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義経公の心を読む

意訳 腰越状



元歴五年(旧暦)五月、義経公は、鎌倉の目と鼻の先である腰越の地にきて、兄頼朝公に一通の手紙を書く。世に言う「腰越状」である。鎌倉時代の正史「吾妻鏡」にも挿入されているこの短い文を、後の人の創作とみるむきもあるが、たとえ、そうであったとしても、この短い文の中に内包されている無念さと苦渋は、疑いもなく義経公その人のものである。この際、810年の時を越えて、義経公の無念をじっくり味わってみたい。佐藤



読み下し文
 

腰越状

左衛門少尉源義経、恐れながら申し上げ候。

意趣は、御代官のその一に撰ばれ、勅旨の御使として朝敵を傾け、累代弓箭(るいだいきゅうせん)の藝を顕わし、会稽(かいけい)の恥辱をそそぐ。抽賞(ちゅうしょう)を被るべきのところ、思いのほかに虎口の讒言(ざんげん)によって、莫大の勲功を黙止せらる。義経犯すことなくして咎を被る。功ありて誤りなしといへども、御勘気を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。
 

左衛門少尉源義経、お恐れながら申し上げます。言いたき事は、兄君の御代官に一人に撰ばれ、勅旨を持って朝敵を退け、代々の弓馬の芸を世に知らさしめ、亡き父君の汚名を晴らしましたのに、当然ながら一番にご褒美を戴けるものとばかり思って居りましたところ、思いも寄らぬ「虎口の讒言(ざんげん)」により、その多くの勲功の有様を御前にて語ることも許されず、この義経無実のままにて咎めを受けることとなってしまったことについてです。この義経には武功はあっても、過ちを犯したことはありません。兄君の御勘気を蒙るに及び、この義経、空しくて涙に血が滲む思いで過ごしております。


つらつら事の意(こころ)を案ずるに、良薬口に苦く、忠言耳逆ふとは、先言なり。これによって、讒者の実否を糺されず、鎌倉中に入れられざるの間、素意を述ぶるに能はず、いたずらに数日を送る。この時に当りて、永く恩顔を拝したてまつらず、骨肉同胞の儀すでに空しきに似たり。宿運の極まるところか。はたまた先世の業因を感ずるか。悲しいかな。
 

つくづく事の真相を考えてみますれば、「良薬は口に苦し」(孔子)「忠言は耳に逆らう」(准南王伝)という先人の言葉がありますが、讒言を吐いた者の言葉が真実か否かの質疑もなされず、この義経自身、鎌倉に入ることも許されなくては、心にある思いを語ることも出来ず、いたずらに数日を過ごして居るばかりです。この肝心な時に当たって、兄君の御顔を拝見することも叶わず、親子兄弟一族の契りも空しいものなってしまいました。まさに我が運命もここに極まったということでしょうか。また前世の報いと言うべきでしょうか。悲しくてしかたありません。
この条、故亡父の尊霊再誕したまはずんば、誰人か愚意の悲歎を申し披(ひら)き、いずれの輩か哀隣を垂れんや。事新しき申状、述懐に似たりといへども、義経身体髪膚(はっぷ)を父母に受けて、幾時節を経ず、故頭殿(こうのとの=源義朝)御他界の間、みなし子となりて、母の懐中に抱かれ、大和国宇多郡龍門の牧に赴きしより以来、一日片時も安堵の思いに住せず、甲斐なき命の許(もと)に存りといへども、京都の経廻難治の間、諸国に流行せしめ、身を在々所々に隠し、辺土遠国を栖(すみか)となして、土民百姓等に服仕せらる。
 
この文を、もしも亡くなった父君の御霊がこの世に現れて読んでくださったならば、この義経本意を分かっていただき、きっとどなたにか義経の胸中の悲しみを替わって申し上げて下さり、周囲の人々も、きっと悲しみ憐んでいただけるかもしれません。事新しき申し状とお思いでしょう。単に述懐に過ぎないと思われるかもしれません。ただ義経は、この五体を父と母にいただいてすぐ、頼りとすべき父に先立たれ、みなし児となって、母に抱かれ、大和国の宇多郡、龍門の牧に着いてより、一日片時も安堵の気持ちを持って暮らしたことはありませんでした。不甲斐ない運命の下にあったとは云え、その当時、京都も動乱が続き、身の危険もありましたので、諸国を流れ歩き、身を色々なところに隠くして、辺鄙な遠国を我が住処(すみか)として、その土地の民百姓に世話になって、これまで何とか生き延びて参ったのです。


しかれども幸慶たちまちに純熟して、平家の一族追討のために上洛せしむるの手合に、木曽義仲を誅戮(ちゅうりく)するの後、平民を責め傾けんがために、ある時は峨々(がが)たる巖石に駿馬を鞭打ち、敵のために命を亡ぼすことを顧みず、ある時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈め、骸(かばね)を鯨鯢(げいげい)の鰓(あぎと=えら)に懸くることを痛ましくせず。しかのみならず甲冑を枕となし、弓箭を業となす本意は、しかしながら亡魂の憤りを休めたてまつり、年来の宿望を遂げんと欲するの他事なし。
 

