桜・さまざま

三春の滝桜  小岩井農場の一本桜



三春の滝桜
(1998年4月21日 佐藤信行撮影)

愛姫の郷の三春の滝桜幼き姫も仰ぎ見しかな


 5 福島 三春の滝桜 伊達政宗の正室愛姫(めごひめ)の里の一本桜

福島県三春町に「三春の滝桜」(住所:田村郡三春町大字滝字桜久保)呼ばれるしだれ桜(エドヒガン系紅枝垂桜)の古木がある。この桜は、いつの頃からか、 日本三大桜(他に岐阜の薄墨桜と山梨の山高神代桜)のひとつに数えられるようになった美しい一本桜である。

この樹木は、小高い丘の中腹にある。樹高は12mと、さほどでもないのだが、幹廻りが11m近くあり、枝が東西に25m、南北に18,5mも拡がってい る。満開になった時には、さしずめ花の滝のように見えることから「三春の滝桜」の名称が付されたものと思われる。


周辺は滝桜を中心に桜の一大公園になっている
(1998年4月21日 佐藤信行撮影)

確かに下からこの桜を見上げる風情は、とにかく圧倒的な迫力がある。この周辺は、その昔、田村氏が三春藩主として開発したところである。藩主は、特にこの 滝桜を寵愛し「御用木」として大切に保護してきたようである。何でも藩主は、この桜を保護させるために、この界隈の農民の税を免除し、世話に当たらせたと いうエピソードまである。

樹齢については、桜の幹に一度穴が空き、そこに再生根と呼ばれる新たな幹が穴を埋める形で出て来たという経緯から、正確には不明であるが、専門家の見方で は、千年ほどではないかと見られている。


この桜の前 では人間はあまりに小さく見える
(1998年4月21日 佐藤信行撮影)

現在の三春町は、人口2万人を切る小さな町だ。しかし桜を大切にしながら、造られてきた美しい町である。城下町三春の風情の色濃く残る通りを、歩いている と、明らかに滝桜の子供と思われる桜が、ほどよくしだれながら、少し紅色がかった花を咲かせている姿が、そちこちに見られる。これはおそらく、この三春の 住人が、藩主ゆかりの名木を崇敬し、自分の家屋の庭に、その苗木を植樹し、家宝のように、大切に形を整えてきたものだろう。


滝桜の若木
(1998年4月21日 佐藤信行撮影)


藩主ゆかりの菩提寺や武家屋敷などにもこの滝桜の子供と思われる桜が、品良くしなりながら、千年の命を永らえている周辺で、すくすくと育っている。何と美 しい光景ではないか。

毎年、地元の住人たちは、花の時期の前には、総掛かりで、この滝桜周辺を清掃し、遠く関東から観光バスなどを連ねてやってくる花見見物の人々を迎える準備 を整えるのだという。まさに三春は、一本の桜が住民のアイデンティティとなり、生活の原動力となっている。このような町が、市町村合併の嵐の中でも、合併 をせずに存在しているのは、さまざまなことがあったにせよ、認めても良いのではと思う。何も合併で大きくなるだけが生きる道ではない。



三春の民家 の桜
(1998年4月21日 佐藤信行撮影)
三春はかつて「三春駒」と呼ばれる馬の産地で、当地の名物木製の馬の玩具「三春駒」(子育ての縁起物)もここから制 作されるようになったのではと言われる。、

吉野山は、一山全体が桜の園というイメージがある。それに対しここ三春では、ただ一本の名木が藩主によって発見され、その奇跡のような美しさを持つ桜を中 心にして、この三春という城下町の景観整備されてきたように感じられる。

ところで、私の弟は、この桜の苗木を、購入し実家の庭に植えているが、今年で丸八年になるが、一向に咲く気配がないといぶかっている。幹はそれなりに太く なり、羽振りも良いのであるが、まったく咲こうとしない。やはりソメイヨシノとは雲泥の寿命の差があるようだ。寿命の長い樹木というものは、おいそれとは 咲かない。笑ってしまうような話しであるが、そこが良いのであろう。名木の子はおいそれとは咲かないのである。

 おいそれと咲かぬ三春の滝桜 蒼き空から花ふるごとく




天空から降り注ぐ花の滝のように
(06年4月4日 佐藤信行撮影)





小岩井農場の一本桜
(写真提供 (C)野澤日出夫氏)

 6 岩手小岩井農場の一本桜 宮沢賢治と同期(?)の桜

小岩井農場は、岩手山の山裾に丘を越え森を越えてどこまでも拡がっている広大な緑の大地(三千ヘクタール)である。そこは四季折々にさまざまな表情を見せ る。中でも桜の咲く春は格別だ。

