義経蹴抜塔

秋の吉野山義経伝説紀行 金峯山寺蔵王堂

金峯山寺   吉水神社  勝手神社  佐藤忠信花矢倉  西行庵  義経蹴抜塔  狐忠信慰霊の碑  静の舞衣装 

西国三十三所名所図会   和州巡覧記

勝手神社復興再建へ向けてのアピー ル



昼でも暗い杉木立の中に蹴抜の塔はある
(2004年11月20日 佐藤撮影)

判官は何を思ひつ潜み居し蹴抜の塔の暗がりのなか

金峯神社は、金峯山寺蔵王堂の奥宮に当たる。大体奥宮というものは、里宮に比べ地味な造りが多いものだが、ご多分にもれず、金峯 神社も寂れた外観の社である。社に向かって左に行き白木の抜き門(修行門)を潜って下って行くと、源義経がこの社の屋根を蹴破って逃亡したと云われる蹴抜 の塔が見えてくる。吉野杉が鬱蒼と空に向かって伸びているために昼でも暗い印象を受ける。奥宮からは、ほとんど100mばかりのところだ。

義経が隠れていた経緯を推理してみる。文治二年十一月十二日、吉野山の吉水院に入った義経は、吉野山の法印から厚遇を受けて、吉水院に入る。義 経は、ほっとひと息ついた。翌十三日、義経らは、佐藤忠信、武蔵坊弁慶、静らを伴い、吉野山の法印の案内で蔵王堂に参詣をし、勝手神社、水分神社などを訪 れた。とくに勝手神社の縁起を聞き、感じることがあった。その縁起とは、大海人皇子が、この社殿で戦勝を祈った時、裏山の袖振山に天女が現れ、法楽の舞を 舞ったということである。天女の出現が吉兆となり、壬申の乱(673)の勝利者となった皇子は、天武天皇として飛鳥の浄御原宮(きよみはらのみや)に即位 をしたのであった。

静は、このように義経に提案する。
「この勝手大明神は、戦勝の神ですから、私が明日(十四日)、この本殿の前で、法楽の舞を舞いましょう。舞は、白拍子の舞ではなく、故事に則り天女の舞と 致します。

こうして翌十四日、静は、身を清め、心を調えて、勝手神社の本殿に俄に設えられた舞殿の舞台に立つのである。

義経は、大海人皇子の役となり、烏帽子に束帯姿となり、手には横笛を持って、恭しく勝手社の本殿に登場する。そして古式の教えるまま戦勝を祈願 する。すると静は、背後の袖振山に颯爽と現れて、袖を振りながら、天女そのままに、舞殿の舞台に踊りながら移動する。舞台の袖では、太鼓を持った弁慶、鼓 (つづみ)の佐藤忠信、胴(どう)の鷲尾三郎が並び、本殿の祈りを終えた義経が、ゆっくりと横笛を取って、吉野山のすべての神霊に響くような見事な音を響 かせる。音楽に乗って静は、一世一代の気迫をもって謡い舞う。

社の周囲には、吉野山の人々が、黒山の人だかりとなって取り囲んでいる。思わぬ出来事に息をこらすし、すすり泣いている者もあちこちに見られ る。余りに美しい。舞の世界で、天賦の才を持った静が、この時とばかりに舞っているのだ。吉野山は、舞一色となった。音は、義経主従が奏でる音以外には聞 こえない。

やがて静かに静の法楽の舞が終わる。人々は、終わった瞬間、神を観てしまった者のように、ため息を付き義経一行に祝福の拍手を送った。

義経の運は、これによって開けるように思われた。

安堵の表情を浮かべながら、吉水院で一夜を過ごした義経主従であったが、翌日十五日、運命が暗転した。というのは、十一月十三日に、兄頼朝の強 い政治的圧力によって、影になり日なたになって義経を支援してきた後白河法皇が、義経を捕縛しろとの院宣(いんぜん)を発し、その院宣を携えた都の使者 が、十五日、早朝、吉野山の法印に、この文書を手渡したのである。

法印は、この事実をすぐに義経に告げた。義経は、兄頼朝の手がついにここまで伸びてきたのかと考え愕然となった。と同時に、この吉野山に迷惑を 掛けれないという気持でいっぱいになった。すでに昨日の法楽の舞で、大衆らも、義経一行が、この山に入っていることは、知れ渡っている。法印は義経をかば いつつも、吉野山の指導者たちにこの文書のことを告げ、どのように対処するかの議論が始まった。

この時、義経は、直ちに、吉水院から奥宮のあるところに隠家を移すことになった。

それが、この蹴抜塔と云われる周辺ではないかと思われる。つまり義経が吉水院に停泊したのは、十二日から十四日までの三日間と推測される。十五 日夕方には、一行は、密かに奥宮近辺に居を移して潜んでいたのではあるまいか。
 

雪深き吉野の山野かき分けて勇者は進む存在賭して


蹴抜の塔から西に京の方向を望む
(2004年11月20日 佐藤撮影)
 

蹴抜の塔から金峯神社に続く道
(2004年11月20日 佐藤撮影)




史料
西 国三十三所名所図会」より

凡例
臨川書店版 「西国三十三所図会」(平成三年四月刊)を底本にして佐藤が現代語訳したもの。
同書の原典は、解題によれば、嘉永六年(1853)年三月刊行。編集は鶏鳴舎の暁鐘成。
 

○蹴抜塔の古趾(けのけのとうのこし)

金精の社の奥の100mばかりにある。この辺りの字名を隠家という。文治元年、源義経この塔の内に敵勢の追手の奇襲を受けた際、この塔を蹴抜けて、 下谷、宮滝の方へ落ち、西河へ敗走したと云われる。昔は五重の大塔であったが、今は塔の下の部分のみ残って、覆いの屋根を設えて古趾となったものである。 またこの辺りに(義経)鎧掛の松と云われる松があった。

○金精大明神社(こんしょうだいみょうじんしゃ)

二の鳥居の向かいにある。延喜式神名帳に云う金峯神社。

吉野山の地主神なるが故に、金御嵩(かねのおたけ)の号がある。祭神の垂迹は未詳。

(国史)「三代実録」に曰く、(金精大明神は)貞観元年正月二七日甲甲金峯神に、正三位を授かると云々。又同年八月、従五位下行備後権介藤原朝臣山 蔭と外従五位下行陰陽権助兼■(おん:こざとへん+月)■(よう:こざとへん+日)博士滋岳朝臣川人らを遣はし、大和国吉野郡の高山において祭礼を執り行 わせた。又同五年二月にも、吉野郡の高山にて祭事を行わせたが、このふたつとも、螟蜷(ママ)五穀を害することを禳(はら)う神事であった。この祭事を 行った場所が当社ではあるまいか。すなわち金精神社は、金峯山の鎮守にして吉野八大神の第一の神であると云われる。

○二の鳥居(にのとりい)

牛頭天王社のつづきにある。修行門とも呼ばれる。

○高城山(こうぎやま)

街道の左に見える山である。俗に城山とも呼ばれ、大塔宮の城跡と伝えられる。文治年中に佐藤忠信が、腹を切ったと追っ手を欺いたところも、この山で はないかと云われている。大体宮瀧はこの下辺りにある。
 
 

金精神社と蹴抜の塔
(西国三十三所名所図会より)


2004.11.25
2004.11.27 佐藤弘弥

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