狐忠信慰霊の碑

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勝手神社復興再建へ向けてのアピー ル

狐忠信の碑
(2004年11月8日 佐藤撮影)

うれしやな狐忠信生き生きと光に踊る慰霊碑見れば

吉野山の秋の日は短い。油断していると、たちまち葛城山の方に沈んでしまう。帰りの電車を気にしながら、仁王門を下ってふと見る と、狐忠信の婢があるとの小さな標示板を目にした。どうしても行ってみたくなった。社務所で聞けば、「三重の塔の右脇を行って階段を二百段ばかり下ったと ころにありますよ」と教えてくれた。

吉野からの特急電車までは、35分位はある。何とかなると思いながら、急な階段を下りて行った。でもお目当ての婢はなかなか見えて来ない。階段 の途中には、墓や神社が点在している。目に見えぬ心霊の気配を感じながら、更に下へと下って行く。背中のリックの重みを感じた。汗が噴き出す。日吉神社の 真新しい鳥居が見える。その横には真紅の紅葉が彩りを添えている。さらに下って行くと、崖の下に狭い平場があり、日の光が当たっている。そこに丁度、おむ すびを縦に長く伸ばしたような婢があった。近寄って見れば、自然石の表面には「狐忠信霊」と深く彫り込まれた字が見えた。婢自身は、そんなに古いものでは なさそうだ。

ともかく、婢の前に、目を閉じて、ひざまずき、般若心経を唱えることにした。不思議な感動が押し寄せきた。目を開くと、婢には、日の光がスポッ トライトように降り注いでいて、光が舞っているようにも見えた。何故か、福島県飯坂の医王寺にある佐藤忠信の墓を思い出した。

私にとって、狐忠信も佐藤忠信も同格である。歌舞伎「義経千本桜」では、狐忠信こそが主役のように描かれる。狐忠信は、何故か「源九郎狐」とも 呼ばれる。初音の鼓に張られた父と母の皮の張られた鼓を慕いながら、忠信に化けた狐は、義経一行と静を追う。その姿は親子の情愛を大らかに賛美する江戸期 の人々の心の有り様を表している。いや江戸に生きた人だけではなく、アニミズムの伝統を潜在意識に持つ日本人の宗教心に適う物語だ。確か金峯山寺の南門の 右方にも稲荷神社がある。稲荷神社の神の使いは狐である。もしかすると、狐忠信の子孫たちは、昔からこの吉野山に棲んでいたのであろうか。

ふと、我に返った。時計を見れば、後20分で電車は出てしまう。脳天神社はもう目の前にある。時間がないが、せっかくここまで来たのに、脳天神 社に寄って行かないというのは無礼千万な話だと思って、本殿にお参りすることに決めた。線香とロウソクを買って火をつけて、祈りを捧げて御神酒をいただ き、狐忠信の婢に一礼をして、急階段を、一段一段登って行った。後で聞いたことだが、この階段の数は、200段ではなく455段もあるそうだ。電車までの 時間が残り15分となっていた。かなり急いだので、心臓がバクバクとなった。やっとの思いで455段の階段を登り終えたが、結局、電車には遅れてしまっ た。でもこの狐忠信の婢を発見できたのは収穫だった。新しい義経伝説が、日々生まれているのだということを実感した。

さて、金峯山寺前管長の五條覚澄師の「人生には奇跡がある」(昭和46年金峯山寺刊)に、この「狐忠信霊」という婢が出来た不思議なエピソード が紹介されている。それによれば、この吉野では、狐が人間の姿になって、修行者や参詣者の前に現れるということがあるらしい。