私は小岩井農場に行くと、何故か「宮沢賢治」のことを必ず思い出してしまう。賢治にとって、小岩井農場は好き嫌いを越えた特別な場所だった。それも分かる 気がする。賢治の想像力(イマジネーション)豊かな一連の作品の背後には、小岩井に象徴される岩手(イーハトーブ)の山河があったのだ。

小岩井農場には、緑の中に羊や牛や馬や鶏や牧羊犬が遊んでいる。それらの動物たちが賢治の童話に主人公で登場すれば、賢治の原稿用紙の上を縦横無尽に跳び はねて、どっかに駈けて行ってしまいそうな気もする。



雪の小岩井一本桜
(写真提供 (C)野澤日出夫氏)

賢治に「小岩井農場」(「春と修羅」所収)という長編詩がある。この詩は、賢治がある日、盛岡駅から前年に開通した「橋場線」(現在の田沢湖線)に乗って 「小岩井駅」に降り立ち、そこから小岩井農場までたどり着くまでを詩にまとめたものだ。

その中の一節に、

 本部の気取った建物が
 桜やポプラの こっちに立ち
 そのさびしい観 測台のうへに
 ロビンソン風力 計の小さな椀やぐらぐらゆれる風信器を
 わたしはもう見 出さない

というのがある。ここにある「本部の気取った建物」とは、現在小岩井農場の「展示資料館」である。この詩から当時の桜やポプラ並木があった小岩井農場の風 景が彷彿と甦ってくる。賢治は、詩人、童話作家の他に農学者という別の顔を持っていたから、天候や風向の観測所なども、賢治の趣向に叶う景色だったはず だ。

この付近は小岩井農場の発祥の地「上丸牛舎」と呼ばれるところである。ここには現在も二棟の赤煉瓦のサイロ(国指定有形文化財)が並ぶ他、歴史を偲ばせる 牛舎が四棟あり、いずれも国指定の有形文化財となっている。

小岩井農場とは賢治にとって、何だったのか。賢治のふるさとの花巻から盛岡まで三十キロほど。更にそこから10数キロkmほど離れたところに、わが国の最 先端をゆく小岩井農場があったということなる。おそらく賢治にとって、この小岩井農場は、創作上のインスピレーションの源泉だったのではあるまいか。

この本部のある上丸牛舎から、少し乳牛工場の方向に行った牧草地の中に、ポツンと一本のエドヒガン桜が岩手山を背景に聳えている。この桜は、樹齢はほぼ百 年と言われていて、小岩井農場が開設された明治二十四年(1891)からそう遠くない時期に植えられたものと推測される。

とすると、おそらくこの小岩井の一本桜は、宮沢賢治(1896−1933)が誕生した頃にに植樹されたものであろう。樹齢からすれば、賢治にとってはこの 一本桜は、同期の桜とも言える存在である。賢治が小岩井にやって来た頃には、おそらく細い若木だったはずである。しかし今や亡くなった賢治が日本を代表す る作家のひとりと言われるようになり、一方の小岩井の一本桜も、すくすくと成長を遂げて、東北を代表する桜のひとつに数えられるまでになったのである。

それにしても百年という歳月を、たったひとりで生き抜いて来た桜のなんと気高いことであろう。もちろん長寿でならすエドヒガン桜であるから、樹齢百年と言 えば、まだ青年期の桜である。枝振りも樹勢いも実に立派だ。岩手山から吹き下ろす風雪をものともしない逞しさも見ていてほれぼれとする。



葉桜の小岩井一本桜
(写真提供 (C)野澤日出夫氏)

これまで、岩手盛岡の桜と言えば、県庁の前にある石割桜が有名であった。だが、最近ではこの小岩井農場の一本桜も負けない位世間にその名が知られるように なった。本年(07年)のNHK朝の連続ドラマ「どんど晴れ」のタイトルバックに使用されているほどだ。

桜と云うと、最近では、とかくソメイヨシノが重宝がられる傾向にある。

そんな中にあって、宮沢賢治と同期と目される「小岩井の一本桜」が、好まれるのは、岩手山を借景にしながら、広大な緑の牧草地の中に、孤高の哲学者のよう に気高く見えるその姿からであろうか。ふいに賢治が黒いコートを着て下を向いて歩いているあの有名な写真が心に浮かんだ。


 小 岩井の一本桜年ごとに賢治に見へて独身者かな ひろや



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2007.04,11 佐藤弘弥

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