腰越の満福寺紀行T
 

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満福寺 本堂





秋の晴れた日、藤沢から江ノ電に乗って、義経公の腰越状で名高い満福時のある腰越に向かった。腰越は、江ノ島の目と鼻の先にある小さな漁港である。小道崎の前には、腰越漁港があり、近海で獲れる魚を水揚げしている現在、腰越は、鎌倉市腰越という住所だが、かつては「津村郷深澤庄」と呼ばれた。ここから鶴ヶ岡八幡宮の一の鳥居まで、「新編相模国風土記稿」によれば、60町とあるから、およそ6.5キロほどの道程になる。
 
 

この狭い路地を入って突き当たりに満福寺は在る





電車は江ノ島を過ぎると龍口寺の辺りで、左にそれると間もなく腰越駅となる。小さな駅だ。藤沢駅で買った210円のキップを、駅員が一人いる改札口に置くと、線路を越えて、大きな通り(国道467号)に出た。そこから左手に80mほど進むと「満福寺」の石塔が目に入ってきた。写真を数枚撮って、左折し、狭い民家の間を抜けて更に40mほど進む。江ノ電の線路が見える。さび付いて少し赤く見える単線の線路を越えると、満福寺の寺門へ続く階段がある。
 
 

寺門へと続く階段






割と急な10m程の階段を上ると、寺門の正面に、「龍護山 満福寺」の看板が見える。満福寺は真言宗の寺である。本尊は薬師三尊。(「新編相模国風土記稿」によれば、「本尊薬師如来は行基作、弘法大師作の不動尊を安ず」とあり)開祖は、名僧で名高い行基(668‐749)である。

行基は、渡来系の高志(こし)氏の出身で、河内国(大阪)で生まれた。15歳で出家をし、若き頃から民間布教に乗り出して、水陸交通の拠点に船息(ふなどまり)や橋を作った。また布施屋と呼ばれる宿泊所のようなものを作り、併せて僧侶の学習のための院(道場)も設けたりもした。また貧しい人や病気で苦しむ人々を救済したと伝えられる名僧だ。天平年間にはこの献身的な社会事業が認められ,また薬師寺の僧侶として得度申請をする優婆塞の師主となった。天平15年(743)には大仏造営の勧進に参加し,745年大僧正には任じられた。
 
 

屋根が実に良い形をした鐘楼

満福寺は、行基上人が76歳の天平16年(744)に開いた寺と言われている。寺伝によれば、「中央の招請に応じて西上の途中、腰越に行基が最後の奉仕−漁民のたっての懇望(こんもう)で現世利生−病苦平癒祈願の一寺を建立した」(満福寺由来記)とある。もちろん、この天平16年(744)ということを考えると、行基開祖説というものは、少し信憑性が薄れる気がする。この寺の中興の祖と言われる人物は、高範(こうはん)と呼ばれる僧侶で承安3年(1173)に同寺で亡くなったと伝えられている。
 
 

没後750年祭で建立されたという義経公の慰霊碑

ところで満福寺のある腰越の名称の起こりであるが、行基が高志(こし)という氏の出身であることから命名された可能性も否定できないと思われるがどうであろうか。一般的には、腰越の由来は、むかし江ノ島に悪い龍が住んでいて、子供を呑んでしまったので、「子死恋」と称したのだと伝えられている。(江ノ島縁起) 
 
 


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2001.10.22 H.sato