義経
公願成甲冑載兜式について
午前11時より、くりでん栗駒駅から間近のみちのく風土館前で、義経公の御首と御胴を神事によってひとつにする「願成甲冑載兜式」が執り行われた。これは
6年前の1999年7月24日、神奈川県藤沢市の白旗神社より500キロの徒歩の行脚を終えて、栗原寺入りした菅原次男氏が、そこから馬に乗って、栗駒入
りし、当時の栗駒町長などの列席のもとに、「願成甲冑載兜式」を行ったことに因み、みちのく風土館で行うことになったのである。馬から消えゆく「くりでん
義経号」に乗り物を代えての趣向であるが、義経公はこれをいかに思っておられるのか。そんなことを思うと、感無量であった。
栗駒駅駅前に立つ「みちのく風土館」は、元々昭和8年(1933)初期に建てられた石造りの米蔵(米倉庫)である。堅牢でがっしりとした造作は、古きよき
日本人の心を映しているようで実に美しい。近年、この建物を、「みちのく風土館」として、再利用することになり、様々な催しが開催されるようになった。3
年ほど前には、菅原氏の500キロの旅が「源義経ロマンの旅パネル展」として開催したことも懐かしく思い出される。
JR石越駅から乗り込んだ静御前一行と沢辺駅で合流した義経公一行は、思わぬ時代絵巻が目の前で繰り広げられる様を、びっくりしながら見つめる「くりでん
ファン」の熱い視線とフラッシュを受けながら、10分ほどで、栗駒駅に降り立った。一行は駅の北口を左に折れて、100mばかり行列をした。先達役の藤沢
市在住の郷土史家平野雅道氏を先頭に、みちのく風土館前の特設式場に到着したのであった。
義経公は文治五年(1189)4月30日、衣川館において泰衡に急襲され、自害を遂げる。その御遺骸は、衣川の張山の雲際寺に安置されたと推測される。そ
こから御遺骸は、聖地平泉を大きく避けるかたちで迂回し、衣川から骨寺、都田に至る古道を通り、判官森という沼倉氏ゆかりの地に安住の地を得たものであろ
う。いつも私は判官森に立つと、白昼夢のようなイメージが脳裏に浮かんで来る・・・。
無言で進む義経公の御遺骸を担った一行は、白装束の担ぎ手の周囲を屈強な武者たちが、護衛するなかを、あたかも白龍のようになって、鎌倉に向かう。街道の
両肩には、義経公の人柄を知る者たちが、涙を流しながら、深々と頭を垂れ、稀代の英雄の最後の行進を、その影が見えなくなるまで見送っている。童たちは、
憧れの義経公が亡くなったのだと知らされて、葬列を追いかけてゆく。
沼倉小次郎高次は、ひとり友でもあった義経公の御胴の納められた黒漆の棺をじっと見つめながら、男泣きに泣いている。
「自分にもしもの事があれば、君の領地のあの森に鎮めてくれ。そこから永遠に栗駒山をみていたい」
高次は、生前の義経公の言葉を思い出していた。まさかそれが現実になろうとは・・・。こうして義経公の御遺骸は判官森に葬られたのであろうか。
一方、藤沢の白旗神社境内の井戸で洗い清められたもう一方の御遺骸は、文治5年得6月13日、腰越の浦で、首実検に処せられ、その遺骸は、再び
白旗神社境
内に運ばれ、怨霊になるのを畏れた頼朝によって、陰陽師たちが呼ばれ、その命によって、義経公の御霊(みたま)は白旗境内に封ぜられる形で鎮められたとみ
られる。
分断された義経公のふたつの御遺骸は、810年の間、誰に気づかれることもなく、そのままの形で眠っていた。しかし菅原次男氏を判官森に呼び寄せ、彼をし
て藤沢に向かわせ、ついに1999年6月13日、ふたつの分断されていた御遺骸は、元のひとつに戻ったのである。それが1998年に行われた
菅原氏の500キロの旅の成果であったのである。