花の道
奥の大道をゆく

毛越寺から西光寺まで

奥の大道毛越(けごし)付近
(2005.4.24 午後3時)

花立の坂を下り、観自在王院の跡を右に折れ、毛越寺の大門の前を過ぎて、かつて奥の大道と呼ばれた道を西に向かった。達谷窟で有名な真鏡山西光寺の桜を観るためである。

ハンドルを握りながら、平泉という都の地勢について思った。

平泉という都は、初代清衡公が、四神相応(しじんそうおう)の地を探し、そして選び抜かれた聖地である。平泉における四神を具体的に上げれば、東を流れる大河北上川を青龍(せいりゅう)、西に栗駒山を目指して伸びる奥の大道を白虎(びゃっこ)、南に穿(うが)たれた大泉が池を朱雀(すざく)、北に関山中尊寺の丘陵を玄武(げんぶ)とすると思われる・・・。

そんなことを考えながら、高速道(東北縦貫自動車道)の下を潜り、右にハンドルを切ると、栗駒山が姿を見せる地点がある。そこにはいつも気になっていた桜の古木が立っている。満開だった。道端に車を止めて、桜を写真に収めることにした。遠くには聳える白銀に輝く栗駒山の神々しい姿がある。

奥州藤原氏が全盛にあった頃、官道である奥の大道を行く人々は、桜を愛でながら、栗駒山を神の山として思わず手を合わせたに違いない。現代人の不幸は、文明の利器である車に乗ってあっという間に視界から外してしまうので、深く心に刻むことが出来ないことだ。
 
 

奥の大道と平行して流れる太田川から見る栗駒山の勇姿
(2005年4月24日)



太田川が河川工事によって変貌しているのが気になる。河床はコンクリートで固められ、本来ならば草花が花を付けているはずの土手にもコンクリートの板が張られている。ふり返って東に伸びる太田川の川筋を見れば、川の流れは、どこまでも直線的に、しかも河床は掘られ、低いところに置かれている。その光景は、檻に入れられた猛獣のように悲しい。太田川の堤防の一番高くなっているところは、国道四号線とこの川が交わる地点だが、その時の高さはおそらく30m近くには達していると思われる。余りにも過度な河川改修によって、かつての長閑な景色は完全に損なわれてしまった。
 
 

 花盛り奥の大道いそいそと西行法師の夢追いかけむ
 

エドヒガン桜(?)の古木の彼方に観音山が見える
(2005年4月24日)

あれから幾度、桜の春がやってきたのだろう。もちろん、「あれから」とは、奥州藤原氏が滅び去った文治5年からである。

文治五年(1189)閏四月三十日、奥州平泉の守護神ともいうべき源義経が、衣河館で自害して果ててからというもの、時の勢いに勝る頼朝率いる鎌倉軍が、奥州に攻め入ってくるのは時間の問題となった。

初代清衡は、この「平泉」という都市を非戦の宗教都市として建設した。以来三代の百年の時間を経過し、まさに浄土のような黄金の都市が出来上がっていたのである。

宿願の平家打倒を果たした鎌倉の武者たちは、新都を鎌倉に構え、己の本領では満足できなくなっていた。その意味で鎌倉政権とは、東国武者たちの欲望を寄せ集めたような貪欲な権力体制だったということができる。そして奥州に埋蔵する黄金という宝をめぐって、東国武者の欲望は頂点まで達していたのだ。もはや棟梁となり鎌倉殿と呼ばれるようになった頼朝にも、この流れは止められるものではなかった。奥州の富を我がものにするというある種のゴールドラッシュ的熱狂が、鎌倉軍の宣旨もないままに奥州に侵攻するという暴挙の影にはあったとみるべきだ。

その中にあって、頼朝は旗印であって、武家政権における天皇ともいうべき存在だったという見方もある。古来から天皇というものは一種の傀儡(かいらい)であって、実質的な政治権力を持つものではない。所領を持たない流人の頼朝を担いだ東国の武者の意図が実現されるにしたがって、古代から連綿と続く権力システムとしての摂関政治の形が、鎌倉政権内部でも無意識的に実現の方向に向かったのではないだろうか・・・。(どのように考えても奥州滅亡からわずか10年足らずに起こった頼朝の死は不自然である。)

同年七月一九日、宣旨も出ないまま、鎌倉武家政権の頂点に立つ頼朝は、御家人たちに急かされるように二十七万という大軍を率いて奥州に向かった。百年間も平和の中で暮らしてきた奥州にとって、実戦経験のなき奥州の劣勢はいかんともしがたかった。平家を打ち破った義経を中心に守りを固めていたならば、頼朝は鎌倉を発向することはできなかったであろう。しかし三代秀衡公亡き後、公家の藤原基成の孫に当たる泰衡は、父秀衡の遺言を無視して、これを討ってしまったのである。やはり愚将というべきか。それでも奥州の人々はこの泰衡を金色堂の御廟に秘したまま弔って手を合わせてきたのである。

こうして義経という日本歴史上最強の軍師を自害に追い込んだ奥州はあっさりと滅び去った。頼朝は、毛越寺周辺に屯所を構えたと思われる。そして秋風が吹く文治五年九月二十八日、この奥の大道を意気揚々と達谷窟に向かって行ったのであった。その一団の中には囚人となった藤原基成親子がいた。秀衡公亡き後、孫泰衡を傀儡として、奥州の政治を担ってきた公家の一族であったが、鎌倉に送られた後、武士ではないという理由で死は免れたものの、歴史の闇の中に忽然と消えたのである。

