腰越の満福寺紀行U
 

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鐘楼の屋根が秋空に映える

腰越の秋空眩し鐘楼の屋根天を指しすくとぞ立てり





門を入るとすぐ左方に鐘楼が見えた。小さくて比較的新しい御堂だが、一段高い所に設えられた四本の柱は、重そうな鐘を支えて、すっくと立っている。鐘は、程良く緑青が出ており、もしこの鐘を突いたら、どのような音がするのかと、興味をそそられた。屋根は、四方の角が、遠慮がちではあるが、幾分そり加減である。そこに灰色というよりは限りなく青に近い灰色の瓦が、重いというよりは、実に硬そうに乗っている。その瓦が抜けるような青空を背景として僅かな自己主張を含んで、天にそそり立っている。遠慮がちな屋根のそり加減が実にいい。簡素だが、実に立派な鐘楼だと思った。

時刻は、午後3時半を過ぎていた。寺から西方に小高く聳えている小動山(こゆるぎやま)の方を見ると、日は既に傾きかけていて、鐘を日食のコロナのようにして眩しく輝いていた。小動山には、小動神社(こゆるぎじんんじゃ)が祀られている。この神社は、義経公の異母兄である源範頼公に付き従って、源平合戦で活躍した武将佐々木盛綱、縁の神社である。山頂には、八王子の宮があり、山の端には、海辺へ指し出た松があり、これをもって、「こゆるぎの松」と言われたということである。(新編相模国風土記稿)何でも、盛綱が、江ノ島の弁財天に参詣の最中、この山に昇って、ここから見た江ノ島の風光に感激して、自らが信仰していた近江国の八王子の宮を勧請したと言われている。 この小動は、古来より歌にも多く詠まれている景勝の地である。

こゆるぎの磯の松風音すれば夕波千鳥立ちさはぐなり 土御門内大臣

悲しけり腰越越ゆる宗盛の心を知りそこゆるぎの松   ひろや

腰越の浦の水鳥たち
 
 

群れ集う腰越浦の海鳥の声に交じりてクローと叫ぶ





鐘楼の更に左方には、「源義経公慰霊碑」と書かれた石碑が立てられている。これは義経公没後七百五十年祭が同寺で催された折に建立されたものと言われる。没後750年と言えば、昭和14年(1939)である。まさに日本を軍国主義の嵐が吹き荒れ、源義経公が武士道の権化の如き存在に祭りあがれれていた時代であった。悲しいことだが、人間は、時代という色眼鏡をもって歴史的人物を見る傾向がある。これは、「義経伝」を上梓した黒板勝美(東大教授)という優れた歴史家さえも例外ではなかった。黒板博士は、まず「義経伝」の第一章「武士道の権化」において次のように書いている。
 

「わが日本国は尚武の国である、神武天皇、日本武尊、神功皇后をはじめ、皇室の方々は申すも畏(かしこ)し、建国以来ここに数千年、武を以て功を成し名を遂げた幾多の名将勇士が、炳焉(へいえん)として国史の上にその事蹟を留めている。そしてその間に、わが国の精華というべき武士道は、比類なき発達をなすに至ったのである。(中略) 私はこの敵討ちがこの後武士道の重要なる一網領となったのを見ても、その先駆者たる義経を、この方面における武士道の権化として必ず伝えねばならぬことを断言する。」


そもそも博士の書く勇ましい言葉の連続が、当時の日本人の熱狂をよく伝えているかのように思えてならない。博士は源義経を日本精神の神髄としての花(精華)とまで讃えている。この心情が実は、日本人が熱にうなされたようになり、大東亜共栄圏を標榜し、欧米列強を排除するという大儀をもって、アジア大陸に侵攻していった背後で支えていた思想でもあった。この本が最初に出版されたのは、大正三年(1914)であった。それが日本文化名著選として、再販された年が、奇しくも義経公没後750年に当たる昭和14年だった。当時、義経公は、「成吉思汗は源義経也」というような途方もない絵空事を大真面目に書き上げてた小谷部全一郎(1867−1941)のような人物に取り上げられ、義経公の真実の生涯とはまったく無縁の所で、日本のアジア進出の思想的バックボーンに祭り上がれていたことになる・・・。

笹リンドウの紋の入った胴丸(江戸時代の作か?)
 
 

主なき甲冑なれどふとふいに動き出すよな気配こそすれ





そんなことを思いながら、慰霊碑に手を合わせると、無性に感傷的な気持ちになった。ふと目線を右に向けると、「弁慶の手玉石」と朱色で書かれた石塔が目に入った。きっと伝説が伝説を産んで作り上げたものであろうが、直径1mもあろうかという石を、手玉に取っている弁慶を想像すると、滑稽な気分が盛り上がってきて、幾分慰められる面持ちがした。少なくても伝説の上では、武蔵坊弁慶という人物は、義経公の側に常にいる、スーパーマンのような人物として語られてきているが、おそらくこれは、その才能と勲功に比べて、実に不幸な生涯を終えた源義経という人物に癒す意味で、想像が創造を呼ぶ形で、極端に異形な存在として伝説化していった人物と考えて差し支えないのではあるまいか。

弁慶の立ち往生の場面(鎌倉彫)

襖より飛び出さんかな弁慶の気迫伝えし立ち往生の場




日本中、義経公の伝説がある所には、必ずと言っていいほど、弁慶にまつわる伝説も存在している。驚くべきは、主君である義経を凌ぐほど、弁慶にまつわる伝説が多く現代まで伝えられていることだ。この満福寺においても、最大の遺品と言える「腰越状」さえも、弁慶が書いた下書きとして遺されている。寺伝によれば、この下書きが残った理由は、弁慶が「不顧為敵亡命」の文字を書き損じたためだと言われている。しかしこの書状については、「状中の文字が「吾妻鏡」に載っているのとは、所々異なっており、ある人が言うには、新筆ではないか、弁慶の筆ではない」(「新編相模国風土記稿」)との説がある。

また先の「手玉石」や「腰掛石」、裏手にある「硯の池」、椀、錫杖(しゃくじょう)など、主君である義経公の遺品を差し置いて、やはり弁慶伝説なのである。義経公については、僅かに、義経公手洗の井戸が遺っている程度だ。その意味でも弁慶とは、実に不思議な人物だ。
 
 





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つづく



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2001.10.22 H.sato