金峯山寺

秋の吉野山義経伝説紀行 金峯山寺蔵王堂

金峯山寺  吉水神社  勝手神社  佐藤忠信花矢倉  西行庵  義経蹴抜塔  狐忠信慰霊の碑  静の舞衣装
 

勝手神社復興再建へ向けてのアピール
 

金峯山蔵王堂 2004年11月 佐藤撮影

はじめに

晩秋の奈良吉野に向かった。源義経ゆかりの吉水神社に詣でるためである。11月8日もう暦の上では、立冬だというのに、Tシャツで歩けそうな暖かさであ
る。その為か、紅葉の色づきが少し遅いようだ。今年吉野は、高野山、熊野と共に、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産になった。何ともめでたいことである。吉野は修験道の山であり、祈りの里である。古き日本が今尚当たり前のようにしてそこにはある。
 

1 秋の吉野へ

京都から近鉄吉野線の終点吉野駅で降ると、もうそこは吉野である。いわゆる下千本と云われるところで、駅を背に歩くと深い谷間の上方に視線を向ける。ここを訪れる誰もがそんな思いを持って見上げてしまうという。何故ならば、そこには地上から34mもの高さに聳える金峯山寺蔵王堂檜皮葺(ひわだぶき)の巨大な屋根があるはずだからだ。でもその屋根の偉容は簡単に姿を現すことはない。多くの木々が折り重なっているからだ。まるで人生のようだ。そんな簡単に聖なるものが見えるならば、苦労する人間などいない。聖なるものや真理と呼ばれるもの、あるいは自らの運命などは見えないからこそ良いのだ。
 
 

直に「ロープウエイ入口」の黄色の看板が訪れる参詣者を誘惑するに立て掛けられている。思わず私もその誘惑に乗って少しばかり紅い紅葉の回廊を歩くと「七曲り」と呼ばれるつづら折りの坂をショートカットできる綱の道(ロープウエイ)が上に向かって伸びている。深い考えもなく、往復600円のチケットを買って飛び乗ることにした。

11月8日で立冬は過ぎたというのに気候は初秋の頃のようだ。ロープウエイが走り出す。次第に遠くに山並みが見えてくる。紅葉は余り進んでいない。いつも来ているのだろうか。年老いた女性が、「私は年に二回はここに来ているの。いつもはもっともっと紅いのよ」と、もう一人の女性にしゃべっている。何か吉野を代弁するようにしゃべっているように聞こえて、可笑しくなった。
 
 

吉野の黒門付近からの遠望 2004年11月 佐藤撮影 



ロープウエイを降りて、金峯山寺に続く細い参道を登ってゆくと、金峯山寺の総門である黒門が見える。この門は、大変威厳のあるもので、たとえ公家や大名でも輿を降り、馬を下りて通ったと伝えられている。

さらに門前に店や宿をぬうようにして進むと堂々たる鳥居が見えてくる。中央に「発心門」と記された扁額が掛かった大きな鳥居だ。そばに立つ看板を見れば「銅の鳥居」(かねのとりい)とある。宮島の朱の鳥居、大阪四天王寺の石の鳥居とならんで、日本三鳥居のひとつに数えられているもので重文(重要文化財)に指定されているものだ。「発心」(ほっしん)というからには、何かを思い立ち立ち上がることである。私の場合も、この吉野を訪ねてきた理由は、吉野における義経さんの事跡を辿ることである。また西行さんが、この山の最奥(奥千本)に小さな庵を結んでいたということにも強く惹かれるものがある。この門をくぐることによって、改めて自己の発心というものを確認した思いがした。

前を行く参詣者の多くは、この鳥居に連なる石段を避けて右の道を登ってゆく。登って近くで見ると、さすがに直径3mもあるという堂々とした偉容である。何度かの火災に遭って現在の鳥居は康正元年(1455)に再建されたものであるが、初代のものは、奈良の大仏さんを鋳造した余りの鋼材で作られたものであったという。扁額の「発心門」の字は、弘法大師のものと言われており、神仏習合の歴史の一旦が、この「銅の鳥居」から見えてくる気がした。元々役行者の開いた修験道の聖地だった吉野は、仏教と一体になって独自の発展を遂げてきたものである。
 
 

銅の鳥居前 2004年11月 佐藤撮影



2 吉野にとっての幸い

銅の鳥居を過ぎて、なだらかな坂道をしばらくゆくと正面に巨大な建物が見えてくる。国宝の仁王門だ。周囲の石垣は、修験道の修養の場というよりは、およそ城壁を連想させる。これは鞍馬山でも思ったことだが、寺が僧兵を抱えて武装をしなければ、宗派の教えそのものを伝えてゆくことが困難な時代があったことをしみじみと思った。

仁王門は、金峯山寺本堂蔵王堂の北門に当たる。巨大な憤怒の表情をした阿吽(あうん)の仁王像(金剛力士)が左右に二体、吉野山への不審な者の進入を防いでいる。この門をくぐることは、単に吉野へ入口ということではなく、ここから大峰山を越えて熊野へと続く修験道の山々への登竜門ということになる。

この門を右に行けば、後醍醐天皇(1288-1339)が南朝の皇居とされた跡がある。明治までは実城寺という寺があったが、廃仏毀釈の混乱の中で廃寺となり、今はそこに「南朝妙法殿」(昭和38年築)という八角の三重の塔が聳えている。
 
 

金峯山寺蔵王堂の前に聳える仁王門の偉容 2004年11月佐藤撮影

私は仁王門を登らずに、左に向かって吉水神社を目指した。左(東)の方を見れば、道の下には、人家の瓦屋根が並び、深く切れ込んだ谷間には吉野杉が背比べをするように並んでいる。目線を上に転じれば、下千本と呼ばれる山並みが秋の日にわずかに霞んで照り映えている。実にいい景色だ。改めて、変わりようのない吉野という場所の凄さを思った。5、6mほどの道は、谷間に切られていて、拡張のしようがない。ここには巨大な公共事業の入り込む余地がない。

今年、吉野が世界遺産となった理由は、もちろん聖地へと続く古道が評価されてのことであるが、この「変わりようがない」という究極の地形があってのことと改めて思われた。

吉野という地域に限定して言えば、世界遺産のエリアというものは、吉野神宮から金峯神社まで南北に8キロほどの細長い地域にほぼ集約される。その中でもコアゾーンと言えば、蔵王堂から吉水神社を経て西行庵に至る5キロの間の寺社と古道である。つづく

金峯山寺2へ



2004.11.10 佐藤弘弥

義経伝説HP