それでも思いも掛けず勢いで我が運気は変化を遂げ、好機はたちまちに熟し、平家一門追討の一人に選ばれ、上洛の後、すぐに木曽義仲を討ち果たし、直ちに平家を追い立てて、ある時には、険しき岩山を駿馬と共に、己が命をも顧みずに駆け巡りました。またある時には、大海を吹く嵐をも味方と思い、たとえ我が身が水底に沈み、鯨の餌食になろうとも臆することなく船を進ませました。しかしこのように夜に甲冑を枕として眠り、昼に弓を持って戦うことの真意は、ただ偏に亡き父君の御霊の怒りを鎮めるという長年の悲願のみにて、義経にそれ以外のいかなる望みもございませんでした。
あまつさへ義経五位の尉に補任の条、当家の面目、希代の重職、何ごとか、これに加えんや。しかりといへども、今愁へ深く嘆き切なり。佛神の御助けにあらざるよりのほかは、いかでか愁訴を達せん。これによって、諸神諸社の牛王宝印(ごおうほういん)の裏をもって、全く野心をさしはさまざるの旨、日本国中大小の神祗冥道を請じ驚かせたてまつり、数通の起請文を書き進ずといへども、なほもって御宥免なし。それわが国は神国なり。神は非礼をうくべからず。
 
ましてやこの義経が、朝廷より侍として最高位の官位である五位の尉に任ぜられ、これを受任致しましたのも、偏に当家の面目を思って重職をお受けしたまでのことでありまして、これ以上、弁解の言葉はございません。それでも今この義経の胸の内は深い愁いの嘆きで渦巻いております。この上は、神仏にすがり、どうにかこの胸の内の暗鬱を知っていただきたい心境でございます。そこで、全国の諸寺諸社の牛王宝印を集め、その裏紙にこの義経の真実の心を数通の起請文として書き、神仏にお誓いを致した上で、兄君にお渡しいたしましたが、今だもってお許しのご返事をいただいてはおりません。我が国は、神の国と言われております。神は非礼を嫌うものではありませんか。
憑(たの)むところは他にあらず、ひとへに貴殿の広大の御慈悲を仰ぐ。便宜を伺ひて高聞に達せしめ、秘計をめぐらされて、誤りなきの旨を優ぜられ、芳免に預らば、積善(しゃくぜん)の余慶を家門に及ぼし、永く栄花を子孫に伝へん。
 
今や、この義経が頼む所は、無くなってしまいました。ただあなた様の慈悲の心にすがる以外にありません。どうか、便宜を計らい何らかの方法で兄頼朝君に我が心の内を伝えていただきたいのです。もしも兄君が義経に誤りなきことを申し述べていただき、御赦免になった暁には、その善行はあなた様の家門全体に及び、永くその栄華は子々孫々に伝えられることでしょう。


よって年来の愁眉(しゅうび)を開き、一期の安寧(あんねい)を得んこと。書詞に書きつくさず、あはせて省略せしめ候ひおはんぬ。賢察を垂れられんことを欲す。 義経 恐惶謹言
 

またこの義経は、長かった眉をひそめて暮らした憂鬱な日々から解放されて、一生の平穏を手にすることができるでありましょう。我が思いはとてもこのような文では書き尽くせませんでしたので省略いたしました。どうか我が胸中をお察しいただきたいと思います。義経畏れながら謹んで申し上げます。


元暦二年五月日              左衛門少尉義経

進上         因幡前司殿(大江広元)



原文

元暦二年五月二十四日

廿四日戊午。源廷尉(義経)如思平 朝敵訖。剰相具前内府参上。其賞兼不疑之処。日来依有不儀之聞。忽蒙御気色。不被入鎌倉中。於腰越駅徒渉日之間。愁欝之余。付因幡前司広元。奉一通款状。広元雖披覧之。敢無分明仰。追可有左右之由云云。彼書云。

