源義経公生誕848年 ふれあい祭り

判官森での源義経公生誕祭2006

前夜祭 栗 原寺出達式 く りでん廃線を惜しむ  願 成甲冑載兜式 神 楽奉納



源義経公奥都城の碑から判官森を遙拝
(2006年7月15日 源義経公生誕祭前夜祭 佐藤弘弥撮影)

 しずしずと奥の奥都城夕暮れて炎に浮かぶ木木の気高けき

 
 判官森の源義経公生誕祭の由来について

今年も源義経公の生誕祭が、義経公の胴塚のある栗駒山の麓の里山判官森(宮城県栗原市栗駒沼倉)で催された。同祭りは、 去る1999年6月13日、源義経公の分断されて御遺骸と御首をひとつにしてその霊を弔おうとの決意のもとに、神奈川県藤沢市の白旗神社(義経公の首塚の あった聖地)の土と判官森の土を白旗神社の神前において神事を執り行い合て、義経公の御霊土(みたまつち)として御神体となり、そこから43日の日数を かけて、無事運ばれたことを記念し、翌年から開催されてきた行事である。

祭は、前夜祭から開催される。昨年から、かがり火や蝋燭を灯して、判官森の周囲を浮かび上がらせる火祭りの色彩が濃くなった。但し2006年7月15日 は、あいにく小雨が降ったり止んだりの天気で、火の点灯は仮設遙拝所の敷設されている「JA栗っこ栗駒」ふれあい広場内に限定されたものとなった。それで も宵闇の迫る頃、会場のふれあい広場周辺の蝋燭に点火されると、奥都城の碑や内陣が幻想的に浮かび上がって、たちまち源義経公の御霊を迎える厳粛な雰囲気 が醸し出されたのであった。

さて、この祭のそもそもの由来となる不思議なエピソードについて記しておきたい。
それは6年前に遡る。1999年6月13日から7月25日まで、源義経公の迎霊特使として、藤沢白旗神社から栗駒判官森間500キロの道程を歩いた人物が いた。当時58歳の菅原次男氏である。菅原氏と源義経公の結びつきは、実に不思議なものであった。菅原氏が、この判官森の前を車で通った時、ラジオから耳 慣れない琵琶の音と謡が聞こえてきた。何だろうと、思ったが、その時は余り考えずにいた。次にまたこの判官森を通過しようとした時、また琵琶の音と共に悲 しい旋律が耳に届いたというのである。

背中に冷たいものを感じた菅原氏は、すぐさまラジオ曲に電話を入れてみる。すると「世界的な琵琶奏者の鶴田錦史師(薩摩流)の平家琵琶で義経公の雄姿を 謡っ た下りです」との回答を得たのだった。昔から地元では、「判官森には、源義経公の亡骸が葬られているという話が伝わっている」ということを聞き菅原氏は更 に驚いた。調べてみれば「奥羽観蹟聞老志(おうしゅうかんせきもんろうし)」や「平泉雑記」などの信憑性の高い地誌に、「沼倉の地は、沼倉小次郎高次(藤 原姓恵美氏)の治める地にして、高次は義経と親交があって、同地に義経の遺骸を葬った」との記述があることを知り、菅原氏は、これをきっかけに義経公にの めり込んで行ったのである。

1999年6月13日、奇しくも義経公の御首が、腰越の浦で、首実検に供された日、白装束の山伏姿に扮した菅原氏は、朱色の笈に白旗神社境内で合わせた義 経公の御霊土(御神体)を背負って、東海道藤沢宿から奥州街道に入り判官森を目指したのである。そして7月25日、菅原氏は、支援者の力添えもあって、義 経公ゆかりの地を巡りながら、無事栗駒沼倉の地に還ってきたのであった。




右に義経公の御霊土を納める神棚(内陣)・左に奥都城の碑
(2006年7月15日 午後7時半 佐藤撮影)

人 の世の儚さなりや判官の御霊鎮めし森仰ぎみる


 御霊迎えの前夜祭について

私は昨年参加しそびれた生誕祭(特に前夜祭)に参加したいと思った。それは、昨年(2005)から始まったという火を焚いて義経公を迎えるという前夜祭の 趣向によるところが大きかった。古来より日本各地では、夕暮れ時に、火を焚き、先祖の御霊を迎える習慣がある。お盆の迎え火の風習だ。火は御魂を迎える灯 明であり、火は御霊そのものである。つまり先祖の御霊は、火によって迎えられ、火と合一し、その火を見た今を生きるものは、清心な気持となって、火を拝む のである。ただし火祭りにも、荒々しい系統の祭りと粛々とした静かな系統の祭りがある。

義経ゆかりの京都の鞍馬山由岐神社の火祭りは、前者の荒々しい祭りに入る。毎年十月二十二日に開かれるこの祭りでは5mにも及ぶ200本の大松明が夜遅く まで一山を巡行するのである。火は人の心を高揚させ、人間の闘争本能を刺激するものがある。この場合火は、男性のシンボルの象徴ともなり、女人が祭りに参 加することができないようなケースもある。平泉の冬、毛越寺で行われる二十日夜祭の最後に行われた火祭り(蘇民将来祭の名残?)は、やはり荒々しい火祭り であるが、戦後の頃までは、女性がみることは許されない男性の祭りだったようだ。