様々な歴史を封印して、今年も奥の大道は桜の街道となった。あれから816回目の春が来て桜が見事に咲いている。
 
 

咲けば散る桜のごときものなるや勝者頼朝凱旋の道
 
 

しだれ桜の古木の付近には大きな鷹が飛び回っている
(2005年4月30日) 



奥の大道は、地形に合わせ、右に左に曲がりくねりながら西に伸びる。その横を太田川が常に流れている。だが、川の曲線は直線化され、河床がコンクリートのために、昔の風情はなくなったばかりか、これではおそらく、ウナギもフナもハヤも子孫を残して行けないだろう。早く、自然再生法が、この太田川にも適用されて、昔の清冽な流れが戻るようにと祈るばかりだ。少し行くと、ここを通る度に気になる形のよいしだれ桜の古木が八分咲きであった。側に「駒形桜」の看板が立っている。このような看板は以前にはなかったと思うが、最近付けたものだろう。

その名の由来は、おそらく菅江真澄の「さくらかり」という東西の桜の名木を書いた書物からであろう。その中で、菅江はこのように記している。

「・・・駒形嶺(栗駒山)は、大変高い山で、いつも湧き出す雲に覆われてをり、雪深い山で、山の南東は陸奥国の栗原から磐井郡に連なり、西方は出羽国の雄勝郡にまたがっている。陰暦の6月頃になって雪がやっとまだらになって消えるのであるが、その姿が馬に似ている。・・・雄勝郡の駒形の庄から檜山平(ヒヤマダイラ)のかけての険しい山々は、みな駒形の麓にあたる。・・・「かつてあったという駒形山法範寺の跡や尼寺の跡などは、平泉野と云う奥山にあって、現在の平泉は秀衡がその場所より、移した所なのである。」(はしわの若葉)。・・・平泉野という場所は、五串(イツクシ)と云われた厳美村か本寺村(骨寺)の奥の辺りを指し、駒形根の麓のことである。その辺りに桜の花が多かったので、それを「駒形桜」と呼んだのである。」(現代語訳佐藤)
 
 

達谷窟西光寺のしだれ桜
(2005年4月24日)

駒形桜の優雅な姿をしばし観て、曲がりくねった大道を、さらにしばらく走ると、達谷窟として有名な西光寺に着く。この寺には、樹齢四百年と言われるしだれ桜の古木がある。樹高もかなり高く、15、6mほどはあるように見受けられるが、この桜が満開になった時の偉容はもの凄いもので、さぞかし悪路王と呼ばれ奥州一帯を支配していた先住民族の王の姿もこのようなものかと背筋が凍るような思いをしたことがある。昨年の暮れに雪の重みで大きな枝が折れたと聞いていたので、心配したが、折れた部分が白くなっていたが、腐食処理も施されているようで、思ったほどではなく、少しだけほっとした。

開花の状況は、二分咲きにもならないほどであった。地面から1m20位の高さまで枝が伸びていて、枝先の花弁には、ちらほらと開花しているのも見受けられた。花見の盛りは、4月29日からのゴールデンウィーク中になるだろう。
 
 

 枝折れて心配せしも達谷の窟(いわや)の桜もう直に咲く

達谷窟のしだれ桜
(4月30日)

梅の花と違い、桜は咲いたと思っていたら、そそくさと散り始める。この刹那こそ桜が日本人にとって特別な花となっている由縁であろうか。

桜の花の盛りは短い。ある種のスリルが、桜の名所を訪れる時にはある。

私は今年、達谷窟のしだれ桜を観るために、4月24日と同月30日の2度向かった。しかし残念ながら、花の盛りに巡り合うことは出来なかった。24日は、ほとんど咲いておらず蕾の状態であった。30日は、少しばかり盛りを過ぎていた。聞くところによれば、25日から急に天候が良くなって、俄に花が皆咲いてしまったとのことだ。30日に行った時には、散りかけていた。

桜ばかりは、絶妙のタイミングで、その花の盛りを観ることは誠に難しい。その難しさがいいのだろう。梅のように花盛りの時期が長ければ、いつでも行けるとなる。ところが桜の場合は、ちょっと時機を逸すると、また一年待たなければ行かなくなる。花の盛りに出会った時には天にも昇る気持ちになる。

思い通りにならないところが、日本人が桜に思いを寄せる大きな理由であろう。どこか、桜の生き様は、人の「青春」や「恋」と似ている。若い頃は、今が青春の真っ直中とはどうしても思えない。本人はただ闇の中を苦悩しながら走っていると思っている。闇から光が射す頃には、青春はあらかた終わりかけているのだ。

恋の行方の不思議なもので、やっと恋が始まったと思った時には、いつも恋は終わり掛けている。まるで消え入りそうな彼方の虹を追っているようなもので、追いかけても追いかけても、花盛りの時は逃げて行ってしまうものだ。

そんなことを思いながら、盛りの過ぎた達谷窟のしだれ桜を見上げていると、バスから降りてきた観光客が、「ああ、間に合った。やっと観れた」と叫んで、しばらくしだれ桜を見上げていた。

花を愛で「達谷窟の桜を」とやってくる人花見上げをり

つづく



2005.4.30 佐藤弘弥

義経伝説