国府は大住郡にあり、今ハ偏小の孤村なり


藤沢駅大略
此藤沢の開闢し事ハ何れの時と云事を志らず、愚考ふるに、人王八十二代後鳥羽院の御時、建久四年発丑三月右大将頼朝卿、藤沢次郎清親に奉行せしめ、藤沢の谷に神居の地を占、三嶋明神の祠を造営ありしこと、三嶋山の旧記古文書に見たり、総て当地は、樹木生茂り森々たる溪澗にて、三本松虚空蔵山より藤の蔓(つた)生出て、此処の桧、彼処の椙に這■(夕+寅)(まつは)り、遙に音なし川の流をさへうち越て、金砂山の藤塚に及ぶ、藤塚藤松の名、今に存せり、斯まで藤の茂り合たる沢ゆへ藤沢とは呼なしたるなるべし、次郎清親も?に住しゆへに、藤沢次郎といひしならんか、また東鑑を案ずるに、順徳帝の御宇、建保四年丙子の春、右大臣実朝公夢想に依て唐土に渡らん事を企て給ふ、将軍家御渡海の事容易ならず、先材木を■(木+?)んて堅固に御乗船を造るべきよし仰ありて、諸職人を召て御尋ありけるに、此鎌倉より戊亥の方僅数里にして谷々に結構なる良材あるよし上聞に達し、早急数百人の人夫を催促し、夜を日に継で材(き)を伐り、これを筏に組で溪(たに)川を下し、由比が浜において程なく御座船出来せり、然れどもその般広大堅固にして重くして、海に啣(おろ)せども浮まず、評議区(まち)々なるうちに、故有て将軍家入宋の沙汰も休たるよし見へたり、案ずるに彼の材木を伐し地(ところ)ハこの藤沢にて、今に船久保・大鋸等の町の名に残れり、天地も老ぬれバ山川の姿自然に改るの道理、今を以て五百年前を語るべからず、其材木を流したる谷川も、今の音なし川なるべけれども、惣じて山中樹木繁茂する時ハ、清水処々に涌流れて溪川水多く、樹木■(立+易)(つく)る時は水脈乏しく川水をのづから浅し、此音なし川もその頃いかなる大河にやありけん、知るべからず、当地の闢けし模様ハ、船久保・瑞光・大鋸・大久保・坂戸と次第に人家を営みし事と見たり、既に仲の町より上の方ハ、享保年中までハ坂戸新宿とよびて家居も稀なりしとぞ、又太平記に、新田義貞六万七千の勢を引て鎌倉を攻たりし時、元弘三年五月十八日巳(み)の刻、藤沢をはじめ五十余か所に火を放つと見へたれば、藤沢と呼で人の住居せしも年代久しき事と覚ゆ、彼の右大将家勧請の三嶋明神は、今に感応院の境内に存し、海上守護船玉の神社も歴然として船久保町に立せ給ふ、抑も京都三条大橋より江戸日本橋まで五十三駅、行程(みちのり)総て百二十五里十三町七間、これを東海道と号す、此藤沢の宿は、京都を東に去事百九里二十七町第四十八宿目にあたる、江戸を西に離るる事十二里十二町にして、鎌倉郡・高座郡の両郡に属す、鎌倉郡及び当藤沢辺までも寛永年中服部惣左衛門殿御代官の比までハ東郡と唱しとぞ、総て一宿三分に別れ、又東の端に藤沢山領あり、坂戸町四百十間、大久保町百五十五間、大鋸町百二十六間、藤沢山寺領四十六間、都合土居より土居まで十二町十七間、宿高惣じて一千五百五十九八斗四升にして、内六百四十七石七斗一升八合坂戸分なり、五百四十三石七斗五升三合大久保分なり、三百六拾八石三斗六升九合大鋸分なり、総じて藤沢の分地、東西二十三町南北二十一町余なり、御伝馬として馬百疋人足百人ヅヅ、日々徃還の御用を勤め、其余東西定肋郷、村数四十九ヶ村一万四千二百四十石、加肋郷村数二十一ヶ村惣高七千九百四十七石、此定加の両肋郷を以て当駅の公務を扶くるなり、総てこの藤沢の地盤は、分地偏狭なれども海岸を北に去事一里有寄(余)にして、大河なく高山なく地理平順にして険阻なく、低き山々堤のごとく連なり、水脈自在に流通し土壌の高低に随いて田畑を墾(ひら)き、其洪水・旱魃・風烈・地震の愁ひもいとすくなしとぞ

