悪路王伝説
平泉の達谷窟、西光寺

達谷窟、西光寺の枝垂れ桜
(2003.3.22)

所在地:岩手県西磐井郡平泉町平泉字北沢16
TEL:0191-46-4931
平泉駅下車タクシー7分(6km)
平泉駅より定期観光バス 達谷窟下車

名付ければ悪路の王の桜とて「悪路桜」と呼び習はさむ
誰恥じることなどなくて天までも胸を張りつつ悪路桜は
 

(2003.4.26)

この桜悪路の王の怨念の隠りしものや雲まで妖し
花宿る龍神、水を呑みたきか嵐迫りて黒雲の満つ
雲を呼び雨を誘ひてごうごうと達谷窟に花吹雪きたり
我は知る花の下にはアテルイや滅びし者の御霊(たま)眠ること
岩窟の奥に幽かに声のする「此処から出せ」とその声は言ふ

 

平泉の西光寺の前に、見事な枝垂れ桜がある。寺の話によれば樹齢は四百年位になるのではないかというから、伊達政宗が毘沙門堂を再建した時の記念樹かもしれない。例年花は、四月二十過ぎに咲く。通常のソメイヨシノや大島桜よりは、遅い開花である。
 


悪路王と呼ばれし人は誰なりと達谷窟の華はまた咲く
 
 

悪路王伝説で有名な真鏡山達谷西光寺の話

達谷窟(たっこくいわや)で有名な西光寺は、平泉駅からおよそ5.5キロほどの距離にある。地名の「タッコ」とは、アイヌ語地名と思われており、こんもりとお碗を伏せたような地形を意味する言葉のようだ。確かに西光寺のある達谷窟一体は、そのような地形であり、周辺にもそのような形をした小山が多く、達谷袋(たっこたい)という地名で呼ばれる。

この地に伝わる悪路王伝説によれば、今から1200年ほど前、ここに昔エミシの酋長であった悪路王と赤頭が要塞を構えていて、乱暴狼藉を働いていたことになっている。そこで時の桓武天皇(781-806)は坂上田村麻呂(758-811)を征夷大将軍に任じ、ついに二人を亡ぼしてしまう。

この寺の毘沙門堂(別名窟堂)は、悪路王を攻め滅ぼしたことを記念し、京都の清水寺を模して岩に張り付くようにして建てられた御堂である。当初、内陣には108つの毘沙門天像を祀っていたといわれている。現在は奥に伊達政宗寄進の厨子、慈覚大師作の本尊吉祥天、善膩子童士を秘仏として納めている。周知のように毘沙門天は、北に対する守りを固める意味があり、坂上田村麻呂は、後に毘沙門の化身であると信じられるようになった。

この昼でも暗い御堂に入ると、別世界に入ったような錯覚に囚われる。ここには様々な死者の思いが浮遊している。すなわち先祖伝来の地を追われたエミシの人々の思い。それから遠い地から兵士としてやってきて、はからずも生きて帰れなかった人々の悲しみ。そんな怨念や苦しみの感情のようなものがそこかしこにふわふわしているのを、何度入っても感じて怖くなる。

おそらく坂上田村麻呂は、祟りを恐れ、悪路王とその一族郎党の怨霊を鎮めるためにこの寺を創建したのであろう。高橋克彦は小説「火怨(かえん)」の中で、エミシのアテルイ(?-802)と征夷の士田村麻呂の友情を描いている。私にとってはロマンは分かるが過剰な美化であるとしか思えない。つねに戦の現実は、非常なものだ。今から遡ること千二百年前、圧倒的な軍事力に善戦していたエミシ軍も、一族が暮らす村落を焼き払われ、次第に追いつめられていった。そこで一族の長としてアテルイは思案をした。「一族郎党救いエミシの血流を途絶えさせていいのか・・・」、そしてアテルイは投降をすることを決心した。究極の選択だった。そこで田村麻呂の方は、この勇者アテルイを俘囚の長として利用すれば、エミシを統治することができると踏んだ。それは友情などでは決してない。アテルイは殺されることを覚悟で京都に向かい、案の定、都から離れた河内国杜山という処で首を刎ねられ、非業の死を遂げた。悪路王伝説は、アザマロ伝説とアテルイ伝説が時代を経ることによって混交して生まれた悲しいエミシの物語だ。

アザマロは、歴史によって消され、アテルイは首を刎ねられて死んだ。しかしエミシの思いを受け継ぐ者は必ず現れる。時代が二百年ほど下ると、今度はエミシの血を受け継ぐ安倍頼時(?-1057)という人物が、俘囚長(エミシのリーダーほどの意味?)の立場にあって奥州の地を開拓し、権勢を振るうようになる。すると朝廷は、さっそく源頼義(988-1075)、義家(1039-1106)親子を派遣し、安倍氏の討伐をはかった。二人は、毘沙門を祀るこの西光寺に戦勝祈願をし、安倍氏討伐を実現した。さらに時代は下り、奥州藤原氏の時代になると、更に寺は発展し、この周囲には七堂伽藍(山王社、愛宮社、稲荷宮、十王堂、聖徳太子堂、無量壽院、日光權現、神明宮)が林立していたと言われている。

黄金文化を誇って平泉という一大都市を築いた奥州藤原氏も、わずか三代百年の栄華に過ぎなかった。鎌倉にいた源頼朝は、全国に号令を発し、二十七万の兵をもって、白河の関を越えた。藤原秀衡、源義経亡き後の奥州は、まさにリーダーなき烏合の衆であった。平泉はこうして三度敗れたのである。この奥州合戦(1189)で、が、鎌倉勢の軍門に下ると、西光寺の勢は急速に衰えていった。幾度も火災に遭いほとんどの伽藍は焼失してしまった。

しかし慶長二十年(1615)、新たに奥州の覇者(?)となった伊達政宗によって、失われていた毘沙門堂は再建されたのであった。昭和二十年(1945)には、再び火災に見舞われ、現在の毘沙門堂は昭和三十六年(1961)に再建され、創建以来五代目の堂ということになる。西光寺の枝垂れ桜を目にする時、幾度となく辛酸をなめ、焼失しながらも、不死鳥のように蘇ってくる強い奥州のエネルギーのようなものをひしひしと感じることができる。佐藤

奥州にアザマロアテルイ生き変はり死に代はりしてこの桜花生ふ

 

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最終更新日:2003/4/10 Hsato