吉水神社

秋の吉野山義経伝説紀行

金峯山寺  吉水神社  勝手神社  佐藤忠信花矢倉  西行庵  義経蹴抜塔  狐忠信慰霊の碑  静の舞衣装
 

吉水院(西国三十三所図会より)

吉水神社の一の鳥居
(佐藤撮影)
 

大物の水難逃れまっしぐら吉野吉水義経が跡
 

秋の吉野吉水神社
(赤き紅葉は九郎義経の血潮か/11月8日佐藤撮影)

晩秋の奈良吉野に向かった。源義経ゆかりの吉水神社に詣でるためである。11月8日もう暦の上では、立冬だというのに、Tシャツで歩けそうな暖かさである。その為か、紅葉の色づきが少し遅いようだ。今年吉野は、高野山、熊野と共に、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産になった。何ともめでたいことである。吉野は修験道の山であり、祈りの里である。古き日本の姿がここにはある。

源義経にとって、吉野はゆかりが深い土地である。源氏の棟梁だった父義朝が無念の最期を遂げた時、義経はわずか二歳の乳飲み子であった。母の胸に抱かれた義経は、京都の堀川屋敷(北区紫竹牛若町の常磐第=源義朝別邸の説あり)からわずかな者たちに守られながら、雪の中を大和路を彷徨って、大和国宇陀郡龍門というところに着いたという。吉野からは目と鼻の先だ。源氏の郎等たちがそこに住んでいて頼ったというが、修験道の力を借りるために、吉野へ落ちのびようとしたことも考えられる。

吉野は、古くから頼ってきた者は救うというそんな気風の土地柄である。吉野の人々は、義経が兄頼朝の不興をかった時も、自らの危うさも顧みることなく、義経主従をかくまった。古来から吉野は聖地であり、自然の要害である。吉野の民衆たちは、無実の罪を負ってさすらう義経をかばい、吉水院の正殿を義経主従の臨時の隠家として提供してくれたのであった。
 
 

赤々と燃ゆる紅葉の一枝を判官の座にそっと手向けん


吉水神社の書院に入ると、空気が一変した気がした。この建物は、初期書院建築の代表的な傑作とのことだ。ただそれだけではない。ここには800年間の時空を越えた独特の風が流れている気がする。正面の扉は大きく開け放たれて、まだ紅くならずにいる紅葉が、目に染みこむように飛び込んでくる。歩くたびに、木の床がきしむ音がする。五、六歩行って左手に「源義経潜居の間」と呼ばれる部屋がある。14、5畳ほどの広さだ。壁を背景にした上座には、義経が着座していたと思われる場所に、一段高くした御座(上畳)はなく、二個の丸い藁の丸い敷物が無造作に置いてあった。まさか義経と静がそこに仲よく着座していたとは思われないが、何かそのような雰囲気で並んでいる。その横には、義経所蔵と云われる鎧がガラスケースに収まって据え付けられている。実際には、鎧ではなく、「色々威腹巻」(いろいろおどしのはらまき)と云われるもので、衣の下に付ける防具だそうである。近くでまじまじと拝見したが、何しろ八百年前の物のはず、ボロボロかと思えば、まったくその逆で、昨日仕上げた作のような初々しさが漂っていた。特に胴の辺りからから下にかけての細工は見事なもので、日本人の職人の手の器用さを改めて痛感した。義経の座の左手には、「弁慶思案の間」と名付けられた1畳ほどのスペースがある。ここで弁慶が、吉野から奥州への脱出プランを練っていたとの話だが、この場にしばし佇んで目を閉じると様々なことが頭に浮かんできた。

いったい何故、兄頼朝は、弟をあれほど執ように追求して死に追いやってしまったのか・・・?
 