因に云、一時芭蕉翁大野桃林を伴ひて江の嶌に詣でられし時この藤沢に宿りを求めたるに、其夜宿の妻難産にて苦しみ居けるが、亭主はこの両人を出家なりと思ひ座敷へ来りて、御僧方何とぞ加持を下され妻の必死を救ひ給はれと余義なき体に見けるに、桃林さし意得て小さき紙に何やら認めてこれを捻り亭主に渡し、この護符を井華水(くみたてのみず)にて載せよとありしに、暫時(しばし)ありて其利益にて男子出生せりとて、一家大ひに喜び厚く両人を饗応(もてなし)ける、芭蕉翁不測(ふしぎ)にをぼし何の神呪(まじない)を書きたるやとありしに、桃林こたえて
 咲いでではや乙見(おとみ)せよ梅の花
といふ句を即案いたしたりとありしかバ、蕉翁も桃林の俳才と亭主の篤実と冥合したりと感じ給ひけるとぞ、其角も又此宿にやどりたる事ありて
 宿かりて東を問屋暮の月
といふ句作あり、共にその俳林の集に出たり、又大岡政要美談に見へたる、盲人江の嶌に詣でで帰るさ旅宿にて測らず十三年己前の親の讎敵(かたき)を尋ね得たる事、又平井権八網乗物を毀(やぶ)りて逐天したるも共に此藤沢なり、これらハ其旅宿今に歴然たれども憚りあれバ其名を漏しぬ                            

御代官支配歴代
御治世の後、慶長年間彦坂小刑部殿始て御支配あり、それより深沢八九郎殿、米倉助右衛門殿、依田肥前守殿、寛永年中服部惣左右衛門殿、慶安年中成瀬五左衛門殿、天和年中国領半兵衛殿、貞享年中西山八兵衛殿、元禄年中古郡文右衛門殿、同十年竹村惣左衛門殿、同十三年平岡三右衛門殿、同十四年小長谷市右衛門殿、宝永年中小林又左衛門殿、正徳年中河原清兵衛殿、享保年中江川太郎左衛門殿、同年松平金左衛門殿、同九年日野小左衛門殿、同十七年斉藤喜六郎殿、寛延年中戸田忠兵衛殿、同年辻六郎左衛門殿、宝暦四年岩出伊左衛門殿、同六年志村多宮殿、明和二年伊奈半左衛門殿、池田喜八郎殿、同六年久保田十左衛門殿、同七年江川太郎左衛門殿、同年野田文蔵殿、寛政四年子四月より小笠原仁右衛門殿、同じく六月より三十六年の間大貫治右衛門殿、文政六年十一月より当分御預所として中村八大夫殿、天保二年六月廿日より江川太郎左衛門様統て、慶長元年より今年まで二百三十八年御代官三十八人、中にも韮山の御支配今に至るまで三度に及ぶ、惣じて此地は、神祖御入国己来一度も私領に入ず、泰平の世にあるすら幸ひなるに、聖代の御民となりて隔なき御仁恵を蒙る事別てありがたき身の冥加忘るべからず


藤沢御銭座
寛永通宝は、上古寛永年中初めて鋳処にして、一様の通銭なれども、国々所々において御鋳立の事ゆへ、当時の銭にいたるまで凡二百八十四品あり、この中、第百七十四品目の寛永銭は、銅色紫にて褐色を帯たり、亘り八分強、重さ一銭(もん)目、元文二年相模国藤沢においてこれを鋳よし、寛永銭譜といへる書の中巻に見たり、斯書は藤原貞幹の輯録するところなり、記し置て後鑑に備ふ


