判官森での源義経公生誕祭2006
前
夜祭 栗
原寺出達式 く
りでん廃線を惜しむ 願
成甲冑載兜式 神
楽奉納
白馬山栗原寺にて
(2006年7月16日 午後9時35分 白馬山栗原寺にて出立式 佐藤弘弥撮影)
栗原の古刹に集ひ判官の無念偲びて出立式とす
今年の生誕祭には、義経公ゆかりの山形県最上町瀬見温泉から、早朝にも関わらず、観光協会の方々が駆け付けていただい
た。夏季
シーズンのかき入れ時に生誕祭にご参加いただいたお気持ちに拝みたい気持ちになった。その上に、当日の仮装行列には、瀬見温
泉観光協会の高橋氏(瀬見グランドホテル「観松館」社長)自らが、武蔵坊弁慶
役を買って出られ、また最上町の郷土史家斉藤寅雄氏のお孫さんには北の方役に扮していただいた。山形県瀬見温泉は、宮城と山形の国境にある古くから開けて
いた名湯である。この地は、義経記
に記されているように、義経公の北の方が、義経公の女子を産んだところとされる義経公ゆかりの地である。この時、弁慶は産湯を汲むためにさまざまな活躍を
するなどの伝説があり、昨年度NHKの大河ドラマ「義経」の放映があり、義経に関するシンポジウムに、菅原次男氏が参加したことから、義経公ゆかりの地と
しての交流が始まり、今日に至っているとのことである。
*資料 最上地方の義経伝説
義経公
の北の方に扮した女性にポーズをつける村山直儀画伯
栗原市栗駒尾松にある白馬山栗原寺において藤沢市の郷土史家平野雅道氏の口上により、出達式が開始された。その後、住職
による法要が厳かに営まれた。これは6年前、菅原次男氏が、神奈川県藤沢市の白旗神社で、義経公の首と胴を合わせて、御霊土とし、そこから500キロの道
程を徒歩で歩いた偉業を仮想的に再現するための儀式である。すなわち栗原寺を白旗神社と見なし、義経公の御神体は、沼倉の判官森を目指して北上することに
なるのである。
判官森に向かう笈に
背負われた義経公御神体
(2006年7月16日午前10時 佐藤撮影)
栗原寺と大河兼任について
栗原寺(りつげんじ)のあるこの辺りを、栗原(くりばら)と、地元では濁音で発音する。この地が、栗原市(栗原郡)の名の由来ともなったと考えられる。近
くには伊治公呰麻呂
(これはりのきみあざまろ)が大和朝廷に背いて反乱を起こした伊治城(これはりじょう)跡と見られる遺跡がある。また呰麻呂一族の墓ではないかと見られて
いる鳥谷崎古墳群がある。呰麻呂は、蝦夷(えみし)と侮蔑の言葉で呼ばれた先住民族の出自である。大和朝廷の北進政策に伴い、緑豊かな栗原周辺の王のよう
な立場だったと思われ
る呰麻呂一族に、大きな軍事的圧力がかかる。朝廷側は姓(かばね)というものを与えて、懐柔しようとする。呰麻呂は、しぶしぶ、栗原地方の領主ほどの意味
を持つ「伊
治公」(これはりのきみ)の姓を授かり、北上する大和勢力と平和共存する道を模索した。しかしながら、度重なる侮辱を受け、ついには国史「続日本紀」
(しょくにほんぎ)に大きく記されるような叛乱(780)を起こすことになったのである。
栗原寺の正式名称を、「白馬山栗原寺」と言う。現在、真言宗新義派(総本山京都市下京区智積院)の寺となっている。栗原
寺は、吾妻鏡にも記述されている通
り、義経公が奥州平泉に上る時に身繕いを整えるために停泊したとされる
古刹である。往時、栗原寺は、三十六坊、千人の僧侶を抱え、伽藍は荘厳を極めていたという。寺周辺は、奥大道と呼ばれる平泉へ向かう表玄関口にあたり、栗
原寺は、単なる寺というよりは、空堀が周囲を囲み、僧兵たちが守り
を固めているよう
な軍事的拠点の役割を果たしていたと思われる。ちなみに、義経公が16歳でみずから元服を果たし、平泉に上ろうとした時には、義経公の周囲を屈強な僧兵五
十騎が固めていたと伝えられる。しかし隆盛を極めた栗原寺も、義経公殺害後、鎌倉勢が押し掛けた際には、戦場となり、立ち並んでいた伽藍群も灰燼に帰し、
一面の草
むらとなってしまったと思われる。
栗原寺で忘れてはならないエピソードがある。それは奥州平泉滅亡後から僅か3ヶ月後、「我は奥州の大将軍義経なり」と言って、文治5年12月の厳冬