元暦元年(1184)2月7日、一の谷の合戦の大勝利によって、一躍時の人となった源義経は、翌年の文治元年(1185)3月24日、壇ノ浦の海戦で平家一門を打ち破って、空怖ろしいほどの天賦の才を発揮し源氏軍に大勝利をもたらしたのであった。だが、その途端に、義経の運命は変転した。原因は義経の任官をめぐる兄頼朝の勘気と云われているが、そのようなものではないような気がする。頼朝と云えども、その後見には北条時政がいる。彼は北条氏の婿に他ならないのである。今日政治家としての頼朝の手腕が高く評価されているが、これはまったく変な話で、鎌倉の武者たちにとって、源頼朝という人物は、自己の権益を京都の朝廷と公家たちに認めされるための錦の御旗あるいは方便に過ぎないのである。

この説を語る根拠はたったひとつである。それは大政治家の頼朝は、弟の義経を自害に追い込んだ後、わずか10年後に、原因不明の事故によって亡くなっている。もしも仮に、多くの歴史家や小説家がいうように頼朝が天才的な政治家であったならば、自分の死後において、自らの子孫達が、呆気ない死に方をして、源氏の血流が途絶えるような愚を犯すであろうか。しかも彼の死は、落馬が原因であると云う。武将の棟梁たるものが、たとえウソでも死因を落馬となど伝えられるものではない。そこには、鎌倉の武者たちのどす黒い陰謀の匂いがする。頼朝の専横が目立ち、このままでは、せっかく清盛一門を打ち破ったのに、頼朝自身が、新たな清盛いや朝廷のような立場になる可能性を怖れたのではあるまいか。後世の人々は、その後様々に頼朝の死を噂し合った。平家と義経の亡霊を見て馬が暴れたとか、何とか。おそらくそれは真実を覆い隠すための隠蔽のための噂に過ぎない。亡霊が頼朝を呪い殺すより、奥州藤原氏を滅ぼし、まさにわが世の春を迎えた鎌倉の豪族たちこそが、、頼朝が絶大な立場に就くことを許さなかったと見るべきが自然であろう。


ともかく、頼朝が本来頼るべきは、弟の義経その人であった。しかし彼の取り巻きの者たちは、大将軍頼朝を単なる傀儡(かいらい)のようにしか考えていなかった。そこでまず兄と弟を離反させて弟を討った後、然るべきタイミングで、兄頼朝を闇夜に葬ったと思うのである。ある意味、立場の弱い頼朝にとっては、仕方のない選択であったと見るべきかもしれない・・・。
 
 

頼るべき九郎冥府に旅立たせやがて消されし人また哀れ


吉水神社の庭越しに金峯山寺蔵王堂の大屋根を望む
(北関門から観る蔵王堂/11月8日佐藤撮影)

弁慶思案の間を左に曲がって回廊を道なりに進むと、いよいよ吉水神社の義経コレクションの全貌が見えてくる。そこには義経が遺していったとされる文書があり、佐藤忠信の兜、弁慶の七つ道具、静の緋威(ひおどし)の腹巻きの一部、義経の鞍の一部と鐙(あぶみ)、弁慶の籠手(こて)などがところ狭しと並んでいる。ここには展示していなが、静の衣裳もあると云われている。

義経文書を見た時、一瞬視線が凍り付いたようになってしまった。印象は、有名な高野山文書(宝簡集三十三)の阿弖川庄に関する書状の書体に似ている気がした。

但し、明らかに違うのは、高野山文書は、漢字のみで書かれているが、こちらがかな交じりで書いてあることだ。現存する真筆とされる義経文書の多くは漢字のみのものである。さらに筆勢もかなり違う。勢いがない気がする。義経の書の特徴は、切れの良さだ。おそらく普通の人よりも、筆をすばやく操っているのであろう。紙の上で刀を振るような独特の味わいがある。

内容については、一見では余りよく分からない。右に更に文書があって、途中で切ってしまっているようにも感じられた。はじめの字は「武」と読める気がしたが、自信はない。花押が見えるが、他の文書にある花押とは違うようだ。日付も「八月」と見えて、文治元年11月に吉野入りした事実と反している。内容と真偽については検討を要すると思われた。