当駅惣鎮守
藤沢宿最初の惣鎮守山王大権現ハ、もと撥塚(ばちづか)に鎮座いませし尊影なり、そのむかし、寛永年中将軍家御上洛の時御旅館の地所に撰ばれ、坂戸町西の岡を替地として神祠を其地に移し奉れり、されバ大鋸町・大久保町よりは、朝暮の参詣道の程余りに隔たり、社参も等閑にならんかとて、当社の神躰を分遷し瑞光の側に一社を造立し奉り、別地山王と号す、それより神徳光りを隠し、氏子を照し給はぬにや、大久保・大鋸にてハ藤沢山内に鎮座の諏訪明神を氏神と崇め、坂戸町にてハ義経白旗明神を鎮守として、倶に山王権現を祀らず、愚考へ思ふ事あり、元来日本国惣鎮守ハ伊勢皇大神宮、相模国惣鎮守は一之宮寒川大明神又その処々に氏神なりとて祀る事、これは土生(うぶすな)神とて、大地はもと万物の母、別て人間ハ土気の長にして土を根本とし、土より生ずる五穀を食とし、土を穿て水を汲み土を坦(なら)して家を造り、土を踏で一生を終る、其土地の恩徳量り知べからず、これを報ぜんとて社を営み、神とし崇めて尊信す、これを土生神とはいふなり、されバ、山王・白旗・諏訪と称するも、人間世界に仮にもふけたる一時の表幟(しき)にして、本躰は天徳を受たる大地の神霊なる事志るべし、然らばその社に盛衰あるハ、人間に栄辱あるが如し、盛徳著明の神慮、豈人の帰依不帰依にかかはらん


藤沢山清浄光寺
藤沢山無量光院清浄光寺は、海内時宗の惣本山にして、当山開基は宗祖一遍上人より四代の法孫呑海上人、人皇九十五代後醍醐帝の正中二年甲子を以て初めて此地を草創し、末法応化の基をひらき給ふ本願、俣野五郎景平我屋敷を捧て寺とす、時の将軍守邦親王鎌倉に御在府、執事ハ北条高時にぞありける、抑も宗祖一遍上人ハ、伊予国の領主河野七郎道広の二男なり、幼名を松寿丸といふ、童蒙より利発叡悟にして、深く三宝を尊信し、十五歳の時、建長五年、天台宗同国継宗寺縁教律師を師として出家受戒し、随縁坊と号す、後文永元年二十六歳の御時、浄土宗聖達上人に従て名を智真と改て、初めて易行易修の念仏門に入給ふ、後十二年を経て後宇多院建治元年の冬十二月下旬より、紀州熊野本宮証誠殿に一百日参籠し、念仏安心の要路を祈願し給ふ、明る建治二年三月廿五日、大権現不思議にも示現在て、偈文を授け給ふ、其頌にいはく

六字名号一遍法 十界依正一遍體
萬行離念一遍證 人中上上妙好華

この文を得悟なし給ひしより名を一遍と改め、其神勅にまかせて南無阿弥陀仏と認め、四句の偈文の冠の四字を以て六十万人決定往生と記し添へ、この神符を貴賤の差別なく国中に賦算なし給ひ、十八年の間回国修行して、九十二代後伏見院正応二年八月廿三日、摂州兵庫の津において五十歳にて遵化なり、今其地に真光寺有て、霊骨の舎利をとどむ、宗祖一遍上人は、当山より西北六里にして当麻といふ地ありて、此処に御在住なり、後二代三代も同所なり、然るに四世呑海上人、其地理偏土にして化益の便宜あしきに依り、俣野五郎の寄附に任せ当山を開基して、四海を引接し給ひし事いと尊とし、宗祖一遍上人の偈頌ならびに道歌を左にしるす

結縁頌(けちえんのしよう)
六字之中本無生死 一聲之間即無無生
思ひとけば過にしかたも行末も一結びなる夢の世の中
夢の間と思ひなしなばかりの世に、とまる心のとまるべしやハ
五蘊(うん)の中に衆生を病する病ひなし、四大の中に衆生を悩す煩悩なし、本性の一念に背いて、五慾を家とし三毒を食として三悪道の苦しみを受る事、自業自得なり、しかれバ一念発心せんより外は、三世諸仏の慈悲も及ばざるところなり
あみだ仏ハ迷ひさとりの道絶てただ名にかなふ生仏なり
心から流るる水をせきとめておのれと淵に身を沈めけり
こころより心を得ると心得てこころに迷ふ心なりけり
心をバこころのあたと心得てこころのなきをこころとはせよ

