衣川の岸辺のコンクリ化は如何?!
衣川の対岸から金色堂の背後に沈みゆく日をみる
(2003.12.30 佐藤撮影)
衣川の水面に遊
ぶ光たちは光堂より出でし童か
衣
川を歩いて感じたこと
「人奢るなかれ。自然に対し謙虚であれ」
2003年、昼過ぎ、高館を下り、中尊寺の前を国道四号線を北に歩いてゆくと、右には工事現場の飯場があちこちに見えた。さらに衣川橋の堤防づたいに、
JRの赤い鉄橋の方に歩いてゆくと、護岸にテトラポッドのようなものが、積まれているのが見えた。やがて衣川の河口付近は、すべてコンクリートに変えられ
てしまうのだろうか。
いったい一昨年国会で成立した自然再生法の精神は、どこにいってしまったのか、と少々腹立たしい気持ちになった。昨年(2003)七月、国土交通省は、
「美しい国づくり政策大綱」を発表したはずだ。その中で、国交省は、「景観」に対する配慮がなさすぎたとの反省の弁を述べている。しかし、この衣川の護岸
工事や太田川でやった工事を見る限り、そこには反省があるとは思われない。
衣川橋を渡り、対岸の岸辺を上流に向かって歩く。少し歩くと、古いコンクリートの護岸が現れた。興ざめだ。ここで何枚か写真を撮る。時計を見ると、三時を
過ぎたばかりだが、既に日は、西に傾き、対岸の関山中尊寺の山陰に隠れようとしている。衣川に冬の日が反射して、キラキラと光が踊っているように見えた。
以上のように、衣川からも自然さがどんどんと奪われつつある。衣川も太田川のように護岸工事で、堤防がかさ上げされつつあるのだ。ホントにこんなんでいい
のかという気がする。何度見ても、悲しい光景だ。何で何の躊躇もなく簡単に神の領域を狭めて、人間の領域に変えてしまうのだろう。これは人間の奢りそのも
のではないのか。本来「洪水」と「水害」とはニュアンスが違う言葉だった。「洪水」とは、かつて、川の神さまがもたらしてくれる恵みであった。しかしそれ
は今、「水害」と同義語となった。この変化は大きい。人間の意識の変化がそこに反映しているのだ。
川のもたらすはずの恵みは、化学肥料にとって変えられた。現代人が勝手に作り上げた科学の神とやらは、そんなに偉大なのか。ダムに象徴される河川対策が、
完全に手詰まりとなり、その方針を主導してきた欧米各国が、脱ダムの方針を明確にしている中で、我が国は、依然としてその方針を是としている。過疎が叫ば
れ、日本人の人口が減っている中で、平泉のような奇跡的に自然が残っている都市を、開発し、破壊しようとするのか。
かつて日本人は、もっと自然に対して謙虚だった。平泉が、黄金の都だった頃、まさに都市「平泉」は水の都だった。その都市には、どこにも水が湧き、いたる
所に池があり、北上川や衣川は、都市の中を蛇行するするように流れていた。
考古学の最新の成果によっても、平泉の界隈から、中世における水害の爪跡のような遺跡は見つかっていない。何故か、それは、おそらく、初代清衡が、平泉と
いう都市を建設するにあたって、その都市をこの地上においてもっとも神聖な場所にしようと考えていたからではないか。つまり、川の領分を侵すような無茶な
開発をしていなかったからだ。
平泉は「平らな泉」と書く。この名からは、いたる所で、水が遊んでいるような都市のイメージが湧いてく
る。実にいいネーミングだ。しかし今、平泉のいたる所で行われている工事は、そんな平泉のかつてのイメージとは逆行するものだ。初
代清衡公が建都した平泉は、元々、神仙思想によって神の意志を占って選ばれた聖都だった。そこには、神の領域を犯さずに少しだけ借用させていただくという
「謙
虚」な都市作りの思想(ポリシー)が貫かれていた。したがって、われわれは、もう一度、清
衡公の祈りが込められた「中尊寺供養願文」を読み返してみる必要がある。何故なら、「願文」には、平泉という黄金文化を受継ぐ者へ
のメッセージが書き込まれているからだ。
「願文」に、じっと目を凝らしてみる・・・。すると、幽かに、誰かの声が聞こえてくる。
「人奢るなかれ」、「自然に対しもっと謙虚であれ」、「平泉の地を恒久平和の都とせよ」・・・。
声の主は、紛れもなく清衡公だ。声は、怒りに震えている。平泉が、このままでいい訳がない。
西行が焦がれ尋ねし松が根を我も見むとて衣川ありく
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