とにかく内容については、後で吟味することにして写真に収めることにした。

一汗を書いて、展示の間を出ると、庭園越しに、風情のある景色が広がっていた。丁度庭の斜交いにさっき歩いてきた蔵王堂の大きな二重の甍が見えた。晩秋の太陽が吉野山全体に降り注いでいるようだ。この景色を義経と静は手を取り合って見たのだろうか。

義経と静は、文治5年11月6日、図らずも大物浦で難破した後、わずかな手勢で、別々に吉野へ向かったと推測される。とすれば、吉野は、二人にとっては嬉しい再会の場であったことになる。二人は、遭難の夜、天王寺(大阪)の付近で一泊し、翌朝、「吉野で落ち合おう」と、身を潜めながらやってきたはずだ。しかもその再会の後、たった五日後に、二人は別れる運命にあった。何たる過酷な運命を背負った二人であろう。吉野の吉水院で、一時の安住を得た二人は、無限にこの幸せが続くことを願いながら、この場に佇んでいた・・・。

そのように思って見ると、この吉水院から視た吉野の景色が一層いとおしいものに感じられてくるのであった。つづく
 

吉水に静と九郎潜み居て蔵王の甍いかにとや視し


静の舞衣装へ



史料

西国三十三所名所図会」より

凡例
臨川書店版 「西国三十三所図会」(平成三年四月刊)を底本にして佐藤が現代語訳したもの。
同書の原典は、解題によれば、嘉永六年(1853)年三月刊行。編集は鶏鳴舎の暁鐘成
 

吉水院(よしみずいん)

蔵王堂の少し先の町より左に二町ばかり下りにある。

当院は、後醍醐天皇の仮宮にして建武元年二月の遺品や文書が遺っている。また南北朝時代に賜った勅書や越智家頼や筒井順慶らの願文がある。この寺の始まりは、役行者の山上修行の時の一時の休息するための庵室であった。そののち醍醐の聖実尊師もここにお住まいになった。源平兵乱には源義経と弁慶もここにこもって軍議を謀ること三年(ママ:考察ミスか?)に及ぶと伝わっている。その跡は、今でも損なわれず庭の前には(義経の馬)の足跡や武蔵坊が素手で岩に打ったと言う力釘が今にその形を遺している。

文治元年源義経は、大物の浦より風波の難を逃れてこの山に登り、夜になって密かにこの寺に入った。吉野の荒法師らは、義経を討とうと思い、この寺を出て中院谷(花矢倉)に隠れていた義経一行を追っていったが、義経の忠臣佐藤忠信が残って追手に矢を放って、愛妾の静も捨てて多武峰(たうのみね)の十字坊に逃亡し、ここからさらに十津川の方へ落ちて行ったということである。

中院谷(ちゅういんだに) 花矢倉(はなやぐら)

この下に禅定寺大将軍社、清瀧権現社、辻堂がある。中院谷は、義経が隠れていた古跡である。花矢倉は、忠信が防ぎ矢を射かけた地と伝わっている。
この谷で、文治元年冬十一月延尉(えんい)源義経は、鎌倉の追手を避けて主従十数人と共に、当山の中院谷に隠れて潜んでいたが、吉野の衆徒らは鎌倉への忠誠の為に十七日の早朝より大鐘を突いて、僧侶を集め、義経のいる中院谷に押し寄せてきたのであった。そこで佐藤四郎兵衛忠信は、一人ここに踏みとどまって、義経一行主従十六人を無事に吉野から逃がしたのであった。

龍返(りゅうがえし)

中院谷にあり。横川の覚範忠信に討たれた古趾である。

横川覚範首墳(よこかわかくはんのくびづか)

同所にあり。覚範は紀伊国の住人鈴木党の中にて横川前司覚範と名のると言う。

山伏匿岩(やまぶしかくれのいわ)

同所にあり。源義経この岩の背にかくれると言う。



2004.11.13 Hsato

義経伝説