煩悩即菩提のこころ
わけて見る月にぞ月はてりくもる光りハ雲に障らさりけり
またて見る姿ばかりや有明の月ぞ別れの名残なりける

当山十二代の寺職尊観法親王ハ、亀山院第四の皇子なり、南朝二代後村上帝春宮在まさざる故、彼の第四の宮を儲君となし恒明(つねあきら)と称し奉り、南朝第三代の御即位ありけり、爾はあれども其ころ南朝微にして楠・新田が輩精忠を尽すといへども、四海王化に帰すべき時節ならぬにやありけん、吉野十八郷尊氏の兵威に恐れて南朝に従がはず、これに依て尊観法親王御位を脱れ給ひ、御享年御十二歳に在まして遊行八世渡船上人の法弟となり給ひ、延文五年より応安元年まで九ヶ年の間藤沢山に御在山、応安二年より永和二年まで八ヶ年の間摂州兵庫津真光寺に御住職、永和三年より至徳元年まで八ヶ年の間羽州山形光明寺に御止錫(ししゃく)、至徳二年より二ヶ年の間甲府一蓮寺に御掛錫(ごけしゃく)有て、嘉慶元年二月廿六日より海内遊行あり、時宗十二代を相続在まし尊観上人と称し奉る、諸国御修行十四ヶ年、時に応永三年の秋上洛有て、百一代後小松帝、当遊行上人は皇胤(こういん)の由緒軽からざるに依て、参内の式厳重の叡達を以て玉座の御左りに御座を並べ設けらる、此先格を追て、遊行十三代より初め上洛の砌りは、小御所埋梱(うめじきい)のうち三畳目にて天顔を拝する事、今猶むかしにかはらず

私に云う、当山の格轍ハ、延宝七年九月十八日、御老中酒井雅楽頭殿・稲葉美濃守殿・大久保加賀守殿・土井能登守殿・堀田備中守殿・寺社御奉行板倉石見守殿・松平山城守殿の時、遊行四十二代南門上人より上書のおもむきなり、かかる御由緒に依て、網代乗物・菊桐金紋の対箱等登城の規式昔にかわる事なし

尊観上人応永四年の春回国御修行の沙汰後小松帝叡聞に達し、足利三代義満将軍へ勅命有て、当遊行上人ハ南朝即位の皇子たるゆえ廻国の事等閑の沙汰成べからず、国々の守護人止宿夫駄の煩ひなく賄ひ響応気色に応ずべきよし、官領斯波左衛門佐義将是を承まはり、諸国守護人へ相達す、又東山四代義持将軍より、遊行十四代太空上人廻国の時下されし御教書

清浄光寺遊行金光寺時宗往返人駄馬輿巳下諸国上下向之事関々渡以手形判形無其煩可勘過之旨被仰付国々守護人也若於違犯之在所者就注進可所罪科由所被仰付仍執達如件
  応永二十三年四月三日
  官領 斯波左衛門佐義将

同義持将軍の御代、遊行十五世尊恵上人廻国の時の御教書

清浄光寺藤沢道場遊行金光寺七条道場諸末寺時宗往返人夫輿馬雑駄以下上下向の事諸国関々渡以印板形無其煩之処於三井寺関所及異議之條大招其咎歟猶以令違犯者可所罪科之由重而被仰下処也
  応永二十六年十月廿日
  官領 同前沙弥 判

東山六代義教将軍より、遊行十六代南要上人廻国の御教書

清浄光寺遊行金光寺時宗往返人夫馬輿以下諸国上下向の事関々渡以印判形無其煩可勘過之旨国々守護人被仰付処也若於違犯之在所者就注進可処罪科之由所被仰下也仍執達如件
  永享八年十二月十五日
  官領 細川持之左京大夫判

