花矢倉

秋の吉野山義経伝説紀行 金峯山寺蔵王堂
 

金峯山寺  吉水神社  勝手神社  佐藤忠信花矢倉  西行庵  義経蹴抜塔  狐忠信慰霊の碑  静の舞衣装 
 

西国三十三所名所図会

花矢倉・佐藤忠信が防ぎ矢を射た趾
(2004年11月20日 佐藤撮影)


奥千本からだらだらと続く坂道を下り、水分神社を過ぎると急に見晴らしが良くなってくる。晩秋の夕暮れが迫っている。眩しい陽射しを遮りながら、中千本から下千本にかけての堂塔、宿坊にカメラを向け、シャッターを何度か切った。程よいカーブを曲がると、花矢倉と呼ばれる粗末な矢倉の舞台が組まれている場所があった。曲がり角には、落葉に埋もれて、「謡曲『忠信』と花矢倉」のタイトルの付いた板碑があった。

そこには、吉野の義経逃亡の際し、自ら義経の格好をし、「我は義経なり」と追いすがる敵を引きつけ、敵の大将である横川覚範という豪傑を倒した能「忠信」のことが記されていた。板碑の端には、「謡曲史跡保存会」とあった。今でも、義経一行の歴史が語り継がれていることに言いしれぬ感動を覚えた。

この能「忠信」は、「義経記」巻第五がベースになって成立したものであるが、更にこの謡曲が発展して、江戸期には「義経千本桜」という歌舞伎として脚色されたのである。

佐藤忠信(1161?-1186)について、少し触れておこう。忠信は、奥州藤原氏の重鎮湯の庄司(現福島県飯坂)と云われた佐藤元治(?-1189)の四男であり、屋島の合戦で義経の身代わりとなって矢を受けて亡くなった兄三郎継信(1158-1185)と共に、義経が奥州から頼朝の石橋山の旗揚げする時からずっと義経を護るために尽力してきた武者である。義経が従五位下の官位を受けた時には、兄亡き後に義経主従の中で唯一官位を授かった武者である。佐藤氏の出自は、藤原秀郷の流れを汲む家系であり、その血脈は、奥州藤原氏に通じ、佐藤義清の俗名を持つ西行法師とも同族に当たる。最近の研究では、佐藤氏がこれほど、義経に肩入れした背景には、義経の奥州の最初に娶った妻が佐藤氏の娘であるということが云われるようになった。そうでなければ、これほど義経に執心する理由が見あたらないからだ。つまり義経は、元治にとっての娘婿に当たり、鎌倉で云えば、頼朝を婿とする北条氏の立場と同じということになる。奥州白河の関(福島県)には、「庄司(元治)戻しの桜」という名所がある。白河の関は、奥州と関東の国境に当たるが、ここまで、頼朝の陣に馳せ参じようとする義経に継信、忠信兄弟と80名の屈強の武者を付けた佐藤元治が、ここまでおよそ80キロほどの距離を見送りに来て、携えていた桜の木の杖を道ばたに挿して、「もしも私の息子達が、義経殿をお守りして、抜群の功を上げるとしたら、桜よ。この地に根付け」と願をかけたものと伝えられる。
 

さて静が捕縛された翌日の文治二年(1186)十一月十八日、吉野は騒然となった。それは後白河法皇から義経捕縛の院旨が下った以上、これ以上、もしも義経を匿っているとしたら、単に頼朝いる鎌倉だけではなく日本中を敵に回すことになる。意見は、ふたつに割れたが、吉野が戦禍にまみれるような危険を犯すことはできない。そこで仕方なく、吉野は義経を捕らえる決意をすることになる。義経もまたこれ以上、吉野の人々を悩ますことはできないと判断を下す。

