和州巡覧記

貝原益軒著
元禄五年益軒六六才の時の著作
益軒全集七巻所収
編者 益軒会
昭和四十八年四月二十五日発行
図書刊行会
 

凡例

ここに掲載するものは、上記「和州巡覧記」抜粋である。
その際、漢字の是、其、也、などの表記を仮名に改めた。
へ、ゑ、ひ、などを現代仮名遣いに改めた。
但し、送り仮名は、原文のままとした。

この和州巡覧記のテキストは吉野における義経伝説をより深く理解するためにデジタル化したものである。著書は江戸前期の儒学者貝原益軒翁(1630-1714)。翁は、一般に名著「養生訓」の著者として知られているが、紀行家としても知られ、多くの紀行文を遺している。その手法は、地誌に近く厳格で無駄を一切そぎ落とした風格のある文体で綴られている。さて、源義経と静を含むその郎等たちは、文治元年(1185)11月6日の摂津大物浦で、思わぬ風波に遭い、多くの精兵を失いながら、天王寺を経由し、執拗な鎌倉方の探索を逃れ、6日間の日々を費やして吉野にやってきた。同年11月12日夜のことであった。義経一行は、身繕いをして、吉野執行が居住していたと思われる吉水院の門を叩いた。吉野は、神仙境とも呼ばれる土地で、近くには龍門といって、義経の母常磐御前の里と云われる土地も近い。おそらく吉野には、親義経派と呼ばれるような法師もいたと推測される。その時、義経の手には、天王寺の高僧が義経を匿うような書状が握られていたかもしれない。ともかく義経は、このまま汚名を着たまま、死ぬわけにはいかないという強い思いを持ちながら、吉野山にやってきた。吉野は苦境の義経一行を温かく迎えた。しかしながら鎌倉方の義経探索は執拗を極め、ついには親義経派の筆頭である後白河法皇に迫って、義経捕縛の院宣を発行させて、ついに源平合戦最大の功労者は、朝敵とされてしまったのである。そしてさらに義経の運命は一変する。朴訥に書かれた益軒翁の地誌を丹念に読んでゆくと、沸々として彼らの吉野での足跡が浮かんでくる。

2004年.12月吉日

佐藤弘弥識


和州巡覧記

貝原篤信 著

大和廻

京より吉野へ往来の路をしるす。玉水より藪の渡をこえ、奈良の西を見、西の京より、まず奈良へ行、それより郡山へ出、吉野へ行、帰にまた奈良を過、笠置へ上り、京にかえる道筋をしるす。

六田
名所なり。吉野のふもとにある町なり。むつだとも、むだとも云う。また柳の宿とも云う。吉野川の南にあり。川向いなり。少し北上に六田の淀とて名所あり。吉野河の源は、おばが峯よろ出る。両上市より八里上るなり。大台が原と云う。あるいは曰く、大台が原に巴が淵とて、深き水あり。吉野川、熊野川、伊勢の宮川、この三大河の水上ありと云う。但し、これは虚説なりと云えり。

但しおばが峯には、巴が淵とて深き水あり云う。「吉野川その水上を尋ればむぐらのしづく萩の下露」とよめる歌のごとく、源は一所には有べからずとぞ思う。但し西風には、東へ水多く流れて、宮川の水かさまさる。東風ふけば、吉野河の水まさる。北風には、熊野河に水多きとかや。故に東風烈しければ、雨ふらずしても、吉野河の水まさると云う。

上市より河上は、夏箕、宮瀧、国栖、西河なり。上市よろ下は、河のわたり広し。上市より上は、両山の間を流れて、河のわたり狭し。両山奥の方、甚だ高し。山間に淵多し。この河の末は、紀ノ川なり。紀州和歌の浦へ出る。紀伊の湊と云う。六田を過て、やがて吉野山の坂に上るを、一の坂を上りゆけば、山口に四手掛の明神あり。左四五町に水分山あり。

一の坂より吉野の町まで、五十町の間、左右は皆並木の桜なり。両旁の山にも、谷にも、桜多し。坂口より奥の院までは、百町あり。子守明神の前の坂の下までは、山高からず。長く出たる山の尾の上の背を通る。六田はその尾崎なり。故に吉野山に上るには、六田より入るが本道なり。吉野へ行人は、必ずまずこの道より入べし。飯貝(いいがい)方からも吉野町へ上る。それはわき道なり。本道にも、わき道にも、童ども桜の木の高さ二尺ばかりなるを多く売る。唐□(金+華)をもちて売る。往来の人、これを買いて、うえさせて通る。