東山十代義種将軍より、遊行二十一代借回(知蓮)上人順国の御教書

遊行上人廻国之條任先例其国々守護人調賄賂并以夫駄五十疋可被通過之旨仍執達如件
  永正十年正月十日
  官領左京大(太)夫義興判
  諸国守護中江

織田信長・豊臣秀吉の両御代ハ、右の御教書を以て三十三代満悟上人まで廻国す、もっとも其間満悟上人、三十二代普光上人の法流を継で越後国北条村より藤沢山へ入山の時、太閤秀吉公より別に御書附を賜ふ

藤沢山上人御帰国之條伝馬宿送等無異儀可有馳走者也仍如件
  天正十七年九月七日
  直江兼続判
  所々領主中江

東照神祖より、遊行三十四代燈外上人慶長十七年廻国の時、御朱印を賜ふ、夫より遊行代々、一通づつ順国の節賜はるを格例とす、また御当家神祖より十一代の祖先、徳川有親卿直筆の御願文、当山の重宝となす、当山寺領の事ハ、古昔は当国海老名郷において三千石を領す、其地ハ、上今泉村・下今泉村・河原口村・中新田村・上之郷等なりしよし、又古文書には、足利尊氏より寺領六万貫の寄附とあり、今は百石の御朱印を寺領とす
当山四十二代南門(尊任)大僧正、和州吉野山において後醍醐天皇の遠忌三百五十回の法事を修行し給ひし時、御追福の一首を帝陵(みささぎ)に奉る

苔の下に埋もれぬ名は御吉野の山より高き君がみささぎ

抑も宗祖一遍上人より今五十六世にいたり、普く四海を巡国し阿耨菩提(あのくぼだい)の種を樹しめ給ふ事、歳月久しく五百余歳に及べり、末世の凡卑知らずはからず、往生浄土の法糧(ほうろう)を感得せしむる事、いと尊とし、夫れ当山は巍々(ぎぎ)たる古梵刹にして、不断の妙香四境に薫じ、赫々たる仏燈衆生冥暗の黒路(やみじ)をてらすなるべし、殊に方丈庫裡ハ北の方上段の地にして、書院の襖は土佐一家着色の名画、芳野の間、龍田の間、雪中の間等其結構筆舌に及ばずされバ、清風華て響をなし朝日輝て鮮を増と、何晏(かあん)が景福殿の賦に書れしも?に芳?たらんのミ

私に曰、当山毎年八月廿一日より廿三日まで、開山忌とて大法会あり、これ開祖一遍上人の御忌なり、近郷の男女群参夥しく、江戸よりも講を結び組を立て遠く参詣す、信心の余慶、手妻・放下(まめぞう)・機関(からくり)をぞめき、田楽を啖(くら)ふものハ味噌の水嗅きを厭はず、甘醴を啜るものは甘き中に生姜の辛きを嬉しミ、観物を覗てハ親の因果の子に報ふを憐れみ、相撲場に力足を踏でハ勝負に声を嗄す、人様々の歓楽も、田舎の気保養、命の洗濯、二夜三日の極楽世界、稲麻の群参筆に尽さず、家父天祐、開山忌に遊ぶの詩を思ひ出たるまま?に附す

丁亥八月二十三日遊藤沢山観角觝之戯
  天祐居士

藤沢道場清浄寺 梵宇高聳白雲中
古松風韻無量音 老杉蟠根羅漢躬
五百年来遠祭日 土俗肩摩陸続同
生姜熟栗児輩売 濁醪村醸醉野翁
挺剣旋棒鬻良薬 舞熊躍猪妙戯工
山背角觝後生合 努氣張胆暫争雄
雄雌決時聲摧嶽 偏頗称誉西又東
如今群集?平澤 快楽今年年是豊
一響昏鐘人四散 満庭鯨波拂地空