忠信は、義経を逃す為に、逃亡の殿(しんがり)を買って出る。万が一、追手が迫ってきた時には、自らが砦となって、義経を逃がす覚悟である。この時の情景を描いた日本画がある。義経と頼朝の出会いを「黄瀬川の陣」として描いた天才安田靫彦(1884-1978)が弱冠十六才の若さで完成させた「吉野の別れ」という作品である。場所は、おそらく廃寺となった安禅寺であろうか。この寺は、明治の廃仏毀釈の嵐の中で、廃寺となった金峯神社と青根が山の途中にあった寺であった。ここで忠信は、義経の鎧と太刀を拝領し、敵を引きつけ後に追い付くことを約束して、止まるのである。静は、この場所から、少し行ったところにある「女人結界」の碑の前まで義経一行を見送り別れたと思われる。これが17日の昼頃、静はお供の雑色に守られて京都で義経と落ち合うはずだったが、雑色たちの裏切りにあって、17日夜中、道に迷って、藤尾坂付近を彷徨っているところを捕まってしまうのである。

忠信は、その夜は、義経一行とは別に隠家に留まり、敵の来襲を防ぐ役目を負った。今か今かと追手を待っていたが、一向にやってこない。


花矢倉を下から見る
(佐藤撮影)


花矢倉の辺りは、別に中院谷とも呼ばれる。ここでいつ何時、佐藤忠信とその郎等たちが、義経一行を捕らえようと追ってきた手勢と相対したのかは分からない。義経記では、師走の20日の事となっているが、正確には吾妻鏡の静が捕まった17日の翌日の18日と考えるのが妥当であろう。衆徒の追手たちは、おそらく静の供述を元に、逃亡ルートを推測し勇んでやってきた。義経記では衆徒300人とあるが、もっと少ない人数だったかもしれない。

忠信と歴史上でも名高い花矢倉の決闘を行った横川覚範について触れてみる。この人物は、紀伊の鈴木党の出自で、当時41才。乱暴な振る舞いから紀伊を追われて一時奈良の東大寺に寄宿していたが、狼藉が過ぎたのか、ここも追われて、比叡山の横川谷に流れ着いたが、ここも居られなくなって、この二年余り、吉野山の川連の法眼の元に身を寄せていたと伝えられる。この経歴をみても、出自といい、腕力に秀でた豪傑振りといい、武蔵坊弁慶との類似点が多くみられる。

義経記のこの記述から、ほとんどこの経歴が通説となっているが、可能性としては、経歴はさておき、義経捕縛の院宣を持ってきた中の一人で、もしもそこに義経がいるのであれば、即座に逮捕する立場として送り込まれた追手という見方も成り立つ。

さて吉野川の彼方に日が落ちた頃、雪の降り積もった吉野山を勝手神社から登ってきたのは、川連法眼というものが率いる荒法師たちである。中院谷は、上に陣を張れば防ぐに適した谷間である。当然、川連法眼は、この場所で、義経一行が待ちかまえているものと推測し、危険を避けるために下から大声で叫ぶ。

「さてさて、この辺りに源義経殿はおられるか。奥の院の付近に判官殿一行がが潜んでおられることは既に分かっておる。静殿は我らが無事捕縛した。後々京に送り届けることになろう。昨日、法皇様より、判官殿捕縛の命令が下った以上、当山は、貴公方を放置することはできない。名誉ある形で縄につかれよ。我々は判官殿に対し何らの遺恨も持ってはいない。むしろ親しい気持を持っている。声がないとなれば、もはやこれまでと自害なさったか。」

忠信は、やっと来たかと思いながら、このように叫んだ。
「さては、困った者どもかな。貴公らに質したいことがある。そもそもわが主人清和天皇の後後胤源九郎判官義経公が何をしたというのか。何の罪科(つみとが)があって、このような理不尽な目に遭うことになったか。そちたちはそこまで考えて追って来られたのか。考えてもみよ。わが主人、義経公が、命を賭けて宿敵平家一門を倒したことは知っておろう。その功績は、天下に知られている通りだ。鎌倉に居られる兄頼朝殿も、一時の讒言(ざんげん)に惑わされているだけのことで、いずれご勘気(かんき)も雪のように解けて、二人の兄弟は、必ずや、仲睦まじくなることであろう。さて、吉野山の方々はその時、何となさるつもりか。さきほど法皇様より、院宣が下ったと云っていたが、元々、後白河院は、殊更にわが主人義経公を愛されて頼りにしておられるお方である。今回の院宣は、鎌倉からの風圧によって、出た方便とわが方は解釈しておる。早々に退散されよ。さもなくば、天下に知られた源義経の戦法をお目に掛けることになる。命惜しくば、早々に退散されるがよろしかろうて。」

