勝手神社

秋の吉野山義経伝説紀行 金峯山寺蔵王堂

金峯山寺  吉水神社  勝手神社  佐藤忠信花矢倉  西行庵  義経蹴抜塔  狐忠信慰霊の碑  静の舞衣装
 

勝手神社(西国三十三所図会より)      勝手神社社史

勝手神社(松の立つ辺りが静が舞ったとされる舞塚)
(佐藤撮影)

僧兵も静が舞にくらくらと打ちのめされし女人兵法

吉水神社を後に勝手神社に向かう。この神社は、古くから「勝手」の名の示すように戦勝の神として多くの武将の崇敬を集めてきた。しかし今当勝手神社の本殿はない。平成十三年九月不審火によって焼失してしまったからだ。吉野では、一年前の四月にも、放火によって奥の千本金峯神社社務所が全焼するという事件が起きている。何でも、賽銭をくすねようとした者が、賽銭の少なさに腹を立てて放火に及んだようだ。

勝手神社本殿は、吉野水神社本殿(重文)と同じく、桃山様式の三間社流れ造り、檜皮ぶきの社殿二棟を箱棟でつなぐ連棟式の珍しい建築物で、県指定の文化財であった。吉野が世界遺産に指定された今年(2004)にそれが見られないのは実に残念なことだ。

勝手神社の祭神は、愛鬘命(うけのりかみのみこと)である。仏名は「毘沙門天」(びしゃもんてん)。したがって勝手大明神は、実は毘沙門天ということになる。

源義経の守護神は、この毘沙門天である。文治元年11月5日、未明、大物浦で遭難した義経一向にとって、この吉野において、戦勝の神である毘沙門天を祀る勝手神社に詣でることは極めて自然であったと思われる。吉水院(吉水神社)に5日間潜んでいた義経は、目立たぬ姿で、この神社に足を運び、毘沙門天(勝手大明神)に祈ったことであろう。

当時この神社周辺には、金峯山寺の寺領を守るために武装した衆徒(僧兵)たちが僧坊を構えていた。何かことが起ころうものならば、気の荒い彼らは、勝手神社の神輿を担ぎ、「神輿振り」と言われるような示威行動をもって都に強訴に出かけたのである。

5日に渡って、義経一行が、この周辺に潜んでいた理由は、この吉野の衆徒たちが、義経を守護して匿いきれるかどうかの折衝の毎日だったと推測される。吉水院は、後に後醍醐天皇が南朝の宮とされたような格式の高い場所である。源氏の大将軍であった源義経がそこに座しても何の違和もない。吉野の人々は、吉野を頼って義経がここに来たということに困惑もあったであろうが、それ以上に強い誇りをもって、この第一級の場所に義経を迎えたと思われる。ということは、義経一行の義経入りは、吉野の人にとっては公然の秘密ということになる。

しかしそこで状況に変化が起きる。風見鶏の後白河院は、頼朝の強い圧力に曝(さら)されて、文治元年11月11日、ついに義経追討の院宣を諸国に発布するのである。

この吉野には、遅くとも、二日後の13日には、先の院宣をもった使者が、「もしも義経が潜んでいたならば即刻差し出せ」と迫ったであろう。これは義経が吉水院に居を構えた翌日ということになる。

おそらく吉野方の人々は、義によって義経を護るか、それとも頼朝の意志とは云え院宣に従うかの究極の選択を迫られたに違いない。また義理に厚い義経のことであるから、これ以上吉野の人々に迷惑を掛けられないと思ったことだろう。

ところで勝手神社には、静御前が、法楽の舞を舞って、義経一行を逃がしたと伝えられている舞舞台の跡(神楽殿)が遺されている。往時には、西向きの本殿に正対するように、舞殿が立っていたのであろうか。今は、本殿も災禍によってなく、舞殿もない。今は形の良い松の傍らに、「義経公静旧跡・舞塚」の石碑が、ひっそりと立っている。
 


勝手神社本社前(本社は平成13年9月27日不審火にて焼失)
(佐藤撮影)

何故、静がこの勝手神社で舞を舞ったのかは、必ずしも明らかではない。義経伝承の集大成とも云うべき「義経記」では、蔵王堂で他の者に紛れて舞を舞っていたところを静の顔を見知っている者に指摘されて捕縛されたことになっているが、この勝手神社に伝わる伝承との違いを、どのように考えたらよいのであろう。