子院  惣門を入て山門まで石磴凡四十八間、弥陀の四拾八願を表示す、子院ハこの磑道(いしざか)の左右にあり、左りの方第一、貞松院、本尊弥陀の立像を安ず、第二、善徳院、本尊阿弥陀如来、第三、真淨院、本尊弥陀佛、長二尺の立像を安置す、右の方第一、栖徳院、本尊三尊の弥陀を安ず、脇壇の薬師如来ハ、聖徳太子の御作といひ伝ふ、冬(もち)■の大木あり、牙歯(むしば)の疾(やまい)、これを祈るに果して霊験あり、第二、真光院、弥陀の尊像を安ず、又本堂の東二町にして、長照院あり、世に小栗堂とよぶ、都合六か院なり

総門  西面なり、里俗、むかしより黒門と呼ならわす、案ずるに、上古は黒塗の門なりしや、又畔(くろ)とハ田の境をいふゆへ、町と寺門との境の畔門(くろもん)といふ意(こころ)にや、又ハ一山一囲(かまへ)の廓(くるわ)の門ゆえ、外廓門(くるわもん)といふ事の誑りにや、此門に掲る額は、登霊■の三字を横に書す、紀伊前大納言源治寶(はるよし)卿の御染筆にして、文政十三年庚寅の夏御奉納、竪四尺程横七尺ばかり、額縁金の御紋ぢらしなり、此門前升形のうちに、慶長十九年の御制札ならびに正面下馬を立らる、升形の前にハ、町家の境ひに石の榜示杭を立る、一山不入の境杭なり、愚案ずるに、一遍上人の偈に

弘願一称萬行致 果號三字衆徳源
不踏心地登霊臺 不仮工夫開覚蔵

とある、此頌の中の登霊臺の三字を御認めありし事とぞ思はる

山門  正面にあり、額は、藤沢山の三字を堅に書す、仙洞東山法皇の勅額にして、従二位藤原基時卿の筆なり、裏に貞享四年丁卯仲冬日とあり、集古十種、扁額の部にも出せり、此門、金剛力士二王の像を安ず、これハ、右を那羅延王(ならえんのう)といひ、左を密迹王(みつしやくおう)とよぶ、陰陽阿吽(あうん)の相を現し、強勢の威を振て六境の悪魔を降伏し、守一不適の性を守り、仏法に入べき初門を表したる教へなりと聞けり

本堂  西面にして九間四面なり、清浄光寺とある堅額は、後光厳帝の御宸跡なり、寺説には、当山はじめ清浄光院と呼びたるを、六世上人の時寺号に改ため此額を賜ひしと伝へたれども、当寺の洪鐘(つりがね)ハ八世渡船上人の時の物なれども銘にハなお清浄光院とあり、六世上人の時寺号に改めしといふハ覚束なし
本尊阿弥陀仏の座像ハ慈覚大師の御作にして御長六尺余、脇壇に宗祖上人の尊像又四世呑海上人の像を安ず

日供堂  本堂の北に隣る、四十二世南門大僧正の建立にて上人歴代の霊牌を安じ、正面にハ南門上人の像あり、此堂の前なる石の地蔵尊は、法阿覚道和尚の墓なりとぞ

輪蔵  本堂の乾にあり、一切経五千四十八巻をおさむ、前に安置する伝大士(ふだいし)といふハ、唐土梁朝の人にて名ハ翕(きう)、字ハ玄風と号し、十六歳の時劉氏を妻とし普成・普建とて二人の児を儲く、深く仏学に達し、ある時池の辺りに佇立でありしに、伝大士の影水にうつるを見れバ、頭に円光あり上に宝葢を現ず、普建これを指さしおしゆ、普成これを視て笑ふ、此時に、父子ともに仏機をひらき大悟すといへり、此人一切経を読の便利を工夫し、一柱八扉とて、柱一本にして八方に扉をひらく便覧かぎりなし、依て経蔵にハかならず伝大士の像を置事なりとぞ

観音堂  経堂の側にあり、正観世音の立像長一尺五寸、泰澄大師の御作なり、南門上人御順国の時、西国三十三所の霊場の土を撮来りて此本尊の下に埋め、三十三所を一尊に拝せしむ