吉野町
町の入口より籠もり明神の坂の下まで、左右民家つづきて、千余軒あり。町の入口の少し前、左のかたわらにある桜を、「日本が花」と云う。このところ、桜もっとも多し。日本が花の南より、「銅(かね)の鳥居」までを、「関屋の花」と云う。鳥居より東に、御船山あり、名所なり。鳥居の高さ二丈五尺、柱の廻り一丈一尺と云う。

鳥居より少し西に、「殿井坂」あり、義経の妾静を、吉野法師ら生捕しところなりと云う。

およそこの地は、金峯山寺の尾の長く出たる高岡の背の上に民家ある故に、左右ともに、崖作りにて、三階の家なり。但し上の三級の客舎(やど)は、道なみにて、常の平屋のごとし。三階の閣とは見えず。その次の第二級は、主の居室なり。かまどあり。上の座敷より、主の居るところに下る。その口は、穴に入るがごとく、梯(かけはし)より下る。これは二階なり。その下に、また梯より下れば、土座の屋あり。これは雑物、薪などを積み置くところなり。浴所(ゆあみ)、厠(かわや)もここにあり。客舎は、左右みな谷上に望めり。東方に客舎に、景の好所多し。

この町にて、売る土産多し。葛(くず)、榧(かや)、煙草、紙(くずとて、あつき紙あり。また杉原には、薄き紙あり。)漆、茶、塗物(椀折敷、まげ物、小樽等色々多し)、火打鮎(ひうちあゆ)、瓶鮓(つるべずし)、柿、山折敷、松茸、椎茸、花籠、造花、(鳥花の花扇等多し。みな小児の戯れ弄物なり。)頭巾、法螺の貝、蔵王堂は高きところにあり。後ろの三門、北に向い、堂は南に向えり。大殿あり。前に四本桜あり。この堂は、町の半より前にあり。

実城寺(未)

吉水院
蔵王堂の少し先の町より、左に二町ばかり下る寺なり。古寺なり。

文治元年、源の義経大物の浦より風波の難を逃れ、この山にのぼり、夜に入り、ひそかにこの寺に入る。吉野法師ら義経ををうたんとせし故、この寺を出て、中院谷に隠れしに、僧徒跡を求め来りければ、佐藤忠信を残して、防矢を射させ、静を捨置て、多武の峰を経て、南院の内、藤室十字坊へ入られしとなり。また後醍醐帝京都を逃れさせ給い、この寺に潜幸ありし時、まずこの院へ行幸ありて行宮とし、後に実城寺に移り給う。この院の床を御枕として、讃給いしに御歌に、

花にねてよしや吉野のよし水の枕の下に石はしる音
近世豊臣太閤も、吉野の花見の時、この寺に留り給う。要害よき地なり。義経の止りいられしも、後醍醐天皇のしばしの皇居とし給しも、即今の家にて、未だ作りかえずと云う。その古家にて屋作低し。

稲荷明神
蔵王堂より一町。

朝の原
東にあり。

灯籠の辻

桜本
当山の山伏の先達。大峯修行の寺なり。

勝手明神
右にあり。大宮、若宮、二社なり。北向なり。この神前にて、静法楽の舞を舞し装束ならびに義経の鎧、宝蔵にありしが、正保の比、火災にやけ失せぬ。

御影山 勝手の右にあり。

袖振山
名所なり。古歌あり。勝手明神の上路の側にあり、昔、天武天皇、このところにて琴を弾じ給し時、天女下り、羽衣の袖を五度ひるがえし、舞い歌いいし故、袖振山と云由云い伝へたり。人丸。定家、家隆、京極良経、袖振りの歌あり。また大伴主が吉野宮を従駕する詩あり

夢違観音
獏の観音とも云う。路の右にあり。この先の京の谷に、瀧桜、雲井桜あり。雲井桜は高峯に見ゆ。瀧桜は、谷間い見ゆ。これ子守の社の下の谷なり。

禅定寺
禅宗にて、今黄檗派の寺なり。

大将軍社
本道筋也。その上に辻堂あり。その西を中院谷という。

花矢倉
辻堂の少し上なり。忠信が防矢射たるところなり。横川禅師覚範うたれしところはこの右の谷なり。

辰の尾
花矢倉の上なり。民家あり。道の左右を布引の桜という。

世尊寺
このところに大いなる鐘あり。元亨釈書に、日本木像のはじめなるよし見えたり。

子守神社
西向に立てり。社殿甚だ美麗なり。御子守の神と古歌によみしは、この神なるべし。秀頼公再興せり。小峯の山にあり。これより上には、町屋なし。平地を行なり。この社を少し過行きて、牛頭天王の祠あり。西の方に大杉殿とて、大なる杉あり。