一方、お盆の終わりに各地で行われる灯籠流しは、静かな系統の火祭りである。竹製の灯籠に火を入れて、川や海に流して、先祖の御霊をあの世に送るのであ る。

今年で五年目になる「判官森源義経公生誕祭」も静かでしかもしめやかな御霊迎えと送りの祭りである。

判官森の麓には水田が拡がっている。その水田の畦道の越えて、例年会場となるJA栗っこ栗駒ふれあい広場がある。

義経公は、雨男のようで、彼の行事の時には、いつも雨がちになる。2006年の生誕祭も同じだった。午後七時、雨蛙が鳴き雨がさらさらと降ってきた。ふれ あい広場の周囲に置かれた蝋燭に火が入れられると、雨に濡れた田んぼの稲が青々と浮かび上がる。その背後に夏草と木々に覆われた判官森が聳えている。義経 公の御霊は、火に誘われるように、源義経公奥都城の碑に降臨したのだろうか。そんなことを思うと、雨が義経公の涙に思われて切なくなった。辺りが次第に暗 くなり、稲を叩く雨音が強くなって、奥都城の碑が、いっそう幻想的に浮かび上がったのであった。

日本人は、最近特にほの暗い火の中で生活する習慣がなくなった。昔日本人の生活は、夜は行灯(あんどん)やランプでの生活が中心で、光はそれほど鮮烈では なかった。その為に、蛍の光で勉強したという逸話が昔は現実的に語られることがあるが、今、それはギャグにもならない。現代日本人は、火から発せられた光 を文明の恩恵と考える反面、それに慣れっことなり、ほの暗い光の中で心を落ちつかせ集中するという習慣をなくしてしまったのである。その為に、私たちの心 は、ざわざわとざわつき、ゆとりがない。すべてをあからさまにする過剰な光の中で、闇の世界に対する畏敬のようなものが失われてしまったのではないだろう か・・・。

ほの暗い光の中で、義経公の御霊に手を合わせていると、雨がいつの間にか上がって、遠くで蛍の光が明滅するのが見えた。



源義経公奥都城の碑

 奥都城の碑と内陣について

判官森の麓に「JA栗っこ栗駒ふれあい広場」がある。その一角を借りて、奥都城の碑と神棚は、配置されている。この奥都城の碑の表には、

源義経公奥都城

背後には、

神奈川県藤沢市の源義経公の御分霊を迎霊し
判官森御葬礼所の源義経公御分霊を合せ祀る
平成十一年七月二十五日
迎霊先達  建立

と極めてシンプルに記されている。

またこの巨大な神棚(内陣)は、菅原次男氏の義経公を思う心に感銘を受けた日本美術工藝社(平泉町)の柳澤社主の寄贈によるものであった。氏は昨年 まで、百歳を越える高齢をおして、生誕祭に元気に参加されていたが、2006年の今年は、残念ながら、ご体調の関係で、お顔を見ることは叶わなかった。氏 は菅原氏の有力な賛同者のひとりで、迎霊のための朱色の笈や義経公の御神体に見立てた鎧と兜を自ら製作し、菅原氏を勇気付けた人物である。柳澤氏の一日も 早い回復を祈りたいものだ。




藤沢市から郷土史家平野雅道氏来訪
(2006年7月15日 午後7時半 佐藤撮影)


「永訣の月」の洋画家村 山直儀画伯来訪
(2006年7月15日 午後7時半 佐藤撮影)

人 の縁ふしぎなるかな判官を祀る縁から生涯の友


 生誕祭にふたりの友奥州へ来る


2006年の生誕祭には、菅原次男氏の盟友とも言うべき二人の友が関東より駆け付けた。ひとりは白旗神社との縁を取り持った神奈川県藤沢市在住の平野雅道 氏。もう一人は、義経公最期の肖像と言われる傑作「永訣の月」を描いた東京都中野区在住の世界的な洋画家村山直儀氏である。

平野氏は、1999年1月突然、菅原氏から電話があり、藤沢市にある「義経公首洗い井戸」や「首塚」の話をし、「是非白旗神社で、800年以上も分断され たままになっている御遺骸を合わせ祀りたい」と極めて単刀直入に切り出された。初め、「どんな人物か?」との思いが湧いたが、次第に真剣な熱意のこもった 話しぶりに、神社の氏子総代や宮司に相談すると、話はとんとん拍子に進んだ。2月には、菅原氏が藤沢市を訪問し、具体的に鎮霊祭において、ふたつの地域の 土を神事によって合祀しようということになったのである。まさに源義経公が結びつけた縁というべき人である。

村山直儀氏は、近年ロシアのバレリーナを描いたシリーズや女優の肖像画を描き、被写体の内面の葛藤さえも描き切ると言われる洋画界の鬼才である。ある時、 義経狂いと言われる菅原次男氏の話を聞くと、「面白い。是非会ってみたい」と、菅原氏の経営する栗駒山の温泉宿「くりこま荘」にやってきたのである。 2001年夏のことであった。意気投合したふたりは、義経公の心意気を描く肖像のイメージを語り合い、「永訣の月」のコンセプトが出来上がる。村山氏は、 これまでの武人義経公のイメージを一変させるような劇的で雅な義経公の姿を描こうと神経を集中した。そして半年後完成したのが、2002年3月に完成した 「永訣の月」なのである。以来、村山氏は、源義経公に関わる絵を特に「歴史画」と自ら呼んでライフワークのひとつにしている。これまたふしぎな縁で結ばれ たふたりである。



つづく

2006.7.18 佐藤弘弥

義経伝説

くりこ ま荘HP