腰越の満福寺紀行W
 

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腰越状750年記念碑

腰越の駅に降りれば皆何故か判官贔屓の人に見ゑくる





弁慶の下書きといわれる腰越状を見ながら、私は想像力を使って816年前の文治元年5月24日にタイムスリップしてみることにした。そこには周囲を鎌倉の兵たちに囲まれながら、ひたすら兄頼朝に向かって恭順の意を示す義経公が、寺の奥座敷に座っていた。その背後には、弘法大師作と言われる御不動様が、じっと若き侍を見据えている。やがて義経公をすくと立ち上がり、紙と筆を用意させて、一字一字に思いを込めて心情を書き始めるのだった。曰く、
 
 

左衛門少尉源義経、恐れながら申し上げ候。
意趣は、御代官のその一に撰ばれ、朝敵を傾け、抽賞を被るべきのところ、義経犯すことなくして咎を被る。鎌倉中に入れられざるの間、素意を述ぶるに能はず、いたずらに数日を送る。本意は、亡魂の憤りを休めたてまつり、年来の宿望を遂げんと欲するの他事なし。あまつさへ五位の尉に補任の条、当家の面目、何ごとか、これに加えんや。 憑(たの)むところは他にあらず、ひとへに御慈悲を仰ぎ、よって一期の安寧を得ん。愚詞に書きつくさず、省略せしめ候ひおはんぬ。義経 恐惶謹言

元暦二年五月日              左衛門少尉義経

進上         因幡前司殿

(佐藤仮説の義経原文)
「義経、恐れながら申し上げます。 兄君に言いたきことは、兄君の御代官の一人に選ばれ、平家をうち破りました。本来であれば、恩賞を給わるべき所を、この義経は身に覚えのない嫌疑をかけられ、鎌倉にも入れてもらえない有様です。本心を述べる機会も与えてはもらえず、ただいたずらにこの数日を過ごしております。義経の本意は、ただ亡き父君の無念を晴らすという、年来の望みを遂げる事以外にはありませんでした。兄君が立腹されたという五位の尉の任官の件にしても、源家にとって、良きことと思い、お受けしたまでのこと。これ以外のどんな野望も義経にはございませんでした。今はひとへにに兄君の御慈悲をいただき、ただ心安らかに生きることだけが望みです。言葉べた故、言いたいことはあるのですが、これ以上愚痴めいたことを書くのは止めに致します。兄君、一目会って本心を聞いていただきたいのです。

義経 恐れながらご謹言申します。 」

        元暦二年五月日              義経

        進上         兄上様」

(省略して意訳佐藤)



 

弁慶筆と伝わる腰越状(満福寺蔵)

腰越のこの地で書いた弟の思いの丈を兄は分からず





さて、原文を読んだ人は、おやおや?と思われた人も多いはずだ。随分短いではないか、それに出した相手が、大江広元(因幡前司殿)でなく兄の頼朝となっている・・・などと。腰越状が、義経公が本当に書いたものか、どうかは今となっては、分からない。ただ言えることは、当初書かれたものから、大分脚色されているのではないか、との意見が、歴史家の多くから出されていることだ。確かにあのような歯の浮くような美文調の文章を、義経公のような武の人が書くだろうか。おそらくは、誰かが義経公がしたためた原文に手を入れ、後の世に腰越状として残ったと考える方がすっきりする。そこで仮説として、原文が上の文章のように、ごく短いものだったということにしよう。そこで原文に誰かが手を入れる。とはいっても弁慶ではない。
 

私の推理では、第一の候補は大江広元(1148‐1225)である。義経公は、ストレートな人物だから、誰かに取りなしを頼むなどという回りくどいことはしない。原文は、そこで宛名は兄弟の関係で、「頼朝」宛てであった。この場においても、兄弟の関係で、義経公は何とかなると思っている。しかし鎌倉の権力の中枢にいる連中(特に北條氏、もちろんここに頼朝も含まれるのだが・・・)は、強すぎる武将義経公の中に危険な匂いを感じているのだ。それは京都で暗躍する後白河法皇と伯父の源行家、それに義経公の後ろ盾となっている奥州の覇者藤原秀衡の影である。義経公という存在は、後白河法皇と源行家、そして藤原秀衡を結びつけてしまう強烈なカリスマを持った存在として、鎌倉の権力の中枢にいる人間には映っていたはずだ。
 

大江広元について、岩波の「日本史辞典」は次のように説明している。

1148‐1225(久安4‐嘉禄1.6.10) 鎌倉前期の幕府重臣。実父は式部少輔大江維光とする説と,参議藤原光能とする説がある。明経博士中原広季の養子となり,1216(建保4)に大江姓に復した。外記の職にあったが,源頼朝の要請に応じて1184(元暦1)に鎌倉に下向。同10月に公文所の別当,さらに91(建久2)には政所の別当となり,頼朝側近の実務官僚として草創期幕府政治を支えた。頼朝死後は,北条氏と協調して執権政治の確立に貢献し,承久の乱では京都進攻を積極的に主張するなど,幕府の朝廷政策にも重要な役割を果した。
彼は上のように京育ちの官僚で、頼朝によってスカウトされ、鎌倉に下った人物である。様々な公家のしきたりにも詳しく、鎌倉が京にとって変わって新しい権力を形成するには是非とも必要な人物だった。おそらく、義経公が、敗れた平氏の頭目である宗盛父子を捕虜として連れてくるのは、鎌倉方にとっても、一大イベントだったはずだから、きっとこの時の、シナリオを書いたのが、大江広元だったかもしれない。だからこそ義経公は、彼に自分の心情書を、「兄君に渡して欲しい」として託したのである。

腰越状をしたためる義経公の襖絵(鎌倉彫)
 
 

人の世に勝つも負けるもあるものか源氏平家に九郎に二品





大江広元は、実直な義経公に何らかのシンパシーを感じたのであろう。もしかすると、判官贔屓の最初の一人は、この大江広元という人物だったかもしれない。彼は余りにも単刀直入な義経公の書状の原文に手を入れ、兄宛を自分宛にした。つまり取りなしを依頼する文章に換えた。おそらく義経公にも直であって、その心情を聞いたであろうから、周囲も納得させ得るものとして、全体をやんわりと換えた。しかも自分の教養を持って美しく書き直したのである。書き直された「大江広元の腰越状」を多分義経公も拝見した可能性がある。その時、義経公は納得しない部分が多かったと思うが、もしもそれで兄頼朝が、会ってくれるなら仕方ないとこの京育ちの広元に任せたのだろう。

しかし結果として大江広元は、これを握りつぶさざるを得なかった。もちろんそれは彼の本意ではなかったと思うが、彼は鎌倉の新しい権力を守る為にそうせざるを得なかった・・・。  
 
 

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つづく


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2001.10.25 H.sato