昭和30年代のある年の2月頃、管長の知り合いのM教師が、寺にやってきて、「今、銅の鳥居の前で奥様と出会って、お話してきました」と云った そうだ。ところが、その時、前管長の奥様は不在で、どうしても会うことはありえない。そこで当の本人に確かめると、「まったく会ってはおりません」とのこ とだった。まさに狐につままれたような話である。前管長は、ずっとこのことを不思議に思っていた。すると少しして、別のK教師から、謎解きのような話を聞 いた。実はK教師は霊感の強い人物で、この人に、「銅の鳥居の前で、奥様に化けてM教師と話しました」と語ったというのである。前管長は「ハッ」とした。 後日、更に狐は、K教師を通して、「脳天大明神の参道に祀って欲しい」と訴えたというのである。前管長は、この狐を「狐忠信の霊」つまり「源九郎狐」と考 えて、脳天神社の参道に芸能の神として「狐忠信塚」建立を決定したのである。

そして昭和38年7月この「狐忠信霊」の婢は立てられた。建立には、浄瑠璃や歌舞伎界、演劇界のそうそうたる人々が名を連ねている。市川猿之助 や中村勘三郎、片岡仁右衛門、水谷八重子など、数え上げたら切りがないほどのすごいメンバーである。

考えてみれば市川猿之助の狐忠信の演技を二度ほどみたが、この吉野山の狐が後ろについて見守っているような見事な演技であった。特にクライマッ クス(大詰)の「川連法眼館の場」での猿之助は圧巻だ。息をもつかせぬ演技である。まず吉野の義経の館に故郷から戻った本物の忠信が現れる。ふたりの忠信 がいることになり、義経は疑いを持つ。しかし狐忠信は、静の打つ鼓に合わせて、思わず狐の本性を出して踊ってしまい正体がばれてしまう。また父母の鼓は、 子の狐に対して、本物の忠信に迷惑を掛けるから帰れと働きかける。身もだえ苦しむ狐忠信を見た義経は、この狐の親子の情愛の深さにほだされて、院から頂戴 したこの初音の鼓を惜しげもなく、狐忠信に与えてしまう。お礼に、狐忠信は、妖術によって、義経を捕縛しようとする荒法師たちを散々に蹴散らして、宙乗り で、吉野の山に帰って行くのである。猿之助は、今病気静養中であるが、この稀代の名優の全快を狐忠信に頼みたい。
 
 

今一度この目で見たき猿之助狐忠信宙舞ふところ


吉野朝宮趾を左にみて
 
 

脳天神社へ続く急な階段をずっと下ると
 

やがて真新しい日吉神社の鳥居が見え
 

脳天神社本殿
(2004年11月8日 佐藤撮影)



史料
「金峯山寺史」より

脳天大神の創祀

昭和二十六年、五條覚澄の手によって脳天大神が創記された。その経緯は次のようなことであった。

戦後、女性信徒が増加して女性のための行場が望まれたため、昭和二十五年十一月十九日、蔵王堂の西方の谷間にある一の滝(龍神池)の上に、山上行場 を模した屏風岩、衣掛岩、押分岩、鐘掛岩などからなる女人行場を開いた。そして、その行場の入口に翌昭和二十六年四月九日、役行者の大銅像を建立した(時 報153・154号)。さらに六月二十八日、新しい滝場である金龍の滝を開発し落水した。その前日、五條覚澄が新滝の工事現場へ向かう途中、だれかに頭を 打ち割られた一匹の蛇に遭遇した。五條覚澄はあその蛇を一の滝の右にある洞窟に置き回向したのであった。ところが、その翌日からその蛇が霊現を繰り返し、 ついに七月十日、ある人に憑依して「まつられたし。まつられたし。吾は頭を割られた山下の蛇である。蔵王の変化身である。脳天大神としてまつられたし。首 の上野如何なる難病苦難も救うべし」と告げた。この霊示によって七月十三日、脳天大神の霊標を金龍王の地に立てた。すると次第に多くの参拝者が来るように なり、狭隘になったため現在地へ移転したのであった。(五條覚澄「霊話不思議」・「人生には奇跡がある」)。

脳天大神はその利益が喧伝されて急激に信者が増加し、現在に至るまで金峯山寺の信仰の新たな一つの核となっている。

(「金峯山寺史」首藤善樹著 総本山金峯山寺 国書刊行会 2004年10月刊ヨリ)
 


2004.12..4 佐藤弘弥

義経伝説HP