廊殿  本堂より北に渡り、凡五十四間余にして大書院と玄関との間にいたる、上人ならびに大衆、六時勤行の通路なり、時の太鼓もこの廊殿の中にあり

書院  玄関より東の方につづく、先年炎上して、寛政六寅年に造営あり、惣金襖にして、当時の土佐一家の画、精妙をつくす、しかるに、寛政の造営より三十八年にして、天保二年辛卯十二月二十七日又々火災に罹て灰燼となる、今の書院ハ其後の造立なれども、善美むかしに替らず

大玄関  書院と庫裡との間にあり、内玄関また中の口これに並ぶ

香厨(くり)  玄関の西につづく

宇賀神祠  書院の東、御庭の丘にあり、本尊宇賀の神像ハ弘法大師の御作にして、東照神祖十代の祖先、徳川左京亮有親卿の御守り神なり、御当家当山へ御由緒の次第ハ、足利六代将軍義教、応永の末に当て鎌倉探題持氏と不和にして、応永十一年持氏を追罸す、此時徳川家も持氏に一味なしたるよし讒するものありて、徳川も既に征伐あるべしときき徳川修理亮親季大きひ驚き、御子息松寿丸殿を召具して父子ともに遊行十二代上人の会下に御立退ありて御弟子となり、危急の難を免れ給ふ、親季卿ハ応永十二年正月十五日御逝去、法名ハ岩松院殿独阿道雲大居士と号す、松寿麿殿ハ御名を長阿弥と称し出家して在しけるが、謀叛の罪条全く讒言なりし事明白につき、上人の許容をうけ、還俗して松平家御相続、左京亮有親と呼奉る、享徳元年七月十四日に御逝去あり、松林院殿長阿泰雲大居士と法号す、御子泰親、童名徳寿、次に信光、親忠、これを竹千代君と称す、次に長親、信忠、清康、広忠、その御嫡男、天文十一年壬寅十二月二十六日三州岡崎に於て御誕生、幼名竹千代君、保元、平治己来の国乱を御一統あらせられし東照宮これなり、かかる御由緒あるが故に、神祖の御年回御法事の時、遊行二十一代上人東叡山において、神君の御子息がた、尾張大納言殿、紀伊大納言殿、水戸中納言殿等御同席の時、紀伊殿御詞に、時宗遊行ハ先祖重恩を受たれバ、踈略なりがたきよし御物語ありしに、一同御尤もの義と御答へあり、此御席に南光坊大僧正もあられたりと、当山御記録日鑑にしるせりとぞ

愛宕山  宇賀神の後山にあり、五十四代尊祐上人御巡国の時、京都愛宕山を移して勧請す

清音亭  愛宕山の乾にある、登る事十曲三百歩にして、山亭あり、里俗ハ御茶屋とよぶ、寛政五年丑の三月松平越中守定信御入りありて、亭号なくてハ事闕たりとて筆を握(と)り給ひ、時に軒端の松に風ふれて颯々(さつさつ)と聞へけれバ、清浄無量の響なりとて清音の二字を大書し給ふ、これを扁額として、それより清音亭と呼ぶ、此処、当山の勝地にして、遙かに眺望すれバ南ハ絵の嶌、袂(たもと)が浦、小鹿なくと長明がよまれし砥上(とかみ)が原、八松原(やつまつばら)の海畔、小動(こゆるぎ)の磯、箱根・天城の翠巒(すいらん)まで霞がくれに見へわたり、西にハ冨士の高嶺、足柄、丹沢、雨降の山々を裾野に踏舞、空にも雪の積るかとあやしむばかり高く聳へ、人の晴胖(まなじり)を驚かす、ゆへに此亭を富士見亭とも名づく、近くこれを望めバ、音無川、亀の尾山、立石、俣野の村邑眼下に遮り、早苗とる賤の女、釣する児童(わらべ)までもみなこの山亭の風景ならずといふ事なし殊に山峯は深林にして、風にハ松、雨にハ桧の音粛々として、人間苦悶の熱を消するに足る、白川老候清音の名、其所を得たる哉