高城山
万葉集の詠ず。俗に、城山という。この辺つつじが岡あり。太平記にかきし大塔の宮のこもり給う城跡なり。あるいは曰く、大塔の宮の城は、青峯が嶽なり。敵は上の宮、瀧の谷より寄たりと云へり。宮瀧は、この下にあり。その末は、即夏箕川(なつみがわ)なり。忠信が偽て自殺したるはと申したるところもこの地なり。

はるかの谷
つつじが岡の下なる道の左の谷なり。如意輪寺の谷とは、山の尾を隔てて、南にあり。遠く見ゆる谷なる故に、名づけたるか、桜多し。

金性大明神
これ吉野山の鎮守なり。このところより奥の院まで、下乗なり。

蹴ぬけの塔
金性大明神の左の奥、少し坂を下りて行く。このあたりを隠家という。この塔は、飛騨の匠立して云う。古塔なり。義経この塔の内に隠れいて、逃て下の谷へ入る。俗に義経のけぬけし塔と云う。

青峯
けぬけの塔の南の上なる高山なり。名所なり。古歌多し。この下に龍が谷とてあり。義経馬を捨てられしところと云う。この東の谷に、義経の落行し時、竹をたはめて向へわたられしところあり。

奥院の茶屋
坂を上りつくして、上にあり。

安禅寺
飯高山を云う。伽藍なり。右に多宝の塔あり。本堂は蔵王なり。役行者自作と云う。僧寺を、また宝塔院と云う。

四方正面堂
奥の院これなり。安禅寺より、三町ばかり奥にあり。秘仏の堂なり。観音、不動、愛染、地蔵、その脇に蔵王堂あり。奥の院の山は、高き山なれども、吉野山の絶頂にはあらず、絶頂は山上とて、なお五里あり。

西行の庵室
四方正面堂より、最北にあたる堂の後より路あり。山の岨(そば)を二町ほど行て下る。その間に小川あり。苔清水と云う。庵室に西行が檜像あり。西行このところにての詠歌多し。このところに三年住けんとなん。人遠く閑寂なるところなり。

青折の嶽
安禅寺の前の茶屋より直にゆけば、大峯へ入る細道あり。その先に青根が岳あり。この所に道、左右二筋に分る、左は西河(にしかわ)へ行き、右は大峯へ入る道なり。これより山上まで五里余り。山上より一里小篠(こざさ)にて、山伏護摩を修する。毎年六月朔日より同七日まで、諸人潔斎して上る。毎年七八月に、本山、当山の山伏の先達入峯す。入峯の道に、三百八十余の窟(いわや)有りと云う。蟷螂(とうろう=カマキリ)の窟、笙(しょう=笛)の窟など尤も大なり。蟷螂が窟深き事二町余り、穴の広さ四尺ばかり、高さは所によりて高下あり。奥に池あり。菊の窟は、その岩ことごとく菊花の紋をなせりとぞ。その他、山伏の秘所なれば、見る事なし。

およ吉野山を金峯山とも、金の御嶽(かねのみたけ)とも、国軸山とも云う。清少納言が枕草子には、みたけと書けり。是より以下、奥の院より瀧へ行く道を記す。

清明が瀧
青折が峯より一里あり。この瀧は、岩間より漲(みなぎ)り落る瀧なり。十二間ばかりもあらんか。甚だ見事なる瀧なり。瀧の上、岩の間に淵あり。この下の辺、蜻蛉(かげろう)の小野とて名所なり。しからば蜻螟(せいめい:かげろうは「せいめい」とも読む故=佐藤記)が瀧なるべきを、あやまりて蜻蛉が瀧と書くなるべし。瀧の上なる山を、琵琶山と云う。この瀧の末を音無河と云う。(名所のおとなし川にあらず)

西河の瀧
これ吉野川の上なり。大瀧とも云う。村の名をも大瀧と云う。清明が瀧より五町ばかりあり。この瀧は、ただ急流にて大水岩間を漲り落るなり。義経の瀧ごとく、高き所より流落にはあらず。岩間の漲り沸く事、甚だ見事なり。近く寄りて見るべし。遠く見ては(鑑)賞堪えられず。

これより山を越て北に行けば、また村あり。これまた西河と云う。この河を音無河と云う。清明が瀧の流れなり。この河は、上半月は下流に水なし。下半月は上流に水なし。これ奇異の事なり。訛言(かげん)にあらず。西河の奥に、所々村里あり。義経西河へ落行し時、宿の主に給し太刀今にあり。青江国次二尺六寸あり。

○国栖
○夏箕
○宮瀧
○桜木宮
○如意輪寺



2004.12.3
2004.12.13 佐藤弘弥

義経伝説