腰越の満福寺紀行X
 

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腰越に時を告げ続ける満福寺の鐘

鐘突けば願文の意味分からねど胸に響きし御仏の慈悲






腰越状というものは、よく考えてみれば、兄弟喧嘩した挙げ句の弟から兄への謝罪の手紙に過ぎない。戯画化してみれば、体育系の弟が、怒っている文化系の兄に向け、何通も何通も、「神仏に誓って裏切りはしません」と書いた起請文を送ったようなものだ。しかし神経質でなる兄は、まったく聞く耳を持たない。そこで弟は、仕方なく腰越状なる手紙を書いたのである。内容だって、兄弟喧嘩としてみれば、実にたわいのない内容だ。

「お兄ちゃん、何でだよ。言われた通り、平家を討ち果たしたじゃーないか。どうして鎌倉にも入れて貰えないの?」こんな感じだ。

通常、ここまで恭順の意を示されれば、どんな頑固で偏屈な兄でも、「よし。わかった。九郎、でも二度と、俺の意見も聞かないで、官位なんか、貰うんじゃないぞ」で済む話だ。ところがそうは成らなかった。

大した問題でもないことが、こじれて大事になった原因は、大きく分けると二つある。ひとつは、義経という人物の天才的な軍事的センスとその背後の人間模様だ。二つ目は、頼朝の凡庸でない政治的センスと彼を旗印として担いでいる関東武士団の思惑(特に北條氏)だ。要するにこの兄弟の間には、様々な政治的立場を異にする人間達が取り巻いていて、普通の兄と弟というものとは、まるで違う状況が形成されていた。だから本来ならば、「ごめん」で済む話も、簡単には行かなかった。私たちは、義経公の悲劇の物語として、「平家物語」なり「義経記」を読むが、実は政治によって、引き裂かれてしまった二人の兄弟の悲劇の物語だった気もしてくる。

さて歴史的には、頼朝という人物が、氷のような冷たい人物のような風評があるが、必ずしもそうではなかったのではなかろうか。彼は身内には特に厳しかったといわれる。しかしそれも私から言わせれば、彼の自身の立場が、鎌倉という権力機構の中で、通常伝わっているよりも遙かに弱いものだったことを物語っているに過ぎない。
 
 

夕暮れの腰越の浦から七里ヶ浜の方を望む

夕暮れの浜に佇む釣り人の彼方の古都は薄紅に染む







現に吾妻鏡の治承4年10月21日(1180)の段で、二人の兄弟の対面が、このように表現されている。これは世に黄瀬川の陣の対面の場として、つとに有名である。(尚黄瀬川は富士山東麓に源を発し、南に流れて狩野川と合流する川である。この時、頼朝を総大将とする源氏軍は黄瀬川付近に陣を敷いていた。(現在、沼津市)
 

今日、一人の武者が、陣の前に立って、「鎌倉殿にお目通り願いたい」と言っていた。ご家来衆は、これを怪しんでいると、頼朝公がこれを知って、「もしかしたら、年齢からいって、奥州にいる九郎ではないか。早く会わしてくれ」と言って、この武者を御前に連れて見てみれば、まさに九郎義経公であった。二人は近づき、お互いに故事などを話しながら、兄弟の情を通わせて涙を流しておられた。

中でも、白河院の御代にて、永保3年9月の事、源家の曽祖である陸奥守義家公が、奥州において、鎮守府将軍の清原武衡兄弟と合戦をなさっていた時、京にあって左兵衛の尉を拝命しておられた弟君の義光公が、兄合戦の報を聞き、自ら朝廷警護の官職をなげうって、ひそかに奥州の兄の陣に加わり、たちまちにして敵をうち破った話では、兄弟同士、盛り上がっておられた。頼朝公は、今日の九郎殿の到着を「今日のそなたが奥州から馳せ参じてくれたことは、まさに兄(義家)の合戦の知らせを聞いて京より駆けつけた弟(義光)の故事の例に叶う出来事だ。兄として嬉しく思うぞ」と言われて、特に感動しておられた。

この義経公という人物は、今を去る平治二年正月において、物心もつかぬ幼きうちに、父の訃報に遭い、継父となった大蔵卿藤原長成公の援助によって、ご出家をされて、鞍馬山に入られた。元服される頃になりて、しきりに「父の汚名を晴らそう」との思いを催され、自らで元服の儀を済ませると、藤原秀衡の力を頼りとして、奥州に下り、数年を過ごされた。そこでこの度の兄頼朝公の平家追討の宿望を遂げとする話を伝え聞き、「直ちに兄のもとに馳せ参じたい」との話をしたところ、秀衡は、強くこれを引き留めたようであるが、義経公はひそかに、秀衡の館を立って来たとのことだ。秀衡は、惜しみつつも諦めて、自らの一族の中から、佐藤継信・忠信兄弟という勇士をお付けしたようである。(佐藤意訳)


この後、兄と弟は、仲良く連れだって、三島神社に向かい、頼朝は、平家追討を祈願しながら、土地をこの三島大明神に寄進している。
 

この場面は、誰が見ても実に麗しい兄弟愛に溢れた情景である。それがたったの五年後、平家追討という大願を、まさに弟義経公の功労によって、成し遂げた瞬間に絶ち切れてしまったのである。実に悲しい宿命を持った兄と弟ではないか・・・。

満願寺の寺門を後にした時には、既に日は江ノ島の方角に沈みかけていた。小動の交差点を渡り、砂浜に向かうと、小動崎が見えた。その前に、小さな岩が突きだしていて、海鳥たちが、群れなして無性に寂しい声で鳴いていた。ふと太宰治が、帝大生だった頃、腰越事件(昭和5年11月28日)と言われる心中事件を起こし、相手の女性だけが亡くなった事件を思い出していた。
 
 

足許に鴫(しぎ)が降り立つ(腰越の浜)

腰越の浜に降り立つ鴫一羽何を告げたき我の傍来て





次第に空は紅く染まって行き、足許を見れば、一羽の鴫が、いつの間に舞い下りていて、私の周囲を物言いた気に歩いている。しみじみと義経公と腰越という地は、不思議な因縁で結ばれていると感じた。この稀代の武将は、少なくても二度この地を訪れている。すなわち生前に腰越状を書いた時、そして死後に首実検のためにここに運ばれた来た時の二回である。それにしても秋口の落日の何とせっかちなことか。周囲の浜辺は、見る間に暗くなってしまった。足許の鴫が、ふいに暮れかけた空に向かって飛び立っていった。もう辺りには誰もいない。ひょっとするとこの辺りの浜辺に、義経公の首が晒されたかもしれない、などと思うと、急に背筋が寒くなった。

腰越は、東に七里ヶ浜を、西には江ノ島を望み、南には相模湾を、北に行けば藤沢の宿へと続く実に美しい景勝の地であるが、一旦歴史を辿ってみれば、罪人の処刑場であり、敗者の首が晒される悲しい場所でもあった。この地に逗留し、兄頼朝への嘆願状をしたためた義経公に限らず、この世に無念を遺して去った者たちの御霊も腰越の美しい景色を眺めながら、浄土へと旅立っていったのであろうか。
  


了 佐藤
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2001.10.26 H.sato