熊野大権現社  本堂の東にあり、紀州熊野権現を勧請す、これ時宗一派の守護神なること、宗祖の伝とてらし見るべし

学寮  本堂の南にあり、一宗の僧徒勤学修行の栴檀林(せんだんりん)にして、毎年僧徒水行もここに修す

鐘楼  学寮の前にあり、鐘の銘、集古十集にも見たり

藤沢山清浄光院鐘銘并序
夫鴻鐘者天地為鑪陰陽為銅萬惣為鎔造化為工以為太極之図者其徳常住而洪大嶽兮自得兮哉風韻相■之中有通天之響者何物若之故梵宮之砌要有之者也是以宗祖一日洪鐘雖響必待扣而方鳴大聖垂慈必待請而当説以恰謂袷者寔惟聲即無生之玄旨耳爰相州藤澤山清浄光院鳫宇基久而■鐘未有之然間或瞿子釈種等将次法燈弥輝梵響遠伝遂使飜?列買官之思継?倹得神之操鋳之寶鐘鑪■之功甫就鏐鐐之粧■(幾+尤)磨於戯師子吼以足謂之鋳兮晋鐐若得之者師曠嘆而可為調梁帝若得之者陰府救而可為楽矧涅槃者讃拒■(糸+戚)之徳楞厳者嘆不変之躰然則明王驚眼之月秋遠扣四海八挺之浪大守鐘民之霜夜重温邵父杜母之衣乃至■霊周■雎々之聲裡吐法雨而却魔林蜩?々之響間灑甘露而脱躰仍以書銘曰
東流仏法 州得過相 寺開藤沢 清浄之光
砌前湛海 甍後峙■ 梵風瑟々 法水洋々
松青朝日 雲紫夕陽 卜之勝地 臨彼楽方
不離聚楽 以即花蔵 鳳鐘徹響 雄植仮粧
白毫益映 金色連■(王+黄) 高和満月 遠?厳霜
聞思破夢 拝感起行 人民福奏 村里吉祥
歴重萬世 祚続百王 真宗運久 精舎序長
結縁聞法 共満願望 仏家眷属 同寿無量
  時也延文元年七月五日  沙弥重阿
  治工大和権守光達
  住持他阿弥陀仏遊行八世
  願主沙弥給阿等

上杉氏定墓  学寮の前、東門の側にあり、上杉弾正少弼氏定ハ禅秀乱の時、応永二十三年十月八日藤沢山に入て自害す、法名普恩院常継仙厳大居士とあり、又同十一月六日の兵乱より明る二十四年まで、所々に於て戦死のなしたる上杉五郎憲春、同弾正氏憲、同伊豆守憲方、同上野亮、同兵庫氏春、岩松治部太輔、武田安芸守、今川三河守、正田京進、畠山伊豆守、梶原但馬守、江戸遠江守、推津出羽守、水戸将監、一色兵部、同左馬之介等十八人のしるしを埋めて、爰に石塔を建、応永二十五年十月六日とあり

東門  東向にして、往還に並ぶ、横、下馬あり、下俗にハこれを裏門と呼ぶ

光岳院  東門の側にあり、萬日堂といふ、酒井長門守の本願に依て一万曰の常念仏を修す

当山歴代廟  本堂の東の山上にあり、当山開基呑海上人を中央として、左右二側に列す

南部侯廟  歴代御墓所の左りにあり、南部右馬頭茂時、法名は教淨寺殿正阿清空天心大居士正慶二年五月二十二日とあり

酒井侯廟  萬日堂の後の丘にあり、酒井長門守常行、寛文六年丙午九月十八日逝去す、法名は光岳院殿従五位下鏡誉宗国大居士と号す

堀田侯廟  骨堂の東にあり、堀田下総守正仲は、下総国古河の城主堀田正俊の嫡男、母ハ小田原の城主稲葉美濃守正則の娘なり寛文二年壬寅の七月十九日出生、行年三十三歳にして、元禄七年甲戌七月六日、諸司代として上京の途中御逝去当山に葬る、常楽院殿其阿法漢映性大居士と法号す

納骨堂  同しく前の側にあり、本尊地蔵菩薩ハ武田信玄の祈念ありしといふ石像なり
 
 

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