まず、吾妻鏡の静の記述を見てみよう。
 

  文治元年11月17日

大和の国吉野山にて、夜の亥の刻(9時〜11時頃)、静が吉野の藤尾坂より下り蔵王堂に至る所を捕縛される。

静は言った。
「われはこれ九郎判官の妾なり。大物の浜より豫州(義経)この山に来て、五日逗留する所(中略)伊予の守は山伏の姿をかりて逐電したのでした。時に伊予の守は、数多の金銀の類をわれに与え、雑色男等を付けて京へ送らんと思われたのでした。ところがこの男ども財宝を持ち逃げして雪深き山中に消えてしまい、このように迷っている所を・・・」と証言する。

  文治元年11月18日

静の説を聞いて、豫州(義経)を捜すため、静に同行を求めたが、静は激しく嫌がった。静の体調の回復を待って鎌倉に送るべきと。

  文治元年12月8日

吉野執行静を北条殿の御邸に送る。


次に勝手神社の歴史を遡ってみる。勝手神社の背後の山を袖振山(そでふりやま)というが、この山名は、672年、壬申の乱で、大海人皇子(後の天武天皇)が、兄天智天皇の長子の大友皇子に対抗して、吉野にこもり、兵を挙げることに由来する。大海人皇子が、勝手大明神に戦勝を祈りつつ琴を奏でていると、背後の山からにわかに五色の雲が湧いて、天女が現れて、衣の袖を振って舞を舞ったというのである。以来、この山を「袖振の山」というようになった。これが吉兆となり、皇子は戦に勝利し、天武天皇として、飛鳥の浄御腹宮(きよはらのみや)に即位をすることになる。ここからこの勝手神社は、戦勝祈願と同時に、天女の舞の故事から芸事と深い関わりをもち、舞や猿楽などが盛んに奉納されるようになったのである。

舞の名手である静がこの社殿で、兄との戦の渦中にある恋人義経の武運を祈って舞いを献じることは十分にありそうなことである。

つづく


勝手神社本社前の狛犬
(佐藤撮影)
 
 

舞塚越しに北の鳥居方面を見る
(佐藤撮影)












史料

西国三十三所名所図会」より

凡例
臨川書店版 「西国三十三所図会」(平成三年四月刊)を底本にして佐藤が現代語訳したもの。
同書の原典は、解題によれば、嘉永六年(1853)年三月刊行。編集は鶏鳴舎の暁鐘成
 

○勝手神社(かってのじんじゃ)

往来の道の右の方にある。(別称 山口神社)
蔵王堂よりこの先までおよそ380mほど。

吉野八大神の内の大神とは、当社を含め、子守(吉野水分神社)、大威徳天神、高山大神、佐抛(さなぎ)、牛頭天王、八王子、金精の八つ。
本社 祭神は愛鬘命(うけのりかみのみこと)この神を勝手大明神と云う。大宮は天忍穂耳尊(あまのほしほみみのみこと)を祀る。若宮には木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)を祀る。

神楽殿 大宮と若宮の間にあり、本社に対座。
御祈祷所 神楽殿の左にあり。神輿は一基。本社の左の傍の御供所の右に納める。

愛鬘命は、天孫降臨の時に三十二神が揃って天降り、次に護国後見にと降りいし三十二神のうちのひとりで、勝手大明神の別名を持つ。

文治元年(1184)に源義経の愛妾静御前が法楽の舞を舞った場所で、その時の装束ならびに源義経の鎧などが宝蔵に納められていたが、正保年間の火災で焼失したことは誠に惜しまれることであると「順覧記」は記している。

「大和名所図会」にはこのように記されている。
 

「延尉源義経公の愛妾静御前は、勝手社前にて、法楽の舞を奏して、衆徒の心をとらえて義経主従十二騎を逃がしたということは、まったく刃を用いることなくして、敵を欺く六韜の兵法の奥義とも云うべきものである云々」


しかし「義経記」には、

文治元年十一月十六日の昼に、静は吉野にて判官に離れてしまって、それどころか「都まで送れよ」と義経が付けた下部の者にも裏切られ、いただいた金銀重宝も盗まれて逃げてしまった。一人になった静は、仕方なく泣く泣く、十六日の夜、冬の吉野の山中を終夜(よもすがら)迷いに迷って、翌十七日の暮の頃に、やっとの思いで、ついに蔵王堂の前の藤尾坂の辺りに至ったのであった。静は、参詣の道者にまぎれ、権現を念じながら、「どうか私を都え無事にお返してください。」と祈り。又好きで別れた判官のことを思い浮かべて、「どうか今一回(ひとたび)あのお方に引き合わせてください。もし願いを叶えてくださったならば、母と再びこの蔵王堂にお詣りをさせていただきます」と祈る。