つづく
 


この花矢倉付近からの中千本、下千本の景色は絶妙だ
(佐藤撮影)
 
 

横川覚範の首塚跡
(中央にある岩は山伏匿れ岩で義経がこの岩の背に隠れたとの伝承あり)
(佐藤撮影)
 
 

横川覚範の首塚から花矢倉を望む
(佐藤撮影)




史料
西国三十三所名所図会」より

凡例
臨川書店版 「西国三十三所図会」(平成三年四月刊)を底本にして佐藤が現代語訳したもの。
同書の原典は、解題によれば、嘉永六年(1853)年三月刊行。編集は鶏鳴舎の暁鐘成
 

○中院谷(ちゅういんだに) 花矢倉(はなやぐら)

この下に禅定寺大将軍社、清瀧権現社、辻堂がある。中院谷は、義経が隠れていた古跡である。花矢倉は、忠信が防ぎ矢を射かけた地と伝わっている。
この谷で、文治元年冬十一月延尉(えんい)源義経は、鎌倉の追手を避けて主従十数人と共に、当山の中院谷に隠れて潜んでいたが、吉野の衆徒らは鎌倉への忠誠の為に十七日の早朝より大鐘を突いて、僧侶を集め、義経のいる中院谷に押し寄せてきたのであった。そこで佐藤四郎兵衛忠信は、一人ここに踏みとどまって、義経一行主従十六人を無事に吉野から逃がしたのであった。

○龍返(りゅうがえし)

中院谷にあり。横川の覚範忠信に討たれた古趾である。
 

○横川覚範首墳(よこかわかくはんのくびづか)

同所にあり。覚範は紀伊国の住人鈴木党の中にて横川前司覚範と名のると言う。

○山伏匿岩(やまぶしかくれのいわ)

同所にあり。源義経この岩の背にかくれると言う。

○高城山(こうぎやま)
街道の左に見える山で俗に城山という。大塔宮の城趾という。文治中に佐藤忠信が虚腹を切ったところもこの山と伝えられる。だいたい宮瀧はこの下付近にあたる。

○飯高山安禅寺(はんこうざんあんぜんじ)
金精の社を過ぎたところにあり、宝塔院と号していた。
本堂高欄の葱宝珠(ぎほうじゅ)に勒(ろく)して曰く(注:意味不明、宝塔院の名を本堂の高欄に刻んでいたことを指すものか?)

吉野山安禅寺蔵王堂。秀頼卿再建。慶長九申辰十月云々。
本尊 蔵王権現 長け一丈二尺(3.6m) 行者 役行者作 
左 役優婆塞遺像(えんのうばそくのいぞう) 
右 大黒天神

持仏堂 本堂の右後ろにあり。愛染明王を安置。
多宝塔 本堂左の後ろにあり。
鐘楼 本堂より二町ほど奥にある。四方正面堂ある。秘仏堂で安置されている仏は未詳。私が巡歴の時には、再興普請の最中であったので、仏像は他に遷して拝んでいたものかもしれない。

「大和旧跡幽考」によれば、「奥院四方正面堂は、聖観音菩薩、不動明王、愛染明王、地蔵菩薩、その脇に蔵王堂云々」、とあり、当時の頃、見堂の傍らに末社の祠(ほこら)が二カ所、休息所も一カ所あった。大峯山開帳の時には、本尊をこの堂まで大切に下山させて、集まった人々に拝礼させたと伝えられる。それ故に普段の本尊は開帳している間、宝塔院の持仏堂に遷していたということである。
 


2004.11.25 佐藤弘弥

義経伝説HP