の秋田県の大川村(八郎潟沿岸部、現五城目町大川付近?)とされる)に突如として立ち上がった大河次郎兼任という人物のことである。彼は安倍氏の血流を引
く出自といわれ頼朝政権敗れ去っ
た後においても、奥州藤原氏に強い恩義とシンパシーを持ち続ける信念の人物だった。
吾妻鏡は、この衝撃的事件を次のように記している。
「叛逆を企て、ある
いは伊予守義経と号して、出羽国海邊庄(あまべしょう)に出で、あるいは左馬頭義仲の嫡男朝日冠者と称して、同国山北郡(せんぽくぐん)に起ち、おのおの
逆党を結び、ついに兼任、嫡子鶴太郎、次男於畿内次郎、ならびに7千騎の凶徒を相具し、鎌倉の方に首途す」(吾妻鏡第十、文治六年正月六日
辛酉の条 初見)
この記事を読むと、山形や秋田の大河一族が各地で、蜂起を開始し、これがひとつになって、平泉を奪還し、返す刀で鎌倉に攻め込もうとの戦術だったよ
うである。
しかし兼任を突然悲劇が襲う。「秋田・大方より志加の渡(しかのわたり)をう
ち通るの間、氷にわかに消えて、五千余人たちまちもって溺死」(吾妻鏡、同日)してしまう。「志加の渡」という場所はどこか分からないが、
八郎潟で、かつて鹿が恐る恐る渡るような場所であったのだろうか。結局、僅
か2千騎となった兼任軍だったが、それでもひるまず多賀国府を目指す。その間、兼任は秋田の由利維平を敗死させ、次に津軽の地頭宇佐美実政らを攻め
滅ぼすなど大暴れをする。そして秋田方面から栗駒山周辺を迂回し陸奥に入り、平泉を経て栗原郡一迫方面まで進出したのである。事故で味方軍の大半を失った
兼任軍であったが、奥州藤原氏にシンパシーを感じる兵が集合し、いつの間にか一万騎ほどになっていたという。
これに対して、頼朝は、それぞれ海道を千葉胤正に、山道を比企能員に大将軍に任じて大軍を派遣。さらに上野・信濃の御家人を増強し足利義兼に任せ、
彼らには「兼任の首をあげるまで帰って来るな」と言い放ったのである。
一時期、孤立していた頼朝の代官葛西清重らは、千葉胤正や、比企能員、足利義兼らと合流し大軍となった。そして両軍は、栗原郡一迫周辺で雌雄を決す る合戦に及んだ。結果は兼任軍の大敗となった。わずか五百騎ばかりとなった兼任軍は、それでも栗原周辺に陣を張り、平泉衣川を襲う構えを敷いた。こうして 戦線は衣川にまで拡大した。しかし敗戦を重ね総崩れとなった兼任軍は、ついに文治6年2月12日、壊滅状態となり兼任以下散り散りとなって逃亡した。ここ でいったん兼任は、故郷近くに逃げて潜伏し、山城を築いて、ゲリラ戦を展開しようとしたのであった。しかしここでも足利義兼に陣地を急襲され、兼任はたっ たひとりとなって山野の奥へ消える。
文治6年3月10日、進退窮まって潔い死に場を求めてさまよっていた兼任は、最後の力を振り絞り、亀山を越えて、ついに敬愛する源義経公 ゆかりの栗原寺に至る。その時の出で立ちは「錦の脛巾(はば き)を著け、金作(こがねつくり)の太刀を帯く」(吾妻鏡 文治六年三月 十日の条)というものだった。それを「樵夫(きこり)等怪しみをなし、数十人こ れを相囲み、斧をもって、兼任を討ち殺すの後、・・・この首を実検すと云々」(同書、同日)と、吾妻鏡は記している。まさに奥州藤原氏の武 者の心意気を貫いた見事な最後だった。こうして大河兼任の反乱は鎮圧されたのである。 以来、大河次郎兼任は、反逆者と見なされ、墓所さえも伝えられていない。私は奥州に対する誇りとアイデンティティを持った英雄的人物大河次郎兼任公の再評 価が極めて近いうちに行われるものと信じて疑わない。その時には、この義経公ゆかりの栗原寺に、兼任公の顕彰碑が建立されることであろう。
芭蕉のことを記しておこう。彼が元禄二年(1189)の初夏において、平泉から、踵(きびす)を返して岩ヶ崎を通り一迫
に抜ける時、残念ながら、この栗原寺を訪れていない。それは、おそらく、この寺周辺が、夏草に覆われたままになって荒廃していたからだろう。奇しくも、芭
蕉が奥州にやってきた元禄二年、この古刹は、仙台の恵澤山龍宝寺(仙台城鎮護の大崎八幡宮の別当寺で仙台藩屈指の名刹)の宥日という僧侶によって、医作山
上品寺(じょうほんじ)として再興され、今日に至っているのである。
栗 原の寺に詣でて判官と兼任公の御霊に敬礼す