他の参詣の者は、皆下向して後も、静御前はひとり正面に参りて念誦していたため、衆徒に見つけられ、「ともかく、権現の御前で、御法楽の舞をあなたも舞いなさい」と勧められ、辞退すべきとも考えたが、まさか自分を知っている人はいないだろうと、思いながら、静は舞った。でも静は舞名手である。静の舞と歌に、そこにいた者が、皆涙を流すほど感動を誘ってしまった。そして仕舞いに、静はこんな歌を歌った。

ありのすさみの憎きだに、ありきのあとは恋しきに、あかで離れし面影をいつの世にかは忘るべき。別れの殊に、悲しきは、親の別れ、子の別れ、子の別れ、勝(すぐ)れて実に、悲しきは、夫妻の別れなりにけり。
(佐藤意訳:在れば気まぐれ憎いもの。少し離れて恋しくて。別れた後の悲しみは、面影募りなんとしょう。別れの辛さ身にしみて、親との別れ、子との別れ、それより真に悲しきは、夫と妻の別れなり)
静は、涙をしきりに流して、衣の袖を被って臥してしまった。こんなことがあって、集まっていた衆徒たちは、その歌の響きに感じ入って、この人は、只の人ではあるまい、とそちこちで、話始めたのだったが、その中に、静を見知っていた僧がいて、「この女人は静である」と言ったので、、すぐに捕まって、判官の行方を詰問されてしまったのであった。
静はついに事実を認め、ありのままを語った。そしてその日、静は修行の坊に収容され、翌日、衆徒たちが静に人を付けて北白川へ送ったとのことである。これは衆徒たちの情と言われている。


さてこの義経記の記述であるが、静が舞を舞ったのは、勝手の社前ではなく、蔵王堂ということになる。もっとも勝手神社の宝庫に伝わる静の舞の装束があるのは蔵王堂で舞った時の品であろうか。ただ静は、山中に身ひとつで棄てられて落人となった女性である。舞いの装束などを持っているはずはない。又静が白状して判官が吉野に隠れている事実を知り、大衆に討手に向うとすれば、判官を落さんが為に舞を奏せるとも思われない。この件に関しては、結論は後の研究を待つしかないと思われる。

○藤尾坂(ふじおざか)

俗に藤井坂という。文治元年十一月十七日源義経の愛妾静藤尾坂を下り、蔵王堂より来たところを吉野の衆徒に発見されて捕らえられたと、吾妻鏡に記されている。


勝手神社
(西国三十三所名所図会より)

勝手神社 社史

 671(弘文元年) 役行者大峯山頂で蔵王権現を感得
 672(弘文二年) 大海人皇子(天武天皇) 吉野勝手神社に祈ると天女現れ吉兆あり。
 859(貞観元年) 朝廷より当社に正五位贈られる。
1028(長元元年) 衆徒大和守藤原保昌の圧政に神輿を振って上洛。
1139(保延五年) 鳥羽上皇の御願により大般若経を当社内で読誦。
1185(文治元年) 源義経主従一行来る。静当神社舞殿で舞を奉納。
1206(元久三年) 後鳥羽上皇、1221年まで毎年武具を奉納。
1332(元弘二年) 護良親王吉野に潜行城壁を築く。
1333(元弘三年) 鎌倉軍吉野を攻め村上義光・義隆親子討死。吉野ほぼ全焼。
1336(延元元年) 吉水院宗信ら後醍醐天皇に吉水院を行宮として提供南北朝時代に。
1139(延元四年) 後醍醐天皇崩御。後継は後村上天皇。
1348(正平三年) 高師直により吉野全焼。
1392(元中九年) 南北朝統一なる。
1592(天正二十) 現在の蔵王堂建立さる。
1594(文禄三年) 豊臣秀吉吉野山で大花見会を開く。
1604(慶長九年) 豊臣秀頼当社の他、吉野水分神社などを再興。慶長十年説も。
1644(正保元年) 当社焼失。
1656(明暦二年) 即印坊宥泉諸国を勧進し当社再興。
1767(明和四年) 貰い火により焼失。
1776(安永五年) 社殿再興。
2001(平成十三) 不審火により本殿焼失。

社史佐藤弘弥作成



 

2004.11.16-2004.11.19 佐藤弘弥

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