腰越の満福寺紀行V
 

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夕暮れの腰越の浜
 
 

今日もまた陽は小動の崎に落ち九郎無念の帰京を偲ぶ 






満福寺では、本堂の拝観が許されている。実に心地よい気配りだ。弁慶の腰掛け石が無造作に置いてある寺務所の方に入口があり、参詣者は、靴を脱いで、行くと右前方には、例の弁慶がしたためたと言われる腰越状の下書き原文なるものがガラスのショーケースに収まって陳列されている。見れば、紙は灰色に変色が進んでいて、かなり古いもののように見える。

私は直ぐさま、昨年の暮れに神戸の須磨寺で見た弁慶の書状を思い出した。このような長い文章ではなく、極短い文章だった。
それは「若木の桜の制札」というもので、「此華江南所無也、一枝於折盗之輩、任天永紅葉之例、伐一枝者、可剪一指。寿永三年二月」(この華、江南に無き所なり、一枝(ひともと)折りて盗むの輩(やから)を、天永く紅葉の例えを任じ、一枝伐する者、一指を剪(き)るべき。寿永三年二月)というものだ。簡単に訳せば、このような花は、江南にはない。この花の枝を一本でも折った者は、その指の一本を切って罰すべきだ、ということになる。

寿永三年(1184)二月とは、一の谷合戦のあった月であり、この若木とは、平家の若武者「平敦盛」(1169〜1184)を指している。若木を伐った者は、もちろん熊谷直実(1141〜1208)だ。まあ、よく考えてみれば、敵の将を討ったのだから、義経の家臣に過ぎない弁慶如きが、熊谷直実のような一国の主をして、桜の若木を折ったから、指を切って責任を取れ、などと言うはずはない。むしろこれは平家物語の「敦盛」によって、能の「敦盛」や歌舞伎の「一谷嫩軍記」(いちのたにふたばぐんき)のような様々伝説の影響によって、創作されたと見るべきであろう。

平家物語第九巻「敦盛」には、このようなことが描写されている。

義経公らの活躍により、一の谷で敗れ去った平氏の武者達は、浜から八島へ逃げようとする。その平家の軍船を逃げ遅れた武者が追う。源氏方でも剛の者で名高い熊谷直実が、その者を見つけ叫ぶ、「敵に後を見せるものではないぞ。戻って来い、戻って来い、」
するとその武者もさる者、波を蹴立てて戻ってくる。ふたりはにらみ合い、取っ組み合いとなる。少しするとやはり腕力に勝る熊谷は、この武者をむんずと捕まえ、ふたりは渚にどっと落ちてしまう。直ぐさま組み伏せ、兜をとってみれば、薄化粧をした美少年(敦盛)だった。思わず熊谷は、自分の息子のことを思い、躊躇する。しかしこの若武者は、「何様だが知らぬが、首を取りなされ」と一言言って首を差し出す。二人の後からは梶原景時らが、あわよくば己の功にせんとして、波打ち際を駈けよってくる。熊谷は泣く泣く、この若武者の首を取る。
この敦盛の首が葬られたのが須磨寺である。この寺には、この敦盛の首洗い池があり、その近くには義経公が、首実検をしたという腰掛けの松が遺されている。敦盛の塚(首塚)は、今でも一年中線香が絶えることはないほどである。その人気の秘密は、やはり若いながらに立派に武者として最期を見事に飾ったということに尽きる。やはり平敦盛の生涯には、どこか義経公と共通するような哀れさが漂っている。その哀れこそが、いつの世においても日本人の心の糸を揺すぶり続け、その心の内ではあの琵琶法師のもの悲しい音階が鳴りやまないのであろう。その敦盛が、直実との一騎打ちの時に所蔵していたといわれるのが、「青葉の笛」だ。高倉天皇が秘蔵していたといわれる程の由緒のある品で、小ぶりだが実に美しい形状をしている。今では寺の宝物として宝物館に大切に保存されている。「敦盛」の段は、平家物語でも、特に読む者の涙を誘う場面であり、数々の歌舞音曲の題材に採られていることは周知の事実だ。さて、熊谷直実のその後であるが、この桜の若木に例えられる敦盛を斬ったことが、原因だったかどうかはともかく、仏門に入り、法然上人の弟子となって、生涯に渡って敦盛の霊を弔ったということになっている。
 
 

腰越の浜から鎌倉方面を望む

腰越の浜に寄せ来る波音の妙に寂しき秋の暮れかな 




さて須磨寺の「桜の制礼」の筆跡が、満福寺にある腰越状の筆跡と似ているかどうかは不明だ。というより須磨寺の書状が思い出せないのだ。そこで改めて、弁慶という人物の不思議なキャラクターに思いを巡らせた。

おそらく長い歳月の間に、民衆の心の中では、このようなことが起こっていたのではあるかいか。それは義経という薄幸で陰のある人物に対比する形で、限りなく陽なる人物を、自分の想像力の中で形作って行ったのである。つまり弁慶という人物は、義経の心理学でいう所の「補償作用」ということが言えるであろう。義経公にかかわる伝説のある所、必ず弁慶伝説が存在するのはその為である。

補償作用とは、簡単に言えば、自分の心にあるコンプレックスのようなものを、無意識の形でおぎなおうとする心の働きのことだ。例を言えば、個人にとって、夢は現実の補償作用である。現実で叶えられないことを夢が補償する形で、人は心のバランスをとっている。ある民族の神話は、その民族の歴史の補償として形成されたりする。その意味で言えば、「義経記」は「吾妻鏡」の補償作用で出来た作品と言える。つまり正史である「吾妻鏡」という現実が、長い年月の間に、「義経記」という形で、ロマンを含んで変化を遂げ、その中で正史では、架空に近い人物だった武蔵坊弁慶という人物に、急に脚光が当たった訳である。とすれば弁慶という架空の人物を得て民衆の心の中で出来上がってきた「義経記」は、やはり補償作用が産んだ日本民衆の新しき民族の神話ということができる。
 
 

東下りを描いた場面(鎌倉彫)

誰とても重き荷を負いその命尽き果つるまで歩む定めぞ




上にある東下りを描いたと思われる義経弁慶の襖絵をよく見ていただきたい。虚ろに下を向いて歩く義経公に対して、どこまでも弁慶は、強く雄々しく義経の前を歩いている。このことによって、人々は報われない生涯を送った人物としての義経公に対してある種の救いを見出しているのである。だから批判を怖れずに言わせて貰えば、弁慶とは、補償化された義経であり、別人格化の義経なのである。この義経弁慶の図をしばし見ながら、そんなことを思った。結局、この満福寺においては、象徴的なのは、腰越状を書いたのが、当の義経公その人ではなく、歴史の中(吾妻鏡や平家物語)では、まだもって登場していない弁慶が、腰越の地において、颯爽と登場し、主君義経公の心情を代弁する形で墨を擦り、筆を執って腰越状をしたため、挙げ句の果ては錫杖などの遺品まで遺していったということである。
 
 

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つづく



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2001.10.23 H.sato