左衛門少尉源義経乍恐申上候。意趣者被撰御代官其一為。勅宣之御使傾。朝敵。顕累代弓箭之芸。雪会稽恥辱。可被抽賞之処。思外依虎口讒言。被黙止莫大之勲功。義経無犯而蒙咎。有功雖無誤。蒙御勘気之間。空沈紅涙。倩案事意。・良薬苦口。忠言逆耳。先言也。因茲。不被糺讒者実否。不被入鎌倉中之間。不能述素意。徒送数日。当于此時。永不奉拝恩顔。骨肉同胞之儀既似空。宿運之極処歟。将又感先世之業因歟。悲哉。此条。故亡父尊霊不再誕給者。誰人申披愚意之悲歎。何輩垂哀憐哉。事新申状雖似述懐。義経受身体髪膚於父母。不経幾時節。故頭殿御他界之間。成無実之子。被抱母之懐中。赴大和国宇多郡竜門牧之以来。一日片時不住安堵之思。雖存無甲斐之命許。京都之経廻難治之間。令流行諸国。隠身於在在所所。為栖辺士遠国。被服仕土民百姓等。然而幸慶忽純熟而為平家一族追討令上洛之。手合誅戮木曾義仲之後。為責傾平氏。或時峨峨巌石策駿馬。不顧為敵亡命。或時漫漫大海凌風波之難。不痛沈身於海底。懸骸於鯨鯢之鰓。加之為甲冑於枕。為弓箭於業。本意併奉休亡魂憤。欲遂年来宿望之外無他事。剰義経補任五位尉之条。当家之面目。希代之重職。何事加之哉。雖然。今愁深歎切。自非仏神御助之外者。争達愁訴。因茲。以諸神諸社牛王宝印之裏。全不挿野心之旨。奉請驚日本国中大少神祇冥道。雖書進数通起請文。猶以無御宥免。其我国神国也。神不可稟非礼。所憑非于他。偏仰貴殿広大之御慈悲。伺便宜令達高聞。被廻秘計。被優無誤之旨。預芳免者。及積善之余慶於家門。永伝栄花於子孫。仍開年来之愁眉。得一期之安寧。不書尽詞。併令省略候畢。欲被垂賢察。義経恐惶謹言。 元暦二年五月日 左衛門少尉源義経 進上 因幡前司殿
 

(新訂増補 国史大系 吾妻鏡第一 昭和七年八月二十日第一版発行 黒板勝美 吉川弘文館)



意訳 腰越状


源義経、恐れながら申し上げます。この度、兄君のお代官の一人に撰ばれ、天子様のご命令をいただき、父君の汚名を晴らすことができました。私(わたくし)は、その勲功によって、ご褒美をいただけるものとばかり思っておりましたが、あらぬ男の讒言(ざんげん)により、お褒めの言葉すらいただいてはおりません。私は、手柄をこそたてもしましたが、お叱りを受けるいわれはありません。悔しさで、涙に血が滲む思いでございます。

言い分もお聞き下さらず、鎌倉にも入れず、私は、気持の置き場もないまま、この数日を腰越の地で虚しく過ごしております。兄君、どうか慈悲深き御顔をお見せください。誠の兄弟(きょうだい)としてお会いしたいのです。それが叶わぬのなら、兄弟(あにおとうと)に何の意味がありましょう。何故このような巡り合わせとなってしまったのでしょうか。

亡くなった父君の御霊が再びこの世に出てきてくださらない限り、私は、どなたにも胸のうちを申し上げることもできず、また憐れんでもいただけないのでしょうか。

再会した折り、あの黄瀬川の宿で申し上げました通り、私は、生みおとされると間もなく、既に父君はなく、母君に抱かれて、大和の山野をさまよい、それ以来、一日たりとも、安らかに過ごした日々はありませんでした。その当時、京の都は戦乱が続き、身の危険もありましたので、数多の里を流れ歩き、里の民百姓にも世話になり、何とかこれまで生き長らえてきました。

その時、兄君が旗揚げをなさったという心ときめく報に接し、矢も盾もたまらず馳せ参じたところ、宿敵平家を征伐せよとのご命令をいただき、まずその手始めに木曽義仲を倒し、次ぎに平家を攻めたてました。その後は、ありとあらゆる困難に堪えて、平家を亡ぼし、亡き父君の御霊を鎮めました。私には父君の汚名を晴らす以外、いかなる望みもありませんでした。

私が法皇様より、五位の尉に任命されましたのは、ひとり私だけではなく、兄君と源家の名誉を考えてのこと。私には野心など毛頭ございませんでした。にもかかわらず、このようにきついお叱りを受けるとは。これ以上、この義経の気持をどのようにお伝えしたなら、分かっていただけるのでしょうか。度々「神仏に誓って偽りを申しません」と、起請文を差し上げましたが、いまだお許しのご返事はいただいてはおりません。

わが国は神の国と申します。神は非礼を嫌うはずです。もはや頼むところは、大江広元殿の御慈悲に頼る以外はありません。どうか、情けをもって義経の胸のうちを、兄君にお伝えいただきたいと思います。もしも願いが叶い、疑いが晴れて許されることがあれば、ご恩は一生忘れません。

今はただ長い不安が取り除かれて、静かな気持を得ることだけが望みです。もはやこれ以上愚痴めいたことを書くのはよしましょう。どうか賢明なる判断をお願い申し上げます。
 

義経恐惶謹言

元暦二年五月 日 

左衛門少尉源義経 

進上 因幡前司(大江広元)殿

(意訳:佐藤弘弥)


参考文献
 

「全釈吾妻鏡」第一巻 新人物往来社

「源義経」吉川弘文館

「新訂増補 国史大系 吾妻鏡第一」吉川弘文館

参考サイト

鎌倉年表        http://www.netlaputa.ne.jp/~kue/kamakura/history.html

腰越          http://www01.u-page.so-net.ne.jp/ta2/yo-osy/koshigoe.html

鎌倉幕府逆年表1180年代 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/8529/118.html



最終更新日 2005.4,13

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